ドリーミー刑事のスモーキー事件簿

バナナレコードでバイトしたいサラリーマンが投げるmessage in a bottle

コーネリアスと東京五輪、私たちの90年代。2021年9月から11月の話(未来の人へ)

※7月に書いた記事の続きです。

dreamy-policeman.hatenablog.com

 

9/15

Twitterで明日発売の週刊文春小山田圭吾のインタビューが載るというニュースを知る。しかし「小山田圭吾 懺悔告白120分 障害者イジメ、開会式すべて話します」といういかにも週間誌的な下世話なタイトルに、これは果たして読む価値のある記事なのだろうかと怯む。コーネリアスフジロック、自分にとって大切なトピックについてあることないこと書きまくられた夏だったので、マスメディアへの不信は今やトラウマレベルなのである。しかし、インタビュアーがカゼノイチ店主ウエノさんの友人と知り、さらにご本人のツイートを拝見するとフェアな姿勢で執筆されたことが伺えたので、明日の朝一番でコンビニに行くことを決意。

 


9/16昼

週刊文春を入手。文春を買うのは森友学園問題で自死された赤木さんの手記が公開されて以来。あの時は権力による不正を暴こうとする文春の大義を応援する気持ちだったけど、今回はそうは思えない。他の記事に登場する政治家やタレントと違って「世間」というリソースをほとんど利用せず、ひたすらその音楽性だけで活躍してきたミュージシャンがこのような場に引きずり出されるというのは心情的に理解できない。実際、小山田氏のインタビューは「検証 東京五輪」という特集で括られており、もう一本の記事は「組織委 夜の乱倫ピック」と題されたコーネリアスの音楽性とはまったく相容れない内容で心底ゲンナリした。私にとって大切な音楽家の生死に関わる問題も、世間的に見れば東京五輪スキャンダルのアイテムの一つにすぎないということなのだろう。


しかし肝心のインタビューは、タイトルとは裏腹に冷静な内容だった。限られたページ数の中で、この事件の複雑な経緯もおさらいしなければならない構成上、割愛された言葉も多いのだろうが、ROJとQJの原文を読むと浮かんでくる矛盾、つまりROJに書かれたセンセーショナルな行為(排泄物と性的虐待に関するもの)が本当にあったのか?という点については本人が具体的かつ明確に否定したので、ひとまず安心した。


この記事におけるポイントは「いじめ」そのものについてだけではなく、五輪開会式に彼がどう関わっていたのか、あの渦中において組織委員会がどう動いたのか、という内容が半分近くを占めていたことだろう。つまり世間はこの問題は東京五輪スキャンダルの一環として捉えていたのである。だが彼の五輪開会式へのコミットの仕方は、おそらく私を含めた多くの人が想像するよりもはるかに低いものだった。「組織委員会は身体検査をしたのか」という批判も当時はあったように思ったが、そんなことするわけないだろうな、ということが一目瞭然の関係性。想像も交えて雑に表すと「組織委員会電通→開会式チーム→(いろんな人に断られた上で)小山田氏」という関係性。つまり失礼な言い方をしてしまうと、急場しのぎの三次下請けのような扱いで、これが日本を代表するアーティストに対する姿勢か?と怒りすら覚えてしまうし、しかもギャラすら支払われなかったという。まだ作業が発生する前にプロデューサーを降板したという椎名林檎は本当に賢明だったと思うし、よほどリスペクトに欠けた扱いを受けたのだろうと想像してしまう。五輪反対派の人たちは小山田を「悪の祭典の象徴」として叩いていたけど、本丸の中の人たちは痛くも痒くもなかっただろうな…という虚しさ。


ともかく、7月時点で喧伝された内容とは大きく異なる事実が、週刊文春という中立的な(小山田の肩を持つ必要がない)メディアで明らかになった。あの時批判した論客の皆さんも、きっとなんらかの軌道修正を図る必要があるだろう…と思っていたのだが、その予想は見事に外れた。政治家、新聞記者、芥川賞作家、反体制コラムニスト、アルファツイッタラーに健康社会学者にリベラル活動家。誰ひとり反応しなかったのである。このアンフェアな姿勢には心底呆れてしまった。みんな文春くらいいつも読んでるでしょうに。結局この人たちにとって小山田問題というのは、コロナ禍で強行された東京五輪とそれを推進した政府に対する反撃材料であり、数少ない戦果でしかなった。五輪が無事に終わってしまった今となっては、もう利用価値がなく、逆に放免する意味もないということである。私もこれまでは(そして今も少なからず)「こちら側」の立場にいた自覚があるので、その界隈のオピニオンリーダーたちの振る舞いに落胆し、また自己嫌悪にも陥った。


9/16夜

20:00にクイックジャパンの発行元である太田出版が当該記事を書いた社員のコメントを発表。当時はフリーランスの新人ライターであった彼が、あの記事がどのような意図を持って書かれ、なぜ失敗したのか、そして小山田圭吾はどう関わっていたのか、ということが真摯な言葉で書かれていた。ようやく小山田以外の当事者の証言が出てきたことはとても重要なことだし、ご本人の勇気も必要だったとは思うのだけれども、当時は駆け出しだった彼も今や太田出版という組織で一定のポジションに就く立派な大人である。なぜもっと早くこの文章を出せなかったのかと思わずにはいられない。フリーのミュージシャンよりもサラリーマンの方がずっと安全な場所にいることはよく分かっていたはずなのに。せめて

「現場での小山田さんの語り口は、自慢や武勇伝などとは程遠いもの」

「(小山田氏は)この取材を断っていたにもかかわらず、こちらの懇願を見かねて応じてくださった」

という2点の事実については、2ヶ月前に速やかに発せられるべきだったのではないか。何もかもが燃やされ尽くされた後に告白したところで、無責任な世間は一瞥もくれないということは先にも書いた通りである。

 

しかし、この流れでどうしても浮かび上がってしまうのは、RO社の不作為である。「ファースト・イン・ロックジャーナリズム」を標榜した出版社がここまで沈黙し続けるのはどういう意図があるのだろうか。山崎洋一郎氏はコラムの執筆やポッドキャストの更新を止めているが、渋谷陽一社長は相変わらずNHKのラジオ番組を継続中。同じNHKの「デザインあ」は無期限休止中なのに。何度も同じことを言っているけど、今回問題になっているのは「ロッキングオン・ジャパンに掲載された記事の内容」である。そもそも小山田よりも先に応答すべきは、文責を負う彼らではないのか。しかも小山田自身が、「本意ではないインタビュー内容になっていた」「原稿チェックはさせてもらえなかった」という旨を証言しているわけだから、ますますその責任は重くなっている。ちなみ最新号のROJでは山崎氏のコラムと共に、「場末のクロストーク」という編集者同士の対談コーナーも休載されていた。問題となった94年1月号のこのコーナーにおいて、山崎氏と別の編集者が小山田のイジメ行為を称賛するやり取りがあることと、このコーナーの休載は無関係ではないように思う。あのページにこそ、小山田圭吾のインタビュー記事がどのような価値観の下に執筆されたのかを示す証拠であり、それゆえに身動きが取れなくなっている…と思うのは深読みがすぎるだろうか。でもきっと山崎さんにも山崎さんなりの言い分ってものがあると思うんですよね。小山田が憎くて書いた記事ではないわけだし。音楽ジャーナリズム史上最大の事件について当事者の言葉で語らずに後悔しないのだろうか…と思ってしまう。

 


9/17

www.cornelius-sound.com

21:30頃、小山田圭吾本人の謝罪文が公表された。約5000字の長い文章。これまでの文章同様、本人の手によるものと思われる(これは感覚的なものだけど、プロの文章では感じられない不器用な誠実さが強く感じられる)。

前半が、ROJおよびQJ、そしてそれらを改竄して拡散されたネット上の記事に対する真偽の説明。後半がソロアーティストとしての活動を重ねる中での心境が綴られている。

まず前半部分の「少年時代の小山田圭吾は何をして、何をしなかったのか」という説明におけるポイントは「障害児への虐待」「排泄物」「性的暴力」という、当初大きく取り沙汰された三つのキーワードを含む行動ついては、いずれも事実ではない、もしくは多分に本人および編集者による誇張が含まれていることが説明されている。ただこれらの点はQJの原文と文春のインタビューを読めば概ね分かることであり、初めて明らかになった点は多くはない。しかし最もセンセーショナルなROJ誌に書かれた「排泄物」に関する件について、その事実がなかったことを本人から具体的に説明されたことは、私も含めてモヤモヤしていたファンはようやく安堵できたのではないだろうか。もちろんそれでも残ってしまう直接・間接の過ちはあるのだけれども、少なくとも某ブログやそれをソースにメディアが喧伝したような、常軌を逸した暴行に加担したという事実はなかった、と言いきってもいいのではないか。「小山田の言うことなんて信用ならん。証拠がない」と言う人もいるけど、一方で「いじめがあった」というのも小山田氏の発言以外の証拠は出てきていないのである。どちらか一方だけを信じるのはフェアではない。


後半部分は、なぜそのような過ちを起こしてしまったのか、そしてその事実を後ろめたく思いながら、その後20年以上に亘りどのような思いで音楽活動に取り組んできたのかという心境が真摯な筆致で綴られている。その中で強く印象に残った部分を引用する。

「私の社会人としての成長は、ほかの多くの人たちに比べて遅く、時間が掛かってしまったのだと思います。この25年の間で、立派な人間になったとまでは言えませんが、20代当時の価値観とは遠く離れた人間になったと思っています。この件に対する罪悪感をずっと抱えてきたことが、より良い人間・音楽家になりたいという意識を強くすることにも繋がっていました」


「(「デザインあ」の)制作に参加させていただいたことで、自分の音楽が初めて社会との繋がりを持てたような充実感があり、子どもたちの感性を刺激する手伝いをさせてもらえることに、自分の作品作りだけでは味わったことのない種類の喜びを感じておりました」

 

コーネリアスの音楽に興味がない人にとってはこのメッセージがいかに真に迫ったものであるのか、理解することは難しいかもしれない。しかし、少なくともここ数年の彼の表現に接した人ならば、ここに一切の偽りも誇張もないことが理解できるのではないだろうか。7月のブログにも書いたように、彼の音楽の変遷における大きな核は「成長と成熟」だと思っている。そして「デザインあ」展に集まった子供達の目を輝かせた作品たちを生み出す源に、職業音楽家という立場を超えた内的動機があったことは疑う余地はなかった。今回の彼の言葉で、私(たち)がコーネリアスの音楽から受け取ったメッセージは決して間違っていなかったことを確認できたように思ったし、自分がそのメッセージを感じられる側の人間で幸運だったと実感した。もちろん、彼のつくる音楽が素晴らしいから、彼は才能のあるミュージシャンだから、犯した過ちが無かったことになるわけではない。しかし、彼を裁きたいのであれば、その過ちの本当の大きさはもっと正確に測るべきだし、その過ちを自覚した後の歩みは、被告側の証拠として採用してほしいと思う。


9/30

ロッキングオンジャパン10月号の発売日。先月に引き続き、山崎洋一郎のコラムは休載。小山田が説明責任を果たした今も、沈黙継続中。ちなみに彼が司会を務めるメロン牧場は先月分と同じタイミングで収録したと思われる会話が掲載されていた。

しかしもしかするとこうやってグチグチと呪詛の言葉を書き続けるよりも、世間が忘れるのを待つ、ロッキングオン的アプローチが正解なのかもしれない、という気もする。

実際、先日の小山田圭吾の謝罪文が出ても、特に7月のリアクションを修正する有識者はいなかった。そして彼のツイートを見ても、7/16の謝罪文が15,000のリツイート、7/19の辞任を発表した時のツイートが7,600程度だったのに対し、今回のツイートはわずか2,000強。誰も本当のことになんて興味がないのかもしれない。それと同時にこの数字が示唆することは、未だに小山田を許さない「世論」というものも存在しないのでは、ということである。まだ騒いでいるのは、私のような「擁護派」か、配信記事で小銭を稼ぎたいメディアだけなのではないか。実際「「小山田」という見出しをつけただけで文春のwebに掲載されてPV爆上がり!」と無邪気に告白しているライターも見かけたし。東京五輪をめぐる政争の具にされた後は、出版業界の小銭稼ぎに利用されるという構図はちょっと耐えがたい。それでも例えばアイドルやタレントならば、ゴシップメディアと持ちつ持たれつの関係も成立するだろうし、スキャンダルを逆手に取って復活している人もいる。そうした生業の人たちであれば、メディアによる「いじり」も一定程度は許容されるものなのかもしれない。しかし、そもそもコーネリアスというアーティストのコアカスタマーはせいぜい数万人というレベルではないか。日本人の99%はもともと興味がないし、顧客でもないのである。今回は東京五輪という巨大な地雷を踏んでしまったために、タレントや政治家と同じ「公人」扱いをされてしまったが、もともとは狭いエリアで活動する一ミュージシャンなのである。さすがにもういいでしょう。

 


10/5

文化的・経済的、双方の側面から音楽産業の存続を心から祈っているし、この会社が主催するフェスも例外ではない。が、それを差し引いてもなお、この日ロッキングオン社が出した「音楽を止めない。フェスを止めない」というステートメントに対して言えることは一言だけ。恥を知れ。

 

音楽を止めない。フェスを止めない。 (2021/10/05) 邦楽ニュース|音楽情報サイトrockinon.com(ロッキング・オン ドットコム)


10/14

ビジネスインサイダーに週間文春で小山田圭吾のインタビューをした中原一歩氏のインタビューが掲載される。

なぜ小山田圭吾は『週刊文春』での独占インタビューに応じたのか?“音楽ロッキン村”問題を今考える | Business Insider Japan

 

このインタビューのポイントは

・これまでいじめ疑惑について小山田氏に取材したメディアはなかった

ロッキングオン社、太田出版共に中原氏の取材を拒否した

・音楽ライターはロッキング・オン社を恐れてこの問題について書くことができない。

という3点だろう。

 

中でも私が気になったのは、音楽ジャーナリズムはロッキング・オン社を恐れている」という点。直接的にロッキング・オンから仕事を受けているライターは多くないかもしれないが、「ROCK IN JAPAN FES」をはじめとする巨大フェスを仕切るRO社と揉めることを望むレコード会社や芸能事務所(つまり多くのライターにとっての実質的なクライアント)はいないだろう。とは言え、音楽家である小山田の光と影の両面を一番正確に書けるのは、毎日新聞でも東スポでも文春でもなく、この業界のメディアであるはず。今までコーネリアスの作品を持ち上げてきた責任だってあるだろうに…と情けない気持ちになるが、では私が本業において自分の顧客を公然と批判することができるかと言われれば、その難しさは理解できる。ましてやコロナで痛めつけられ、さらにパイが縮んでしまった音楽産業である。リスクを背負ってでもやれ、とは言いがたい(ただし当時のRO社に在籍していたライターは別)。なので結局のところ、自分たちが愛するものは自分たちで守るしかない、ということなのかもしれない。今回の一件も、冷静かつ正確に本質を見極めつつ、果敢に行動するファンの方々がたくさんいた。彼らのアクションにはすごく勇気づけられたし、音楽というものが人間にもたらすものの大きさを改めて感じた。他人から疑問符をつけられる行動にこそ人生の醍醐味が隠されているというのが、いい歳して余計なことばかりしている私の経験則なのだけど、今回もそういう結末であってほしい。


10/26

文春オンラインに中原氏の記事が上がる。

当時、和光学園の在籍したOBへの取材を通じて、いじめ疑惑について検証しようという試み。読みものとして興味深いし、公平に事実を捉え直そうというジャーナリストとしての真摯な取り組みには敬意を表したい。しかし、限られた人数への聞き取りによって「無いものを無い」と証明することはとても難しい気もするし、やはり文春というメディアと小山田圭吾のマッチングにどうしても抵抗感がある。とても勝手な感情であることはわかっているのだけども。

 

「圭吾ってそんなキャラだっけ」和光学園同級生が「いじめ告白インタビュー」に抱いた“違和感” | 週刊文春 電子版


10/27

うだうだ言ってても仕方がないので、以前から書きっぱなしにしていた毎日新聞への質問事項をまとめて、問い合わせ窓口からダメもとでメールしてみた。質問の要旨は以下の通り。


①7月15日掲載の初報における事実誤認が発生した経緯


②記事のソースとしてあげられたツイートおよびブログの内容に対する事実確認の有無。また真偽が不明確なアカウントや記事を根拠とする報道の適切性


③記事化にあたってのQJおよびROJの原文チェックの有無


④7月20日掲載の小田嶋隆氏コメントの正確性の確認有無


⑤小山田氏が「過去の雑誌記事には事実と違う点がある」とコメントした点に対する事実確認の有無


⑥初報における事実誤認を訂正しないまま8月以降も小山田氏を糾弾する記事(例:8月19日の記事及びその告知ツイート)を掲載し続けた理由。また誤認を指摘する多くの声に応答しない理由

 


※なお22年8月末現在、質問に対する回答はない。いちいちこんな細かい問い合わせを相手にしていたらキリがないということなんだろうけど、彼らにとっての細事によって社会的に抹殺された人間がいることをどう考えているのか。全国紙の毎日新聞にしてこれなんだから、スポーツ新聞や週刊誌のモラルなど、まったくあてにならないだろうね…。

 


11/4

META FIVEのお蔵入りになったアルバムが発売されるというニュースが突然飛び込んでくる。ただし正規のレコード店を通した流通ではなく、配信ライブチケットの特典というイレギュラーな形でのリリース。とは言えお蔵入りにならずに良かった。問題はアナログとCD、どっちにしようかな…と悩んでるうちに数時間で初回特典付きのチケットが売り切れてしまったことだけ。

 


11/20

METAFIVEのライブ配信日。もしかして小山田圭吾の映像だけカットされたりして…なんてことも頭をよぎらないわけではなかったが、まったくの杞憂。想像を上回る圧巻のパフォーマンスにずっと鳥肌が立っていた。涙腺が緩む瞬間もいくつかあったけど、それをはるかに上回る興奮に包まれていた1時間だった。YMOという日本の音楽の太い幹が50年近くの時間をかけて、Dee-Lite、電気グルーヴCornelius 、KIMONOSと進化しながらMETA FIVEとして結実した様を目撃したという高揚。2021年の東京から世界へ発信されるべき音楽は間違いなくここにあった。そう断言してもまったく問題ないだろう。

この映像が収録されたのは7/26。まさに渦中の渦中にあったタイミングで収録されたものだったわけだけれども、そんなことは微塵も感じさせない鉄壁の演奏だった。そう、この人たちはイエローペーパーのおもちゃではない。日本最高のアーティスト、プロフェッショナルなミュージシャンなのである。

そんな彼らのプロフェッショナルな矜持に触れてしまうと、私はこの日のライブについて、小山田圭吾に焦点を当てて話すことを躊躇してしまう。なぜなら彼はポジティブな意味でこのバンドのメンバーの一人でしかなく、まず語られるべきはバンド全体が作り出すサウンドであるはずだし、中でも最も賞賛されるべきは無観客というアゲインストな条件下で縦横無尽に駆け回ったLEO今井のパフォーマンスであるべきだと思うからだ。要は、この圧倒的な音楽と映像の迫力の前にしては、これまでのスキャンダラスなエピソードや呪詛はすべて忘却の彼方に置いてきてもいいのではないか、という気持ちになってしまったのだ。


残念ながら高橋幸宏は体調不良で不在だったが、独特のメロディやフィルインなど、彼が刻み込んだ誇り高きMETAの紋章は、「いないけどいる」という不在ゆえの存在感を強く意識させるのに十分だった。そしてサポートに入った白根賢一の素晴らしいドラミング!GREAT3マニアの私が歓喜の涙を流したことは言うまでもない。しかもフジロックはここに相対性理論の永井聖一が加わったわけだから、小山田圭吾高橋幸宏の不在は、「TOKYO音楽史の総括」という彼らの存在意義を、結果的に一層高めたと言える気がする。


この文章を書いているのは配信からちょうど24時間が経った11月21日の夜だが、メディアやSNSのネガティブな反応は特にない。時計の針は確実に動き出した、と信じたい。そしていつの日か、2021年に起きたことを振り返る時の一つの証言としてこの文章を残しておく。