ドリーミー刑事のスモーキー事件簿

バナナレコードでバイトしたいサラリーマンが投げるmessage in a bottle

2015年・2022年

2015年は2022年の自分の骨格を作った濃密な季節だった。そのことを思い起こさせる出来事が多い4月だった。

 

2015年最大のトピックと言えば、まずは安保法案に反対するカウンターアクションとの遭遇。結局法案は成立してしまったし、安倍晋三は居直り続けているし、何よりも2022年の世界はあの時誰も想像もしないくらいひどいものになってしまっている。でも、自分で考えること、フェアであること、自分のスタイルを持つことの大切さを、あの活動の中心にいた若者や大人から学んだ。今となってはこうやって冷静に振り返ることができるのだけど、当時の自分は今よりももっと頑なだったので、政治的意見の相違がきっかけで失った人間関係もあったり、なんだかんだ必要以上に傷を増やしていたところもあった。

そんな時に聴いていたのが、佐野元春&COYOTE BANDのアルバム『Blood Moon』。直接的に当時の社会情勢について言及している歌詞はないけれども、分断を乗り越えようとする意志と、大きな敵に立ち向かっていこうとする勇気、そして何よりもロックンロールの躍動感に満ちた作品だった。

dreamy-policeman.hatenablog.com

 

その感動を今以上に拙い文章でブログに書き残していたりもしたのだけれども、まさか7年後にソニー・ミュージックのウェブサイトに彼の、と言うか日本ロック史上の名盤『SOMEDAY』のレビューを書けることになるとは夢にも思わなかった。少ない字数だけど、2015年当時の思いも行間に押し込んだつもり。ちょうど今月リリースされたばかりの最新作『ENTERTAINMENT!』も本当に素晴らしくて(表題曲は俺たちが去年の夏に心を痛めていた「あの人」のことを歌っているのだと思う)、『SOMEDAY』で立てた誓いにウソがなかったことを40年も体現し続けている真のレジェンドなんだよな…と改めて尊敬の念を深めた。

otonanoweb.jp

このレビューをマイアイドル・北沢夏音さんが読んで下さったようで、Twitterでこんなリプライをくれた。私がうんうん唸って書いた400字を射抜いてしまう慧眼よ…。

 

 

 

安保法案へのカウンターの真ん中にいた若者たちと言えばSEALDs。その中心メンバーだったUCDはヒップホップ・バンドTha Bullxxxtでラッパーとして活動しており、残された2枚のアルバムは自分にとっての名盤だった。その後間もなく活動休止してしまったけど、さとうもか、GUIRO、トリプルファイヤーに思い出野郎Aチーム、mei ehara など、自分にとって大切なアーティストばかりをサポートしているキーボーディスト・沼澤成毅がそのバンドメンバーだったと知った時は大変驚いた。そんな彼が初めてソロ名義でリリースした「結晶」という素晴らしい楽曲のレビューをTURNに書かせてもらったのも、自分の中ではこの7年が繋がったような感慨があった。

turntokyo.com

 

そして2015年に起きた極めて個人的な変化。それは再び熱量をもって音楽を聴き出したこと。あれからいろいろなライブを観たけど、あの時期に目撃したアーティストは今でも特別な存在だ。そのきっかけになったミツメのライブを、初めて観た時と同じ名古屋クアトロで観ることができたことも今月の嬉しいイベント。

dreamy-policeman.hatenablog.com

コロナの影響もあってすっかりご無沙汰してしまっていたミツメは、涼しげな佇まいこそ変わっていなかったけど、鳴らしている音の確信のようなものが一段と増しているようだった。空白と余韻を聴かせるスタイルは変わらないが、一つひとつの音がピタッと脳と筋肉のスイートスポットをより正確に刺激してくるし、音像全体から受け取る情報量が増しているように感じたのだ。ひんやりした空洞感はそのままに、歌謡曲的な情緒を一切の雑味なく重ねている様は妖術感すらあった。肉体がないのに気配があるのである。そういえば前作のアルバムタイトルは『Gohsts』でしたね…。

そして対バンのDYGLを観るのは2016年に渋谷7th floorで観たマイカ・ルブテのリリースパーティー以来。彼らもまたあの時と同じように青くて熱かった。ある意味ではミツメとは正反対のスタイルだけど、自分のやりたいことだけをやる、やりたくないことはやらない。この線を自分で引けるという意味で、二つのバンドには本物のインディースピリットを持っているという共通点があるということだと思う。そして「こんな厳しい時代にライブにきてくれるお客さんはもう客じゃない。バンドやスタッフと一緒に音楽を鳴らす場をつくるチームメンバーだと思っている」という秋山信樹の言葉に泣きながら頷いた。

そういえば、DYGLSEALDsdommuneと主催した選挙権の棄権防止を呼びかけるイベント「Don’t trush your vote」にTha Bullsxxtと共に出ていた。10年代でも20年代でも、常にリアルな空気を感じとって行動できるアーティストはカッコいい。

日経新聞を解約した理由

少し前に映画館で「アイの歌声を聴かせて」というアニメ映画の巨大なポスターを目にした。どこからどう見ても健全そうな雰囲気で、声優も名の知られた俳優が起用されていたので、かなり大きな資本が投じられた作品という印象を受けた。しかしそのポスターをよく見ると、主人公が着ている制服の短いスカートの裾の下から下着がちらっと見えている。全体的な雰囲気からこのイラストが、見る側の劣情を煽ろうという明確な意図があるわけではないことはわかる。おそらく「少女→制服→短いスカート」という半ば無意識のパターンの中で描かれたものなのだろう。しかしなぜこんなにスカートが短くなきゃいけないのか。そしてなぜ下着まで当たり前のように書かなきゃいけないのか。男子学生の下着は当然描かれていないのに。多くのスタッフが関わったであろうこの作品のポスターにおいて、その必然性を誰も考えないまま、性的イメージが慣習としてバラまかれているところに日本のアニメ業界の業のようなものを感じた。


それに比べると4月4日の日本経済新聞に全面広告が掲載された「月曜日のたわわ」という漫画の意図は明確だ。胸部を極端に強調した女子高生が男性の性的妄想を煽り、満足させるということに特化した確信犯的ないかがわしさがある。清々しいくらいに。こんな作品が大手の出版社から発売されている時点で子どもをモデルとした性表現に対して寛容すぎやしないか日本社会という個人的な思いはあるが、それはいったん置いておく。

 

日本にはイギリスのような大衆紙と高級紙という明確な棲み分けはない。しかし強いて分けるなら、日本経済新聞が唯一高級紙にカテゴライズされるものではないだろうか。財界の広報誌、企業のプレスリリースを集めただけと揶揄する声もあるけど、私の社会生活においては日経の記事や論調というのは知ってて当たり前の常識であり共通言語のようなもの。なので私もこの新聞の「常に強い者の味方」というスタンスに辟易しながらも購読を続けている。

 

おっさんをメインターゲットとした経済紙とエロマンガ。まったく顧客層が異なる場所に広告を出した講談社の動機はそれにより実売数を上げるというよりも「いかがわしいエロマンガが一流経済紙をジャックする」ということによる話題づくりを狙っていたのだろう。よって当然ハレーションが起きることも想定済み。むしろ私のような良識を振りかざしてキーキー言う人間がいてこその炎上商法である。しかし、このいかにもクソガキ的なやってやったぜウェーイって感じの軽薄さには、「大企業に勤めてる大人がやっても全然おもしろくねーよバカ」と言わなければならない。

 

一方の日経側の動機はもっとシンプル。金である。財界の広報誌としてダイバーシティの旗を振っている立場でありながら、目先の現金にあっさり転んだだけというだけの話。しかもよりによって女性の社会進出を促す「女性面」が掲載される日の紙面で。あっちのページでジェンダーギャップの解消を訴えながら、こっちの広告で男性の性的欲求を押し付けられた未成年を主人公とする漫画の販促に手を染める。こんなに分かりやすく読者をバカにした話があるのかよ、と誰でも思うはずなのだが、それでもこの会社は「日本一のクオリティーペーパーが少女ポルノの販促に一役買った」という講談社が描いた筋書きに易々と乗っかったのである。手続きが面倒くさかったけど、お客様センターに解約の旨を伝え、しばらくは他紙を取ることにした。


しかし音楽でも映画でも小説でも、いかがわしいものが大好きな私なので、こういうマンガは社会から消えるべき、と言っているわけではない。むしろ、いかがわしいものが社会から完全に排斥されないためにも一定のルールは守るべきだろ、と考えている。そういう意味で今回驚いたのは、講談社日経新聞を批判する側を批判する、マンガ・アニメファンの多さだ。

あたりまえのことだけれども、人間は常に欲情しているわけではない。あるモードにいる時には楽しめる表現であっても、タイミングによってはまったく許しがたいものと思えてしまう時がある。少なくとも日経新聞を眉間に皺を寄せて読んでいる時の私や多くの読者は、いかがわしいモードではない。完全にセーフティーゾーンの中にいる。突然そこに性的搾取を助長するような表現が飛び込んでくれば、怒られるのは当たり前。公道のど真ん中でパンツを脱ぐ権利なんて存在しないことと同じなのである。つまりこの新聞の読者である私には、見たくないものを見ない権利があったし、日経新聞にはそれを侵さない義務があったはずなのだ。


そしていかがわしい文化を愛する者としてさらに付け加えるならば、いかがわしい光を放つ表現は、暗いところでしか生きていけない、とも思う。明るい場所に出た瞬間に、その光は見えなくなってしまうから。その作品のことを思うのなら、なんでも大通りに引っ張り出せばいいというものではないし、大通りに出られないことを嘆く必要もないと思う。例えば俺はルースターズの「恋をしようよ」をMステやNHKで聴きたいとは思わない。あれはそんな安全なものじゃないはずだし、あの曲が一番輝くのはそんなまぶしい場所ではないと思うから。俺は日陰でその光を存分に浴びていたい。

 

映画「ハッピーアワー」体験記

濱口竜介監督「ハッピーアワー」を名古屋シネマスコーレで観た。観たというよりは体験したという方がいいだろう。映画ではなく、どこかにある現実を。


上映時間は5時間17分。休憩を入れると約6時間。もちろん自分史上最長の映画。堪え性のない私が果たしてこんな長い時間じっとしていることができるだろうか。そんな不安は、映画の序盤でいきなり大きさを増す。画面の中の四人の俳優の動きはぎこちなく、長い時間の鑑賞に耐えられるようには思えない。そして会話から予想される30代後半の四人の女性(全員既婚歴あり)の人間関係というストーリーも既視感があるように感じてしまう。本当に5時間も身を任せて大丈夫なんですか濱口監督…と彼女たちが訪れた山頂の景色のように、心の中を濃い雲が覆う。そしてその不安は、楽しいのか楽しくないのかよく分からないワークショップと、明らかに楽しくないその打ち上げのシーンにおいて、ずっしりとした質量をもった「いたたまれなさ」へと変容する。その胡散臭いワークショップはなに?なぜそんな打ち上げに行くの?と言いたくなるし、俺ならもう少し当たり障りのない雰囲気にできるのに…という気持ちに駆られるのだ。

今思えば、こうしたある種の当事者意識を持ってしまったこの時点で、完全に濱口竜介の術中にはまっていたということなのだろう。芝居のぎこちなさを不器用な人間性あふれる台詞や定石から外れた生々しいカメラワークと重ね合わせることで、映画と現実の境目がぼやけさせる。その結果、私もこの世界の一員として巻き込まれ、彼女たちと同じように現実の中で迷子になっていくのである。

そうなるともはやスリル、ロマンス、アドベンチャーといった、映画としてのアトラクティブな要素はもうどうでも良くなってしまう。面白いか面白くないか、見たいか見たくないかではない。ただ見届けなければならないのである、この人間関係の成り行きを。それがどんなにいたたまれなくて、どんなに凡庸で、どんなに残酷なものだったとしても。

 

観客をスクリーンの向こう側に深く誘い、没入させてしまう手法は「ドライブ・マイ・カー」と同様だが、あの作品においては演出家とその妻、俳優や運転手など、登場人物のキャラクターが明確かつ固定されていた。一方、誰でもない誰かを描いた「ハッピーアワー」では、それぞれのパーソナリティーを根本の部分から観客と共有するために、何気ない日常生活のシーンや、人間の素が出るワークショップを経ていく必要があったのだろう。2時間という上映時間の差には、この没入までのプロセスにどれだけ手間をかけたか、という違いがあるように思う。

 

そして映画を見終えて印象に残っているのは、冒頭に大いなる違和感と不安を覚えた演技経験がない四人の主人公をはじめとする俳優たちの演技が、映画の進行と共にどんどん輝きを増していったことである。もはや演技という言葉を使うことためらうほどに、演者本人とそれぞれに割り当てられた役の人格がピタッと重なっていき、当初の違和感は完全に消え去っていた。映画の撮影がどのような順序で行われたのかは分からないが、もしシーンの順番通りの撮影だったとしたら、この作品は役柄が俳優に乗り移っていく過程を記録したドキュメンタリー、あるいは彼女/彼らの成長譚でもあったのかもしれない。またもし、これらが進行とは関係なく、ランダムに撮られたとしたならば、時間の経過に合わせて焦点を徐々に合わせていく演出と編集がなされてるということであり、それはそれで驚嘆するしかない。

ちなみに私が好きなシーンは、有馬温泉から帰るバスの中で、潤が見知らぬ若い女性の身の上話を聞くシーン。心の奥底に不安を抱えながらも、何気ない会話によってもたらされる不意の心地よさがなんとも愛しく、いつまでも観ていたいと思わせるものだった。そして演技と現実の狭間を絶えず行き来するこの映画の特徴が最も穏やかな形で現れていたシーンだと感じた。

 

冒頭にも書いた通り、この映画は四人の婚姻歴のある女性の物語である。ということは必然的に、男たちの物語でもあるということだ。しかし年齢や役回りを問わず、今作に登場するすべての男は最低なものとして描かれている、ということもこの作品の特徴だろう。アーティストの鵜飼はサイコパス、潤の夫はストーカー、桜子の夫も息子も無責任に現実から逃避し、フミの夫は救いがたく愚鈍。主要な人物はもちろんのこと、数回しか画面に現れない登場人物の中にも「いい人」は存在しない、と言っていいだろう。同じ男性としてはいやちょっと待ってと言いたくもなるが、それぞれの愚かさの描写があまりにも正確で、しかも私の中にも確実に存在する・した・いずれするかもしれないものばかりなので、この苦しさはぐっと噛み締めるほかない。そういえば「ドライブ・マイ・カー」に批判的な意見の多くは「中年男性が若い女性に救われるという都合の良さが許せない」というものだった。私はその説に同意しないけど(だってあれはみさきが再生するストーリーでもあったわけでしょう…)、「ハッピーアワー」における辛辣な描写と照らし合わせると「男は滅びろ。優越的地位にいるおっさんは絶対に滅びろ」という、全方位的な圧を感じずにはいられない。毎日のように性差や社会的地位を背景にしたおっさんによる愚行が報道される現代においてはごもっともである。しかし正直に告白すれば、私を含む世の中の中年男性に取って自らの優越性を認めるのは意外と難しい。40代半ばまで歳を重ねて分かったのだが、精神的な自分の老いにはなかなか気がつかないのである。外型的には老いているのに気持ちが歳をとらないまま、若い頃には許された言動をとってしまうことはままあるだろう(犯罪は論外としても)。そして社会的地位がちょっと上がったところで、上にも下にも気を遣わなくてはいけない場面は増えていき、果たしてこんな俺のどこかが偉いんだ?という自己憐憫にすらかられる時もある。しかしこれは自分のことを自分の目線でしか見ていないために陥る罠だ。良き大人でありたいのならば、社会における自分の現在地を俯瞰して、絶えず価値観を更新していく必要があるのだろう。大変だけど。その意味でこの映画の公平さと辛辣さは、これ以上ないほど正確なGPSと言える。そして「ドライブ・マイ・カー」への的はずれな批判の根底にあるものもやはり引き受けなければならないのだろう。俺たちは最低。しかし変わることもできる、かもしれない。

 

改めてこの異形の作品「ハッピーアワー」から6年後の、「ドライブ・マイ・カー」との距離に思いをはせてみる。洗練という点において両者には決定的な違いがあるが、鑑賞という言葉に収まらない体験をもたらすという意味では、両者は完全に地続きの関係にある。「ドライブ・マイ・カー」がアカデミー賞にノミネートされてもっとも嬉しかったことは、注目、評価されることでこの体験を共有する人が世界中で増えるということだった。そしてその思いは、より実験的で原器的、そして拘束時間というハードルが高い「ハッピーアワー」の方が当然強い。もしチャンスがあればこの行き先の分からないバスに飛び乗ってみることを、ぜひおすすめしたい。

 

しかし最後に、音楽好きとしてどうしても気になったことをひとつだけ書いておきたい。それは劇中に登場するクラブの描写がどうしてあんなに実際のそれとは違ってしまうのか、という点である。いかにもクラブに行ったことのない人が想像する「危険な若者が集まるといかがわしい場所」という感じだし、そこで起こったエピソードもこの映画の中で唯一、現実離れしていた。つまりここだけとてもダサくて嘘くさいのである。これはこの映画に限ったことじゃないのだけど、きちんと舞台を描けないのなら無理して登場させるべきではないし(普通のバーでも十分だったと思う)、登場させるのならば「24アワーパーティーピープル」や「ノーザンソウル」までとは言わないけど、音楽や店の雰囲気、客の佇まいまで正確に描写してほしい。この「日本映画に出てくるクラブがダサすぎる問題」の早期解決、今後も断固として要求し続けていきたい。

隔離期間の記録

妻がコロナ陽性と判定され、家族全員が濃厚接触者に。下の娘と行くはずだった旅行は急遽キャンセル。隔離モードに突入。

春休みのほとんどがつぶれてしまう子どもたちには悪いが、こればっかりは仕方がない。この隔離生活を22年春休みの思い出にしてもらうしかない…と思い、長女には英検の問題集、次女にはうんこドリルをプレゼントした。ものすごく嫌な顔をされた。

 

感染家庭には市から食糧が届くと聞いていたが、「なんとかなる人は自分でなんとかして」という無言の圧力を感じて辞退。本当に困っている人に手厚くケアしてください…。

なお事情を知った会社の上司が「俺が買い物してきてやる」と申し出てくださったが、こちらも丁重に辞退。しかし本気でこういうことを言えるのが私の上司のすごいところだ。

 

幸い妻は軽症で今は全快。それでも4日くらいひどい頭痛が続いていた。インフルエンザを薬なしで耐える感じだったとのこと。

 

在宅勤務と主夫業と家庭教師のトリプルワークはそれなりに大変で、家族四人で家にこもる生活もストレスフルではあったけど、ちょっと前に百年ぶりに再開していたジョギングに救われた。えっちらおっちら20分くらい我慢して走った後にやってくる心地良い疲労と程良い筋肉の痛み。それを感じるだけで、自分が何かいいことをした気がするし、その日がとても有意義なものだったように思えてくる。消費したカロリーはその後のアルコールですぐに回収されてしまうだけなんだけど。トリプルファイヤーの「銀行に行った日」の世界だ。

 


いつもより静かな週末の夜に、配信ライブを二つ観た。

一つはVIDEOTAPEMUSICのワンマン公演。VIDEOTAPEMUSICのライブを観ると、普段は脳みその奥深くに沈んでいる記憶を掘り起こされたような感覚になる。昔連れていってもらった(あるいはもらわなかった)遊園地の光景、若い頃に訪れた(気がする)どこかの街の雑踏やお祭りの光景。本当は会場で体験したいライブだったけど、家族が寝静まった後にソファで猫を撫でながら観る寄るべなさも滋味深い物があり、「Fiction Romance」から始まる終盤のの名曲連発に泣いた。それにしても、エマーソン北村のキーボードプレイは上手いとかいいフレーズとかそういう次元ではなく、音楽そのものをふわっと持ち上げているような印象を受けてとても驚いた。


もう一つはTURN TVの第四弾でSpoonful of Lovin’と中川理沙の共演。日記に書けていなかったのだけど、前回の高野寛佐藤優介のライブがもう本当に素晴しくて、各アーティストの力量はもちろんだけど、岡村編集長によるブッキングの妙も感じた。なので今回もすぐにチケット購入。前半の中川理沙パートではなつやすみバンドの「黒い犬」のセルフカバーにウルっときてしまった。そして後攻のSpoonful of Lovin’。「Whatever」の絶妙すぎるワルツカバーに脱力させられ、ボンジョビの「It’s my life」ではいつぞや会社の忘年会でコピーバンドを組んだトラウマが蘇ってきた。しかし眉間の皺が深くなってしまうこのご時世に、音楽のサニーサイドだけを抽出して聴かせてくれる彼らの存在はもはやラジカルですらあるのでは、と思った。

 

本は2冊読んだ。先日のライブの時に購入した東郷清丸の「日誌」と井上荒野の「あちらの鬼」。

東郷清丸の文章は何気ない日常の記録なのに随所で心の琴線に触れてくる。私が書き連ねるこの駄文との差はどこから生まれてくるのかとしばし考え込んでしまった。人生や他者に対する嘘のなさ、正直さの違いなのではないか、というのが今のところの結論。それはいいとして、植本一子に続く日記文学の書き手が現れたという予感もちょっとしている。井上荒野の小説は、実父の長年にわたる不倫を母親と不倫相手の目線で描くという生々しい内容なのだが、わい雑さのようなものが一切ない。筆致が清潔で透明なのである。この文章を書くのにどれくらい技術を注ぎ、どれくらい魂を削ったのか(あるいは削らなかったのか)ということにとても興味がかる。

 


結局、妻以外の家族にうつることはなく、予定通りに謹慎期間を終えた。長女はさっそく友だちと朝7時からカラオケに行ったり夜桜を見に行ったりしている。そして次女は特にゲームとYouTubeに興じている。

檸檬企画「曙の音」に行った日の話

先日配信デビュー曲も素晴らしかった檸檬のお二人が企画した「曙の音」に行ってきた。会場は金山ブラジルコーヒー。「めっちゃおいしい食べ物がたくさんあるで」という甘言で下の娘も一緒に連れ出した。

 

最初に登場したのは東京からやってきた(すみません愛知の方でした)シンガーソングライター・ムルヒ。完全に初めましてだったけど、ドラム、ベースにトロンボーンが入ったバンド編成と少しとぼけたアレンジはSAKEROCKを彷彿とさせる。一方でファンクネスあふれる歌と演奏はSUPER BUTTER DOGのようだし、楽曲はいかにも宅録的なねじれ感もあり、まさに才人現る、という印象であった。

 

続いて登場したMURAバんくはこれまた初めましてのバンド。スーツでビシッと決めた外観で疾走感のあるジャズをバカテクで決めつつも、クレージーキャッツ的なギャグを炸裂させていくスタイル。見事な芸達者ぶり。こないだカセットを手に入れてそのデタラメな才能が炸裂する様に打ちのめされた葛飾出身とも交流があるそうなので、もう少し深掘りしてみたい。しかしどうでもいい余談ですが、楽器にでっかい「TRUMP」というステッカーが貼ってあるのが見えた気がして、え?好きなの?ギャグなの?実は光の戦士なの…?と勝手にドキドキしてしまった。


お花見のようににぎやかな2バンドの後に、ギター一本を抱えて現れたのは、我らが東郷清丸。急に夜桜のムードである。彼の歌を最後に生で聴いたのはなんと2019年9月の『Q曲』のリリースツアー。すっかりご無沙汰してしまっていた。あれからいわゆる全国流通されるフルアルバムのリリースはないけれども、去年アジカンのGotchとスプリットでリリースしたカセットテープは彼のポップネスが健在であることを印象づける傑作だったし、bandcampでリリースした「Golden Week Songs」もシンプルな弾き語りというフォーマットでありながら、最新のジャズを彷彿させるような音像と余韻を感じさせたりもして、やはりこの人は底知れないものがあるな…と思っていた。

年末から今年にかけてリリースされた『余生Ⅲ』『ラバ区』も、完全自主制作のCD−Rということで、デモあるいは習作という印象を持ってしまいそうになるけど、よく聴くとやはりそう簡単に片付けられない深みがある。むしろポップミュージックを発明し直してきた東郷清丸のこれまでのスタンスからすると、この歌とギターというシンプルな形態こそが最新形なのかもしれない。彼が今どこにいるのか、その現在地をどうしても確認したいと思っていたのである。

そんな思いで見届けたこの日のライブ。歌の深まりぶりが想像以上にすごかった。安直な想像だけど、お子さんが生まれたこと、事務所から独立したこと、そしてもちろんコロナ禍も含めて、この2年半の出来事をすべて歌の滋養にしてしまったのではないか。そう思わせる凄みがあった。それまで賑々しかったブラジルコーヒーの空気を一瞬でつかみ取って、曲を重ねるごとに聴く者の心深くにじわじわと侵食していく静かな迫力に、ずっと鳥肌が立っていた。約30分と短いライブだったけれども、それでも来た甲斐があったと思わせてくれると同時に、あと1時間は聴かせてくれいとも思ってしまう。今の東郷清丸、みんなも絶対に観た方がいいと思います。

 

そんな感じでずっと音楽に打ち震えている父親を尻目に、ナポリタン、カフェオレ、クリームソーダを平らげて満足した娘と、それぞれお腹いっぱいになりながら帰宅。楽しいイベントでございました。

初めて家主のライブを観た話

これまで二回企画されて二回ともコロナでキャンセルになった家主のライブin名古屋。まさに念願のライブ初体験。セカンドアルバムが出てようやく…である。

 

しかしライブは見たことはないものの、彼らの音楽は自主制作のCD-Rの時から聴いているし、配信ライブもほぼ欠かさず観ている私。なのでこのバンドについてはそれなりにわりと分かってますよ、という体を気取っていたのだけれども、なんか全然そんなことなかった。むしろなんも分かってなかったわ…ということを体感したライブだった。

 

去年のTURNの年間ベスト記事でも書かせてもらったように、家主というバンドの魅力の源泉は、彼らが内包する歪みや矛盾にあると思っていた。例えば、最高に人懐っこいメロディーと絶望の底を突き破ったような歌詞。あるいはカレッジバンドのような佇まいに同居する往年のギターヒーローのような田中ヤコブの超絶プレイ、といった具合に。

 

でも初めて観る家主のライブはそんな細かいヘリクツははるか彼方に投げ飛ばしてしまっていた。

ロックバンドがひたすらにいい曲を演奏して、お客さんが思いっきり泣いたり笑ったりする。ただそれだけの1時間半は、もう拍子抜けするくらいにシンプルな多幸感に満ち溢れていた。歪んだり屈折したりしてる場合じゃなかったんですよ。

 

なんせこの4人組、思い思いに風変わりな雰囲気をまといつつも、とにかく楽しそうに演奏する。大学サークルの演奏会ですか…?というくらいのアットホームぶりで。それを観てるだけでこっちまで嬉しくなってしまうし、少なくともライブにおいては、芸術性とか作品性みたいなことよりも、この四人で演奏する喜びこそを大切にしている感じが伝わってきた。

そしてその姿勢は音にも反映されていて、配信ライブを見た限りでは飛び道具的に浮いているところが最高にユニークだった田中ヤコブのギターも、見事にアンサンブルの中に溶け込んでいたように思った。あの豪速の変化球を受け止められるくらいに、三人の作るリズムの足腰が太かったのである。その結果として、シンプルな8ビートでもなんだか妙にスウィングしている不思議なグルーヴが生まれていて、椅子になんか座ってられねぇよ…と気持ちにさせられた。精緻かつ繊細な技術で勝負するアーティストが多い昨今のシーンにおいて、まったく真逆の王道的アプローチ(でもやっぱりどこか狂ってるんだけど)で未知の領域に達している様が最高に清々しい。

さらにこの日のライブの何が特別だったと言えば、ソールドアウトで家主を迎えたお客さんのあたたかさですよ。大人しいことで知られる名古屋のお客さんが、バンドの演奏と完全に呼応しながら盛り上がっている光景は、コロナ以降のライブハウスで一番の美しさだったかもしれない。ワンマンだから当たり前だけど、ここにいる人たち全員が家主のこと好きなんだよな…と思うと胸が熱くなりました。

 

これはまた絶対に観たいわ…でも俺は4月の京都も行っちゃうもんねーとほくそ笑んでいたところで「あれ、そういえばチケット取ったけ…?いや、取ってないじゃん!」と気づき愕然。すっかり予約した気になっていたよ…。

信じられない失態に涙しながら得三の新名物のおみや(お持ち帰り用のおつまみセット)をアテにやけ酒をキメた。どなたかチケット余っていらっしゃればぜひ声かけてください…。

Buffalo Daughterのライブを観た

うっかり発売日を忘れて一度はソールドアウト。定員が追加されたおかげでなんとか観れたBuffalo Daughterのライブ。ため息が出るくらいにカッコよかった。最新作『We are the times』は2021年屈指の名作だと思うんだけど、あの緻密に構築されたサウンドを、ノークリックの生演奏で鳴らそうとする時点でコンセプチュアルでフィジカルでラジカル。無機的なサウンドを極めていくほどに人間の肉体性が際立っていくという最高のアンビバレンス。そのグルーヴを椅子に座ったまま浴びなければならないストイックなシチュエーションもまた作品の一部という気がした。

 

それにしても大野由美子はよくあんな同時にいろんな楽器を演奏しながら歌まで歌えるものだと感動してしまうし、シュガー吉永の、エゲツないくらいにワイルドで、時に繊細かつ技巧的なギターには惚れ惚れしてした。そして要所で見せるムーグ山本のスリルとユーモアに富んだスクラッチもこの音楽がいかに特別なものであるかの象徴のようだった。そしてサポートの二人、元ZAZEN BOYSなどと書くまでもない松下敦のドラミングは人間と機械の最良を抽出していたし、ステージの上で写真を撮っていたtakeru okumuraの自由で軽やかな佇まいはステージに絶妙な軽みをもたらしていたように思う。

そして私の大好きな「Don’t Punk Out」のディレイが最高に気持ちがいいぜ…と痺れていたところ、最後のメンバー紹介でPAはZAKと紹介されて深く納得した。

 

MCでシュガーさんが「名古屋はお客さんが入らないからずっと飛ばしてた」とおっしゃっていて、今回のライブが20年ぶり2回目だった私は恐縮していたのだが、たぶん若い時に観た時よりも、深く受け止めるこもができたのではないだろうか。ポップミュージックをユースカルチャーとして捉えると、加齢はミュージシャンにもリスナーにもネガティブな作用を与えるようなイメージがあるが、彼らのライブを観ていると、そんなの本当は違うんじゃないかという気がしてしまった。少なくともアートの世界においては、60代、50代は脂の乗り切った年代と言ってもいいはず。音楽もまた例がではないだろう。ムーグ山本さんは還暦を過ぎてるし、他のメンバーも私よりもだいぶ年上。まだまだカッコいい時間は続くんだぜ、と言われているようですごく勇気が出た。