ドリーミー刑事のスモーキー事件簿

バナナレコードでバイトしたいサラリーマンが投げるmessage in a bottle

「PERFECT DAYS」と「枯れ葉」、意識の低い仕事初めに考えたこと

冬休みが終わり、2024年の仕事が始まった。これでもう23回目の仕事初めということになるが、やはり憂鬱だ。今週は三回も人身事故で電車のダイヤが乱れていた。結局、多少給料が増えようとも、仕事の種類が変わろうとも、労働はしょせん労働。意に沿わない、生きていくための、繰り返される諸行無常にすぎない。仕事の外で音楽ライターの真似をしてみたところで、俺が戻ってくるのはここしかない。悲しいか?と問われれば、もちろん悲しい。つまんない?と問われれば、もちろんつまらん。でもやるしかないんだよ。

 

こんなしみったれた悲しみを、しかしながら、実のところ私は深く愛しているのかもしれない。そんなことをヴィム・ヴェンダースの映画『PERFECT DAYS』を観て気づかされた。自分の根っこにある、労働者であることを掠め取られたような気がして、途中で席を立ちたくなるくらいムカついていたのだ。逆に言うと、自分がこの労働者性というものに並々ならぬこだわりを持っていたということに初めて気付いたのである。

あの映画は一見すると労働と労働者を讃えているようで、実はそうではない(と思う)。低賃金にも文句を言わず、不衛生なトイレ掃除の道具を私有車に積み、意識の低い同僚を尻目に黙々と働く一方でフィルムカメラと古典文学、そしてロックやソウルミュージックを愛する男・平山。彼を通じて見えてくるのは、どんな泥にまみれても汚れることのない、鋼のように強い哲学と美意識。それを讃えているのだ。珍妙なトイレも、労働も、ボロいアパートも、それを際立たせるための小道具にすぎない。そしてその根底には「こんな風に見える彼ですが、実は俺たちと同じ風流を解する男なんですよ」という作り手たちの(無意識かもしれないが)選民意識があることを否定するのは難しいだろう。その疑念は、「実は富豪の息子でした〜」という(少年アシベの父ちゃんと同じ)設定で一層深まる。なぜ市井の労働者を市井の労働者として美しく描くことができないのか。そこにこの作品の弱さがある、と元労働組合役員として厳しく指摘しておきたい。

確かに世界的な映画監督や、ユニクロの御曹司プロデューサーや、電通のエリートクリエーターから見れば、クソみたいにつまんない仕事をして、同僚や上司の悪口を言い、安い酒とロックンロールで憂さを晴らす私のような者の日々は、哀れで不自由なものに見えるのかもしれない。実際(程度の差こそあれ)その通りである。しかし、少なくとも俺たちには、この不自由を謳歌する自由がある。この不自由に唾をかけ、毒づく自由だけは手にしているのだ。かつてECDが「俺は俺の貧しさを手放さない」と書いていたように、俺にとってはこの「不自由な労働から逃れられないこと」こそがアイデンティティである。貴族が気安く触るな。こっちは「ぼくが考えたさいきょうのクールジャパン」のために生きてるわけではない。趣味のいい歯医者が選んだロック/ソウルの名盤500みたいな選曲にすっかり白けながら劇場を後にしたのだが、しかし、ここまで書いた文章を読み返すとまだ俺にこんな怒る元気があったのかというくらいにみなぎっているという点においては、この映画に感謝すべきなのかもしれない。

 

それとは対照的に(という話し方がいかに品がないものであることは分かっているが)、同時期に公開されたアキ・カウリスマキの「枯れ葉」は、これまでの彼の作品同様、労働者そのものに焦点を当て、そこから1ミリも目を逸らさずに撮り切った作品だ。いつものように、善人でも悪人でもない、しかし不器用な主人公を淡々と、しかしこれでもかというくらいにひどい目に合わせて、その果てに残るささやかな希望を描いている。善人でも悪人でもない労働者は、共産圏の寒々しさが漂う店で不味そうな酒を飲み、ダサい音楽を聴き、生きるための仕事を探して小さなベッドの上で眠る。そこに平山のような美学や哲学は存在しない。

そして私が最も感動したことはこの物語がアキ・カウリスマキが90年代に制作した「敗者三部作」とまったく同じ筋書きをなぞっていたことである。冷戦が終わっても、格差が広がっても、戦争が起きても、私たちはメシを食う必要がある。労働とはその手段であり、それ以上でも以下でもない。この揺るぎのない退屈な真理を、自らの人生をかけて証明している。だから彼の作中に出てくる主人公は、職がなくても家がなくても、決して卑屈な表情を見せず、誰にも媚びず、常に無愛想かつ堂々としているのだろう。太鼓持ちのサラリーマンである私としてはそこに大いに励まされるような気持ちになる。今の仕事を失ったとしても、それはただ仕事失っただけにすぎない。また堂々と、坦々と、食うための仕事を探せばいいのだ、と。

映画の終盤でなんだか急に小学生の頃に夢中になっていたチャップリンの映画を見返したくなったのは、彼もまた労働と生活の坦々とした悲しみ(と犬のかわいさ)を、何度も何度もミニマルなサイレント映画で描いていたからだろう(たぶん。もう30年も観ていないから)。だからあのラストシーンには心底驚いたし、ちょっと泣いた。

 

【配信解禁記念】センチュリーとルースターズに見る日本人の精神性について

自動車も、乗り方によって存在感ががらっと変わる。そのことに気がついたのは、今から数十年前、高校生の時に見た写真週刊誌。離婚問題で追いかけ回されていた永瀬正敏の後ろに映っていた白っぽいトヨタ・センチュリーを見た瞬間だった。あの頃の永瀬は、触るものみなカッコよく見せてしまう魔法の使い手だったので、それまで昭和の応接室にしか見えていなかったセンチュリーが、急にジャパニーズ・ギャングスターの成功の証のような、グリッターな輝きを帯びているように感じた。工業技術の集積である自動車をファッションやカルチャーの文脈で捉え直すことができることに気づいたのだ。

 

センチュリーはトヨタグループの創始者である豊田佐吉の生誕100年となる1967年に発表されたフラッグシップ・モデル。日産プレジデントと共に、政府・官庁、企業のVIPの公用車として活躍した。一分の隙もないほどに、おっさんのおっさんによるおっさんのための車である。

専任者がほぼ手作業で作り上げるという車体には、国産乗用車初のV型12気筒エンジンが搭載されたが、これは片側の6気筒が故障しても残りの6気筒で要人を無事に目的地まで送り届けるという設計思想があったとされる。本当にそんなことができるのかは知らないし、そんな場面がそうそうあるとも思えないし、そこまでして助けなきゃいけないおっさんがどれだけいたのかも分からないが、中2ゴコロをくすぐる伝説ではある。ちなみに私の記憶が正しければ、永瀬正敏が乗っていたセンチュリーのボディカラーは「精華」だったはず。そう、この車はボディカラーもすべて漢字で表されるのだ(他には「神威」「摩周」「瑞雲」とか)。そしてフロントグリルに輝く鳳凰のエンブレムは七宝焼に手彫りを加えたもの。

西洋からやってきた自動車という乗り物に、なんとしてもジャパニーズ・トラディションを搭載するのだ…という昭和男の執念。ならばいっそ「世紀号」とか「佐吉丸」と名付ければいいようにも思うが、この煮え切らない感じこそが、戦後日本というものなのだろう。

しかしこの欧米に対する受容と反発の愛憎関係は、決して昭和おじさんだけのものではない。若者文化におけるその最も顕著な表出は、明治時代のバンカラに始まり、令和の「東京リベンジャーズ」に至るまで続く、いわゆるヤンキー・カルチャーであろう。「愛羅武勇」「暴威」「亜無亜危異」といった定番の当て字とセンチュリーのボディカラーが一致してしまうのは決して偶然ではない。

根っからの文系・リベラル・ニュータウンっ子である私にとって、この中途半端な伝統主義は最も忌避すべきものに他ならなかったが、少なくともクルマの世界ではセンチュリーという例外ができた。永瀬正敏が乗っていただけで。そして時をほぼ同じくして、音楽においても例外の存在が現れた。その名は、ザ・ルースターズ修羅の国・北九州が生んだ最高のロックンロール・バンドである。

ファースト・アルバム『THE ROOSTERS』のジャケットを見てほしい。荒廃した裏通りで睨みをきかせるの4人の眼差し。目があった5秒後には身ぐるみ剥がされている自分しか想像できない。ヤクザ人生50年分くらいの修羅を経た仕上がりだが、この時の彼らはまだ二十歳そこそこ。当時の私とほとんど年齢が変わらないということに強い衝撃を受けた。

The Champsのあまりにも有名な「Tequila 」のカバーから始まる演奏も痺れるほどかっこいいが、ジャケット同様に浮かれたところはどこにもない。ダンス・ミュージックとパンク・ロックの本質に最短距離でにじりより、掴みかかるような緊張感。エディ・コクランやボ・ティドリーのカバーを交えながら次々と繰り出されるビートは、タイトでクールという言葉に尽きる。若者だけに許された、新世代による革命などという浮ついた理想には目もくれず、虚飾を排したリズムを追求する様は、硬派という形容がぴったりくる。パーティー・ミュージックとしての、あるいはセックス・アピールのためのロックンロールを受容し、職人気質と任侠道でそれに応えるというフィードバック。昭和の日本ならではのもの…などと言ってしまったらしめられるだろうか。

 

ちなみにかつて私が一度だけセンチュリーの助手席に乗った時、ダッシュボードには演歌のカセットテープが置かれていた。後部座席の主がいない時にだけ、運転手がこっそりと聴くのであろう。「クラウンでもレクサスでもなく、センチュリーを運転することには、ドライバーとして特別な誇りがあります」と語ってくれたその寡黙な運転手にならい、またこの車に乗り込むことがあれば、後部座席ではなく、運転席を預かる職人として、ルースターズをこっそり爆音で鳴らしてみたい。

真夏のクライマックス 後編(9/3 東京国際フォーラム)

アメリカの生きる伝説スパークスから始まった2023年の夏休みは、日本のロックシーンが誇るリビング・レジェンド佐野元春の東京公演で終わった。今回の『今、何処』ツアーは6月の名古屋ですでに目撃していたのだけれども、去年からいくつかの記事を書いたご縁でライブにご招待頂いたのである。

こういう時っておみやげとか持っていくものなのだろうか。いや業界人がそんなことするわけないじゃないか。いやでもお前は業界人じゃないだろう、と前日から緊張∞(むげんだい)。新幹線の席に着いた瞬間、髪をセットしていないことに気づく。時速300キロで運ばれるモジャおじ。

 

とりあえずせっかくプライベートで東京に来たのだからと吉祥寺へ。いせやで(お店の人のぶっきらぼうぶりにびびりながら)昼飲みした後に、コロナ禍以降足を運べていなかったココナッツディスクへ。矢島店長はいらっしゃらなかったが、相変わらず最高のヴァイブス。ジュークボックスに飾ってある佐野元春のサインを拝んでから都心へ戻る。サニーデイの『東京』のジャケットを撮影したという千鳥ヶ淵を通ってイタリア文化会館で「江口寿史×ルカ・ティエリ展」へ。巨大なサイズの『いいね!』のジャケットを見ることが目的だったが、江口寿史の作品もとても良かった。美少女の絵というものがちょっと苦手なのだが、江口寿史が描く絵のキャラクターには男女を問わず凛とした意志が感じられ、素直に素敵だと思えた。今さら何言ってんだという話ですが。

 

インディーおじとしての自分のルーツを確認した後、いよいよ宮殿のような東京国際フォーラムへ。ご本人には会えないだろうからと近くのプロントに入ってCDと一緒に渡す御礼のメッセージカードを書く。が、私の字は控えめに言ってシンナーをきめた中学生が書いたものにしか見えないのでかえって失礼であることは分かっているのだがもう後には退けない。長蛇の列を後ろめたい気持ちですり抜けて関係者受付へ。いろいろと親切にして下さったマネージャーさんにご挨拶すると「終演後、ロビーでレセプションがあるので本人にも会っていってくださいね」なんておっしゃっる。え?会えるの?マジで?どうする?家康?と緊張∞の岡崎市民。ふと前を見ると目の前に七尾旅人がいた。なんなんだここは。

 

席につき超満員5,000人の聴衆を眺める。二日前のブラジルコーヒーとのスケールの違いに脳がバグりそうになっていると、前の席には萩原健太能地祐子今井智子が並んでいる。やっぱここはすげーところだ…と頭の中で「オラ東京さ行くだ」が鳴り出してしまったところで客電が落ちて我に帰った。するとまだメンバー姿が見える前なのに、満場のお客さんが手拍子を始める。なにこの雰囲気みんな最高じゃん…と驚愕しているところに佐野元春とコヨーテバンドが登場。今日も黒いスーツでビシッと決めて「さよならメランコリア」からスタート。ふわふわしていた魂がぶち上がり熱い血が沸る。

 

ほぼ最新作である『今、何処』のみのセットリストにオーディエンスも熱狂的に応える。一定以上のキャリアがあるのに最新作が一番盛り上がるアーティストはサニーデイ・サービスだけだと思い込んでいたのだが、デビュー 41年の佐野元春のライブでもまったく同じ光景が広がっている。青春期の思い出と共に佐野元春の作品を血肉化したファンが、大人になってから聴き始めた私と同じテンションでこの作品を受け入れているのは奇跡のように思える。しかし長年サポートしてきたアーティストが瑞々しい創造性をもってシーンに広く深く刺さる作品を作り出すなんて、ファンとしても最高に誇らしい心境だろう。そんな両者の信頼関係を感じる美しい光景だった。

そしてこの日の佐野元春は、この大舞台をのびのびと楽しんでいるようにも見えた。最高の舞台を用意してくれるスタッフと完璧な演奏をしてくれるバンドに後を任せ、本人はフロントマンとしてより良いパフォーマンスをすることだけに集中すればよいという境地だったのではないか。こうした最高の環境の中で、最高のファンを前に、自分のやりたいことだけを詰め込んだ最新作を演奏できるということこそが、40年以上も音楽産業のど真ん中で戦い続けてきた最大の成果なのではないかという気がした。

 

本編の終盤では10年代の傑作『Blood Moon』から「優しい闇」も演奏され、私はもうすっかり感極まると同時に、ずっと気になっていた自分に対する疑問の答えを得たような気がした。それは、例えばブラジルコーヒーで演奏する東郷清丸やOhhkiと、国際フォーラムのステージに立つ佐野元春は、自分にとって同じ「音楽」と言っていいものなのか、ということである。

もちろん東郷清丸、Ohhki、そして佐野元春の表現が刺激してくる部位は異なる。前者は抽象的な想像力を、後者はより実際的な勇気を高めてくれる。しかしこの週末ではっきりしたことは、ステージの大小に関わらず、私が敬愛するアーティストにはやはりどこか通じるものがあるということである。それは、自らの魂にだけに忠実な表現であること、そして社会に対して独立した個として対峙していること。こういったことをパフォーマンスから感じられる表現者にこそ惹かれてしまうのだ。そもそも00年代以降の佐野元春こそ、メジャーを離れてインディペンデントに活動するアーティストのパイオニアなのだから、共通するアティテュードがあるのは当然だろう。そんなことを5000人の視線を一身に引き受けながら、観客それぞれと一対一の関係を作っていく佐野元春を観ながら考えていた。

 

そして終演後。ついに私はテレビでよく見るタレントさんや中学生の頃から文章を読んでいた背の高い評論家、ブロックで有名などうした東京の音楽ライターや人格形成に多大なる影響を与えてくれた大物ミュージシャンたちに混じって、本日の主役にお礼を言う機会を得ることができた。もちろん伝えたいことはもちろんたくさんあったけど、肝心な時ほどうまく動かない口だということはこれまでの人生で嫌というほど知っている。「ありがとうございました。本当に感動しました」とだけ伝えると、みんなが知ってるあのジェントルな笑顔で握手をしつつ、思いがけないほど優しい言葉をかけてくれた。もちろんすれっからしの社会人である私は、こうしたレセプションが業界の慣例であるということは理解している。が、そんなともすれば寒々しくなりかねない場であっても、佐野元春は私のような者にも真摯に接することで、その場を血の通うものにしていることを体感した。よく考えてみると、数字が全ての音楽産業の中で彼がずっとやってきたことも、結局のところこういうことだったのかもしれない。生き方を貫き通すということはこういうことか。完全にバグった脳でそんなことを考えながら、最終の新幹線に乗り込んだ。熱すぎる夏の終わりだった。

 

真夏のクライマックス 前編(9月1日金山ブラジルコーヒー)

去る9月1日。金山ブラジルコーヒーにて「found the sun again」という音楽イベントを開催しました。お越し頂いた皆さん、告知にご協力頂いた皆さん、ブラジルコーヒー角田さんを始めスタッフの皆さん、そして出演してくれたOhhki さん、東郷清丸さん、ありがとうございました。良い音楽イベントが全国津々浦々で、それこそお客さんとしての自分が行ききれないくらいに開催されている中でも、まだこの土地に持ち込まれていないヤバいブツをお届けできたのではと思っております。

 


以下、備忘録。

 


今回の企画は去年に続いて名古屋、高山、松本を回るツアーをやりたいから協力してほしいという清丸さんのオファーから始まった。なぜこんな俺にとも思うが、こんな俺に任せてくれるならやってやろうじゃないかと快諾。ツアー日程はすでに決まっており、まずは会場を探すところからスタート。あまり日にちがなかったので焦ったけどブラジルコーヒー角田さんが調整してくださってなんとかクリア。

 


去年は私が清丸さんの歌をたくさん聴きたいという理由でワンマンライブにしてもらったが、今年は対バンがあった方がいいという清丸さんのリクエストもあり共演者を相談。清丸さんからもアーティストの名前もいくつか挙げてもらったけど、私の心はイサヤー・ウッダことOhhkiさんに決まっていたように思う。まだ名古屋でライブをやったことをないし、私もライブを観たことがない。が、音源はすべて聴いているので、東郷清丸との相乗効果によってイベントとしてめちゃくちゃヤバくなるんじゃないかという予感があった。清丸さんもお気に入りであることを確認し、すぐメールで連絡。果たしてこんな見ず知らずの人間からのオファーを受けてくれるかしら…とドキドキしていたけど快諾頂いた。

 


私にとって最初の鬼門はフライヤーつくり。今どきレコード屋やライブハウスでフライヤーをもらう文化もあまりないかも…と思いつつ、やはりやれることはちゃんとやっておきたい。しかしとにかくデザインができない。イラレ?フォトショ?なんですかそれは。というわけで今回もサラリーマン愛用のパワーポイントでアーティストのイメージをぶっ壊さない程度になるよう、私が森道市場で撮った写真を使って粘った。そしてデザインがダメなら文字で勝負だ!と勝手にお二人の紹介文を書きまくった。これは去年の清丸ワンマンの時に思いついた力技。

そして今回新たにやってみたのは、Spotifyでお二人の曲だけを入れたプレイリストを作るというやり方。これを聴いてくれれば、いかにこのアーティストの相性がいいか分かってもらえるでしょう、という発想。フライヤーにリンクを印刷し、予約してくれた人たちにもいちいちお知らせした。効果のほどはよくわからないが、悪くないアイデアのような気がする。ライブの後も聴けるし。

 


そして最大の難関はなんといっても集客。収支のことはひとまず置いておいたとしても、ガラガラの会場でパフォーマンスしてもらうのはアーティストにも、そして超良心的な会場代のブラジルコーヒーにも申し訳なさすぎる。きっとイベンターという役割は、地元に音楽仲間がたくさんいて、アイツが企画するなら行ってやるかという人望のある人がやるべきだと思うんだけど、私はぜんぜんそうじゃない。会社の同僚は私がこんなことをしているなんて知らないし知ったところで興味も持たれない一般男性会社員。なので頼みの綱はSNSということになるわけど、あんまりガンガン宣伝すると「あのアーティスト人気ないのかな」というネガティブな印象を与えかねない…。しかし私が敬愛するアーティストはみんな告知を頑張っているぞと自分を励まし、「ドリーミーの執念を感じた」と岡村詩野さん(何度もリツイートして頂きありがとうございます)に言われるほどしつこく発信させて頂いた。しかしTwitterが無くなったら貧者の告知はどうすればいいのだろう。

 


今回の反省点は開演時間とチャージ。あまり深く考えずに19時スタートにしてしまったのだけど、最近は平日であれば19時半、あるいは20時というパターンも多いようで、仕事帰りの皆さんのことを考えるともう少し遅い方が良かったのかもしれない。「仕事で行けなくなりました」というキャンセルをいくつか頂き胸が痛んだ。あと当日でも来やすいように予約と前売を同額にしたのだけれどもやっぱりほとんどは予約の方で、その効果は限定的のように思えた。そして何より主催者にとって予約は言葉では表せないほどにありがたいものなので、やっぱりなんらかの恩恵があるべきだな、と。当日の開場ギリギリまで予約を受け付けておけばいいわけだし…。

 

 

 

さてこうして迎えた当日。

ここまで来たらもう俺が一番楽しむぞ…と気持ちを解放して清丸さんと会場入り。

さっそくリハで歌い出す清丸さん。どれくらいの力をこめて歌っているのか分からないが、一発で世界に引き込まれる。

そしてOhhkiさんもご挨拶した時の柔らかい物腰から一転、凶暴なリズムとマグマのようなメロディをぶちかます。いきなり非日常に連れ込まれるこの感じを味わえるのは主催者の特権。いきなりブッ飛ばされた。

 


少し暗くなってきたところで開場。

開演までのBGM担当は私。私が思うこの二人の共通点は不穏な社会の中で、野生の部分を抱え続けている独立したアーティストであるということ。しかもある種のユーモアと甘やかなセンスも持ち合わせながら。そんな空気を出したいなという気持ちで選曲させて頂いた。

 


最初に登場したのはOhhki。

演奏前から圧倒的に危険で妖しさがだけを固めたような佇まいに圧倒され、惹きつけられる。サンプラーエレキギターを駆使した演奏なのだけれども、改めて気づかされるのは楽曲の練り込まれ具合。音響的に加工する前の状態の熱量が極めて高く、また歌声も魅力的なので素の状態で聴いても魅入られてしまうだろう。これこそがOhhkiの表現の根源であることを実感。そして「Sexy healing beats」からはギターを置き、ハンドマイクで歌い踊る。みんなあっけに取られてるけど、それすら織り込み済みかのように飄々と踊り続ける。このお店の光景が批評的で、一つの作品のように見えた。機材のトラブルでノイズが入る時があったが、後半に向けてさらに混沌とした熱を帯びていく。「Glitter」から「Delta」、そしてキラーチューン「I shit ill」の流れには、名古屋の街に潜む愛と絶望が次々と暴かれていくような感覚があった。窓の外に広がる繁華街の景色とのコントラストに私はちょっと涙ぐんだ。仮に主催者バイアスがあったとしても、はっきり言って期待の30倍くらいすごいライブだった。彼を京都の秘宝にしておくのはあまりにも勿体無い。妻からも「すごい人を連れてきたね!」と誉められた。みんなもチェックするべき。

 

ライブの衝撃に呆然としたまま幕間のBGMを流すが、どんな曲を流していいかさっぱりわからなかった。

 

そして現れた東郷清丸。去年と同じく弾き語りのセットだけど、その中身は全然違っていた。「サマタイム」「ゆくゆくソング」からスタートした演奏は力みというものがなく、呼吸や会話と同じくらい自然なものに位置づけるというのが今のテーマなのかもしれない。ゆえに、と言うべきかどうかわからないがMCもいつもより長い。歌も話もコミュニケーションとしては等価、という思いなのでないか。Ohhkiのライブとは対極に位置する表現とも言えるが、端と端は接しているということでもある。

そして今、彼が取り組んでいる新しいテーマは民謡。民謡というか、録音媒体や楽譜ができる前にその土地で伝承されていた歌。今回のツアーから、その土地の歌を一曲ずつ歌うそうで、記念すべき第一回目として、綿工場で働く女工の労働歌だった「尾張糸引き唄」を披露してくれた。歌というものの根源をより追求していく姿は感動的だったし、やはり彼のライブは見るたびに姿を変える、それそのものが生き物であることを実感した。出演後、そういえば今日は「L&V」も「ロードムービー」もやらなかったライブは初めてだなと気付いた。でもそれがよかった。「ぽつんとシュロが、」「あしたの讃歌」をはじめ、新しい名曲がいっぱいあるし、なにより彼にお約束は似合わない。

 

こうして無事にライブ終了。余韻の中でみんながビール飲んだり演者の二人と話したりしてる光景を見て、安堵と感謝が改めてひたひたと。音楽をよく知っている知り合いや友人が口々に「清丸さん目当てで来たけど、Ohhkiもすごかったね!」と言ってくれたのが何より嬉しかった。そしてこの日の受付は名古屋が誇る名バンドばけばけばーのベーシスト・徐さんがやってくれたのだ。豪華でしょう。

 

最初にも書いたように、これは日本全国いたるところで行われているライブの一つにすぎない。けど、こんな長文になるくらい、少なくとも私の人生においてはインパクトのある大イベントだった。そう思うとライブハウスってめちゃめちゃ濃い尊さが詰まった場所ですよ…と心の中で手を合わせる。関わって頂いたすべての方々と、こんな道楽に協力してくれる家族に改めて感謝します。

 

 

夏休みの始まり(7/22渋谷にて)

2023年の夏休みは、スパークスから始まった。7月22日渋谷duoの追加公演のチケットをえいっと勢いで取ったのだ。その背中を押してくれたのは、私にいつも古今東西の音楽の素晴らしさを教えてくれる澤部渡氏が大枚をはたいてスパークスのハリウッド・ボウル公演に行くという話に他ならない。スカートを愛する者として、「NICE POP RADIO」のヘビーリスナーとして、このビッグウェーブに乗らなきゃウソでしょと思ったのだ。ともかく妻と二人、新幹線で上京し、BYGで気持ちを盛り上げてからいざduoへ。

 

会場はもちろん超満員。かっこいい大人がたくさんいるぞ…という感じ。

「So May We Start」「The Girl Crying In Her Latte 」でいきなりぶち上がる。年齢のことを強調するのは野暮ってもんだが、ラッセルは74歳、ロンに至っては私の父親より年上の77歳。こんなかっこよくてチャーミングな天使みたいな人がいていいのか…とクラクラする。バックを固めるバンドの演奏もさすが鉄壁のリズム。黒子よりも少しだけ前に出てくる感じにプロフェッショナリズムを超えた信頼関係を感じさせる。

三曲目は「Beaver O’lindy」。サビの「B E A V E R!」というシャウトでみんな腕を上げるのだが、私の少し前で誰よりも真っ直ぐに腕を突き上げていた男性こそ、なんとスカート澤部さんだった。背中からゆらゆらと立ち上る真っ直ぐな愛の炎。一生あなたについていきますよ…と拝んだことは言うまでもない。

新作を中心に演奏される曲すべてが強烈キテレツ。なのに一発で心の奥深く入り込んでくる人懐こさがある。中でも不思議なのが陳腐化しがちな電子音にまったく古さを感じないところ。圧倒的な楽曲の個性が時の流れをも制してしまっているのだろうか。

MCではゆっくりとした英語で語りかけ、狭いステージを動き回ってファン一人ひとりに目配せしてくれるラッセル、同じくストレンジなキャラクターを貫きつつもちょっとした仕草で感謝を伝えてくれるロン。もちろんこれも長年鍛えてきた芸事の一部であることは理解しつつも、こんな大きな暖かさに包まれたライブは今まで体験したことがなかったな…と気持ちがウルウルする。

そして終盤になっても、というか曲を重ねるごとにラッセルの歌声は力強さを増していき、名曲「Bon Voyage」はもはや神々しく響いた。「The Number One Song in Heaven」のロンのダンスとの対比は今思い出してもちょっと泣ける。

そして玄人ばかりのお客さんもさすが盛り上げ上手。ロンとラッセルの感激した表情を引き出したのは皆さんの愛の賜物。スパークス素人の私たちも良いものを見せて頂いたと感謝するしかなかった。

高揚したまま会場を後にして、20年ぶりくらいの麗郷へイン。同じ丸テーブルに座った人たちもスパークス帰りだった。いやめちゃくちゃ最高でしたよね?

 

それにしてもナイポレを聴いてなければこんな体験出来なかったな…という気持ちでこの夜の感動をツイートしたら、翌週の放送で澤部さんが読んでくれて心臓が止まるかと思った。ありがとうございました。

映画「遠いところ」の感想

映画「バービー」を観た翌々日、そして長いこと積読していた上間陽子「海をあげる」を読み終えた翌日に、工藤将亮監督の映画「遠いところ」を刈谷日劇で観た。沖縄に住む17歳にして2歳の子供の母親が、貧困や差別に翻弄されながら生きる姿を描いた作品。

「映画でなく、現実」というキャッチコピーが示す通り、目を背けたくなるような沖縄の現実を容赦なく映し出すと同時に、目が離せないほどの映像的な美しさが共存した作品。今まで観てきた映画とは明らかに違う衝撃を受け、観終わった後はしばし沈黙。そして昨日まで自分の特権性に気付かないまま「バービー」の感想をああでもないこうでもないと頭の中でこねくり回していたことが恥ずかしくなってしまった。

 


工藤監督の存在を知ったのは、サニーデイ・サービス「クリスマス」のMVを監督していたから。サニーデイのMVは多くの優れた映像作家が撮っているけども、中でも工藤氏が監督したこのビデオはとりわけ完成度が高いというか、完全に一本の映画(しかも楽曲から想像される世界とはまったく異なるもの)になっていた。なのでてっきり監督経験が豊富な人だと思っていたのだが、この「遠いところ」がまだ三作目と知り驚いた。確固たる自らの世界を持っている人ということなのだろう。

そしてその世界観の確かさは映画の冒頭、キャバクラの仕事を終えた主人公が、明け方のコザの街を歩いて子供を迎えに行く長回しのシーンから伝わってきた。ここを観ただけで、これからの2時間はもう絶対に間違いないだろうと思わせるだけの静かな迫力があった。

また主人公がしばし母親であることを忘れて、17歳の少女として仲間と深夜のドライブに繰り出していくシーンでは、刹那的で妖しい夜の光景と唾奇による挿入歌が一体となることで生まれた解放感と高揚感に胸が躍った。やはり音と映像で語る技術とセンスが違うのだろう。

他にも光と影、聖と俗が交錯する、映画的にたまらないシーンがたくさんあるのだけれども、これから観るあなたのために黙っておくことにする。


そして俳優陣の演技も素晴らしかった。特に主演の花瀬琴音は、同世代の子供を持つ私から見ても、17歳そのものとしか思えない無邪気さと弱さ、そして母親として生き抜こうとする強さを、胸が苦しくなるくらい自然に演じ分けていた。その一方、静かに進んでいくストーリーの中で、主演俳優として観客の目をスクリーンに引き寄せ続ける鮮やかさも備えていて、これはすごい役者さんだ…と驚いた。しかもこれがほぼデビュー作なのだ。全編にわたりあえてボキャブラリーを削った脚本、聞き取りにくく発声させる演出も演劇的な要素を排除する上で効果的だったように思う。

 

この映画が各国の映画祭で高い評価を受けていることは、ここで描かれている問題が世界中の至るところに存在する普遍的なものであることの表れだろう。しかし沖縄を戦前は本土防衛の盾とし今も安全保障上の役割の多くを負担させている日本という国に住む者として、あるいは優越的な地位にある男性として、両親の手厚い庇護によって高等教育を受けた社会人として、これを「私の住む街でも起き得ること」として消化することは、誠実ではないように思った。普遍性の名の下に固有の問題を希薄化させてしまうのは、アメリカの黒人が命がけで掴んだ”Black Lives Matter ”というテーマを”All Lives Matter “として無力化しようとした者たちのと同じ振る舞いになってしまうような気がするのだ。これは沖縄という特定の場所で起きている私たちが解決すべき問題である。まずはそう認めるところから始めるべきだと思う。

 

もちろんそんなことを思ってみたところで、沖縄から遠く離れた土地に住む一般人に何ができるのかという思いも当然ある。最終的には長期的でより強力な政治の力が必要だ。今年初めて沖縄に行ったような人間が言うべきことではないのは分かっているが、戦後の日本各地で行われた都市開発が、沖縄の土地では行われなかったことは、その街並みを見れば一目瞭然だった。もちろんそれはエキゾチックなリゾート地としての魅力にも繋がっているが、インフラが未整備であることの言い訳にはならない。

それでも今思えば、1990年代の終わり頃までの政治家には、沖縄に対する特別な思い入れがあったように思う。徐々に日本とアメリカの国力が絶対的にも相対的にも低下する中で、次第に沖縄を軍事的要衝としてしか見なさない冷徹な政治家と、彼らに迎合する空気が次第に濃くなったように思う。沖縄に対してどういうスタンスを取っているのかということは、有権者としての大きな判断基準としておきたい。

 

さて文章の冒頭で勢い余って「バービー」をくさすようなことを書いてしまったが、もちろんあの映画だって、「遠いところ」で描かれた問題を解決していく上でも大切なことを提起していることは間違いない。これまで無意識に受け入れていた矛盾や差別を鮮やかに視覚化、言語化したことは特に若い人たちにとっては有意義であり、社会を変えていくきっかけになるかもしれない。知識と知恵こそが暴力的な社会を生き延びるため唯一最大の武器であるということが、この2本の映画に通じるメッセージの一つだと思う。ただそのことをすでに知っている私のような大人は、やはり「バービー」で内省するだけでは足りない。どうやってその武器を一人でも多くの子供たちに持たせるか考える責任がある。そんなことを考えさせてくれる映画だった。

沖縄旅行の記録(極私的メモ)

1日目

 

旅行の予定を立てるのが極めて苦手。しかも極度の高所恐怖症。なので飛行機で旅をしたことがなかった。が、上の子の中学卒業を機に一念発起して沖縄旅行を企画した。コロナ禍が教えてくれたことの一つは、人生において遊んでいられる時間は短いということ。今年は無理してでも遊ぼうと決めている。

旅の行き先として、リゾートと呼ばれる場所をなんとなく敬遠していた。その理由を深く考えたことはなかったが、通りすがりの自分が、その土地にもてなされる感じになるのを避けたいということかもしれない。行き先が都市ならば、そこにある全ての機能はそこに住む人たちのものであり、よそ者の自分はそこにこっそり紛れ込ませてもらうだけ。しかしリゾート地は、その土地の人たちが必ずしも必要としないものを、私たちのために準備してくれるということになるのではないか。それはなんとなく気がひけてしまうのだ。

 

なので、今年の春は沖縄に行くと決めたものの、どこに行って何を見てどう振る舞うべきなのか、よく分からないままにその日を迎えてしまった。ビーチを見ながらオリオンビールでチルアウト…というのももちろん憧れるけど、それだけで終わってしまうのはあまりにも礼節に欠ける。いや、礼節ってなんだよ部外者のその発想こそが自意識過剰だろ。というよく分からない葛藤を繰り返していたのだが、出発直前の数日間はやけに仕事が忙しく、空港ロビーの中でweb会議をやってから搭乗ゲートに飛び込むような有り様。結局よく分からないままドタバタと飛行機にライドオン。朝から何も食べていない脳みそでガイドブックをパラパラめくっている間に、那覇空港に着いてしまった。

 

空港からの大渋滞を乗り越え、レンタカーを受け取り、最初に向かったのは、閉館ギリギリのひめゆり平和祈念館。最初に行くことができて本当に良かった。かつてここで何が起きたのか、「歴史」という大きな文字から溢れ落ちてしまう部分も含めて、幾ばくかでも感じ取ることができたように思う。

私はもう、最初に目に入った女学生と先生の集合写真だけで上手く言葉が出てこなくなってしまった。しかし戦争の背景から女学生たちの足取りを丁寧、簡潔に説明してくれる構成になっていたので、子供たちにも十分理解できたのではないかと思う。地獄のような、というか地獄そのものの記憶を掘り起こし、貴重な証言として残してくださった皆さんに心から感謝したい。建物のつくりや美しい庭にも鎮魂の意を感じさせるものがあったように思う。建物を出るとふわっと気持ちのよい風が吹いて、気がつくと自然に大きなガマに向かって手を合わせていた。スピリチュアルな瞬間とは無縁の人生だけど、あの時だけは何かがあったように思う。今思い返しても、いきなり旅のクライマックスが来た感じがある。

 

再び那覇方面へ北上し、守礼そばで沖縄そばを食べる。バタバタだった本日、私が初めて口にする固形物。上の子がから揚げ入りのソーキそばを頼んでいて内心センスがないなと思ったが、実に美味しかった。

海を横目に宜野湾までドライブし、ホテルにチェックイン。目の前の居酒屋で泡盛を飲んだ瞬間に、ようやく緊張が解けて沖縄に来たぞという実感が湧いてきた。私が暮らしてきた日本とはかすかに、しかし確実に違う風景と空気がアルコールをまろやかにしてくれる。明日からは何が見れるのか。iPhoneのスピーカーからVIDEOTAPEMUSICを流しっぱなしにしてオリオンビール泡盛の夜が更けていく。

 


2日目

翌朝は朝イチでシュノーケリングをするために読谷にある通称青の洞窟へ出発。子供のリクエストで予約していたこの旅唯一の予定。なんてリゾートっぽいイベントだろう…と思いきや、嘉手納基地前の道路で渋滞にハマる。遅刻するよ…とジリジリしていると、突然耳をつんざくような破裂音。そして頭のすぐ上を戦闘機が通り過ぎる。確かにテレビや映画で聞いたことのある音ではあるが、ボリュームが想像の3倍くらいデカかった。というか、この人生であんなに耳に突き刺さってくるノイズを聞いたことがなかった。半ば呆然としたまま渋滞の先頭に到着すると、大破したフェアレディZが車線の真ん中に進行方向と逆向きに止まっていた。そして傍には見慣れない銀色のパトカー。これはミリタリーポリスというやつだろうか。恥ずかしながら、こういう車が街中を普通に走っていることを知らなかった。ちなみにこの旅では交通事故を4件くらい見たのだが、その内3件に銀色のパトカーがいた。後に調べたところ、ミリタリーポリスは米軍関係者が関与した事件事故にしか関与できないようなので、それらの事故の当事者がそうした属性の人たちだったということか。

 

さてシュノーケリングである。風が強いので、洞窟の中は無理、と言われていたのだけど、ギリギリいけるようになったとのこと。家族4人と若いインストラクターで、岩場を伝い歩いてダイビングスポットを目指す。しかし海に入ったことがほとんどない子どもは、波が打ち寄せる度に身体を持っていかれそうになる。その光景を見ながら、この海に呑まれていったというひめゆり学徒隊の姿が思い浮かび、今ここで海の美しさを謳歌できることの有り難さを噛みしめずにはいられなかった。

さて生まれて初めてのシュノーケリングを優雅に堪能するには、ちょっと運動神経が足りなかったかもしれないが、こんなに美しい海でお魚さんたちと一緒に泳ぐなんて。かつて水泳部だった私の魂が震えた。しかし後でインストラクターさんが撮ってくれた写真を見たらあまりの必死な形相に、背中が震えるほど笑った。

 

シュノーケリングで腹ペコになった身体を引きずってたどり着いたのは義兄に教えてもらったパンケーキ屋さん「ヤッケブース」へ。米軍ハウスを改装したクラシカルな佇まいのお店は、HOSONO HOUSEですか?それとも天国なんですか?というくらいに穏やかな日差しが差し込み、店員さんはにこやかで、お客さん(日本語を話す人はいなかった)も楽しそう。もちろん気取らず、はしゃがず、地に足が着いた感じのパンケーキも最高。まごうことなき人生ベスト・パンケーキ・エクスペリエンス。しかしこの光景もこの土地がかつてアメリカの一部となっていた歴史が生んだもの…と思わないといけないのだろうか。いや、これは異文化との共存が生んだ最善である、と思うことにしたい。

 

心身のエナジーをチャージしたところで、砂浜を見に行こうという話になる。車でさとうきび畑をウロウロと迷いながら近くのビーチへ辿り着く。肌寒くて風が強い、誰もいない、しかしとにかく青い海。Googleマップを開いて、ここをまっすぐ行くと、東京よりはるかに近い場所に、台湾や上海があるということに、ここがどこなのかよくわからないまま興奮する。浜辺にあった、なんの説明も書いてない石垣の上に登り、遠くで馬が観光客を乗せている姿を眺めた。

 

これだけ盛りだくさんでもまだお昼。早起き最高。とりあえず一回ホテルに戻るべ、と宜野湾方面へ南下。子供たちが爆睡していたので、ちょっと道を逸れて普天間基地の周りを走っていく。基地の様子が全然見えないくらい街中にある、ということがわかる。

 

ホテル着。こんなところまで仕事の電話をかけてくる奴らにムカつきながらメールを片付ける。しかしこの部屋、ガラス張りのシャワールームから海が見えるし、小さいベランダもついてるし、今からここでスパークリングとか飲んで昼寝したら最高だろうな…と思ったけど、いややっぱり街に出たい。いろいろ見たり聞いたりしたい。えいやっと那覇市内に繰り出す。

 

訪れたのは首里城公園。正殿が焼失してしまったのは本当に残念だけど、それでも訪れる価値のある場所だったと思う。日本の城はいかにも軍事拠点として物々しく閉ざされた雰囲気があるけど、首里城は柔らかく曲がっている動線となだらかな丘陵の印象のせいか、この土地を訪れた者を歓迎するような空気を勝手に感じた。琉球国王が住む王宮という役割からくるものなのか。隣に見える大学の建物も琉球の伝統を感じさせる。建築においても独特かつ折衷的な文化があるのだな…と売店で買ったブルーシールアイスを食べながら一人で納得。眼下に広がる街並みを眺めながら、ああ見るもの全てが新鮮だ…と感慨にふける。チョロすぎる観光客、という気もしなくはないが、まあいいじゃないか。

 

そのままの那覇中心部、国際通りへ。桜坂劇場でインディペンデント・カルチャー聖地巡礼。なんなら映画も見たいしレコードも買いたい…と思うも、そんな時間ないでしょ!と我に帰り、雑誌一冊で我慢。周囲を散策。名古屋で言えば大須のようなムードもあるが、もっと光と陰のコントラストが濃く、深い。不用意に写真を撮ってはいけない仄かな緊張感がある。そして私の街では最近あまり見かけなくなった、地域猫もたくさんいた。飲み屋の軒先でご飯を行儀よく待っている子、日当たりの良い場所を占有して昼寝をキメる子。みんな我がもの顔で生きているところがいい。これからもどうかのびのびと、たくましく愛されてもらえるように。

 

夕飯はカゼノイチの上野さんがわざわざDMで教えてくれた琉球家庭料理の店へ。佇まいもばっちりでこりゃ最高じゃない?と思ったら、夜は予約だけとのこと。腹ペコ四人組、流浪の旅へ。那覇の市街地を車で流したり、無計画に海の近くへ行ってみたり。下の子は空腹と親の無計画ぶりに嫌気がさしてホームシックになっている。結局、大きく北上して北谷町の洒落たカフェやバーが集まるエリアへ辿り着き、姉から聞いていたトランジット・カフェへ。これがまた良きお店だった。大人向けなのに子どもがいてもOKな開放感。周りはみんな大きな声でイングリッシュをスピークしてたけど、私も子供も妻も萎縮されることもなく楽しく過ごす。唯一の心残りはワタシもアルコールを摂取したかった…ということだけ。スーパーで買ったオリオンビールと久米仙を部屋でキメる。

 

 

 

3日目


この日はちょっとダラダラするのもいいかなと思っていたが、娘から「は?美ら海水族館に行かないの?」という恫喝に近いリクエストがあり、ならば朝イチで行くしかないと早起き。有能な執事としてひとりで朝食を仕入れに近くのファミマへ行くと、沖縄限定おにぎりがたくさんあるじゃないか。沖縄そばまで。観光客向けなのかもしれないけど、ちょっと上がる。あぶらみそのおにぎりがおいしかった。

 

美ら海のある本島北部までは高速道路で移動。北上するごとに周囲の森が深くなっていく様が圧巻。本土とは異なり、強い生命力を感じさせる濃い緑、奔放なくらいモリモリと伸びる樹々にまたも興奮する。こりゃいつかカヌーで川下りがしに来なきゃじゃん…。

高速を降りてからはひたすら海沿いの道を走る。美しい海の沖合いをよく見ると、土砂を採掘・運搬するような船がたくさんいる。そして陸地側に目を向けると大きな土砂採掘場がいくつも。そこから出てきた何台目かのトラックとすれ違った時、これが辺野古を埋め立てるための土砂であることに気付く。

 

まだ時間に余裕がありそうだったので、瀬底島へかかる橋を渡り、会社の大先輩が会員権を購入したという高級ホテルの周りをぐるっと走る。値段を調べる気にもならないくらい素敵なホテルだった。


ようやく美ら海水族館に到着。90年代の、日本がまだ景気が良かった頃の建築という感じのコンクリートのかたまりぶりに圧倒される。解説によると1975年に開園後、2002年に建て替えられたものという。ということは沖縄でサミットが開かれた頃に作られていたわけですね。沖縄を第二の故郷と呼んだ小渕恵三が総理、普天間基地の返還を決めた総理大臣である橋本龍太郎が沖縄担当大臣として再入閣をした頃のはず。採算はあまり考えなかったであろう威容を眺めながら、いつから日本の政治家は沖縄に対してこうも冷淡になってしまったのか。いや、そこから沖縄以外の国民にも冷たくなったよな…などと思う根暗オジ。そういえば沖縄のATMでは守礼門が描かれた2000円札がよく出てきた。あの発行を決めたのも小渕恵三だったはず。


しかしもちろん、水槽の前では生物大好きおじさんとして、メガネモチノウオおもしれー!とかジンベエザメすげー!ホホジロザメこえー!ってことしか考えられなかったし、しばらく住めるな…とすら思った。ジンベエザメのいる水槽を上から覗かせてもらいながら、こういう施設の裏側を見せるって、隅々までの管理レベルに自信がないとできないことですよね、と感服した。そしておそらく、我が家のハートを最も強く掴んだのは、別館にいたマナティーだろう。最初は古い水槽の排水溝をのゴミを掘り続ける姿にちょっと引いたけど、エサのレタスを手で口に押し込む姿がウチの兄ネコが焦った時のしぐさにそっくり。しかも子どもマナティーの名前はキュウちゃん。同じ名前じゃないか。

 


実はこの時、根暗オジとして水族館に行くことには、ちょっとした抵抗感があった。その理由はちょっと前に読んだ「イルカショーのイルカはひどく虐待されていて、寿命も短い」という趣旨の記事。ええ!あんなに楽しいショーの裏側はこんなに過酷だったの…?と子供の頃からの思い出も色褪せるような気持ちになっていたのだ。これはさすがに子どもに言うのは気がひけるので黙っていたけど。ただ、美ら海水族館ではイルカも含め、展示されている生き物たちをいかに大切に育てているか、その難しさも含めて詳しく分かりやすく説明した資料を見ると、とてもあの記事に書いてあったような現実があるとは思えなかったことに安心した。もちろん、アニマル・ウェルフェア(という概念が海の生き物にあるかどうかはわからないが)という観点を広く捉えた時には、人間に飼育される野生動物が幸せなのか?という問題からは逃れられない。そう簡単に白黒はっきりつくような問題ではないのだろうけど、とりあえずこれからも動物園・水族館ファンとして注視いこうと思った次第。

 

 

美ら海水族館の駐車場で、本日の昼食の場所をHanakoの沖縄特集号を見ながら家族会議。車で30分ほどのオシャレカフェに決める。湾の深く、山と海が穏やかに合流する場所に建てられたお店で家庭料理をいただきながら、次の目的地を検討。

候補は二ヶ所。一つはでっかい網の中で鳥が放し飼いにされているという鳥好きにはたまらない、しかし家族はまったく興味がない動物園ネオパークオキナワ。もう一つは辺野古の基地建設地。これも子どもたちが興味があるかどうかは微妙。迷いに迷って、ネオパークの入口で写真だけ撮ってから、辺野古へ向かう。

 

高速のインターチェンジを出て山道をしばらく走ると、この数日ですっかり見慣れてしまった米軍施設のフェンスが視界に入る。キャンプシュワブだ。しかし他の基地と決定的に違うのは、フェンスの前、5メートルおきくらいに立つ大勢の警備員の物々しさ。警察でも米兵でもない、民間の警備会社のガードマンだが、明らかに普通の工事現場にいる人たちとはテンションが違う。実は前日、道を間違えて嘉手納基地の入場ゲートをくぐりそうになってしまったのだけど、ここで同じことをやったら即刻連行されることは間違いない。後部座席の小学生は完全に怯えている。そのまま車を走らせて、人が誰も歩いていない市街地を抜けて海岸方面へ。公園に車を止めようとしたけど、基地とは別の工事のせいで行き止まりになっていたり、駐車場が閉鎖されたりしている。これは勝手な想像だけど、私のような者が埋め立て現場に近づかないために行われている工事という気がする。多分ここはOKだろうという場所に車を止めるが、子どもは怖がっておりてこない。すぐ戻るつもりで、一人で静かな入江の横を通って海岸を目指す。たぶん100年前から変わらない景色の中に、大きな鵜が羽を休めていた。人慣れしていないようで、私の姿を見るとどこかに飛んで行ってしまった。申し訳ない。そのままどんどん歩いていくと、ちょっとした砂浜に出る。そこには基地に反対する人たちがつくったテントが設置されており、中で女性が訪問者に活動の説明をしているようだった。私も話を聞いてみたかったが、家族もいるので断念。そして漁港のはるか先には、埋め立ての土砂を運ぶトラックと巨大なシャベルカーの影が小さく見える。あれが現場か。もちろん遠くからちらっと見たところで何が分かるわけでもないし、ここに来たからと言って、どちらかの立場を強くしたというわけでもない。むしろますます分からなくなってしまった感すらある。ただ、観光以外の大きな産業がないこの土地に、基地という巨大な踏み絵を迫ることの残酷さ(私もそれを迫っている当事者である)の解像度だけは高まった。ゆえに立場を問わず、真剣に考えて行動している人たちを茶化すような人間のことは今までも信じられなかったけど、これからも絶対に信じないからな、という気持ちを強くした。

 

すっかりシリアスな雰囲気になってしまったので、甘いものでも食べに行こうじゃないかとドーナツショップが併設されている映画館を目指してゴザへ向かう。雨の中、傘も差さずにさまよい続けてようやく見つけたお店はまさかの臨時休業。しかし、ゴザは国際通りよりも一層陰影のコントラストが強い場所で、強いインパクトを受けた。完全に80年代以前のアメリカとしか言いようがない大通りと、昭和の日本を煮しめたようなアーケード街の表裏一体感。ウエノさんに教えてもらったタイ料理屋さんにもいつか絶対行ってみたい。

 

甘いものが諦めきれない私たちは、土砂降りの中アメリカンヴィレッジに向かい、自転車屋さんに併設されたコーヒーショップにイン。コーヒーもドーナツも美味しく、店員さんもとても感じが良かった。雨も上がり、すっかり楽しくなってマルシェバッグを買ってホテルに戻る。

 

沖縄最後の夜は、この日到着した姉家族とジョイン。ホテル前の居酒屋で軽く飲んだ後、スーパー・サンエーで買い出しして部屋飲み。結局三日間、毎日ここで買い物した。スーパーでの買い物すら最高に楽しかった。

東京に住む姉家族と沖縄で会う、というのはなかなか奇妙な感じだったけど、本土とは違う空気の中でしか生まれないグルーヴがあったのか、はたまたただ雑談が好きなだけなのかわからないが、日付を超えてからのお開きとなった。自分の部屋に戻る前に、このベランダから見る夜景も見納めか、と軽いセンチメント。そう言えば初日にあの古墳のようなものはなんだろうと思っていた建造物は大きなお墓だった。しかもそれが街中にたくさんあるというのも衝撃だった。が、死者と生者を引き離さないという文化は、単純にいいことのように思える。

 

 

 

4日目


午前中の飛行機に乗るので、早起きして景色を目に焼き付けようとカーテンを開けると、海の向こうにうっすらと虹が。レインボー・イン・マイ・ソウルと俺の中の元春が歌い出す。同じく早起きした下の子とホテルの前にある海沿いの公園を散歩。風が強く、波がざぶんざぶんと歩道の方まで打ち寄せてくる。こいつはこんなに高い波を見るのも、強い風に吹かれるのも初めてだろう。そしてここに住む、ホテルのベランダから毎日その姿を眺めていた地域ネコの皆さんにお別れの挨拶。毎朝エサやりさんが来るのを行儀良く、根気よく待っている様子がいじらしかった。どうかお元気で。

 

結局今日が一番晴れてるじゃん…と思いながらホテルをチェックアウトしてレンタカーを返す。大渋滞だった到着時と違ってあっさりスムーズに。ありがとうカローラスポーツ。いいクルマだったぜ。

搭乗手続きまでの時間があったので最後のご飯を。沖縄そばと迷った末にA&Wをキメる。ルートビアの洗礼を受ける。薬草最高。きっちりおかわりも頂いた。

 

飛行機の中で旅を反芻。この旅を一言で表せば、自分が何も知らないということを知った旅、ということになるだろう。遠いとは言え、多くの人が訪れる沖縄。同じ日本の沖縄。果たしてそこに驚くようなものがどれくらいあるのだろうかと思っていた。しかし結局のところ、今まで訪れた外国よりも驚いてばっかりだったかもしれない。海の青さ、緑の深さ、食文化、新聞、軍隊や警察との関係。全ては頭の中で分かっていたつもりになっていただけじゃん…と。もちろんたった3日いただけの話なので、この感覚すらもただの錯覚かもしれない。が、少なくともそう思えるだけの謙虚さは学べたのではないだろうか。ここにはもっと知りたいことがある。また来れるように貯金しよう…と思いながら、愛猫が待つ自宅に向けてセントレアから車を走らせた。