ドリーミー刑事のスモーキー事件簿

バナナレコードでバイトしたいサラリーマンが投げるmessage in a bottle

佐野元春 45周年ヒストリー あとがき

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24年12月某日。ちょうど一年前。私はソニーミュージックの会議室にいた。

この歳になると身の回りで起きるたいていのことには驚かなくなってくるものだが、さすがにこれは想定外の事態。何かの間違いではないかという気がして、高層階から見下ろす六本木の夕暮れに何度も目を泳がせていた。レコード会社に呼ばれたアマチュアバンドの気持ちはこんな感じなんだろうか。

 

この日の議題は、佐野元春デビュー45周年アニバーサリーの特別企画として展開するヒストリーの連載について。佐野元春の記事はこれまでも書かせてもらったことがあるので、彼がソニーという会社にとってどれだけ特別なアーティストであるかということは分かっているつもりだ。そもそも私のような者の都合に合わせて休日出勤してくれたことからも、otonano編集部の気合いが伝わってくる。

こんな仕事を依頼してもらえるなんて…と光栄に思いつつ、月に一回・一万字というボリュームと責任の重さに怯んだ。途中で書けなくなったらどうする?リライト地獄になったら?

しかし結局のところ、断るという選択肢は、たぶん最初からなかった。最も大きな理由は、佐野元春というアーティストの奥深さ、面白さが、新しい世代はもちろん、古くからのファンにもまだ十分に伝わっていないのではという意識が自分の中にずっとあったから。もしかすると自分ならそこに新しい光を当てることができるんじゃないか、という書き手としてのある種の野心があったのだ(もちろん、その気持ちが高揚ゆえの勘違いであることにはすぐ気づくことになる)。

 

とはいえ実は、この時点で全9回を私が担当するかどうかは確定していなかった。数回ごとに書き手を分けるという可能性もあるとのことだった。でも私はどうしても最後まで書きたかった。それは新しいMac Bookを買ってしまったからではない。GREAT3世代の私が一番リアリティを持って書けるのは、キャリアの後半以降、つまりコヨーテバンド以降のことだと思っていたからいう確信があったら。なんとかそこまで連載を続けたい。

 


PART1

そのためには一回目で、読者に私の文章に納得してもらう必要がある。そしてもし途中で交代するならば、言いたいことは全部を注ぎ込んでおきたいと、ほぼ2ヶ月を費やして完成させたのがこの原稿。さすがに全部を注ぎ込みすぎた、と一年前の自分に突っ込んで言いたい。

ここで言いたかったことは大きく3つ。

・ロックでありながら、歌詞が2025年の倫理観で見ても違和感がないほどのジェントルネスに貫かれていたこと

・幻想を売り物にしたシティポップなんかよりもずっとオシャレだったってこと

・80年代という社会の変革期にに呼応したアーティストであったということ

だから佐野元春は今でもリアルで面白いアーティストなのだ、ということだ。

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PART2

「VISITORS」、「CAFE BOHEMIA」「ナポレオンフィッシュと泳ぐ日」という海外三部作を産んだ伝説的な時期。

果たしてこの時期の佐野元春は本当に一人だったのだろうか?絶対影武者がいただろと思いながら異常なまでに多様な活動をまとめた。

子どもの英検試験が終わるのを待ちながら、資料を広げてレコーディング・メンバーの経歴を整理していた記憶もある。

この中でも特にこだわったのが「カフェ・ボヘミア」期におけるイギリスのインディー・ミュージックとの共鳴。もうちょっと身も蓋もない言い方をすると、音楽を大して聴いていない奴らに限って言う「佐野元春はスタカンのパクリだろ?」という薄味すぎるイヤミに対する正面からの答えを示したかったのだ。そんな私の思いに力をくれたのは、カッコいい先輩方から頂いた「佐野元春のことは昔から好きだったから、ドリーミーの記事も楽しみにしてる」という言葉と、佐野元春フリッパーズ・ギター、そして佐野元春に等しい熱情を持って描いてきた北沢夏音さんという偉大なライターの存在。

今までの俺は間違いじゃない、と勝手に思い込んで書いた。

 

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PART3

ここからは90年代。以前、otonanoに佐野元春の90年代に特化した特集を、そして「THE CIRCLE」のボックスセットにも解説を書かせてもらったことがあるので、この10年にはある程度の土地勘はあった。

しかし、この時期は佐野元春にとって公私共に大きな転換期とも言うべき時期。調べれば調べるほど、聴き込めば聴き込むほど、より繊細に描かなければ・・・という思いが募り、結局ギリギリまで粘った(が、締め切りは常に守るのがサラリーマンとしての矜持)。24年12月に観た「THE CIRCLE ツアー」のファイナル公演を映画館で見た時の巨大な感動に突き動かされたところも大きかった。

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PART4

1995年から1999年の5年間。

この時期最大のトピックはインターネットの導入と、同時代に現れた年下のミュージシャンとの交流。私が音楽を本格的に聴き出した時期ということもあり、時代感覚には自信を持って書けるようなってくる。

当時の雑誌も改めて読み込んだけど、GREAT3をはじめ、いわゆる渋谷系以降のアーティストの発見をとても嬉しそうに語る佐野さんがチャーミングだったし(そしてGREAT3をソニーからデビューさせようと動いていたということも知った)、逆にその語り口が80年代の孤高を物語っていた。この数年で佐野元春作品と若手インディバンドの距離がまたぐっと縮まっている感じもあるので(田中ヤコブの新曲聞きました?)、またTHIS!みたいな企画が観れないかな…と密かな夢を抱いている

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PART5

おそらく佐野元春のキャリアの大きな転機の一つは、97年のアルバム「THE BARN」だったのではないか。シーンに対して20年早かったサウンドは、バンドとしての到達点でありながらも、ポップスターとしての側面を後景化させるものだった。その結果が04年のソニーからの独立に繋がった気がしてならない。ソニーから独立する話をソニーのweb媒体に書くというのはなかなか痺れるな・・・と思いながらどちらの見方も示しつつ、率直に書き進めた。修正の依頼は一切なかった。

それはともかく、この時にDaisymusicを立ち上げたからこそ、今の佐野元春があると私が確信しているのは、同じ時期にインディーレーベルを立ち上げたマイ・ヒーロー曽我部恵一の存在があるから。リアルなロックを鳴らし続けるには、灼熱の太陽と厳しい北風を感じる路上に出る必要があったのだ。というか、それを楽しめる人しか前に進めないのがロックシーンというものなのだろう。名盤「THE SUN」を仕事で訪れた豊洲から東京駅に向かうバスの中で聴いてちょっと泣いた。ここは子供の頃によく通った道。大人になってよかったと思った。

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PART6

2005年から2009年。いよいよコヨーテバンドの原型が出来上がる時期。私がリアルタイムで佐野元春のニューアルバムを聴き出したのもキャリア屈指の名盤「COYOTE」からである。以前、楽屋でお会いした際に「私はGREAT3の高桑圭が佐野元春とやるの?と思って聴き出したんです」と佐野さんに伝えたら、とても嬉しそうな表情を浮かべていたことを覚えている。よく考えてみると佐野さんにはちょっと失礼な物言いなんだけど、彼がコヨーテバンドのメンバーを誇りに思っていることがひしひしと伝わってくる瞬間だった。ちなみに彼らが初めてステージに現れた様子(佐野元春以外には許されないやり方だろう)が記録されたDVD「星の下 路の上」はザ・ホーボー・キングとの演奏も最高だから全員観てほしいです。

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PART7

30周年、東日本大震災を経てリリースした「ZOOEY」。コヨーテバンドと録音することを前提に作られたバンドにとって事実上のファースト・アルバムで獲得したものは、現実社会に立ち向かい、リスナーの人生に直接語りかける肯定性だったように思う。執筆中もどんどん世界は悪くなっていったけど、このメッセージに救われたし、今も救われている。時代は回る。巨大な悲観主義に飲み込まれないように。大人ならば特に。

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PART8

2015年から2019年。全9回のうち、どれか一回だけを担当できるとしたら迷わずこの5年間を選ぶというくらい、自分の人生にとっても大切な季節。ドリーミー刑事というふざけた名前が実体を身につけていった時期でもある…というと急にくだらないものに思えてくるが、とにかくストリート・デモクラシーと東京インディーの出会いは私の人生を変えた。そして政治の季節が終わり、敗北感の中で聴いた「BLOOD MOON」の感動は私の中で今も新鮮に生き続けている。なおこの項では絶対に(((さらうんど)))のことも触れたいと思い、長野までライブを観に行って、面識のないXTALさんにコメントを依頼したのも良い思い出。その場で「佐野さんのためなら」快諾してくださる姿に、俺もこれから絶対に人には親切にしようと心に誓った。

https://otonanoweb.jp/s/magazine/diary/detail/11342?ima=2220&cd=annex

 


PART9

2020年から2025年。とうとう記事が現実に追いついた。未だ記憶が生々しいコロナ禍でのアクションは、迅速にして大胆。佐野元春くらいのビッグネームならば、あの時期はじっと静かに待つという選択肢もあっただろうが、アーティストとして、あるいは多くのスタッフやメンバーを率いる棟梁としての自身がそれをよしとしなかったのではないか。40年間のアーティストとしての経験、20年近いレーベル経営の勘があったからこそできたことだろう。佐野元春という人の経営者、リーダーとしての側面を追う本があったら絶対読みたいと思った。

そして45周年アニバーサリー・イヤー。全9回を通じて、私が常に想定していた一番の読者は当然のことながら、佐野元春を長年にわたり支えてきたファン。皆さんが作り上げてきた45年はかくも偉大なことだったのです、ということを一番最後にその列に加わった者の目線で、敬意をもって示したかった。その気持ちはSNSなどでもらうリアクションに触れるたびに強くなり、最終回はそれをしっかり伝えようと、ツアーファイナルも見届けさせてもらった。終演後、最終の新幹線に向かって走りながら見た、BUNTAIから出てきたファンの皆さんの笑顔はずっと忘れないと思う。

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私は本業が別にあることもあり、いつも原稿を書く時は、これが最後になるかもしれないと思って取り組んでいる。思い残すことがないように、嘘を書かないように。しかしさすがにこの規模の仕事をすることはまさに最初で最後だろう。果たして佐野元春の45周年に相応しい仕事とはどういうことか。自問する日々だったけど、結局それは全力を尽くして、正直に書くということだけだった。果たしてこれがそういう文章になっているか、今はまだ振り返ることができない。でも一つ言えることは、この先もパッとしない人生が続いたとしても、この2025年の経験が、私をずっと照らしてくれるような気がしている、ということだ。このような貴重な機会を与えてくれたotonano編集部の安川さん、監修してくださったソニーミュージックの福田さんに改めてお礼を言いたい。特に最初の方はめちゃめちゃヒヤヒヤされていたのではないかと思う。また同企画のインタビュアーとして毎回素晴らしい仕事をなさっていた大谷隆之さんにも、記事を通していつも激励されている気持ちで、BUNTAIでご挨拶できて本当に嬉しかった。そしていつも編集部を通じて励ましのコメントをくださった佐野元春さん、超多忙の現場で親切にしてくださったDaisymusicの松永さんにも心からの感謝を。みなさんありがとうございました。

この先ももっと、魂をぶち上げていきたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2025フジロックの記録

▪︎はじまり

フジロック。毎年胸がときめくが、いざ行くとなると金も時間も体力も消耗する。どちらかと言うとそのリソースは小さなライブハウスで新しい表現を探すことに使いたいと思っている私はそれほど積極的ではなかった。しかし今年のフジロックは去年12月、某所でお会いした鳥居真道さんに「来年、トリプルファイヤーが出たら行きますよ!」と伝えたところから始まった。ご本人は覚えてないだろう。しかし私は酒の席での軽口も(できるだけ)守る男だ。しかもその日は約一年にわたる佐野元春ヒストリーの連載が決まった時でもある。第一弾の出演者と日割りが発表された時点で、三日間行くことは決定していたのだ。おまけに東郷清丸まで追加されたのだから、今年のフジロックは私のために開催されると言っても過言ではない。過言か。

しかし三日間キャンプはさすがにキツい。宿を抑えようとしたけど、公式ツアーは抽選も先着も全滅。いろんな宿に連絡してみても一見さんお断り。そして僕は途方に暮れた。今までキャンプしかしたことないからな。いやしかし私には前から試したいことがあったじゃないか。それはキャンピングカー。幸い近所にレンタカー屋があったので、思い切って予約。これで宿問題は強引に解決。

俺は行くんだフジロックに…!という心地よいプレッシャーは私の生活を変えた。体力をつけるために、お気に入りのDEATHROのTシャツを着るために、4キロのダイエットを成功させ、出発の日を迎えた。

出発にあたりあらかじめ整理したミッションは以下の通り。

・親子三人、無事に帰る

・金曜朝のトリプルファイヤーから日曜夕方の佐野元春、深夜の東郷清丸をしっかり観る

・娘の観たいアクトは全部観る

音楽好きとしての欲求を満たすよりも、安全・安心なフジロックを過ごすことを第一優先に。

俺はやるぜ俺はやるぜ…。

 


DAY0

7月24日。午前中で仕事を終えた私はキャンピングカーを借りにレンタカー屋に向かう。デカい。分かっていたことだけどあまりにもデカすぎる。「じゃ、楽しんできてくださーい」と親切な店員さんに見送られて出発。しかし、3トンの車体を止めるブレーキは緩く、ハンドルは甘い。いつもの道は怖くて通れず、3倍くらいの距離を遠回りして家に着く。

ギリギリまで荷物を準備して23時ごろに就寝。3時に起床。不思議そうにしてる猫に申し訳ない気持ちで荷物を積み込み、3時40分に出発。10時には着くだろうと走り出したが、トラックが横を通り抜けるたびに車体が揺れ、カーブを曲がるたびに荷物が倒れ、段差を越えるたびに臀部を蹴りあげるような振動が突き抜ける。こんな車で本当にたどり着けるのかと涙目になりながらまだ暗い東海環状道を走る。しかし俺は絶対に11時半にはフィールド・オブ・ヘブンに着いていなければならない。全集中で頑張っていると不思議なもので、松本市をすぎたあたりで車の特性にも慣れ、なんならちょっと楽しい気持ちになってきた。しょぼい音質のカーステでキャロル・ケイのプレイリストを聴いた。

 


DAY1

予約していた駐車場に着いたのは10時半。予定より30分遅れ。最深部のフィールド・オブ・ヘブンに行くのはかなりギリ。turn岡村詩野編集長から「配信観るからトリプルファイヤー最前を目指せ」というLINEが来たが、すみません無理です。数百円をケチったことを後悔しながらリストバンドの列に並び、想像の3倍くらいの暑さと会場のバカ広さにドン引きしてる妻子を宥めつつ、恥ずかしいくらいの早歩きでひたすら奥へ。全身から吹き出す汗が尋常じゃない。ようやくステージが見えてきたのは開演3分前だった。

大好きなジョージ・ウィリアムズの前説の後に登場したのはトリプルファイヤー。来たぜ鳥ちゃん。願わくは俺もビールを飲む時間がほしかったところではあるが、「お酒を飲むと楽しいね」には間に合った。ベースの山本さんは全身で喜びを表現し、さすがの吉田も高揚を隠しきれずMCで普通にいいことを言ってしまっている。が、この日の演奏も野心的かつ仕上がりがバッチリ。繰り出される変態アフロビートを浴びながら25年前にここでフェミ・クティを観たことを思い出した。あの時会場で見かけたドイツ語の先生が単位くれなくて留年しかけたんだよな。「次やったら殴る」の尋常ではないアレンジ(興奮しすぎてあんま覚えてない)の後に披露されたのは山下達郎RIDE ON TIME」。これをサウンドチェックではなく最終盤にぶち込んでくる不敵さ。思わず達郎が吉田を殴る姿が目に浮かんだが、その後の「スキルアップ」のバキバキすぎるアレンジに達郎の顔はどこかに吹き飛んだ。不敵すぎるだろ鳥居ウォン…。これでミッションの一つ目を達成。

 

そのままOrange echoでSummer eyeを観たかったが、いきなりの長距離高速移動に疲れた娘がぶっ倒れそうだったので、昼食タイムに。昼間はやめておこうと思っていたビールを飲んでしまう。信じられないくらい美味かった。

 

せっかくだから娘にレジェンドオブロックンロール・甲本ヒロトを見せておくべきじゃないかという意見が妻から出て、グリーン・ステージでROUTE17 ROCK N’ ROLL ORCHESTRA を観る。ホット・ハウス・フラワーズのリアム・メンリィが歌うThe Whoのカバーに感動してたら山下久美子が登場。佐野元春が提供した「So Young」を歌った。佐野元春も若いけど、山下久美子も若い。本当にすごいことだ。そして松葉杖で登場したヒロトはなぜかTシャツを履いていた。とにかく声がデカくて歌が上手い。娘はちょっと怯えていた。

 

ホワイトでECCA VANDALが見たかったが、腹減ったというので音漏れを聴きながらところ天国でかき氷などを食べる。とにかく暑い。まだ会場での過ごし方がつかめない。

 

気づけばもう16時近く。そろそろビシッとライブが観たいぞと西ニジェール出身、MDOU MOCTARへ。サウンドチェックからビンビンにエキゾチックなグルーヴが炸裂。ある意味、トリプルファイヤーと地続きの音楽とも言える。が、彼のサウンドからは快楽だけではなく、苛立ちや怒りのような感情も伝わってくる。言葉も文化も共有しない初対面の私たちが音楽を通じてどれだけのものを共有できるのかということについて考えさせられた。演奏は激しくタイトだが、MCでは日本に来れたこと、フジロックの観客に感激していることを素直に語っていて、遠くから来たお客さんがこの国を好きになってくれるのって、やっぱりシンプルに嬉しいことじゃない?と思った。


そしてグリーンに戻ってHYUKOHとSUNSET ROLLER COASTERからなる韓台混合バンドAAAを。ちょうど夕暮れにさしかかったところで聴く、メロウなサウンドにウルっとくる。それにしてもグリーンステージの音の良さは本当に格別。どこにいても楽器一つひとつの音がニュアンスまで含めて伝わってくる。そんな環境で聴く名曲「Young man」の高揚感たるや。ふくよかなアナログシンセの音を聴きながら、これはクラフトワークが下敷きだということにようやく気づいた。後半になって映し出されたスクリーンの中には、思い思いの格好したチャーミングな若者たち。こんなお兄ちゃんたちがこんなスケールのでかい音を鳴らすとは。ますますグッとくる。あと違う国の若者がコラボレーションしてるのってやっぱりにいいよね。みんな仲良くしようぜ。

 

そして19時。待たせたな、娘。この日彼女が唯一楽しみにしていたVaundyの登場である。俺もちょっと好き。音源と寸分たがわぬボーカルと演奏、クリアなサウンドはさすが。「フジロック、おまえらほんとに踊れんの?気取ってるだけじゃねーの」っていうMCにも痺れた。が、、コーラスや鍵盤系の音など、あまりにも生ではない音が多すぎて、ライブバンドとしての迫力に欠ける。せっかくドラムがBOBOなのに。残念ながらファン以外のオーディエンスを巻き込むところまでには至ってなかったように思う。めちゃくちゃ売れてるわけですし、こういう場では日本代表としてもっと無茶していいんじゃないか。機材トラブルでスクリーンが映らなかったのは気の毒だったけど。ちなみに娘から「恥ずかしいから踊るな」と厳命されたので、直立不動Vaundyでした。

 

さあここから佳境。TYCHO、Ezra、Suchmos、Fred again…、のろしレコードが目白押し。なんですけど、我々はここでいったん車に戻り、お風呂タイム。普通の人から見れば気がふれてると思われるかもしれないが、体力のない娘を休ませて、心置き無く本命に全力を注ぐにはこの選択が正しかったと信じている。会場を離れて電波が良くなったところで、otonanoで連載中の「佐野元春ヒストリー PART4」が更新されたことに気づく。毎回気合い入れて書いているのでみんな読んでほしい。

 

大人だけでふたたび会場に戻り、RED MARQUEE へ坂本慎太郎を観に行く。4年前に来たコロナ厳戒のフジロックでは夜の部がまったくなかったので、眠らない会場を歩いているだけでテンションが上がる。いつもは森道すらめんどくさがるフジ初体験の妻は、これ理想の国じゃんと盛り上がっている。ゴミは落ちてない、人は親切、安心感がすごい、と。この景色を4年前のコロナ禍フジロックしか経験していない、今回は留守番の長女にも見せてあげたかったと何度も思う。

 

ヘッドライナーを全て諦めてでも観たかった坂本慎太郎。風呂上がり、寝不足、ちょっと飲んじゃった、というわけで開演前から昇天しかけていたが、完全に召された。ワンマンと違って、前戯なしでダンスチューンをガンガン投入するセットリスト。坂本慎太郎でも気合いが入ることってあるんだなってことが分かる極上のギターソロ。鳥居真道、MDOU MOCTARを観た日をこのギターで締められたのは幸せすぎだろう。誰だギターソロはもう古いって言ったやつは…と思っていたら前方に松永良平さんがいた。さすが。PAブースには大根仁もいた。

 

車に戻って就寝。駐車場を借りたホテルのトイレを使わせてもらえるので飲んでも安心。アミノヴァイタルとよく眠れる薬を飲んで2時半に就寝。ほぼ24時間起きてたな。

 

 

DAY 2

7時半に起床。極端に眠りの浅い私、出先で5時間寝られれば御の字。山の中はめちゃくちゃ涼しくてさわやか。あのいつも苦しめられていたキャンプサイトの灼熱は一体なんだったのか。車についている家庭用エアコンもほぼ使わなかった。


昨日、死にそうになりながらヘヴンまで早歩きした反省を踏まえ、今日は早めに出てオアシスで朝ごはん食べていくのはどうだい?と提案し了承を得るも、スキンケアが終わらない妻から先に行ってくれと言われ、娘と二人で先に出発。そばを食べてたら時間がなくなって、カトパコで盛り上がるグリーンステージに後ろ髪が抜けそうなくらいに引かれながら結局早歩き。もはや恒例のやつ。こんなはずじゃなかったのに…と思いながら汗だくでヘヴン着。しかし鳥居ギャル男は黙ってmei eharaよ。Cellar Records のTシャツ着てる浜公氣ガチ勢でもあるしな。複数回のアメリカツアーを経て太くなったバンドのグルーヴはもはやヴィンテージ感すら感じさせる。新曲も超最高。これはもう次はClairo との並びでグリーントリ前でしょう…と震えていたら、後ろにフェイ・ウェブスターがいた。本当に好きなんだなと胸を熱くしていたらあっという間にファンに囲まれて姿を消した。


カトパコ最高だった〜!と興奮してる妻と合流。そうだろうとも。俺も最高だったけどな。この後はOrange Echoでキセルを…そしてFOHでTHE PANTURASを…と思ったけど、娘を連れては無理。「あせらない・せかさない・いらいらしない」のドリーミー三原則を心の中で唱えて木陰に避難。グリーンの後方で君島大空を観る。俊英揃いのバンドによる鉄壁の演奏は完全にオーバースペックで、この過剰さこそがロックだろう。この過剰さこそがグリーンに立つ者の証しだろうと謎の目線で感激する。

 

木陰にいい場所を取れたので、荷物と娘を残して大人はジプシーアバロン津田大介ジョー横溝、岸本聡子のトークショー、そして春ねむりのライブを観に行く。が、ステージに着くなり苗場でもほとんど体験したことがないレベルの大雨が。雨具を置いてきてしまったため、フェス初心者ずぶ濡れ中年夫婦が一瞬で爆誕。いやワタシ97年の天神山のサバイバーなんですよ…と言い訳してまわりたい気持ちになる。

春ねむりのライブは初めて見たけど、こんなに普通の、どちらかというと繊細で内気に見える若者であることに衝撃を受けた。あの激しいメッセージは、勇気を振り絞って紡いだものなんだなと。反差別、反ファシズムなんて当たり前のことに、貴重な若者のエネルギーを使わせていることに大人として申し訳ない気持ちになった。素晴らしいライブだった。


雷も鳴ってきたので、グリーンに残してきた娘のところに急いで戻る。楽しみにしていたフェイ・ウェブスターも残念ながら素通りせざるを得ない。しかし娘は木の下でしっかりカッパを着てちゃっかりSTUTSを楽しんでいたそうで頼もしい。着替えのない妻は娘といっしょに車に戻るということで、Tシャツを持っていた私は一人で山をのぼり木の影で上半身裸になって着替える。崖の上のポニョおじさん。

 

グリーンステージにはジェイムス・ブレイクが登場。よく考えてみたらこれが今回初めての英米アーティスト。地獄の入口のような低音と、天使のささやきのような歌声。これは電子楽器を使った宗教音楽だ…と子鹿のように心も身体も震えさせる。


神の子ジェイムスのおかげか、雲の向こうに夕焼けが見えてきた。絶好のシチュエーションで山下達郎。グリーン近辺はすごい人。まったく携帯の電波が繋がらず、妻子が会場に戻ってきているのかどうかもわからない。ご多分にもれず、例の一件によるモヤモヤが解消されないままこの日を迎え、家族で観るならしゃーないという言い訳が私のお守りだったのだけれども、もはやそれすらも定かではなくなってしまった。そんな宙ぶらりんな状態で観た山下達郎のライブはかつて二度ほど観た時と寸分変わらない完璧さ。これを4万人近くが一斉に目撃したステージは、間違いなく日本の音楽史の1ページに残る瞬間と言えるだろう。キャリア50年の御大でも観たことがないであろう光景にめちゃくちゃご機嫌だった。しかし例の一件も、この日のしょうもないセクハラMCも、全てなかったことにしてしまうんだから、音楽の力はなんと偉大でなんと恐ろしいことよ。本当に怖い。でも私が一番興奮するのは「更新」なんだなということにも気づき、色々な意味で呪縛が解けるライブだった。観てよかった、と思うことにする。さよなら夏の日。面倒くさいやつだな。ちなみにサウンドチェックのシンセの音で「プラスティック・ラブ」で竹内まりや降臨という展開はなんとなく予想できてしまっていた。


生き別れていた家族とも再会できて、いよいよヘッドライナーのVulfpeck。鳥居ゼミを受講してこの日を迎えた我々、準備は万端。大歓声の中、登場するといきなり人間業とは思えない演奏と美メロが炸裂。オールドスクールのファンクというのは山下達郎と同じなんだけど、この屈託のなさ、底抜けの明るさはあまりにも対照的。情念なき善なるファンク。シアトリカルな明るさとスーパーテクニックに、かつて観たベン・フォールズ・ファイブを思い出す。ヘッズの熱さはここで苗場で観たフィッシュか。根暗の俺もさすがに前に行って踊りたいなと思ったけど、達郎まで娘をケアしてくれていた妻に権利を譲る。この世に一切の翳りなんてないかのようなメロディとグルーヴ、そしてユーモア。神々の遊びがあまりにも軽やかで、俺にもなんかできるんじゃないかって気になってくる。ジョー・ダートのベースの弦、実はウクレレ用だったんじゃないかって今でも疑っている。椅子に座ってじっと聴いていた娘が「アメリカン・ユートピアみたいだね」と呟くのを聞いて、色々と大変だった一日が報われた。

 

この多幸感のままゆっくり帰るぞ、と言いたいところなのだけれども、私にはまだ見たいライブがある。それはROOKIE A GOGOに出演しているMURABANKU。もともと名古屋のバンドだし、東郷清丸匚のメンバーであるノブトさんがいる。這うようにしてたどり着くと、ルーキーらしからぬ堂々としたトロピカル・ビートを鳴らしていた。ちなみにオジはルーキーステージのくるりを目撃してますからね。やっぱりここには夢しかない。みんなそれぞれのグリーンステージを目指して頑張ってほしい。

 

今日もなんとか生き抜いた・・・とズタボロで歩いていたら、会社の同僚に声をかけられた。すごい偶然だが、ひどい姿を見られたものだ。

車に戻り、ラムとアミノ酸でおやすみなさい。

 

 

DAY3

今日はゆっくり寝るぞと思っても7時には目が覚めてしまうのがアラフィフの悲しさ。しかし今日も苗場の朝は爽やか。酷暑の愛知に住む者として、移住という二文字がちらつくほど気持ちがいい。昨日は風呂に入れなかったので、車で温泉を目指す。ちょっと上級者っぽいだろ?と思っていたが、駐車場から出るのに悪戦苦闘。通りがかりの人が誘導しようとしてくれて、ありがたいけどめちゃくちゃ恥ずかしかった。

YouTuberの人がおすすめしていた温泉は駐車場にすら入れない大渋滞。仕方なくさらに街道を走り、道の駅みつまたにある温泉に入る。いいお湯に感動。100円の足ツボマッサージも2セット。せっかくだからここでご飯を食べようと食堂で注文するも、待てど暮らせど出てこない。Mei Semonesが、Swinging Boppersが観れなくなっていくという絶望感だったが、頼んだモツ煮がめちゃくちゃ美味しかったから全て良しとする。どうせ遅れるならならガソリンも入れてしまおうと会場近くのガソリンスタンドで満タンにしてもらうが、ハイオクみたいな値段の軽油だった。湯沢町の皆さんあってのフジロックですからね…。

 

ようやく駐車場に戻ったのは13時過ぎ。今ならまだOrenge Echoの寺尾紗穂に間に合うかも、と一人で先に出発。ゲート近くでトリプルファイヤー山本さんを発見。「ライブ最高でした!」とオタクムーヴをかます。普通に不審者だったと反省しながら入場。今日で終わってしまうことがすでに寂しい。

 

今日も早歩きでホワイトステージまで到達すると、何やらかっこいいバンドが演奏してる。シリカゲルだ。もうここが目的地ということにする。こういうエッジーかつポップなバンドって日本にあるかな・・・などと考えながら観る。

しかし結局、今回はOrange Echoには一度も辿り着けなかった。

 

娘がグリーンステージに着いたというので合流。Creepy Nutsをちょっとだけ観て、今日の大本命に備えて私は再びホワイトステージへ。そう、佐野元春 & THE COYOTE BANDだ。とはいえ、さすがに開演50分前は早すぎた。いったん浅貝川で沐浴。精神を集中する。目の前にSNSでちょっと話題になったセブンイレブンの制服を着た外国人の方がいた。が現地で見るとさほど違和感を覚えないのがフジロックのいいところ。

気合を入れて再びホワイトステージ前へ。やはり前方は元春ガチ勢のファンの方が多いが、徐々にいろいろなバンドTシャツを着た人たちで埋まっていき、前方はほぼ満員でライブスタート。ホワイトステージの音圧で浴びるコヨーテバンドの演奏がマジで最高。俺はこのために頑張ってきたんだぜ…と言いたくなる。佐野さんもオーディエンスの反応とバンドの演奏に手応えを感じていることがその表情から伝わってきた。たぶんめちゃくちゃ気合い入ってたと思うし、もしかしたら緊張もしていたかもしれないが、一曲目でペースを掴むところはさすが。「約束の橋」の「東の果てから西の果てまで」、「La vita e valla 」の「打ち上げられた魚のように どうにかここまでたどり着いた」という歌詞がしみる。ちなみにこの日演奏したうちの半分はコヨーテバンド結成以降、つまり最近の楽曲。そしてもう半分弱は元春クラシックだけど、コヨーテと共にアレンジを変えた曲。オリジナルのまま演奏したのは「サムデイ」と「アンジェリーナ」だけ。45年にわたり、常に更新し続けるアーティストとしての最良を凝縮したステージだった。おこがましいけど、佐野元春に2025年を捧げていることが誇らしくなった。

 

この感激で一晩は飲めそうだったけど、いったん余韻はしまっておいて、グリーンへダッシュ。Little Simzの後半をガッチリ観た。どファンキーなバンドも良かったけど、何より本人のしなやかなヴァイブスがかっこよかった。おしゃれだし。3日目の夕方、すっかりズタボロになった自らの姿をしばし忘れさせてくれる,スタイリッシュなライブだった。楽しく踊っていたら、後ろをシマダボーイが通り過ぎていった。

 

そのままグリーンで娘が観たがっていたRADWIMPS。私がオアシスエリアへ夕飯の買い出しに行ってる間に朝ドラのオープニングテーマが始まった。初めて観るけど演奏がとても上手いバンドなんですね。何度も引き合いに出して申し訳ないが、Vaundyもこれくらいのライブ感がほしかった。


このままグリーンにいた方が安全ではあったが、娘が羊文学を観たいというので、半分すぎたところでホワイトへ移動。すごい人。もともとスタンディング耐性のない子供にホワイトとマーキーは厳しいが、この人の多さはキツい。しかしサウンドチェックで「1999」がフルで聴けたから早めに来て良かった。硬質かつストイックなギターサウンドに、娘よりも初めて観る妻の方が盛り上がっていた。いいライブだったけど、娘をグリーンへと急ぐお客さんのタックルから守るのに必死だった。そういえば4年前は長女とマーキーで羊文学と、この日のドラムを担当したYUNAがいたCHAIも観たのだった。CHAIがあの後すぐ解散するとは思わなかったけど。

 

VWはきっぱりと諦め、HAIMに全集中。ホワイトの周りは三日間を乗り切った疲労と高揚、そしてこの巨大な祭りが終わってしまう寂しさが混ざり合った、なんとも言えないムードが充満している。

が、そんなセンチメントな空気を読まず、さあパーティーはこれからよ!!!って感じでシャンパンボトルを掲げて乱入してくる感じのHAIM三姉妹。最高。Vulfpeckの100分の1の演奏力に肩透かしを食らいつつも、やりたい放題やりまくる彼女たちの姿から目が離せない。「やりたくないこと全部やめた。あんたも辞めてもいいのよ」という全身全霊メッセージは、あらゆる対立構造を無効化させ、女も男もそれ以外も、すべての人を自由にする。キラーチューンもたくさんプレイしてくれたけど、演奏よりもそういうメッセージが印象に残った。なんという人間力。最高にバカバカしくて明るい海外ドラマを観たような気分。最後のアンコールをやりそうでやらないグダグダ感も良かった。日本人、まじめすぎる。羊文学がこんな感じになったらもっとおもしろくなると思う。俺もHAIMを見習って生きたい。

 

終演後、もう歩けねーという娘の手を引いてホワイトの人混みを脱出。グリーンではクロージングアクトの1950’s Western Caravan Orchestra が美しく豊かな音を鳴らしている。尾藤イサオ(81歳)の美声に見送られてピラミッドガーデンを目指す。この道を歩くのも最後だという寂しさと、もう歩かなくてもいいのだという解放感がないまぜになる。この三日間、いろいろなライブを観たけど、結局のところフジロックで遊んだぞ、生き抜いたぞ、という感覚が一番最初にやってくる。あらゆるものを飲み込む巨大な祝祭。音楽も主要ではあるが、その一部でしかない。ライブハウスこそが音楽のホームだと思うけど、やはりここに来ないと体感できないものは確かにある…とか考えているうちにピラミッドガーデンに到着。子を妻に託し、一人いそいそと東郷清丸を観に行く。

 

夜のピラミッドガーデンに来たのは初めてだったんだけど、ああ俺はもう死んでしまったんだな…と真剣に思うくらいヘヴンリーな場所だった。そしてキャンドル・ジュンの蝋燭で照らされた祭壇の上にいる東郷清丸はまるで教祖のよう。しゃべるといつもの清丸君なんだけど。しかしその歌声は虫の声、川の音、夜の空気と呼吸を合わせるような繊細さ。前半の「つつ」「はどう県」のアンビエント感ある歌声にやられて、裸足で芝生の上に大の字になって聴いた。そして今まで何百回も聴いてきた「ロードムービー」「L&V」も初めて聴くような新鮮な感動があった。理由はもうわからない。モノ持ちのいい私はこの日、ポップスターだった頃の東郷清丸が作った「Q曲」Tシャツを着ていたのだけれども、もしコロナ禍がなくて、小豆島に移住もしていない、あの時のままの東郷清丸だったら今ごろどうなっていたのだろう。マーキーとかに出てたのかな。しかし4月に匚を、そしてフジロックでこんな歌を聴いてしまった者として、これ以上の歌があったとは思えない。最後は「家族の讃歌」。どこで聴いても泣いちゃうからあんまり聴かないようにしてる曲。これでフジロックが終わるなんてあまりにもできすぎてはいないか。ありがとう東郷清丸。ありがとう(この時間にブッキングしてくれた)キャンドル・ジュン。ライブの余韻を1ミリもこぼしたくなくて、清丸君に挨拶することもなく車に戻る。苗場でのミッションはすべて達成。とにかく最高の三日間だった。

 

 

DAY4

朝、留守番の長女からのLINEで7時に起床。15時までに車を返さなきゃいけないので、あまりゆっくりしている時間はない。寝ぼけた人たちを乗せたまま駐車場を出発。宿のおじさん、いろいろお世話になりました。

行きとは違って運転にも余裕がある。常に右斜前方をセンターラインに合わせるように走るとよいという個人的なコツを得て、登坂車線を駆使しながら走る。しかし関越道でGoogleマップが新しいルートを案内するというので従ってみると、なんと長野県のどこかで高速を下された。どこじゃいここは?と一般道を走っていると目の前にツルヤ発見。これは神の思し召しだと迷わず入って食材を買い込む。どさくさに紛れて「今此処」という佐野元春ファンには無視できない焼酎も買う。最後くらい実用的な情報を書いておくと、ツルヤでは絶対にきのこ類を買うべし。合法的に飛べるから。そしてこの日初めてトライしたフリーズドライのスープとレトルトカレーも最高でした。それもキノコが入っているやつは間違いない。

 

レンタカー屋さんにちょっと遅れますと詫びの電話を入れて、15時半に自宅着。これで全ミッションをコンプリート。ままならなかったこと、やり残したことはたくさんあるけど、この苗場に置いてきた後悔がまたフジロックに足を運ばせる理由なのだろう。永遠にクリアすることのないゲーム。行く前はもう不安しかない…と警戒していた妻も、次に行くならば…とか言って持ち物のシミュレーションをしている。しかし未来のフジロックは怒涛の洗濯とメールチェック、そして思い出の整理から始まるのだ!

 

4/4 東郷清丸匚 名古屋公演の記録

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2025年4月4日、トランプが世界をめちゃくちゃにした日、あるいはダーティー・プロジェクターズが新しいアルバムを発表した日。とにかくよく晴れた春の日に、東郷清丸匚が名古屋にやってきた。壊滅的な株価のことも魅力的な新譜のことも会社に積み残してきた仕事のこともいったん後まわしにして、今日はこの楽団のことだけ考えさせてほしい。そんなことを思いながらブラジルコーヒーでレモンスカッシュを飲み、彼らの到着を待っていた。

 

15時半。まだ通常営業中のブラジルコーヒーに膨大な機材を抱えてメンバーたちがやってきた。楽しそうな表情をした総勢11名の大人たち。この圧倒的修学旅行感に触れた瞬間、今日のライブは最高のものになると分かってしまった。老若男女が集うブラジルコーヒーのお客さんの中にメンバーの皆さんが溶け込む光景の美しさ。たぶんずっと忘れないと思う。もちろん、みんなが鉄板ナポリタンに目を輝かせている間も黙々と準備をされていた、PAえみそんさんの背中から漂っていた職人魂も。

それにしてもPA機材、譜面台、各種打楽器を含む物量の多さよ。「素人は楽器に触れてはならぬ」と何かで読んだので余計なことはしないようにと思ったけど、さすがにこれは手伝わざるを得ない。トイレの入口を完全にふさぐ勢いで置かれた荷物の量に、この旅の狂気を感じた。ちなみに今日の清丸氏は早朝神戸から横須賀へ新幹線で移動。そこで借りたハイエースに荷物とメンバーを乗せてここまで運転してきたという。


17時。喫茶店の通常営業が終了。永遠にセッティングが終わらないように思われた山のような機材が手際よく組み立てられ、いよいよリハーサルが始まる。皆さんそれぞれ手練のミュージシャンである。さすがにピリッとした空気になるのかと思いきや、和やかムードは変わらない。しかし最初に音合わせが始まった管楽器パートの音はライブハウスではちょっと聴けないレベルのクオリティ。鳥肌が立つ。なおトランペットの小坂井遥菜さんは本日のみのピンチヒッター。初めましての直後にこんな音が鳴らせるものなのかと驚愕。


10人のバンドのリハなんて想像もつかなかったが、清丸氏が書いた楽譜に基づき、サクサクと進んでいく。彼はまるで有能な顧問の先生のような手際で場を仕切り、メンバーのモチベーションを高め、最高の部活感が醸成されている。その空気がまためちゃくちゃ眩しい。

イベントスタッフの最大にして唯一の特権はリハーサルを観れること。しかしさすがにこの日は贅沢すぎた。特にリハ序盤で「サマタイム」が演奏された時は、『2兆円』からしつこく追いかけ続けている者として、グッとくるものがあった。好きな小説が急に映画として目の前に現れたような鮮やかな驚き。

さらにその場で初めて聴いた二つの(未完のものを合わせると三つ?)新曲がもうめちゃくちゃにカッコよくて、道行くサラリーマンとか客引きの兄ちゃんを店内に引きずりこんで聞かせたくなる。こんな音楽を俺がひとりじめしていいのか、早くみんな来てくれ…と謎の後ろめたさと焦りを感じつつ、客席後方で涙をこらえながら身体を揺らしていた。さぞかし気味が悪かったと思う。申し訳ない。一応何かトラブル(忘れものとか)があった時のために待機していたつもりなのに、見事に何もなかった。

開場ギリギリまでリハは続いたけど、最後まで緊迫感はなし。むしろこのメンバーと演奏するのが楽しいからもっとやりたいという雰囲気。音楽家としての技術の高さとモチベーションの高さが組み合わされた最高のヴァイブス。開演直前に客席であんなにくつろいでいる出演者を観たのははじめてだ。

 

19時、予定通りに開場。

この日はおかげさまでソールドアウト。私にとって初めての経験。めちゃくちゃ嬉しい反面、1人でも多くの人に見てほしいし、少しでも収支を良くしたいし、でもお客さんに窮屈な思いはさせたくないし…と当日の朝まで当日券を出すかどうか悩む。が、すでに予約してくれた方の快適性を優先して出さないことにした。結果としてはもうちょっと入れたかも、という感じだったので、私の判断はちょっと甘かった。

 


20時、オンタイムで開演。

「ヨ性」でお風呂の適温を確かめるように始まり、新曲「Calling」「サマタイム」「ヤ性」の疾風のようなグルーヴで、会場の感情がいきなり昂るのを感じる。「こういうのを期待してたけど期待以上すぎるだろ」という感じ。中でもブラジルコーヒーで感じる「Calling」の中南米からの風に、GUIROを思い出した人もいるんじゃないか。「僕の仕事はさっきまでで終わり。今からは遊びの時間です」と宣言した清丸氏も幸せそう。演奏に導かれて、歌そのものが開かれていくような感じがある。

匚の演奏は去年の10月に配信されたwww公演をはじめ、音源では聴き込んできたつもりだったけど、メンバーがこんなに楽しそうに演奏するということは実際に観てみないと分からないこと。このムードはもはや音楽の一部。特にパーカッションの富田真以子さんとサックスの本藤美咲さんの笑顔は、この音楽の楽しみ方を私たちに教えてくれているようだった。

匚という楽団がどういうものであるかは、ツアーの物販で売られていた「匚のてびき」で清丸先生自らが完璧に説明しているので、あまり付け加えることはない。それを私なりに要約すると、東郷清丸の頭の中を楽譜という形で出力し、それを最高のミュージシャンたちが完璧な立体に仕上げていく集団であるということ。しかしその完璧な立体は、例えばJ Bや達郎のようにそれ自体が崇高な目的とされているのではなく、あくまでも10人のプレーヤーが合奏を楽しみきった末の結果である、ということが重要。このユニークな成り立ちが、他の音楽と全然違う!という印象として聴く側に伝わるのだろう。

もうちょい蛇足を加えると、彼らのサウンドはダーティー・プロジェクターズのフォーマットにブルーノ・ペルナーダスの風通しの良さ、テーム・インパラやアンノウン・モータル・オーケストラの快楽性を持ち込んで日本的に咀嚼した音楽…なんて感じの因数分解もできるのかもしれない。そのインプットとアウトプットの加工貿易的構造は、はっぴいえんどからフリッパーズceroに至るまで脈々と受け継がれるニッポンのポップミュージックの正史に連なるものと言えなくもない。ただ東郷清丸の場合、その咀嚼の仕方が少し違うというか、海外の音楽をスタジオで研究しましたという感じではなく、小豆島の自宅に招き、一緒にご飯を食べて海を眺めて昼寝をして…という暮らしを数年間続けたかのような、いわば親密な跡形のなさがある。この日着ていた衣装は大島紬を使って自分で作ったそうだし、毎朝パンを手づくりしているとも言っていた。音楽と日々の営みが同じ位置にある人にしか鳴らせない音、ということなのだろう。縦糸と横糸が自在に絡み合っていくような「ラ」、あの世からご先祖様が顔を出してきそうな「炭坑節」のグルーヴに身を任せながらそんなことを考えた。

楽しい時間はあっという間にすぎて、終盤に突入。いくつものコーラスが森の中でこだまするような新曲を経て、ポップスター期の東郷清丸を代表する一曲「L&V」のイントロが鳴り出す。2019年から6年…!と感慨にふけりそうになるが、この曲では天井のミラーボールを回すことになっていた。「楽しすぎて酒飲んじゃったよ〜」というブラジル店主ツノダさんに「今、今です!」と伝えてスイッチオンしてもらう。もしこの日のライブ音源が出るとしたら、興奮したツノダさんの「清丸〜!!」というシャウトも収録してほしい。

本編クライマックスは、東郷清丸インディペンデント期の代表曲「明日への讃歌」。この曲はいつどんなアレンジで聴いても涙ぐんじゃうけど、やはり今日は格別。三人家族を乗せた馬車が広い大地をテクテクと進んでいく光景が見えてくるようなブルーグラスのリズム。うちの妻は「自分の夫がこの曲を歌ったならば、あらゆる苦労も許せるだろう」と言っていた。

そして21時半。アンコールの「ゆくゆくソング」で楽しい演奏会は終わった。終わってしまった。

 

この余韻の中で一晩中メンバーの皆さん、お客さんと語り合いたい気持ちだったけど、なんとバンドはこのまま神戸まで夜走り。素早く撤収しなければならない。バタバタと精算して、膨大な荷物を車に詰め込む。もし万が一、清丸先生の身に何かあったら私が運転しようとビールを飲まずにいたのだけど大丈夫そう。どさくさにまぎれてハイエースに乗り込みたい気持ちをぐっとこらえて皆さんとお別れ。深夜バスで追いかけようと思ったけど空席がなかった。もうめちゃくちゃさびしくて、また絶対来てくださいね、なんて言ってしまったけど、今回の名古屋ライブは清丸氏の気力、体力、財力を削りまくったハードワークとメンバーの皆さんの献身、そしてブラジルコーヒーの協力を含めたいくつもの僥倖が重なって実現したもの。「また」なんて軽々しく言えるものではない。でも、必ずどこかで会いましょう。どんな形であっても。


フライヤーを作ったりインタビューさせてもらったり、去年の年末からずっと楽しみにしていた一日だったので、翌日は文字通りの抜け殻に。インスタで楽団の行方を追いかけながら、記憶の海に溺れていた。冷静に考えてみると一瞬しか同じ時間を過ごしていないのだけど。でも、この感覚はあのライブを観た人なら理解してくれるんじゃないか。

そんな匚ロスの中で迎えた日曜日の午後、突然インスタでツアー最終日・小豆島公演のライブ配信が流れてきた。なんて嬉しいプレゼント。駆け込んだファミレスでじっと鑑賞。島民に熱く愛されている清丸の姿に涙。子供たちがステージに上がり匚V5になっている姿に涙。そしてライブ終演後の餅投げに巻き込まれる姿に爆笑しながら、最高の週末が終わった。

 

もしこの文章を最後まで読んでくれている奇特な人がいたら、お伝えしたいことは一つ。もし次があるなら必ずぜひ、ということだけ。きっとOnce in a life time の体験になるはず。

 

『GIFT』をめぐる鳥取、ドライブ・マイ・カーの旅

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濱口竜介『悪は存在しない』という映画は石橋英子からライブの時に映写する映像を制作してほしいという依頼から始まっている。その映像作品と石橋のライブ演奏が組み合わされたパフォーマンスには『GIFT』という名前がつけられ、濱口自身が編集したセリフのある映像が『悪は存在しない』となった。よって音楽好きの濱口ファンとしては絶対に観たいやつなのだけれども、今まではなかなか機会がなかった。しかしこの12月の日本ツアーでは、鳥取県jig theaterで開催されることを知った。鳥取は義父の出身地。しかし私はまだ訪れたことがないし、妻も30年以上行っていない。そんな誰かの古い故郷を訪れるために車を飛ばすなんて、まるで『ドライブ・マイ・カー』じゃないか。そんな安易なアイデアに導かれて、半ば衝動的に予約した。鳥取県がどこにあるのかもよく分からないまま。

 

物置で眠らせていたもらいもののスタッドレスタイヤに交換して迎えた当日の朝。昼からの回を予約していたので、朝早く出る必要がある。常に盛大に寝坊する妻には「鳥取までは7時間かかる」と2時間サバを読んで伝えてあったので、予定よりも1時間遅れで出発することができた。約400キロ・5時間。よほどのことがない限り、14時半の開演には間に合うはず。

 

日本海側の天気は大荒れと聞いていたのでいつ雪が降ってくるかと身構えながら三重、兵庫、岡山と通過するもずっと晴天。12月の紅葉を眺めながら鳥取県湯梨浜町に到着。

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汽水湖である東郷池の厳しさと優しさが混ざった景色が、高速を一気に走り抜けてきた私を労ってくれる。少し時間があったので、近くにあるカフェ・HAKUSENへ。これがもう湖の上に建っているような素敵なカフェで、窓の外は一面の水。しかも湖とはいえ海と繋がっているので、目の高さくらいまで波飛沫が飛んできて窓に当たる。すぐそばに見える、波に揺さぶられながら果敢に漁をする小さな鵜の姿に胸が熱くなるが、たぶんそんなことでエモくなっているのは私だけ。みなさん、居心地の良い空間で美味しいお茶とスイーツを楽しんでいらっしゃる。この野趣と気品のバランスが最高。このまま景色を見ているだけで一日過ごせるな…と思っていたら、石橋英子さんがスタッフと共にコーヒーを買いにきた。気がつけばいい時間である。きっともう会うこともないであろう鳥たちに挨拶して、会場へ。

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カフェから約2キロのところにあるjig theaterは学校の跡地のような建物で、湖が一望できる高台に立っている。見事な銀杏の木から落ちた葉が駐車場を黄色く埋める光景に、この世ではないところに来たような感覚になる。三階まで階段を上がって教室を改装したようなロビーに入ると、壁に大きく「ようこそjig theaterへ」という濱口竜介のサインが。やばい。

客席も普通の映画館とは全然ちがっていて、なんなら寝転べるんじゃないかというくらいに大きなクッションというか、ソファのような椅子になっている。普段よりも椅子が多く出ているとのことだったけど、それでもこのゆったり感はすごい。もうこのまま寝れてしまいそうだ…。開演前に劇場の方から注意事項のアナウンスがあったけど、これもとても和やかなもので、地元のお客さんからの愛されぶりを感じた。しかしこの土地に、二回公演で計100人くらいの人を集めるのは本当にすごいことだと思う。

 

オンタイムで石橋英子が登場。スクリーン脇に設置されたブースに座る。ざっと並んでいる機材を観たところ、PCとたくさんのエフェクター、ミキサー、フルートとマイクが置いてある。客電が落ちて、即興でフルートのループが作られていくと、さっきまでの和やかさは一変。別世界の緊張感が走る。「悪は存在しない」は二回観ているので、大体のシーンは覚えているつもりだけど、「GIFT」との間にそれほど大きな差は感じない。サイレント映画版の「悪は〜」と想像してもらえば8割くらいは合っているのではないか。ただ、少しだけ時間軸が変わっていたり、あちらにはなかった、あるいはあったはずのショットが増減することによる、わずか2割の変化が作品の印象を変える。ざっくり言うなら、より作品の抽象度を上げ、観る者の想像力をかき立てる効果を生んでいたように思う。特に花の人物像にミステリアスなものがあり、巧との関係性にもより深いものがあるように感じた。

しかし、このパフォーマンスの主役はやはり石橋英子のライブ演奏である。スクリーンを観ながら水挽町に没入しつつ、音の出し入れによって今ここにしかない、新しい世界が現れては消える。この日の演奏では、住民説明会のシーンが一つのクライマックスのように思われた。「悪は〜」ではここに音楽は流れていなかったはずなので、石橋英子がこのシーンに見出した風景を初めて感じることになるのだが、切迫感をもって鳴らされるドラムが、何か取り返しのつかないことに対する警告のように響いた。そしてもう一つのクライマックスは、当然あの衝撃的なエンディングシーンに訪れる。ここも僅かな、しかし明確な映像の違いがあり、巧と花、そして鹿の関係性に何か深い秘密が仄かされているような印象を受けた。山でしか生きることができないものだけが共有する禁忌のような何か。それを巡るめまぐるしい葛藤が、あの数分間にはあったような気がしている。そのことは、あの映画の音楽はなぜあんなにも重く悲しいのかという、私にとって最大の問いに対する(一つの)答えのようにも思った。

映画館での演奏ということで、果たして音響はどうなんだろうと思っていたが、スタジオの空気まで封じ込められた音が神経を直接触ってくるような、繊細かつダイナミックな音に感動した。

物販では石橋さんがCDにサインをしてくださったので、何か気の利いた感想の一つも言いたかったけど、たった今経験してきたことがまったく頭の中でまとまらず「素晴らしかったです」とだけお伝えして劇場を後に。するとシアターを出てすぐの壁に、いかにもインスタントカメラで撮った写真が貼り付けてあることに気づく。なんだこれ…と思ってよく観ると『SUPER HAPPY FOREVER』を観た人なら分かる「あの写真」だった。なんだよこの心憎さは…。ついさっきカフェを出た時に感じた「もうここには来れないかも」というさびしい気持ちは、「やっぱそんなことないかも…」と変わっていた。

 

jig theaterに行くならもう一つ行かなければならない場所があった。それがちょうどカフェとシアターの間にある書店・汽水空港。東郷清丸がライブをやった時からずっと気になっているお店だったのだけれども、湖畔に立つ佇まいからしてもう最高が確定していた。お店に入ると何か懐かしい気持ちになったのは、安城カゼノイチに通じる空気があったからだろう。

(太平洋側から見れば)日本の最果てに位置する場所で、一切の妥協がないラインナップの本屋さんがあるというのはなんと感動的なことか…と店内を徘徊していると、北沢夏音著「Get back, SUB!」と目が合う。ここで出会うのかよ、と震えた。そしてお店の壁には濱口竜介坂口恭平などのサインがあったが、一番目立っていたのは我らが東郷清丸だった。頼もしい。店主のモリテツヤさんと少しお話しさせてもらったところ、翌日はこの間読んだばかりの「ストリートの思想」をテーマにしたトークショーがあるという。なんとしても参加したいと思ったが、18時スタートではさすがに愛知まで帰れない。泣く泣く諦めるが、店を出る頃には「必ずここにまた来よう」という決意が固まっていた。私ももういい大人なので、ちょっとセンスがいいくらいのお店では動じないくらいに心の皮膚が硬くなっているが、今日はずっと驚かされっぱなしである。

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夕暮れの絶景に後ろ髪をひかれながら車を出してすぐ、またしても石橋英子さんとスタッフにすれ違う。皆さんもこの夕陽を見に来られたのかしら…とちょっと嬉しくなる。この景色はあまりにもドラマチックすぎて、逆に映画の舞台にはならないよな…と思ってしまった。

 

鳥取駅近くのホテルに着く頃にはすっかり暗くなり雨が降ってきた。ようやく日本海らしい気候になってきたぞ…と思いつつ、あたりをつけていた居酒屋に向かうが、見事にどこも満席。やむなく学生さんしかいない激安焼き鳥屋さん(飲み放題60分980円)にイン。しかしそこも私たちで満席になってしまった。メニューには刺身すらなく、日本海の海の幸を口にできないまま死ぬのかと凹む。このままじゃ終われないぜ…とこれまたあたりをつけておいたレコードを聴かせてくれるというバーへ。壁にずらっと並んだ山下達郎竹内まりやのレコードが私たちを見下ろしてきて、ここもちょっと違ったかなと不安になるが、今夜この街で俺たちを受け入れてくれるのはここしかないのだ。腹をくくってマスターと達郎放談。結局すぐに楽しくなってめちゃくちゃ飲んだ。かつて出張で訪れた郡山のバーでも、名古屋の居酒屋でも、初めて会ったお客さんや店主と達郎の話で意気投合していたことを思い出した。一時期はよく通っていたけど思想の違いで足が遠のいた近所のソウルバーも、もともと達郎繋がり。音楽ファンにとってこんな強力な共通言語もない。だからこそ、あのアップデートできない偏屈さが惜しまれる。

ホテルに帰還後、いい大人なのに「ナミビアの砂漠」状態を経て(タクシーのシーン…)、長い一日が終了。

 

2日目。この日は鳥取砂丘を見てから義父の実家があった町まで移動する予定。だが、隣にいるナミビアのライオンが起きない。二日酔いらしい。なんとかチェックアウトして喫茶店に行こうとするも、シジミ汁しか飲みたくねぇし車から降りられねぇとおっしゃる。仕方なくセブンイレブンで味噌汁を買い、お湯を入れて駐車場で朝食。鳥取まで来てこれですよ。でもまあケリー・ライカートの「ウェンディ&ルーシー」っぽいとも言えるし、うまくいかない日だって人生いつかは全てがいい思い出。そう自分に言い聞かせてみるが、この死体のような何かを一日助手席に乗せて運搬するのかと思うとつらい。憐れみの3章じゃないんだから…

 

鳥取砂丘に着くも、もちろん観に行くのはわたし一人。外は嵐のようなみぞれ混じりの雨と風。しかしここまで来て見ないわけにもいかないと外に出ると、目の前に広がるのは一面の砂と山、はるか遠くに見える日本海。急に雨も上がり、遠近感が狂う景色に圧倒されながら、一人で「デューン 砂の惑星ごっこを堪能。すごい楽しい。せっかくだからちょっとくらい見たほうがいいんじゃない?と手負いのライオンを電話で呼び出すと、ノソノソとやって来たが、なぜか元気。砂丘を見た瞬間、いきなり二日酔いが治ったらしい。アトレイデス家の魔法のおかげだろう。もしくはセブンイレブンで買ったヘパリーゼ効果。

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奇跡的に生き返ったゾンビを乗せて、砂丘に砂を運んでくる川の流れを遡り、中国山地へとひた走る。目指すは兵庫と岡山の県境にある若桜町。途中で見かけたコメリで『ドライブ・マイ・カー』のように防寒具を買いたくなるが、私はすでにダウンジャケットを着ていた。念のため不測の事態に備えてガソリンは入れておく。都市部を抜け、田園地帯をしばらく行くと、目に映るものが山と川しかなくなり、世界がぐっと狭くなる。若桜鉄道の線路とも長い時間並走したが、電車の姿を見ることはなかった。それだけ本数が少ないのだろう。すれ違う車もほとんどなく、この先に果たして本当に町があるのかと、いよいよ不安になるくらいの山と山。マウンテン・マウンテン。しかしその間に切り拓かれたわずかな平地に、義父の生まれ故郷はあった。

 

町役場の駐車場に車を停めて、Googleマップで検索すると生家はすぐに見つかった。8年前に人手に渡った建物には、カフェの看板がかかっている。その場でLINEで義父母に写真を送り、この建物で間違いないことを確認。しかしお店には人の気配がなく、営業はしていないようだった。残念だが仕方ない。せっかくここまで来たのだからと土砂降りの中を駅前を歩いてみると、生家にかかっていた看板と同じ名前のカフェがある。もしかしたら何か分かるかもしれないとお店に入ると、そこは北欧と民芸のテイストがミックスされたような素敵なお店だった。コーヒーを運んできてくれた男性に、このお店と生家の場所にあるカフェとの関係を尋ねると、あちらのカフェは数年前にクローズし、駅前のこの場所に移転してきたとのこと。前の店舗、つまり義父の生家は、今はオーナーの住居になっていると教えてくれた。つまり、私たちがいるこのお店のオーナーが、生家の主ということである。あの建物が父の実家であったこと妻が伝えると、「もしかしてフクタさんですか?」と尋ね返される。なんでも、このカフェの名前はフクタさんの苗字にちなんでいるという。「フク」という看板を見た時にはまったく気がつかなかったが、そういうことか!そして生家の建物は今も、できるだけ元のまま丁寧に使ってくださっているとのこと。旅の終わりにこんないい話を聞けるなんて、まるで映画みたいじゃないかと思ったが、それは傲慢というものだろう。彼らはただ彼らの良心と美意識に従って、受け継いだものを大切しているだけなのだから。偶然の来訪者である私たちのためではない。とは言え、人手に渡った生家がその後どうなっているか、私たちはもちろん、87歳の義父もわかっていなかった。もしかすると荒れ果てていたり、取り壊されていることも可能性もあった。というか、むしろその方が自然だろう。そう考えると、やはりありがたいという言葉しか出てこない。70年近く前に家を出てからほとんど実家に帰らず、故郷に複雑な思いを抱えていた義父も、このことを知ったらきっと喜ぶだろう。残念ながらオーナーの方は不在だったが、今度近くにゲストハウスをオープンするという。また鳥取に絶対に来なければいけない理由が増えてしまった。

 

胸を熱くしたまま店を出ると、カフェの前にまだ開業したばかりの、鳥の巣という名前の書店があった。鳥取県の両端に位置する、まさにエクストリームな本屋さんで二日続けて買い物できるなんて。筋の通った選書を見ているうちに、本屋というものは平和のためのインフラではないか、という考えが心に浮かんだ。若い店主さん、頑張ってほしい。

わずか1時間ほどの滞在だったけど、人口2600人の小さな町は、これから先もずっと覚えているであろう深い印象を与えてくれた。

 

暗くなる前に戸倉峠を越えなければならない。再び国道29号を南東に向かって走る。より深くなっていく森はわずかな日光すら遮り、やがて砂丘へと運ばれる砂になる巨大な岩石が転がっている川は野生味を増していく。まるで「ファースト・カウ」のように、この国の原風景にどんどん近づいている感じがする。きっとこの山河は200年前も今日と同じように悠々と流れ、多くの命を育み、時に奪い去っていたのだろう…などと感慨に浸っていると、山頂に白いものが。あら雪!と思った刹那、私たちの目の前も真っ白な登り坂へと変わった。さっき平地で私を猛スピードで追い抜いていったランクルが坂道で立ち往生しているのを見て、緊張感が一気に高まる。実は雪道を走るのは初めてなのだ。本当にスタッドレスを履いていれば大丈夫なんだろうか…と気が気じゃないが、浅井直樹『らせん・分身・スペクトル』を聴いて心を落ち着かせる。わずかにやって来る対向車とすれ違うたび、大丈夫この道は必ず向こう側に繋がっている、と自分に言い聞かせた。今思えばビビりすぎである。

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永遠にも思えた(たぶん実際は30分くらいの)ドライブで峠を越えると、急にまた空が開けて、紅葉と夕陽でオレンジ色に染まった山が現れる。川も穏やかさを取り戻し、イカダで牛を運べそうなくらいに緩やか。さっきまでの雪景色はなんだったのか。日本とは不思議の国である。

 

帰路もほぼほぼ順調に流れて5時間強で自宅着。5年前に140万円で買ったBMW320の、過不足ない加速と、ハンドルを切った分だけ曲がる操作性、安心感のあるブレーキと接地感のおかげで疲れはそれほど感じない。この車がなければこんな旅は思いつきもしなかっただろう。何歳まで続けられるか分からないけど、この車が走るうちはまだ大丈夫なはず。赤いサーブのようにおしゃれではないがこれからも仲良くしようじゃないか。

行きたいところが多すぎるのは困ったものだけれども、来年も元気に音楽を聴いて、映画を見て、旅に出たい。

 

都市のライブカメラは何を映し出すのか 「ナミビアの砂漠」について

冒頭から都会の中を走り回り、ホストと威嚇し合い、奔放に飲み、排泄する河井優実が映し出されていく。謎めいた人格と異常にリアリティのあるセリフ(「紙ストローか」のくだりからしてヤバかった)、観る者の注意を引きつけてやまない表情と声色、同世代の女性監督だからこそ撮れたであろう美しい四肢。


これだけの要素があれば、映画としては十分すぎるほど魅力的な序盤であるのだけど、何か違和感のようなものがある。俺はまだこの映画の中に入り込めていないのではないか、何か大きなものを見落としているのではないか、と。そんな風にソワソワしてきたところでスマホ越しに現れる、「ナミビアの砂漠」のライブカメラの映像。

 

ああやっと分かった。さっきまで私が見ていたのは、これと同じ映像だったのだ。部屋の中をうろつきながらハムを食い、アイスを食べていたカナは、定点カメラに捉えられた水飲み場に集まる野生動物そのもの。つまり、日本の大都会はナミビア大自然で、河井優実が演じるカナはそこに生きる野生動物、たぶん豹とかライオンのような食物連鎖の上位にいる獣、なのだ。そんな彼女の生態を私たちは映画というライブカメラで眺めている、という構造になっているということか。

「カナ=野生動物」という視点に立つと、彼女が脱毛サロン(動物は自分の毛を抜かない)に勤めているという設定に込められた皮肉も、肌の露出も、後先を考えずに飲んでは吐き、飼育員のような最初のパートナーに世話をされているところも、そしてそこからすぐに逃げ出そうとするところも、何より「子殺し」が許せないところも、すべてが繋がっていくようである。

 

少子化と貧困で日本はもう終わるので、今後の目標は生存です」というセリフも、私を含めた大人たちが作りだした、気候変動・経済格差・戦争・差別が横行する無理ゲースペクタクル社会なんて、野生状態とほとんど変わらないじゃないか。こんなところで私たちは死ぬまで生きるんだぞわかってんのか、という若者の諦念と怒りを凝縮した言葉のように響く。こんなにもストレートに自分が怒られる映画は初めてである。終盤、ルームランナーから降りて地下から階段を上がるシーンでずっと爆発音のようなものが聞こえていたのも、その過酷さの暗喩だろう。このクソみたいな社会の中で、精神を病む野生動物としてのカナ。狂ってるのはどっちか、ライブカメラから見れば分かるだろ?と言われているような気がした。

 

そしてその怒りと苛立ちを、劇中において最も直接的にぶつけられるのが、映像作家クリエイター志望のパートナーだったということにも注目したい。実家の太いプチブルで、ある時はバンドのMVを制作し、ある時はつまらない脚本を執筆する、甘えの抜けないまだ何者でもない男。でも仕事は辞めたらしい。「お前みたいな男がつくった作品は毒だ」とまで言われるのに、逃げられない、逃げない、情けない被捕食者。私を含めて、この映画を好んで観にくるような男性ならばどこか重なるところがあるのではないか。カナが隣室の音を盗み聞きするシーンで映った棚の上に彼のものと思われる「死ぬまでに観たい映画1001本」が置いてあったのも、呑気な量産型クリエイター/志望者に対する当てこすりのように思われた。生理も妊娠もない男は、いくつになっても夢みがちでいいよな、と。自身もまだ二十代の山中瑤子監督はセックス・ピストルズフリッパーズ・ギターと同じ系譜にある、悪意を魅力的に表現できる、穏やかで優しい若者が増えた今どきでは特に稀少なタイプの作家なのかもしれない。

終盤で中島歩、渋谷采郁、唐田えりかという濱口竜介作品での印象が強い3人(最高)が立て続けにカナの精神を分析あるいはアドバイスする役回り(そしてその成否はいずれも定かではない)で登場するのは、おそらく濱口リスペクトからなのだろうが、ここまでで突きつけられてきた怒りと悪意が強烈すぎて「もう濱口オジの時代は終わったよ!」という引導のようにも思えてしまった。しかし(私は濱口竜介と同い年だが)決してそれはネガティブな感覚ではなくて、むしろ痛快ですらある。かつてフリッパーズ・ギターが現れた時にもこういう気持ちを味わった人たちがいるのだろうし、時代が変わるとはこういう瞬間のことを指すのだろう。立ち会えて幸せです…!と強がり半分でそう思ってみるけど、本当はかなりビビっている。

 

この映画を、女性だけが引き受けさせられている差別や搾取を描いた社会派作品と捉えることも十分に可能だし、実際にそういう映画でもあるなのだと思う。ここで描かれている問題の一つひとつは切実なものであり、解消されなければならない。

しかし私は、この映画の新しさは、河井優実という野生動物が闊歩することで、それらの問題がどんどん後景化してしまうところにあるようにあると感じた。もはやそれを解決することなんてないし期待してもいない。ナミビアの砂漠に雨が降らないのと同じような、所与の条件として生きていくしかないのだという、若者の諦めと強さが入り混じった感情。そのリアリティを当事者の目線で描ききったことこそがこの映画最大の価値ではないか。

それゆえに、異国の言葉で「分からない」と繰り返したラストシーンの儚さは、私をまた鮮やかに裏切る。野生動物も涙を流すのか、と。思い出すたびに泣けてきてしまう。


※ちなみにナミビアの砂漠のライブカメラYouTubeで実在するチャンネルでした。動物がたくさん観れます

「殺すな」を引き継ぐ  曽我部恵一 & JUNES K 「Breath」

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イスラエルという国の成り立ちを初めて知った日のことを今でも覚えている。近所の公園でキャッチボールした帰り道、父親から聞かされた。飼っていた犬も一緒にいたと思う。そんな細かいことまで覚えているくらいだから、子どもでも分かるくらいのデタラメな話に心底驚いたのだと思う。湾岸戦争が起きた頃、1991年の話。

しかしそれから30年以上、パレスチナの人々が更なる不条理に苦しめられていることをうっすらと知りながらも、見て見ぬふりをしてきた。アメリカは、EUは、時々間違えることはあっても、概ね正しい。そんな先進国の無謬性という、傲慢で分厚い壁によってパレスチナに対する視線を遮ってきたのである。サダム・フセインウサマ・ビン・ラディンがいたから、なんてことはパレスチナの人々には関係のない、ただの言い訳である。映画「関心領域」が描いた問題は、私の中にも存在した。

23年10月以降のガザへの侵攻に対する悲嘆と憤りを、例えばウクライナに対するものと同じ強さと早さで表すことができなかったのは、この分厚い壁が邪魔していたからだ。ネタニヤフはプーチンとは違う。テロ行為に対する武力の使用は比例報復の原則に従ったものになるはずだ。そう無根拠に信じようとしていた。だがそれは完全に間違いだった。今起きていることは、政治という社会科学の理では説明できない、人間が秘めている野蛮と狂気の発露だ。

しかし無意味な殺戮を行なう動物は人間だけだが、それを制止する言葉を持つのも人間だけである。今、ガザにそびえる壁の向こうに目を向けた時に放つべき言葉は、曽我部恵一が「Breath」の中で絞り出した「殺すな」の一言しかあり得ない。これは命令であり、怒りであり、祈りの言葉でもある。

そしてこの「殺すな」とは生命そのものと隣り合わせの言葉であると同時に、表現としての文脈も背負っている。私が知る限りでは、最初にそれが世に放たれたのは、1967年のワシントンポスト誌の全面広告として掲載された岡本太郎の手書きのフォント。ベトナム戦争に反対する市民運動ベ平連」の活動の中で作られたものである。そしてそれを復活させたのが、2003年のイラク戦争に対する反対運動として椹木野衣が組織したアートユニット「殺す・な」の活動。さらにそのメッセージに呼応したであろうラッパー・ECDによる反戦ラップ「言うこと聞くよな奴らじゃないぞ」のリリックとして、今も反戦デモの現場で叫び継がれている。

そして継承という観点で言うならば、メロウなギターをフィーチャーしたJUNES Kによるトラックやファルセットボイスのコーラスにも触れる必要がある。ここにカーティス・メイフィールドマーヴィン・ゲイといったかつて平和と平等のために戦ったアーティストたちの偉大なレガシーを感じぬわけにはいかない。このリズムに合わせて「殺すな」と叫ぶ時、私もあなたも決して一人ではないということだ。私たちの後ろには、今はもうこの世にいない人たちを含めて、多くの仲間がいる。

しかし同時にそれは、2024年の私たちが享受している自由と平等は例外なく、かつて嘲笑を浴び、石を投げられながらも戦ってきた誰かの屍の上に成り立っていることも意味している。この権利を次の世代に継承させていく責任を、政治家であれ、ミュージシャンであれ、サラリーマンであれ、誰もがそれぞれ負っている。

それを果たすために曽我部が差し出したもの。それが彼がソロデビュー以来、大切に歌い続けてきた「おとなになんかならないで」というフレーズなのだろう。生まれたばかりの我が子を慈しむ言葉を、赤く血塗られたパレスチナと重ね合わせた衝撃は、彼の音楽を愛してきた者ほど大きく感じるはずだ。しかしそれにより私たちは「関心領域」の呪縛から解き放たれ、彼の地に生きる親と子の姿をありありと想像することができる。想像しなければならなくなってしまう。

プーチンがネオナチとの戦いという偽りの大義を掲げ、ネタニヤフがアウシュビッツの悲劇を盾に野蛮な軍事行動を続けていることから分かるように、死後80年経ってもヒトラーの亡霊は未だこの世に留まっている。その事実を踏まえれば、23年10月の惨劇を新たな起点とした中東での悲劇は、完全な和解までに百年単位の時間がかかると考えるべきだ。少なくとも私が生きているうちに解決を見ることはないだろう。しかしその長すぎる道のりにおいても、一人ずつの人間が持つ「殺すな」という言葉だけが持つ、根源的なメッセージが有効性を失うことはない。100年後の世界のためにも、この言葉を手放すわけにはいかない。

 

 

能登半島地震 災害ボランティアの記録

ゴールデンウィークの初めに、石川県輪島市の震災支援ボランティアに参加した。被災したお宅から震災ゴミを運び出す作業。とても良質な労働力とは言えない非力な私が行ってもいいものか。そんな迷いが最後まで頭を離れなかったけど、私が住む街と石川県はNHKの放送エリア(東海・北陸)が同じで、お昼の地方ニュースで日々淡々と読み上げられる給水所や避難所のお知らせを聞くうちに、何か直接的に役に立つことがしたいという気持ちが強くなっていった。自分のルーツがある東日本大震災の時は子どもが小さくて身動きが取れなかったこともあるし、指先とスマホでしか自分の社会的意思を表明できない違和感をなんとかしたいという個人的な動機もあった。とにかくできる時にできる人ができることをやる、ということが大切だろうと思い、参加を申し込むことにした。

しかしこのボランティアの申込もなかなか大変だった。窓口が石川県災害対策ボランティア本部のWebに一本化されているのはいいとして、募集がかかるのが前週の水曜日、申込み開始が木曜日、参加が確定するのが金曜日というスケジュール。大の大人が移動を含めて三日間の余暇をギリギリまで空白のまま確保しておくのはなかなかつらいし、そこから交通手段と宿泊場所を確保するのも大変。やっぱり俺なんて必要とされていないんじゃ…という弱気をぐっと抑えて予約完了。現地でお会いしたボランティア経験豊富な方も、あの日程感はなかなか厳しいとおっしゃっていたので、参加のハードルを下げるための改善が必要ではないか。

 

まずは移動。当日の集合時間が金沢駅に朝6時半なので金沢に前泊。夜行バスで当日入りという手段も浮かんだけど、私ももう若くない。足を引っ張るリスクを考えた。結構な雨が降っていたため、駅ビルで回転寿司を食べて、ちょっと何か出そうなホテルの部屋でテレビを観て過ごした。暇と緊張でちょっと酔っ払う。

4時半に目が覚めて、だいぶ時間に余裕を持って集合場所へ。と言うのも、ボランティアセンターからの案内には「金沢駅西口」としか書いておらず、しかし前日に降り立った金沢駅西口はとても広いターミナルで、迷子になる可能性があったからだ。ここまで来てバスに乗れませんでしたではシャレにならない。

それらしい人たちが集まる場所へ潜り込み、なんとか無事に乗車。バスは大型観光バス。みなさん一人で参加されているようで、会話もなく緊張感が漂う。途中、サービスエリアで休憩したのだが、閉鎖されている売店がぱっと見で分かるくらい横に傾いていることに驚いた。が、この光景で驚くわけにはいかないことをすぐ後に思い知ることになる。

Googleマップで見る限り、金沢から輪島市へ向かうには高速道路が最短コースのはずで、すでに全線開通していると聞いていたのだけれども、半分くらいきたところで一般道へ降りてひたすら山の中を走る。後で聞いたところによると、高速道路は通っているものの、道路のコンディションが悪く一般道以下のスピードしか出せないらしい。車窓から見える大半の家々には、その屋根に青いブルーシートが張られていることに気づく。そしてついに穴水町に入ったところで、瓦屋根だけを残して跡形もなく潰れてしまった住宅を見つけて絶句する。ちょうど反対側の窓には信じられないくらい美しく穏やかな七尾湾が広がっていて、そのギャップをどう受け止めればいいのか分からない。さらに穴水町から輪島市へ北上するにつれて、全壊した家の割合が高まっていく。心が折れそうになるが「お前の心など知ったことか。今はただの労働力だ」と回路を遮断する。

 

出発から3時間強、9時45分頃に輪島市のボランティアセンター着。センターと言っても、スーパーと西松屋などがある商業施設の駐車場に設置されたプレハブ小屋である。そこで輪島市社会福祉協議会の人たちが中心になり、全国の社協からの応援を受けて運営しているようだ。7、8人のグループに分かれてガイダンスを受ける。支援申し込みのあったお宅を訪問し、災害ゴミを外に運び出すお仕事。ただし生活ゴミは対象外。困ったことがあれば社協スタッフに連絡を、くらいを頭に入れて現場へと車で向かう。が、私が活動した輪島市役所付近の状況はこれまで見てきたものよりもはるかにひどく、体感で20%くらいの家が全壊している。まったく無事に見える家の方が少ない。不適切だと思いながらも、どうしても戦場という言葉が頭をよぎってしまう。通れない道も多く、遠回りした先の交差点で、一階が潰れてしまったおそらく人は住んでいない家の窓の中にいた茶トラの猫と目が合った。心が…と一瞬思ったけど、今は何も考えない。私は労働力。

 

一軒目はご高齢の方の一人暮らしのお宅。一見建物は無事のように見えるが、引き戸が開かない。建物の骨格が歪んでしまっている。まずは戸を外すところからスタート。しかし、開けてみると、足の踏み場がまったくないほどありとあらゆる種類のゴミで埋め尽くされている。震災ゴミ(いわゆる粗大ゴミ)にたどり着くには、まずこの生活ゴミをなんとかしないといけない。しかしこれは対象外と言われている中で、どこまでやればよいのか。市指定のゴミ袋もないし。とにかくけもの道を作れるように片付けを開始。心を無にして、新聞、チラシ、ダンボールや発泡スチロール、何年経ったかわからない食べ物(含む生肉…)やぬいぐるみなどをまとめて玄関の外に出す。それから大量の布団、洗濯機、冷蔵庫、棚、介護用トイレなどを運び出した。依頼主さんに失礼があってはいけないので平静を装っていたが、開けた空箱から大量のゴキブリが出てきた瞬間はさすがに声が出た。

2時間かけてめぼしいゴミは外に出したが、本部からの指示により震災ゴミ以外の生活ゴミはいったん家の中に戻すことに。いやでも戻したゴミは一体どうなるのか。ある程度整理したとは言え、ご高齢の住人が自力で片付けるのは絶対に無理である。チーム全員が無言のまま困惑。結局、本部の方が輪島市の福祉関係の部署に今後の援助を聞いてみてくれるということになり、それに望みを託して現場を後に。作業中に「亡くなった配偶者の写真を探してほしい」と言われた時は、いやこの中から…?途方に暮れそうになったが、奇跡的に見つかって本当に良かった。しかしこの作業、まだ5月(かなり寒かった)から良かったけど、夏だったらどうなっていたんだろう…と思わずにはいられない。やっぱり暑くなる前にもっと多くのボランティアを募るべきだったのでは…

午前の作業はこのお宅だけで終了。本部(駐車場)に戻り休憩。現地で飲食物は買えないと聞いていたが三週間ほど前からスーパーが(一部)営業再開していた。食欲はなかったが、持参したカロリーメイトなどを口に押し込む。

午後の作業が始まるまで街を歩く。車に乗っていると分からないのだけれども、とにかく街が静か。ほとんど人気がなく、重機の音がしない。道路はガタガタだし危険な建物ばかりだし、パッと見では重機がいくらあっても足りないという状態なのだけれども。そして倒壊している家としていない家、しているエリアとしていないエリアを明確な線で区切れないことにも気づく。同じくらいの年数、構造に見える隣接した家でも、片方は全壊、片方はほぼ無傷というパターンもある。何が運命を分けたのか。果たしてたまたま以上の理由があるのだろうか。東工大と書かれたヘルメットの一群がNHKの撮影チームと共に視察していた。ぜひ解明してほしいが、その理由が分かったとしても完全に被害を防ぐことは難しいだろう。

電柱には迷い猫を探すチラシが貼ってあって、愛猫家として胸がつぶれる思い。他の人がなんと言おうと、飼い主にとってはペットは家族であるという事実は変えられない。この猫たちがせめてどこかで元気で暮らしていますように。川で見かけた鷺だけが、私の住む街と同じだった。

 

2件目は集合住宅。タンスを運び出してほしいという依頼なので台車も持っていく。が、地震のせいで集合住宅の入口が道路から50センチくらい隆起して段差ができており、まったく使いものにならない。断層からは先が途絶えた下水管が露出している。つまりこの建物全体の下水は通っていないということか。一見無傷に見える建物なのに、共用スペースに仮設トイレが設置されてた理由を理解した。水道はほぼ復旧したと聞いていたけど、個人宅単位ではまだまだなんだろう。が、基礎からズレてしまった建物にどうやって管を通すのかまったく見当がつかない。

例によって歪んだドアをこじ開けて部屋に案内してもらうと、六畳くらいのスペース全てを覆うようにバラバラになったタンスが三つ転がっている。地震の時にこの部屋にいなくて良かったと依頼主は言うが、本当に恐ろしい光景である。みんなでタンスを起こしてみるとどれも無傷。一番背の高いものだけ捨てることに。きれいなのにもったいなくないですか?と聞くと、借家では壁に固定もできないし、また倒れてきたら怖いから、とのこと。

さっきの光景を見た後では、壁に穴を開ける固定ができないというのはあまりにもひどいと思わずにはいられない。生死を分ける問題なのに…と内心で憤りながら、大物家具を運びだす。ちなみに私たちボランティアが乗る車の後にはかなりの確率で廃品回収業者がついてきて、我々が運び出した荷物から価値のありそうなものを、持ち主と交渉した上で持っていく。このタンスは彼らが持っていくようである。持ち主とは基本的にギブアンドテイクの関係なので悪いことではないが、被災地ではこういうビジネスもあるということを知った。

 

帰りのバスまではまだ時間がある。チーム全員がせっかく来たのだから1秒でも長く作業したいという気持ちが強く、もう一件回ることに。今度は一戸建ての2階から家具を運び出してほしいという依頼。台車を積んだバンを私が運転して、本部スタッフが運転する車について現地に向かった。道の舗装ははげていて、ほとんどがガタガタのオフロード。渡れなくなっている橋や点灯していない信号もちらほら。しかも途中の交差点で先行車と離ればなれになってしまい、見知らぬ土地で迷子に。なんてことだと嘆きながら本部へ戻って道を聞く。でもその間、北海道から来たという同乗者に貴重な話を聞くことができてよかった。思えばこれがこの二泊三日で唯一の雑談タイムだった。とは言え私も基本的には人見知りなので、黙々と仕事をするチームの雰囲気はとても心地が良い。ちょっとしたやり取りだけで皆さんが悪い人ではないということは伝わってくるので、それで十分なのである。

先行車から30分近く遅れて現地に着く。無事に見えるお宅だが、真横から見ると家の形が平行四辺形型に歪んでしまっている。素人から見ても修復は難しいことは明らかだ。ちょうど二日前に住宅が倒壊する瞬間の動画がSNSで流れてきたのだが、あれはボランティアの目の前で起きたらしい。正直あんなのいつどこで起きてもおかしくないし、もしそうなったらヘルメットなんて役に立たない。ちなみにこの家に「立ち入り危険」を表す赤紙が貼られているのに気づいたのは作業も終盤になってからだった。

せっせと運び出す大量の荷物から、依頼主の男性がかつて周囲から尊敬される職業を長年続けていたことが分かる。感謝の手紙や写真など、思い出の品がたくさんあったけど全部捨てるとのこと。そして趣味人でもあったらしく、大量のカセット、ビデオテープもあるがこれも処分するとのこと。几帳面な文字で書かれたインデックスを見ると泣けてくる。諸行は無常。そして私が大切にしているレコードとかCDとか本とかもいつかこうなるのか…と気が遠くなりそうになる。

そして荷物の重さはともかく、やはり階段の登り降りがかなりキツい。年を取ったら断捨離して平屋に住みたい。一通り片付けて作業終了。依頼主のご夫婦に挨拶。奥さんは気丈に対応されているが、旦那さんがちょっと魂が抜けた感じになっていて心配。なんとなく他人とは思えない雰囲気の人だった。

 

午後4時。作業終了して本部に全員集合。皆さん怪我なく戻ってこられた模様。社協の方の挨拶によると、被害が大きかった輪島市は市外に避難している人がようやく帰ってきたところで、これからボランティアの需要が増えていくところだという。しかし受け入れ体制が整っておらず、どこまで応えられるか分からない、と。じゃあまた来ますね、と言いたいところだけど、それを約束できないのがつらい。今さら言っても仕方ないし難しい事情もあったのだろうけど、やっぱり夏が来る前、このゴールデンウィークに戦力を投入できるようにするべきだったと思う。

「ぜひ皆さんのSNSでここの現実を伝えてほしい」とボランティアセンターの人に言われたので、帰りのバスの中で見てきたものをTwitterにあげていく。あの光景に対して自分が何の役に立ったのか。私のような者が貴重なボランティア枠を埋めてまでやって来る意味は本当にあったのだろうかという思いは頭から離れない。

そもそも4ヶ月も経つのに、高速道路を含めたあらゆるロジスティクスがこんなに貧弱なままなのかが理解できない。もしこれがこの国の本気だとしたら悲しいことだし、もし本気じゃないというのならば許しがたい。何かというと自己責任というのが2000年以降の貧しい日本の風潮だけれども、人生がうまくいくのもいかないのも、「たまたま」という要素があまりにも大きいことは大人だったら誰でも知っているはず。病気でも事故でも就職でも受験でも、生まれたままの自分の力だけで成し遂げられることも回避できることだってないですよ。その中でも最大のたまたま案件である、地震という天災に対して、「たまたま俺ではなかっただけ」という前提に立てば、被災者の生活再建に対しては最大限のサポートをするべきだろう。しかも支出したお金は間違いなく国内で循環するわけだし。ケチケチすんなよ、と思ってしまう。

 

7時頃に金沢駅にバスが着く。チームのみなさんとは「お疲れ様でした」と一言だけ挨拶して解散。今夜の宿のカプセルホテルへ歩きながら、金沢の圧倒的な大都会ぶりとさっきまでの光景のギャップに圧倒される。ちなみにこないだから北陸への旅行割りが再開されていたけど、ほぼ意味がないと思う。すでに金沢は観光客でいっぱいだし、被災地の観光施設はすべてクローズしている。税金は被災地を直接支援するために使うべきだと思う。

ホテルに着き、荷物を整理して熱いシャワーを浴びてひと息つく。そのまま事前に調べておいた素敵なジャズバーへ行き、カレーを食べ、ビールとウィスキーを飲み、巨大なJBLアート・ペッパーを聴く。はっきり言って天国だ。が、数時間前までいた街で会った人は誰も自宅のお風呂もトイレも使えていない。コンビニで買ったビールをホテルの休憩所で飲みなおして就寝。身体はクタクタだが頭が興奮して寝付けない。

翌日は5時に目を覚ます。カプセルホテルの上段から降りるのに苦労するくらいには筋肉痛。シャワーを浴びてダラダラしてからチェックアウト。朝ごはんを食べようと思うがピンと来る店がないまま金沢城まで歩いてきてしまった。60年近く前に義父母がこの辺に住んでいたらしい。めちゃくちゃいいところだし、めちゃくちゃいい天気。昨日のご褒美だと思うことにして、近接する石川県立博物館、鈴木大拙記念館、金沢21世紀美術館をはしごした。幸いにして金沢市内はほぼ地震の影響を感じないが、21世紀美術館の有料展示が休止中ということだけが私が感じた爪痕。社会におけるカナリアとしてのアートという意味で、どこか象徴的なものを勝手に感じてしまう。しかし別館で特別無料展示されていた作品がヤノベケンジだったのは、美術館から現在の世界に対するメッセージなのだろう。それにしても初めて訪れた21世紀美術館は完全に街並みに溶け込み、老若男女が集う集会所のような雰囲気。感動した

 

金沢の中心部を歩いていると、巨大な北國新聞社の本社ビルにぶち当たった。北國新聞と言えば、石川県が生んだ大政治家・森喜朗との蜜月で知られる。しかしオリンピックやワールドカップで利権を漁りの剛腕をふるったあの老人が、震災に際して何か活動したという話は寡聞にして聞かない。裏金づくりの言い訳は一生懸命する元気はあるのに。自然災害に党派性は持ち込みたくないが、虚しい気持ちにはなった。

 

目の前を通りがかったカラスを黒猫と見間違えるくらい愛猫に会いたくなってきたところで帰りのバスの時間。いつになるかわからないけど、絶対にまた能登半島に来よう。今回はチラッとしか見えなかった海に触れて、魚を食べ、日本酒を飲むのだ。もちろんゴミ出し作業でもいいけど、そんなニーズは早く無くなるのが一番いい。