ドリーミー刑事のスモーキー事件簿

バナナレコードでバイトしたいサラリーマンが投げるmessage in a bottle

『GIFT』をめぐる鳥取、ドライブ・マイ・カーの旅

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濱口竜介『悪は存在しない』という映画は石橋英子からライブの時に映写する映像を制作してほしいという依頼から始まっている。その映像作品と石橋のライブ演奏が組み合わされたパフォーマンスには『GIFT』という名前がつけられ、濱口自身が編集したセリフのある映像が『悪は存在しない』となった。よって音楽好きの濱口ファンとしては絶対に観たいやつなのだけれども、今まではなかなか機会がなかった。しかしこの12月の日本ツアーでは、鳥取県jig theaterで開催されることを知った。鳥取は義父の出身地。しかし私はまだ訪れたことがないし、妻も30年以上行っていない。そんな誰かの古い故郷を訪れるために車を飛ばすなんて、まるで『ドライブ・マイ・カー』じゃないか。そんな安易なアイデアに導かれて、半ば衝動的に予約した。鳥取県がどこにあるのかもよく分からないまま。

 

物置で眠らせていたもらいもののスタッドレスタイヤに交換して迎えた当日の朝。昼からの回を予約していたので、朝早く出る必要がある。常に盛大に寝坊する妻には「鳥取までは7時間かかる」と2時間サバを読んで伝えてあったので、予定よりも1時間遅れで出発することができた。約400キロ・5時間。よほどのことがない限り、14時半の開演には間に合うはず。

 

日本海側の天気は大荒れと聞いていたのでいつ雪が降ってくるかと身構えながら三重、兵庫、岡山と通過するもずっと晴天。12月の紅葉を眺めながら鳥取県湯梨浜町に到着。

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汽水湖である東郷池の厳しさと優しさが混ざった景色が、高速を一気に走り抜けてきた私を労ってくれる。少し時間があったので、近くにあるカフェ・HAKUSENへ。これがもう湖の上に建っているような素敵なカフェで、窓の外は一面の水。しかも湖とはいえ海と繋がっているので、目の高さくらいまで波飛沫が飛んできて窓に当たる。すぐそばに見える、波に揺さぶられながら果敢に漁をする小さな鵜の姿に胸が熱くなるが、たぶんそんなことでエモくなっているのは私だけ。みなさん、居心地の良い空間で美味しいお茶とスイーツを楽しんでいらっしゃる。この野趣と気品のバランスが最高。このまま景色を見ているだけで一日過ごせるな…と思っていたら、石橋英子さんがスタッフと共にコーヒーを買いにきた。気がつけばいい時間である。きっともう会うこともないであろう鳥たちに挨拶して、会場へ。

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カフェから約2キロのところにあるjig theaterは学校の跡地のような建物で、湖が一望できる高台に立っている。見事な銀杏の木から落ちた葉が駐車場を黄色く埋める光景に、この世ではないところに来たような感覚になる。三階まで階段を上がって教室を改装したようなロビーに入ると、壁に大きく「ようこそjig theaterへ」という濱口竜介のサインが。やばい。

客席も普通の映画館とは全然ちがっていて、なんなら寝転べるんじゃないかというくらいに大きなクッションというか、ソファのような椅子になっている。普段よりも椅子が多く出ているとのことだったけど、それでもこのゆったり感はすごい。もうこのまま寝れてしまいそうだ…。開演前に劇場の方から注意事項のアナウンスがあったけど、これもとても和やかなもので、地元のお客さんからの愛されぶりを感じた。しかしこの土地に、二回公演で計100人くらいの人を集めるのは本当にすごいことだと思う。

 

オンタイムで石橋英子が登場。スクリーン脇に設置されたブースに座る。ざっと並んでいる機材を観たところ、PCとたくさんのエフェクター、ミキサー、フルートとマイクが置いてある。客電が落ちて、即興でフルートのループが作られていくと、さっきまでの和やかさは一変。別世界の緊張感が走る。「悪は存在しない」は二回観ているので、大体のシーンは覚えているつもりだけど、「GIFT」との間にそれほど大きな差は感じない。サイレント映画版の「悪は〜」と想像してもらえば8割くらいは合っているのではないか。ただ、少しだけ時間軸が変わっていたり、あちらにはなかった、あるいはあったはずのショットが増減することによる、わずか2割の変化が作品の印象を変える。ざっくり言うなら、より作品の抽象度を上げ、観る者の想像力をかき立てる効果を生んでいたように思う。特に花の人物像にミステリアスなものがあり、巧との関係性にもより深いものがあるように感じた。

しかし、このパフォーマンスの主役はやはり石橋英子のライブ演奏である。スクリーンを観ながら水挽町に没入しつつ、音の出し入れによって今ここにしかない、新しい世界が現れては消える。この日の演奏では、住民説明会のシーンが一つのクライマックスのように思われた。「悪は〜」ではここに音楽は流れていなかったはずなので、石橋英子がこのシーンに見出した風景を初めて感じることになるのだが、切迫感をもって鳴らされるドラムが、何か取り返しのつかないことに対する警告のように響いた。そしてもう一つのクライマックスは、当然あの衝撃的なエンディングシーンに訪れる。ここも僅かな、しかし明確な映像の違いがあり、巧と花、そして鹿の関係性に何か深い秘密が仄かされているような印象を受けた。山でしか生きることができないものだけが共有する禁忌のような何か。それを巡るめまぐるしい葛藤が、あの数分間にはあったような気がしている。そのことは、あの映画の音楽はなぜあんなにも重く悲しいのかという、私にとって最大の問いに対する(一つの)答えのようにも思った。

映画館での演奏ということで、果たして音響はどうなんだろうと思っていたが、スタジオの空気まで封じ込められた音が神経を直接触ってくるような、繊細かつダイナミックな音に感動した。

物販では石橋さんがCDにサインをしてくださったので、何か気の利いた感想の一つも言いたかったけど、たった今経験してきたことがまったく頭の中でまとまらず「素晴らしかったです」とだけお伝えして劇場を後に。するとシアターを出てすぐの壁に、いかにもインスタントカメラで撮った写真が貼り付けてあることに気づく。なんだこれ…と思ってよく観ると『SUPER HAPPY FOREVER』を観た人なら分かる「あの写真」だった。なんだよこの心憎さは…。ついさっきカフェを出た時に感じた「もうここには来れないかも」というさびしい気持ちは、「やっぱそんなことないかも…」と変わっていた。

 

jig theaterに行くならもう一つ行かなければならない場所があった。それがちょうどカフェとシアターの間にある書店・汽水空港。東郷清丸がライブをやった時からずっと気になっているお店だったのだけれども、湖畔に立つ佇まいからしてもう最高が確定していた。お店に入ると何か懐かしい気持ちになったのは、安城カゼノイチに通じる空気があったからだろう。

(太平洋側から見れば)日本の最果てに位置する場所で、一切の妥協がないラインナップの本屋さんがあるというのはなんと感動的なことか…と店内を徘徊していると、北沢夏音著「Get back, SUB!」と目が合う。ここで出会うのかよ、と震えた。そしてお店の壁には濱口竜介坂口恭平などのサインがあったが、一番目立っていたのは我らが東郷清丸だった。頼もしい。店主のモリテツヤさんと少しお話しさせてもらったところ、翌日はこの間読んだばかりの「ストリートの思想」をテーマにしたトークショーがあるという。なんとしても参加したいと思ったが、18時スタートではさすがに愛知まで帰れない。泣く泣く諦めるが、店を出る頃には「必ずここにまた来よう」という決意が固まっていた。私ももういい大人なので、ちょっとセンスがいいくらいのお店では動じないくらいに心の皮膚が硬くなっているが、今日はずっと驚かされっぱなしである。

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夕暮れの絶景に後ろ髪をひかれながら車を出してすぐ、またしても石橋英子さんとスタッフにすれ違う。皆さんもこの夕陽を見に来られたのかしら…とちょっと嬉しくなる。この景色はあまりにもドラマチックすぎて、逆に映画の舞台にはならないよな…と思ってしまった。

 

鳥取駅近くのホテルに着く頃にはすっかり暗くなり雨が降ってきた。ようやく日本海らしい気候になってきたぞ…と思いつつ、あたりをつけていた居酒屋に向かうが、見事にどこも満席。やむなく学生さんしかいない激安焼き鳥屋さん(飲み放題60分980円)にイン。しかしそこも私たちで満席になってしまった。メニューには刺身すらなく、日本海の海の幸を口にできないまま死ぬのかと凹む。このままじゃ終われないぜ…とこれまたあたりをつけておいたレコードを聴かせてくれるというバーへ。壁にずらっと並んだ山下達郎竹内まりやのレコードが私たちを見下ろしてきて、ここもちょっと違ったかなと不安になるが、今夜この街で俺たちを受け入れてくれるのはここしかないのだ。腹をくくってマスターと達郎放談。結局すぐに楽しくなってめちゃくちゃ飲んだ。かつて出張で訪れた郡山のバーでも、名古屋の居酒屋でも、初めて会ったお客さんや店主と達郎の話で意気投合していたことを思い出した。一時期はよく通っていたけど思想の違いで足が遠のいた近所のソウルバーも、もともと達郎繋がり。音楽ファンにとってこんな強力な共通言語もない。だからこそ、あのアップデートできない偏屈さが惜しまれる。

ホテルに帰還後、いい大人なのに「ナミビアの砂漠」状態を経て(タクシーのシーン…)、長い一日が終了。

 

2日目。この日は鳥取砂丘を見てから義父の実家があった町まで移動する予定。だが、隣にいるナミビアのライオンが起きない。二日酔いらしい。なんとかチェックアウトして喫茶店に行こうとするも、シジミ汁しか飲みたくねぇし車から降りられねぇとおっしゃる。仕方なくセブンイレブンで味噌汁を買い、お湯を入れて駐車場で朝食。鳥取まで来てこれですよ。でもまあケリー・ライカートの「ウェンディ&ルーシー」っぽいとも言えるし、うまくいかない日だって人生いつかは全てがいい思い出。そう自分に言い聞かせてみるが、この死体のような何かを一日助手席に乗せて運搬するのかと思うとつらい。憐れみの3章じゃないんだから…

 

鳥取砂丘に着くも、もちろん観に行くのはわたし一人。外は嵐のようなみぞれ混じりの雨と風。しかしここまで来て見ないわけにもいかないと外に出ると、目の前に広がるのは一面の砂と山、はるか遠くに見える日本海。急に雨も上がり、遠近感が狂う景色に圧倒されながら、一人で「デューン 砂の惑星ごっこを堪能。すごい楽しい。せっかくだからちょっとくらい見たほうがいいんじゃない?と手負いのライオンを電話で呼び出すと、ノソノソとやって来たが、なぜか元気。砂丘を見た瞬間、いきなり二日酔いが治ったらしい。アトレイデス家の魔法のおかげだろう。もしくはセブンイレブンで買ったヘパリーゼ効果。

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奇跡的に生き返ったゾンビを乗せて、砂丘に砂を運んでくる川の流れを遡り、中国山地へとひた走る。目指すは兵庫と岡山の県境にある若桜町。途中で見かけたコメリで『ドライブ・マイ・カー』のように防寒具を買いたくなるが、私はすでにダウンジャケットを着ていた。念のため不測の事態に備えてガソリンは入れておく。都市部を抜け、田園地帯をしばらく行くと、目に映るものが山と川しかなくなり、世界がぐっと狭くなる。若桜鉄道の線路とも長い時間並走したが、電車の姿を見ることはなかった。それだけ本数が少ないのだろう。すれ違う車もほとんどなく、この先に果たして本当に町があるのかと、いよいよ不安になるくらいの山と山。マウンテン・マウンテン。しかしその間に切り拓かれたわずかな平地に、義父の生まれ故郷はあった。

 

町役場の駐車場に車を停めて、Googleマップで検索すると生家はすぐに見つかった。8年前に人手に渡った建物には、カフェの看板がかかっている。その場でLINEで義父母に写真を送り、この建物で間違いないことを確認。しかしお店には人の気配がなく、営業はしていないようだった。残念だが仕方ない。せっかくここまで来たのだからと土砂降りの中を駅前を歩いてみると、生家にかかっていた看板と同じ名前のカフェがある。もしかしたら何か分かるかもしれないとお店に入ると、そこは北欧と民芸のテイストがミックスされたような素敵なお店だった。コーヒーを運んできてくれた男性に、このお店と生家の場所にあるカフェとの関係を尋ねると、あちらのカフェは数年前にクローズし、駅前のこの場所に移転してきたとのこと。前の店舗、つまり義父の生家は、今はオーナーの住居になっていると教えてくれた。つまり、私たちがいるこのお店のオーナーが、生家の主ということである。あの建物が父の実家であったこと妻が伝えると、「もしかしてフクタさんですか?」と尋ね返される。なんでも、このカフェの名前はフクタさんの苗字にちなんでいるという。「フク」という看板を見た時にはまったく気がつかなかったが、そういうことか!そして生家の建物は今も、できるだけ元のまま丁寧に使ってくださっているとのこと。旅の終わりにこんないい話を聞けるなんて、まるで映画みたいじゃないかと思ったが、それは傲慢というものだろう。彼らはただ彼らの良心と美意識に従って、受け継いだものを大切しているだけなのだから。偶然の来訪者である私たちのためではない。とは言え、人手に渡った生家がその後どうなっているか、私たちはもちろん、87歳の義父もわかっていなかった。もしかすると荒れ果てていたり、取り壊されていることも可能性もあった。というか、むしろその方が自然だろう。そう考えると、やはりありがたいという言葉しか出てこない。70年近く前に家を出てからほとんど実家に帰らず、故郷に複雑な思いを抱えていた義父も、このことを知ったらきっと喜ぶだろう。残念ながらオーナーの方は不在だったが、今度近くにゲストハウスをオープンするという。また鳥取に絶対に来なければいけない理由が増えてしまった。

 

胸を熱くしたまま店を出ると、カフェの前にまだ開業したばかりの、鳥の巣という名前の書店があった。鳥取県の両端に位置する、まさにエクストリームな本屋さんで二日続けて買い物できるなんて。筋の通った選書を見ているうちに、本屋というものは平和のためのインフラではないか、という考えが心に浮かんだ。若い店主さん、頑張ってほしい。

わずか1時間ほどの滞在だったけど、人口2600人の小さな町は、これから先もずっと覚えているであろう深い印象を与えてくれた。

 

暗くなる前に戸倉峠を越えなければならない。再び国道29号を南東に向かって走る。より深くなっていく森はわずかな日光すら遮り、やがて砂丘へと運ばれる砂になる巨大な岩石が転がっている川は野生味を増していく。まるで「ファースト・カウ」のように、この国の原風景にどんどん近づいている感じがする。きっとこの山河は200年前も今日と同じように悠々と流れ、多くの命を育み、時に奪い去っていたのだろう…などと感慨に浸っていると、山頂に白いものが。あら雪!と思った刹那、私たちの目の前も真っ白な登り坂へと変わった。さっき平地で私を猛スピードで追い抜いていったランクルが坂道で立ち往生しているのを見て、緊張感が一気に高まる。実は雪道を走るのは初めてなのだ。本当にスタッドレスを履いていれば大丈夫なんだろうか…と気が気じゃないが、浅井直樹『らせん・分身・スペクトル』を聴いて心を落ち着かせる。わずかにやって来る対向車とすれ違うたび、大丈夫この道は必ず向こう側に繋がっている、と自分に言い聞かせた。今思えばビビりすぎである。

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永遠にも思えた(たぶん実際は30分くらいの)ドライブで峠を越えると、急にまた空が開けて、紅葉と夕陽でオレンジ色に染まった山が現れる。川も穏やかさを取り戻し、イカダで牛を運べそうなくらいに緩やか。さっきまでの雪景色はなんだったのか。日本とは不思議の国である。

 

帰路もほぼほぼ順調に流れて5時間強で自宅着。5年前に140万円で買ったBMW320の、過不足ない加速と、ハンドルを切った分だけ曲がる操作性、安心感のあるブレーキと接地感のおかげで疲れはそれほど感じない。この車がなければこんな旅は思いつきもしなかっただろう。何歳まで続けられるか分からないけど、この車が走るうちはまだ大丈夫なはず。赤いサーブのようにおしゃれではないがこれからも仲良くしようじゃないか。

行きたいところが多すぎるのは困ったものだけれども、来年も元気に音楽を聴いて、映画を見て、旅に出たい。

 

都市のライブカメラは何を映し出すのか 「ナミビアの砂漠」について

冒頭から都会の中を走り回り、ホストと威嚇し合い、奔放に飲み、排泄する河井優実が映し出されていく。謎めいた人格と異常にリアリティのあるセリフ(「紙ストローか」のくだりからしてヤバかった)、観る者の注意を引きつけてやまない表情と声色、同世代の女性監督だからこそ撮れたであろう美しい四肢。


これだけの要素があれば、映画としては十分すぎるほど魅力的な序盤であるのだけど、何か違和感のようなものがある。俺はまだこの映画の中に入り込めていないのではないか、何か大きなものを見落としているのではないか、と。そんな風にソワソワしてきたところでスマホ越しに現れる、「ナミビアの砂漠」のライブカメラの映像。

 

ああやっと分かった。さっきまで私が見ていたのは、これと同じ映像だったのだ。部屋の中をうろつきながらハムを食い、アイスを食べていたカナは、定点カメラに捉えられた水飲み場に集まる野生動物そのもの。つまり、日本の大都会はナミビア大自然で、河井優実が演じるカナはそこに生きる野生動物、たぶん豹とかライオンのような食物連鎖の上位にいる獣、なのだ。そんな彼女の生態を私たちは映画というライブカメラで眺めている、という構造になっているということか。

「カナ=野生動物」という視点に立つと、彼女が脱毛サロン(動物は自分の毛を抜かない)に勤めているという設定に込められた皮肉も、肌の露出も、後先を考えずに飲んでは吐き、飼育員のような最初のパートナーに世話をされているところも、そしてそこからすぐに逃げ出そうとするところも、何より「子殺し」が許せないところも、すべてが繋がっていくようである。

 

少子化と貧困で日本はもう終わるので、今後の目標は生存です」というセリフも、私を含めた大人たちが作りだした、気候変動・経済格差・戦争・差別が横行する無理ゲースペクタクル社会なんて、野生状態とほとんど変わらないじゃないか。こんなところで私たちは死ぬまで生きるんだぞわかってんのか、という若者の諦念と怒りを凝縮した言葉のように響く。こんなにもストレートに自分が怒られる映画は初めてである。終盤、ルームランナーから降りて地下から階段を上がるシーンでずっと爆発音のようなものが聞こえていたのも、その過酷さの暗喩だろう。このクソみたいな社会の中で、精神を病む野生動物としてのカナ。狂ってるのはどっちか、ライブカメラから見れば分かるだろ?と言われているような気がした。

 

そしてその怒りと苛立ちを、劇中において最も直接的にぶつけられるのが、映像作家クリエイター志望のパートナーだったということにも注目したい。実家の太いプチブルで、ある時はバンドのMVを制作し、ある時はつまらない脚本を執筆する、甘えの抜けないまだ何者でもない男。でも仕事は辞めたらしい。「お前みたいな男がつくった作品は毒だ」とまで言われるのに、逃げられない、逃げない、情けない被捕食者。私を含めて、この映画を好んで観にくるような男性ならばどこか重なるところがあるのではないか。カナが隣室の音を盗み聞きするシーンで映った棚の上に彼のものと思われる「死ぬまでに観たい映画1001本」が置いてあったのも、呑気な量産型クリエイター/志望者に対する当てこすりのように思われた。生理も妊娠もない男は、いくつになっても夢みがちでいいよな、と。自身もまだ二十代の山中瑤子監督はセックス・ピストルズフリッパーズ・ギターと同じ系譜にある、悪意を魅力的に表現できる、穏やかで優しい若者が増えた今どきでは特に稀少なタイプの作家なのかもしれない。

終盤で中島歩、渋谷采郁、唐田えりかという濱口竜介作品での印象が強い3人(最高)が立て続けにカナの精神を分析あるいはアドバイスする役回り(そしてその成否はいずれも定かではない)で登場するのは、おそらく濱口リスペクトからなのだろうが、ここまでで突きつけられてきた怒りと悪意が強烈すぎて「もう濱口オジの時代は終わったよ!」という引導のようにも思えてしまった。しかし(私は濱口竜介と同い年だが)決してそれはネガティブな感覚ではなくて、むしろ痛快ですらある。かつてフリッパーズ・ギターが現れた時にもこういう気持ちを味わった人たちがいるのだろうし、時代が変わるとはこういう瞬間のことを指すのだろう。立ち会えて幸せです…!と強がり半分でそう思ってみるけど、本当はかなりビビっている。

 

この映画を、女性だけが引き受けさせられている差別や搾取を描いた社会派作品と捉えることも十分に可能だし、実際にそういう映画でもあるなのだと思う。ここで描かれている問題の一つひとつは切実なものであり、解消されなければならない。

しかし私は、この映画の新しさは、河井優実という野生動物が闊歩することで、それらの問題がどんどん後景化してしまうところにあるようにあると感じた。もはやそれを解決することなんてないし期待してもいない。ナミビアの砂漠に雨が降らないのと同じような、所与の条件として生きていくしかないのだという、若者の諦めと強さが入り混じった感情。そのリアリティを当事者の目線で描ききったことこそがこの映画最大の価値ではないか。

それゆえに、異国の言葉で「分からない」と繰り返したラストシーンの儚さは、私をまた鮮やかに裏切る。野生動物も涙を流すのか、と。思い出すたびに泣けてきてしまう。


※ちなみにナミビアの砂漠のライブカメラYouTubeで実在するチャンネルでした。動物がたくさん観れます

「殺すな」を引き継ぐ  曽我部恵一 & JUNES K 「Breath」

youtu.be

イスラエルという国の成り立ちを初めて知った日のことを今でも覚えている。近所の公園でキャッチボールした帰り道、父親から聞かされた。飼っていた犬も一緒にいたと思う。そんな細かいことまで覚えているくらいだから、子どもでも分かるくらいのデタラメな話に心底驚いたのだと思う。湾岸戦争が起きた頃、1991年の話。

しかしそれから30年以上、パレスチナの人々が更なる不条理に苦しめられていることをうっすらと知りながらも、見て見ぬふりをしてきた。アメリカは、EUは、時々間違えることはあっても、概ね正しい。そんな先進国の無謬性という、傲慢で分厚い壁によってパレスチナに対する視線を遮ってきたのである。サダム・フセインウサマ・ビン・ラディンがいたから、なんてことはパレスチナの人々には関係のない、ただの言い訳である。映画「関心領域」が描いた問題は、私の中にも存在した。

23年10月以降のガザへの侵攻に対する悲嘆と憤りを、例えばウクライナに対するものと同じ強さと早さで表すことができなかったのは、この分厚い壁が邪魔していたからだ。ネタニヤフはプーチンとは違う。テロ行為に対する武力の使用は比例報復の原則に従ったものになるはずだ。そう無根拠に信じようとしていた。だがそれは完全に間違いだった。今起きていることは、政治という社会科学の理では説明できない、人間が秘めている野蛮と狂気の発露だ。

しかし無意味な殺戮を行なう動物は人間だけだが、それを制止する言葉を持つのも人間だけである。今、ガザにそびえる壁の向こうに目を向けた時に放つべき言葉は、曽我部恵一が「Breath」の中で絞り出した「殺すな」の一言しかあり得ない。これは命令であり、怒りであり、祈りの言葉でもある。

そしてこの「殺すな」とは生命そのものと隣り合わせの言葉であると同時に、表現としての文脈も背負っている。私が知る限りでは、最初にそれが世に放たれたのは、1967年のワシントンポスト誌の全面広告として掲載された岡本太郎の手書きのフォント。ベトナム戦争に反対する市民運動ベ平連」の活動の中で作られたものである。そしてそれを復活させたのが、2003年のイラク戦争に対する反対運動として椹木野衣が組織したアートユニット「殺す・な」の活動。さらにそのメッセージに呼応したであろうラッパー・ECDによる反戦ラップ「言うこと聞くよな奴らじゃないぞ」のリリックとして、今も反戦デモの現場で叫び継がれている。

そして継承という観点で言うならば、メロウなギターをフィーチャーしたJUNES Kによるトラックやファルセットボイスのコーラスにも触れる必要がある。ここにカーティス・メイフィールドマーヴィン・ゲイといったかつて平和と平等のために戦ったアーティストたちの偉大なレガシーを感じぬわけにはいかない。このリズムに合わせて「殺すな」と叫ぶ時、私もあなたも決して一人ではないということだ。私たちの後ろには、今はもうこの世にいない人たちを含めて、多くの仲間がいる。

しかし同時にそれは、2024年の私たちが享受している自由と平等は例外なく、かつて嘲笑を浴び、石を投げられながらも戦ってきた誰かの屍の上に成り立っていることも意味している。この権利を次の世代に継承させていく責任を、政治家であれ、ミュージシャンであれ、サラリーマンであれ、誰もがそれぞれ負っている。

それを果たすために曽我部が差し出したもの。それが彼がソロデビュー以来、大切に歌い続けてきた「おとなになんかならないで」というフレーズなのだろう。生まれたばかりの我が子を慈しむ言葉を、赤く血塗られたパレスチナと重ね合わせた衝撃は、彼の音楽を愛してきた者ほど大きく感じるはずだ。しかしそれにより私たちは「関心領域」の呪縛から解き放たれ、彼の地に生きる親と子の姿をありありと想像することができる。想像しなければならなくなってしまう。

プーチンがネオナチとの戦いという偽りの大義を掲げ、ネタニヤフがアウシュビッツの悲劇を盾に野蛮な軍事行動を続けていることから分かるように、死後80年経ってもヒトラーの亡霊は未だこの世に留まっている。その事実を踏まえれば、23年10月の惨劇を新たな起点とした中東での悲劇は、完全な和解までに百年単位の時間がかかると考えるべきだ。少なくとも私が生きているうちに解決を見ることはないだろう。しかしその長すぎる道のりにおいても、一人ずつの人間が持つ「殺すな」という言葉だけが持つ、根源的なメッセージが有効性を失うことはない。100年後の世界のためにも、この言葉を手放すわけにはいかない。

 

 

能登半島地震 災害ボランティアの記録

ゴールデンウィークの初めに、石川県輪島市の震災支援ボランティアに参加した。被災したお宅から震災ゴミを運び出す作業。とても良質な労働力とは言えない非力な私が行ってもいいものか。そんな迷いが最後まで頭を離れなかったけど、私が住む街と石川県はNHKの放送エリア(東海・北陸)が同じで、お昼の地方ニュースで日々淡々と読み上げられる給水所や避難所のお知らせを聞くうちに、何か直接的に役に立つことがしたいという気持ちが強くなっていった。自分のルーツがある東日本大震災の時は子どもが小さくて身動きが取れなかったこともあるし、指先とスマホでしか自分の社会的意思を表明できない違和感をなんとかしたいという個人的な動機もあった。とにかくできる時にできる人ができることをやる、ということが大切だろうと思い、参加を申し込むことにした。

しかしこのボランティアの申込もなかなか大変だった。窓口が石川県災害対策ボランティア本部のWebに一本化されているのはいいとして、募集がかかるのが前週の水曜日、申込み開始が木曜日、参加が確定するのが金曜日というスケジュール。大の大人が移動を含めて三日間の余暇をギリギリまで空白のまま確保しておくのはなかなかつらいし、そこから交通手段と宿泊場所を確保するのも大変。やっぱり俺なんて必要とされていないんじゃ…という弱気をぐっと抑えて予約完了。現地でお会いしたボランティア経験豊富な方も、あの日程感はなかなか厳しいとおっしゃっていたので、参加のハードルを下げるための改善が必要ではないか。

 

まずは移動。当日の集合時間が金沢駅に朝6時半なので金沢に前泊。夜行バスで当日入りという手段も浮かんだけど、私ももう若くない。足を引っ張るリスクを考えた。結構な雨が降っていたため、駅ビルで回転寿司を食べて、ちょっと何か出そうなホテルの部屋でテレビを観て過ごした。暇と緊張でちょっと酔っ払う。

4時半に目が覚めて、だいぶ時間に余裕を持って集合場所へ。と言うのも、ボランティアセンターからの案内には「金沢駅西口」としか書いておらず、しかし前日に降り立った金沢駅西口はとても広いターミナルで、迷子になる可能性があったからだ。ここまで来てバスに乗れませんでしたではシャレにならない。

それらしい人たちが集まる場所へ潜り込み、なんとか無事に乗車。バスは大型観光バス。みなさん一人で参加されているようで、会話もなく緊張感が漂う。途中、サービスエリアで休憩したのだが、閉鎖されている売店がぱっと見で分かるくらい横に傾いていることに驚いた。が、この光景で驚くわけにはいかないことをすぐ後に思い知ることになる。

Googleマップで見る限り、金沢から輪島市へ向かうには高速道路が最短コースのはずで、すでに全線開通していると聞いていたのだけれども、半分くらいきたところで一般道へ降りてひたすら山の中を走る。後で聞いたところによると、高速道路は通っているものの、道路のコンディションが悪く一般道以下のスピードしか出せないらしい。車窓から見える大半の家々には、その屋根に青いブルーシートが張られていることに気づく。そしてついに穴水町に入ったところで、瓦屋根だけを残して跡形もなく潰れてしまった住宅を見つけて絶句する。ちょうど反対側の窓には信じられないくらい美しく穏やかな七尾湾が広がっていて、そのギャップをどう受け止めればいいのか分からない。さらに穴水町から輪島市へ北上するにつれて、全壊した家の割合が高まっていく。心が折れそうになるが「お前の心など知ったことか。今はただの労働力だ」と回路を遮断する。

 

出発から3時間強、9時45分頃に輪島市のボランティアセンター着。センターと言っても、スーパーと西松屋などがある商業施設の駐車場に設置されたプレハブ小屋である。そこで輪島市社会福祉協議会の人たちが中心になり、全国の社協からの応援を受けて運営しているようだ。7、8人のグループに分かれてガイダンスを受ける。支援申し込みのあったお宅を訪問し、災害ゴミを外に運び出すお仕事。ただし生活ゴミは対象外。困ったことがあれば社協スタッフに連絡を、くらいを頭に入れて現場へと車で向かう。が、私が活動した輪島市役所付近の状況はこれまで見てきたものよりもはるかにひどく、体感で20%くらいの家が全壊している。まったく無事に見える家の方が少ない。不適切だと思いながらも、どうしても戦場という言葉が頭をよぎってしまう。通れない道も多く、遠回りした先の交差点で、一階が潰れてしまったおそらく人は住んでいない家の窓の中にいた茶トラの猫と目が合った。心が…と一瞬思ったけど、今は何も考えない。私は労働力。

 

一軒目はご高齢の方の一人暮らしのお宅。一見建物は無事のように見えるが、引き戸が開かない。建物の骨格が歪んでしまっている。まずは戸を外すところからスタート。しかし、開けてみると、足の踏み場がまったくないほどありとあらゆる種類のゴミで埋め尽くされている。震災ゴミ(いわゆる粗大ゴミ)にたどり着くには、まずこの生活ゴミをなんとかしないといけない。しかしこれは対象外と言われている中で、どこまでやればよいのか。市指定のゴミ袋もないし。とにかくけもの道を作れるように片付けを開始。心を無にして、新聞、チラシ、ダンボールや発泡スチロール、何年経ったかわからない食べ物(含む生肉…)やぬいぐるみなどをまとめて玄関の外に出す。それから大量の布団、洗濯機、冷蔵庫、棚、介護用トイレなどを運び出した。依頼主さんに失礼があってはいけないので平静を装っていたが、開けた空箱から大量のゴキブリが出てきた瞬間はさすがに声が出た。

2時間かけてめぼしいゴミは外に出したが、本部からの指示により震災ゴミ以外の生活ゴミはいったん家の中に戻すことに。いやでも戻したゴミは一体どうなるのか。ある程度整理したとは言え、ご高齢の住人が自力で片付けるのは絶対に無理である。チーム全員が無言のまま困惑。結局、本部の方が輪島市の福祉関係の部署に今後の援助を聞いてみてくれるということになり、それに望みを託して現場を後に。作業中に「亡くなった配偶者の写真を探してほしい」と言われた時は、いやこの中から…?途方に暮れそうになったが、奇跡的に見つかって本当に良かった。しかしこの作業、まだ5月(かなり寒かった)から良かったけど、夏だったらどうなっていたんだろう…と思わずにはいられない。やっぱり暑くなる前にもっと多くのボランティアを募るべきだったのでは…

午前の作業はこのお宅だけで終了。本部(駐車場)に戻り休憩。現地で飲食物は買えないと聞いていたが三週間ほど前からスーパーが(一部)営業再開していた。食欲はなかったが、持参したカロリーメイトなどを口に押し込む。

午後の作業が始まるまで街を歩く。車に乗っていると分からないのだけれども、とにかく街が静か。ほとんど人気がなく、重機の音がしない。道路はガタガタだし危険な建物ばかりだし、パッと見では重機がいくらあっても足りないという状態なのだけれども。そして倒壊している家としていない家、しているエリアとしていないエリアを明確な線で区切れないことにも気づく。同じくらいの年数、構造に見える隣接した家でも、片方は全壊、片方はほぼ無傷というパターンもある。何が運命を分けたのか。果たしてたまたま以上の理由があるのだろうか。東工大と書かれたヘルメットの一群がNHKの撮影チームと共に視察していた。ぜひ解明してほしいが、その理由が分かったとしても完全に被害を防ぐことは難しいだろう。

電柱には迷い猫を探すチラシが貼ってあって、愛猫家として胸がつぶれる思い。他の人がなんと言おうと、飼い主にとってはペットは家族であるという事実は変えられない。この猫たちがせめてどこかで元気で暮らしていますように。川で見かけた鷺だけが、私の住む街と同じだった。

 

2件目は集合住宅。タンスを運び出してほしいという依頼なので台車も持っていく。が、地震のせいで集合住宅の入口が道路から50センチくらい隆起して段差ができており、まったく使いものにならない。断層からは先が途絶えた下水管が露出している。つまりこの建物全体の下水は通っていないということか。一見無傷に見える建物なのに、共用スペースに仮設トイレが設置されてた理由を理解した。水道はほぼ復旧したと聞いていたけど、個人宅単位ではまだまだなんだろう。が、基礎からズレてしまった建物にどうやって管を通すのかまったく見当がつかない。

例によって歪んだドアをこじ開けて部屋に案内してもらうと、六畳くらいのスペース全てを覆うようにバラバラになったタンスが三つ転がっている。地震の時にこの部屋にいなくて良かったと依頼主は言うが、本当に恐ろしい光景である。みんなでタンスを起こしてみるとどれも無傷。一番背の高いものだけ捨てることに。きれいなのにもったいなくないですか?と聞くと、借家では壁に固定もできないし、また倒れてきたら怖いから、とのこと。

さっきの光景を見た後では、壁に穴を開ける固定ができないというのはあまりにもひどいと思わずにはいられない。生死を分ける問題なのに…と内心で憤りながら、大物家具を運びだす。ちなみに私たちボランティアが乗る車の後にはかなりの確率で廃品回収業者がついてきて、我々が運び出した荷物から価値のありそうなものを、持ち主と交渉した上で持っていく。このタンスは彼らが持っていくようである。持ち主とは基本的にギブアンドテイクの関係なので悪いことではないが、被災地ではこういうビジネスもあるということを知った。

 

帰りのバスまではまだ時間がある。チーム全員がせっかく来たのだから1秒でも長く作業したいという気持ちが強く、もう一件回ることに。今度は一戸建ての2階から家具を運び出してほしいという依頼。台車を積んだバンを私が運転して、本部スタッフが運転する車について現地に向かった。道の舗装ははげていて、ほとんどがガタガタのオフロード。渡れなくなっている橋や点灯していない信号もちらほら。しかも途中の交差点で先行車と離ればなれになってしまい、見知らぬ土地で迷子に。なんてことだと嘆きながら本部へ戻って道を聞く。でもその間、北海道から来たという同乗者に貴重な話を聞くことができてよかった。思えばこれがこの二泊三日で唯一の雑談タイムだった。とは言え私も基本的には人見知りなので、黙々と仕事をするチームの雰囲気はとても心地が良い。ちょっとしたやり取りだけで皆さんが悪い人ではないということは伝わってくるので、それで十分なのである。

先行車から30分近く遅れて現地に着く。無事に見えるお宅だが、真横から見ると家の形が平行四辺形型に歪んでしまっている。素人から見ても修復は難しいことは明らかだ。ちょうど二日前に住宅が倒壊する瞬間の動画がSNSで流れてきたのだが、あれはボランティアの目の前で起きたらしい。正直あんなのいつどこで起きてもおかしくないし、もしそうなったらヘルメットなんて役に立たない。ちなみにこの家に「立ち入り危険」を表す赤紙が貼られているのに気づいたのは作業も終盤になってからだった。

せっせと運び出す大量の荷物から、依頼主の男性がかつて周囲から尊敬される職業を長年続けていたことが分かる。感謝の手紙や写真など、思い出の品がたくさんあったけど全部捨てるとのこと。そして趣味人でもあったらしく、大量のカセット、ビデオテープもあるがこれも処分するとのこと。几帳面な文字で書かれたインデックスを見ると泣けてくる。諸行は無常。そして私が大切にしているレコードとかCDとか本とかもいつかこうなるのか…と気が遠くなりそうになる。

そして荷物の重さはともかく、やはり階段の登り降りがかなりキツい。年を取ったら断捨離して平屋に住みたい。一通り片付けて作業終了。依頼主のご夫婦に挨拶。奥さんは気丈に対応されているが、旦那さんがちょっと魂が抜けた感じになっていて心配。なんとなく他人とは思えない雰囲気の人だった。

 

午後4時。作業終了して本部に全員集合。皆さん怪我なく戻ってこられた模様。社協の方の挨拶によると、被害が大きかった輪島市は市外に避難している人がようやく帰ってきたところで、これからボランティアの需要が増えていくところだという。しかし受け入れ体制が整っておらず、どこまで応えられるか分からない、と。じゃあまた来ますね、と言いたいところだけど、それを約束できないのがつらい。今さら言っても仕方ないし難しい事情もあったのだろうけど、やっぱり夏が来る前、このゴールデンウィークに戦力を投入できるようにするべきだったと思う。

「ぜひ皆さんのSNSでここの現実を伝えてほしい」とボランティアセンターの人に言われたので、帰りのバスの中で見てきたものをTwitterにあげていく。あの光景に対して自分が何の役に立ったのか。私のような者が貴重なボランティア枠を埋めてまでやって来る意味は本当にあったのだろうかという思いは頭から離れない。

そもそも4ヶ月も経つのに、高速道路を含めたあらゆるロジスティクスがこんなに貧弱なままなのかが理解できない。もしこれがこの国の本気だとしたら悲しいことだし、もし本気じゃないというのならば許しがたい。何かというと自己責任というのが2000年以降の貧しい日本の風潮だけれども、人生がうまくいくのもいかないのも、「たまたま」という要素があまりにも大きいことは大人だったら誰でも知っているはず。病気でも事故でも就職でも受験でも、生まれたままの自分の力だけで成し遂げられることも回避できることだってないですよ。その中でも最大のたまたま案件である、地震という天災に対して、「たまたま俺ではなかっただけ」という前提に立てば、被災者の生活再建に対しては最大限のサポートをするべきだろう。しかも支出したお金は間違いなく国内で循環するわけだし。ケチケチすんなよ、と思ってしまう。

 

7時頃に金沢駅にバスが着く。チームのみなさんとは「お疲れ様でした」と一言だけ挨拶して解散。今夜の宿のカプセルホテルへ歩きながら、金沢の圧倒的な大都会ぶりとさっきまでの光景のギャップに圧倒される。ちなみにこないだから北陸への旅行割りが再開されていたけど、ほぼ意味がないと思う。すでに金沢は観光客でいっぱいだし、被災地の観光施設はすべてクローズしている。税金は被災地を直接支援するために使うべきだと思う。

ホテルに着き、荷物を整理して熱いシャワーを浴びてひと息つく。そのまま事前に調べておいた素敵なジャズバーへ行き、カレーを食べ、ビールとウィスキーを飲み、巨大なJBLアート・ペッパーを聴く。はっきり言って天国だ。が、数時間前までいた街で会った人は誰も自宅のお風呂もトイレも使えていない。コンビニで買ったビールをホテルの休憩所で飲みなおして就寝。身体はクタクタだが頭が興奮して寝付けない。

翌日は5時に目を覚ます。カプセルホテルの上段から降りるのに苦労するくらいには筋肉痛。シャワーを浴びてダラダラしてからチェックアウト。朝ごはんを食べようと思うがピンと来る店がないまま金沢城まで歩いてきてしまった。60年近く前に義父母がこの辺に住んでいたらしい。めちゃくちゃいいところだし、めちゃくちゃいい天気。昨日のご褒美だと思うことにして、近接する石川県立博物館、鈴木大拙記念館、金沢21世紀美術館をはしごした。幸いにして金沢市内はほぼ地震の影響を感じないが、21世紀美術館の有料展示が休止中ということだけが私が感じた爪痕。社会におけるカナリアとしてのアートという意味で、どこか象徴的なものを勝手に感じてしまう。しかし別館で特別無料展示されていた作品がヤノベケンジだったのは、美術館から現在の世界に対するメッセージなのだろう。それにしても初めて訪れた21世紀美術館は完全に街並みに溶け込み、老若男女が集う集会所のような雰囲気。感動した

 

金沢の中心部を歩いていると、巨大な北國新聞社の本社ビルにぶち当たった。北國新聞と言えば、石川県が生んだ大政治家・森喜朗との蜜月で知られる。しかしオリンピックやワールドカップで利権を漁りの剛腕をふるったあの老人が、震災に際して何か活動したという話は寡聞にして聞かない。裏金づくりの言い訳は一生懸命する元気はあるのに。自然災害に党派性は持ち込みたくないが、虚しい気持ちにはなった。

 

目の前を通りがかったカラスを黒猫と見間違えるくらい愛猫に会いたくなってきたところで帰りのバスの時間。いつになるかわからないけど、絶対にまた能登半島に来よう。今回はチラッとしか見えなかった海に触れて、魚を食べ、日本酒を飲むのだ。もちろんゴミ出し作業でもいいけど、そんなニーズは早く無くなるのが一番いい。

 

労働者性の収奪 「PERFECT DAYS」について

冬休みが終わり、2024年の仕事が始まった。これでもう23回目の仕事初めということになるが、やはり憂鬱だ。今週は三回も人身事故で電車のダイヤが乱れていた。結局、多少給料が増えようとも、仕事の種類が変わろうとも、労働はしょせん労働。意に沿わない、生きていくための、繰り返される諸行無常にすぎない。仕事の外で音楽ライターの真似をしてみたところで、俺が戻ってくるのはここしかない。悲しいか?と問われれば、もちろん悲しい。つまんない?と問われれば、もちろんつまらん。でもやるしかないんだよ。

 

こんなしみったれた悲しみを、しかしながら、実のところ私は深く愛しているのかもしれない。そんなことをヴィム・ヴェンダースの映画『PERFECT DAYS』を観て気づかされた。自分の根っこにある、労働者であることを掠め取られたような気がして、途中で席を立ちたくなるくらいムカついていたのだ。逆に言うと、自分がこの労働者性というものに並々ならぬこだわりを持っていたということに初めて気付いたのである。

あの映画は一見すると労働と労働者を讃えているようで、実はそうではない(と思う)。低賃金にも文句を言わず、不衛生なトイレ掃除の道具を私有車に積み、意識の低い同僚を尻目に黙々と働く一方でフィルムカメラと古典文学、そしてロックやソウルミュージックを愛する男・平山。彼を通じて見えてくるのは、どんな泥にまみれても汚れることのない、鋼のように強い哲学と美意識。それを讃えているのだ。珍妙なトイレも、労働も、ボロいアパートも、それを際立たせるための小道具にすぎない。そしてその根底には「こんな風に見える彼ですが、実は俺たちと同じ風流を解する男なんですよ」という作り手たちの(無意識かもしれないが)選民意識があることを否定するのは難しいだろう。その疑念は、「実は富豪の息子でした〜」という(少年アシベの父ちゃんと同じ)設定で一層深まる。なぜ市井の労働者を市井の労働者として美しく描くことができないのか。そこにこの作品の弱さがある、と元労働組合役員として厳しく指摘しておきたい。

確かに世界的な映画監督や、ユニクロの御曹司プロデューサーや、電通のエリートクリエーターから見れば、クソみたいにつまんない仕事をして、同僚や上司の悪口を言い、安い酒とロックンロールで憂さを晴らす私のような者の日々は、哀れで不自由なものに見えるのかもしれない。実際(程度の差こそあれ)その通りである。しかし、少なくとも俺たちには、この不自由を謳歌する自由がある。この不自由に唾をかけ、毒づく自由だけは手にしているのだ。かつてECDが「俺は俺の貧しさを手放さない」と書いていたように、俺にとってはこの「不自由な労働から逃れられないこと」こそがアイデンティティである。貴族が気安く触るな。こっちは「ぼくが考えたさいきょうのクールジャパン」のために生きてるわけではない。趣味のいい歯医者が選んだロック/ソウルの名盤500みたいな選曲にすっかり白けながら劇場を後にしたのだが、しかし、ここまで書いた文章を読み返すとまだ俺にこんな怒る元気があったのかというくらいにみなぎっているという点においては、この映画に感謝すべきなのかもしれない。

 

それとは対照的に(という話し方がいかに品がないものであることは分かっているが)、同時期に公開されたアキ・カウリスマキの「枯れ葉」は、これまでの彼の作品同様、労働者そのものに焦点を当て、そこから1ミリも目を逸らさずに撮り切った作品だ。いつものように、善人でも悪人でもない、しかし不器用な主人公を淡々と、しかしこれでもかというくらいにひどい目に合わせて、その果てに残るささやかな希望を描いている。善人でも悪人でもない労働者は、共産圏の寒々しさが漂う店で不味そうな酒を飲み、ダサい音楽を聴き、生きるための仕事を探して小さなベッドの上で眠る。そこに平山のような美学や哲学は存在しない。

そして私が最も感動したことはこの物語がアキ・カウリスマキが90年代に制作した「敗者三部作」とまったく同じ筋書きをなぞっていたことである。冷戦が終わっても、格差が広がっても、戦争が起きても、私たちはメシを食う必要がある。労働とはその手段であり、それ以上でも以下でもない。この揺るぎのない退屈な真理を、自らの人生をかけて証明している。だから彼の作中に出てくる主人公は、職がなくても家がなくても、決して卑屈な表情を見せず、誰にも媚びず、常に無愛想かつ堂々としているのだろう。太鼓持ちのサラリーマンである私としてはそこに大いに励まされるような気持ちになる。今の仕事を失ったとしても、それはただ仕事失っただけにすぎない。また堂々と、坦々と、食うための仕事を探せばいいのだ、と。

映画の終盤でなんだか急に小学生の頃に夢中になっていたチャップリンの映画を見返したくなったのは、彼もまた労働と生活の坦々とした悲しみ(と犬のかわいさ)を、何度も何度もミニマルなサイレント映画で描いていたからだろう(たぶん。もう30年も観ていないから)。だからあのラストシーンには心底驚いたし、ちょっと泣いた。

 

【配信解禁記念】センチュリーとルースターズに見る日本人の精神性について

自動車も、乗り方によって存在感ががらっと変わる。そのことに気がついたのは、今から数十年前、高校生の時に見た写真週刊誌。離婚問題で追いかけ回されていた永瀬正敏の後ろに映っていた白っぽいトヨタ・センチュリーを見た瞬間だった。あの頃の永瀬は、触るものみなカッコよく見せてしまう魔法の使い手だったので、それまで昭和の応接室にしか見えていなかったセンチュリーが、急にジャパニーズ・ギャングスターの成功の証のような、グリッターな輝きを帯びているように感じた。工業技術の集積である自動車をファッションやカルチャーの文脈で捉え直すことができることに気づいたのだ。

 

センチュリーはトヨタグループの創始者である豊田佐吉の生誕100年となる1967年に発表されたフラッグシップ・モデル。日産プレジデントと共に、政府・官庁、企業のVIPの公用車として活躍した。一分の隙もないほどに、おっさんのおっさんによるおっさんのための車である。

専任者がほぼ手作業で作り上げるという車体には、国産乗用車初のV型12気筒エンジンが搭載されたが、これは片側の6気筒が故障しても残りの6気筒で要人を無事に目的地まで送り届けるという設計思想があったとされる。本当にそんなことができるのかは知らないし、そんな場面がそうそうあるとも思えないし、そこまでして助けなきゃいけないおっさんがどれだけいたのかも分からないが、中2ゴコロをくすぐる伝説ではある。ちなみに私の記憶が正しければ、永瀬正敏が乗っていたセンチュリーのボディカラーは「精華」だったはず。そう、この車はボディカラーもすべて漢字で表されるのだ(他には「神威」「摩周」「瑞雲」とか)。そしてフロントグリルに輝く鳳凰のエンブレムは七宝焼に手彫りを加えたもの。

西洋からやってきた自動車という乗り物に、なんとしてもジャパニーズ・トラディションを搭載するのだ…という昭和男の執念。ならばいっそ「世紀号」とか「佐吉丸」と名付ければいいようにも思うが、この煮え切らない感じこそが、戦後日本というものなのだろう。

しかしこの欧米に対する受容と反発の愛憎関係は、決して昭和おじさんだけのものではない。若者文化におけるその最も顕著な表出は、明治時代のバンカラに始まり、令和の「東京リベンジャーズ」に至るまで続く、いわゆるヤンキー・カルチャーであろう。「愛羅武勇」「暴威」「亜無亜危異」といった定番の当て字とセンチュリーのボディカラーが一致してしまうのは決して偶然ではない。

根っからの文系・リベラル・ニュータウンっ子である私にとって、この中途半端な伝統主義は最も忌避すべきものに他ならなかったが、少なくともクルマの世界ではセンチュリーという例外ができた。永瀬正敏が乗っていただけで。そして時をほぼ同じくして、音楽においても例外の存在が現れた。その名は、ザ・ルースターズ修羅の国・北九州が生んだ最高のロックンロール・バンドである。

ファースト・アルバム『THE ROOSTERS』のジャケットを見てほしい。荒廃した裏通りで睨みをきかせるの4人の眼差し。目があった5秒後には身ぐるみ剥がされている自分しか想像できない。ヤクザ人生50年分くらいの修羅を経た仕上がりだが、この時の彼らはまだ二十歳そこそこ。当時の私とほとんど年齢が変わらないということに強い衝撃を受けた。

The Champsのあまりにも有名な「Tequila 」のカバーから始まる演奏も痺れるほどかっこいいが、ジャケット同様に浮かれたところはどこにもない。ダンス・ミュージックとパンク・ロックの本質に最短距離でにじりより、掴みかかるような緊張感。エディ・コクランやボ・ティドリーのカバーを交えながら次々と繰り出されるビートは、タイトでクールという言葉に尽きる。若者だけに許された、新世代による革命などという浮ついた理想には目もくれず、虚飾を排したリズムを追求する様は、硬派という形容がぴったりくる。パーティー・ミュージックとしての、あるいはセックス・アピールのためのロックンロールを受容し、職人気質と任侠道でそれに応えるというフィードバック。昭和の日本ならではのもの…などと言ってしまったらしめられるだろうか。

 

ちなみにかつて私が一度だけセンチュリーの助手席に乗った時、ダッシュボードには演歌のカセットテープが置かれていた。後部座席の主がいない時にだけ、運転手がこっそりと聴くのであろう。「クラウンでもレクサスでもなく、センチュリーを運転することには、ドライバーとして特別な誇りがあります」と語ってくれたその寡黙な運転手にならい、またこの車に乗り込むことがあれば、後部座席ではなく、運転席を預かる職人として、ルースターズをこっそり爆音で鳴らしてみたい。

真夏のクライマックス 後編(9/3 東京国際フォーラム)

アメリカの生きる伝説スパークスから始まった2023年の夏休みは、日本のロックシーンが誇るリビング・レジェンド佐野元春の東京公演で終わった。今回の『今、何処』ツアーは6月の名古屋ですでに目撃していたのだけれども、去年からいくつかの記事を書いたご縁でライブにご招待頂いたのである。

こういう時っておみやげとか持っていくものなのだろうか。いや業界人がそんなことするわけないじゃないか。いやでもお前は業界人じゃないだろう、と前日から緊張∞(むげんだい)。新幹線の席に着いた瞬間、髪をセットしていないことに気づく。時速300キロで運ばれるモジャおじ。

 

とりあえずせっかくプライベートで東京に来たのだからと吉祥寺へ。いせやで(お店の人のぶっきらぼうぶりにびびりながら)昼飲みした後に、コロナ禍以降足を運べていなかったココナッツディスクへ。矢島店長はいらっしゃらなかったが、相変わらず最高のヴァイブス。ジュークボックスに飾ってある佐野元春のサインを拝んでから都心へ戻る。サニーデイの『東京』のジャケットを撮影したという千鳥ヶ淵を通ってイタリア文化会館で「江口寿史×ルカ・ティエリ展」へ。巨大なサイズの『いいね!』のジャケットを見ることが目的だったが、江口寿史の作品もとても良かった。美少女の絵というものがちょっと苦手なのだが、江口寿史が描く絵のキャラクターには男女を問わず凛とした意志が感じられ、素直に素敵だと思えた。今さら何言ってんだという話ですが。

 

インディーおじとしての自分のルーツを確認した後、いよいよ宮殿のような東京国際フォーラムへ。ご本人には会えないだろうからと近くのプロントに入ってCDと一緒に渡す御礼のメッセージカードを書く。が、私の字は控えめに言ってシンナーをきめた中学生が書いたものにしか見えないのでかえって失礼であることは分かっているのだがもう後には退けない。長蛇の列を後ろめたい気持ちですり抜けて関係者受付へ。いろいろと親切にして下さったマネージャーさんにご挨拶すると「終演後、ロビーでレセプションがあるので本人にも会っていってくださいね」なんておっしゃっる。え?会えるの?マジで?どうする?家康?と緊張∞の岡崎市民。ふと前を見ると目の前に七尾旅人がいた。なんなんだここは。

 

席につき超満員5,000人の聴衆を眺める。二日前のブラジルコーヒーとのスケールの違いに脳がバグりそうになっていると、前の席には萩原健太能地祐子今井智子が並んでいる。やっぱここはすげーところだ…と頭の中で「オラ東京さ行くだ」が鳴り出してしまったところで客電が落ちて我に帰った。するとまだメンバー姿が見える前なのに、満場のお客さんが手拍子を始める。なにこの雰囲気みんな最高じゃん…と驚愕しているところに佐野元春とコヨーテバンドが登場。今日も黒いスーツでビシッと決めて「さよならメランコリア」からスタート。ふわふわしていた魂がぶち上がり熱い血が沸る。

 

ほぼ最新作である『今、何処』のみのセットリストにオーディエンスも熱狂的に応える。一定以上のキャリアがあるのに最新作が一番盛り上がるアーティストはサニーデイ・サービスだけだと思い込んでいたのだが、デビュー 41年の佐野元春のライブでもまったく同じ光景が広がっている。青春期の思い出と共に佐野元春の作品を血肉化したファンが、大人になってから聴き始めた私と同じテンションでこの作品を受け入れているのは奇跡のように思える。しかし長年サポートしてきたアーティストが瑞々しい創造性をもってシーンに広く深く刺さる作品を作り出すなんて、ファンとしても最高に誇らしい心境だろう。そんな両者の信頼関係を感じる美しい光景だった。

そしてこの日の佐野元春は、この大舞台をのびのびと楽しんでいるようにも見えた。最高の舞台を用意してくれるスタッフと完璧な演奏をしてくれるバンドに後を任せ、本人はフロントマンとしてより良いパフォーマンスをすることだけに集中すればよいという境地だったのではないか。こうした最高の環境の中で、最高のファンを前に、自分のやりたいことだけを詰め込んだ最新作を演奏できるということこそが、40年以上も音楽産業のど真ん中で戦い続けてきた最大の成果なのではないかという気がした。

 

本編の終盤では10年代の傑作『Blood Moon』から「優しい闇」も演奏され、私はもうすっかり感極まると同時に、ずっと気になっていた自分に対する疑問の答えを得たような気がした。それは、例えばブラジルコーヒーで演奏する東郷清丸やOhhkiと、国際フォーラムのステージに立つ佐野元春は、自分にとって同じ「音楽」と言っていいものなのか、ということである。

もちろん東郷清丸、Ohhki、そして佐野元春の表現が刺激してくる部位は異なる。前者は抽象的な想像力を、後者はより実際的な勇気を高めてくれる。しかしこの週末ではっきりしたことは、ステージの大小に関わらず、私が敬愛するアーティストにはやはりどこか通じるものがあるということである。それは、自らの魂にだけに忠実な表現であること、そして社会に対して独立した個として対峙していること。こういったことをパフォーマンスから感じられる表現者にこそ惹かれてしまうのだ。そもそも00年代以降の佐野元春こそ、メジャーを離れてインディペンデントに活動するアーティストのパイオニアなのだから、共通するアティテュードがあるのは当然だろう。そんなことを5000人の視線を一身に引き受けながら、観客それぞれと一対一の関係を作っていく佐野元春を観ながら考えていた。

 

そして終演後。ついに私はテレビでよく見るタレントさんや中学生の頃から文章を読んでいた背の高い評論家、ブロックで有名などうした東京の音楽ライターや人格形成に多大なる影響を与えてくれた大物ミュージシャンたちに混じって、本日の主役にお礼を言う機会を得ることができた。もちろん伝えたいことはもちろんたくさんあったけど、肝心な時ほどうまく動かない口だということはこれまでの人生で嫌というほど知っている。「ありがとうございました。本当に感動しました」とだけ伝えると、みんなが知ってるあのジェントルな笑顔で握手をしつつ、思いがけないほど優しい言葉をかけてくれた。もちろんすれっからしの社会人である私は、こうしたレセプションが業界の慣例であるということは理解している。が、そんなともすれば寒々しくなりかねない場であっても、佐野元春は私のような者にも真摯に接することで、その場を血の通うものにしていることを体感した。よく考えてみると、数字が全ての音楽産業の中で彼がずっとやってきたことも、結局のところこういうことだったのかもしれない。生き方を貫き通すということはこういうことか。完全にバグった脳でそんなことを考えながら、最終の新幹線に乗り込んだ。熱すぎる夏の終わりだった。