ドリーミー刑事のスモーキー事件簿

バナナレコードでバイトしたいサラリーマンが投げるmessage in a bottle

能登半島地震 災害ボランティアの記録

ゴールデンウィークの初めに、石川県輪島市の震災支援ボランティアに参加した。被災したお宅から震災ゴミを運び出す作業。とても良質な労働力とは言えない非力な私が行ってもいいものか。そんな迷いが最後まで頭を離れなかったけど、私が住む街と石川県はNHKの放送エリア(東海・北陸)が同じで、お昼の地方ニュースで日々淡々と読み上げられる給水所や避難所のお知らせを聞くうちに、何か直接的に役に立つことがしたいという気持ちが強くなっていった。自分のルーツがある東日本大震災の時は子どもが小さくて身動きが取れなかったこともあるし、指先とスマホでしか自分の社会的意思を表明できない違和感をなんとかしたいという個人的な動機もあった。とにかくできる時にできる人ができることをやる、ということが大切だろうと思い、参加を申し込むことにした。

しかしこのボランティアの申込もなかなか大変だった。窓口が石川県災害対策ボランティア本部のWebに一本化されているのはいいとして、募集がかかるのが前週の水曜日、申込み開始が木曜日、参加が確定するのが金曜日というスケジュール。大の大人が移動を含めて三日間の余暇をギリギリまで空白のまま確保しておくのはなかなかつらいし、そこから交通手段と宿泊場所を確保するのも大変。やっぱり俺なんて必要とされていないんじゃ…という弱気をぐっと抑えて予約完了。現地でお会いしたボランティア経験豊富な方も、あの日程感はなかなか厳しいとおっしゃっていたので、参加のハードルを下げるための改善が必要ではないか。

 

まずは移動。当日の集合時間が金沢駅に朝6時半なので金沢に前泊。夜行バスで当日入りという手段も浮かんだけど、私ももう若くない。足を引っ張るリスクを考えた。結構な雨が降っていたため、駅ビルで回転寿司を食べて、ちょっと何か出そうなホテルの部屋でテレビを観て過ごした。暇と緊張でちょっと酔っ払う。

4時半に目が覚めて、だいぶ時間に余裕を持って集合場所へ。と言うのも、ボランティアセンターからの案内には「金沢駅西口」としか書いておらず、しかし前日に降り立った金沢駅西口はとても広いターミナルで、迷子になる可能性があったからだ。ここまで来てバスに乗れませんでしたではシャレにならない。

それらしい人たちが集まる場所へ潜り込み、なんとか無事に乗車。バスは大型観光バス。みなさん一人で参加されているようで、会話もなく緊張感が漂う。途中、サービスエリアで休憩したのだが、閉鎖されている売店がぱっと見で分かるくらい横に傾いていることに驚いた。が、この光景で驚くわけにはいかないことをすぐ後に思い知ることになる。

Googleマップで見る限り、金沢から輪島市へ向かうには高速道路が最短コースのはずで、すでに全線開通していると聞いていたのだけれども、半分くらいきたところで一般道へ降りてひたすら山の中を走る。後で聞いたところによると、高速道路は通っているものの、道路のコンディションが悪く一般道以下のスピードしか出せないらしい。車窓から見える大半の家々には、その屋根に青いブルーシートが張られていることに気づく。そしてついに穴水町に入ったところで、瓦屋根だけを残して跡形もなく潰れてしまった住宅を見つけて絶句する。ちょうど反対側の窓には信じられないくらい美しく穏やかな七尾湾が広がっていて、そのギャップをどう受け止めればいいのか分からない。さらに穴水町から輪島市へ北上するにつれて、全壊した家の割合が高まっていく。心が折れそうになるが「お前の心など知ったことか。今はただの労働力だ」と回路を遮断する。

 

出発から3時間強、9時45分頃に輪島市のボランティアセンター着。センターと言っても、スーパーと西松屋などがある商業施設の駐車場に設置されたプレハブ小屋である。そこで輪島市社会福祉協議会の人たちが中心になり、全国の社協からの応援を受けて運営しているようだ。7、8人のグループに分かれてガイダンスを受ける。支援申し込みのあったお宅を訪問し、災害ゴミを外に運び出すお仕事。ただし生活ゴミは対象外。困ったことがあれば社協スタッフに連絡を、くらいを頭に入れて現場へと車で向かう。が、私が活動した輪島市役所付近の状況はこれまで見てきたものよりもはるかにひどく、体感で20%くらいの家が全壊している。まったく無事に見える家の方が少ない。不適切だと思いながらも、どうしても戦場という言葉が頭をよぎってしまう。通れない道も多く、遠回りした先の交差点で、一階が潰れてしまったおそらく人は住んでいない家の窓の中にいた茶トラの猫と目が合った。心が…と一瞬思ったけど、今は何も考えない。私は労働力。

 

一軒目はご高齢の方の一人暮らしのお宅。一見建物は無事のように見えるが、引き戸が開かない。建物の骨格が歪んでしまっている。まずは戸を外すところからスタート。しかし、開けてみると、足の踏み場がまったくないほどありとあらゆる種類のゴミで埋め尽くされている。震災ゴミ(いわゆる粗大ゴミ)にたどり着くには、まずこの生活ゴミをなんとかしないといけない。しかしこれは対象外と言われている中で、どこまでやればよいのか。市指定のゴミ袋もないし。とにかくけもの道を作れるように片付けを開始。心を無にして、新聞、チラシ、ダンボールや発泡スチロール、何年経ったかわからない食べ物(含む生肉…)やぬいぐるみなどをまとめて玄関の外に出す。それから大量の布団、洗濯機、冷蔵庫、棚、介護用トイレなどを運び出した。依頼主さんに失礼があってはいけないので平静を装っていたが、開けた空箱から大量のゴキブリが出てきた瞬間はさすがに声が出た。

2時間かけてめぼしいゴミは外に出したが、本部からの指示により震災ゴミ以外の生活ゴミはいったん家の中に戻すことに。いやでも戻したゴミは一体どうなるのか。ある程度整理したとは言え、ご高齢の住人が自力で片付けるのは絶対に無理である。チーム全員が無言のまま困惑。結局、本部の方が輪島市の福祉関係の部署に今後の援助を聞いてみてくれるということになり、それに望みを託して現場を後に。作業中に「亡くなった配偶者の写真を探してほしい」と言われた時は、いやこの中から…?途方に暮れそうになったが、奇跡的に見つかって本当に良かった。しかしこの作業、まだ5月(かなり寒かった)から良かったけど、夏だったらどうなっていたんだろう…と思わずにはいられない。やっぱり暑くなる前にもっと多くのボランティアを募るべきだったのでは…

午前の作業はこのお宅だけで終了。本部(駐車場)に戻り休憩。現地で飲食物は買えないと聞いていたが三週間ほど前からスーパーが(一部)営業再開していた。食欲はなかったが、持参したカロリーメイトなどを口に押し込む。

午後の作業が始まるまで街を歩く。車に乗っていると分からないのだけれども、とにかく街が静か。ほとんど人気がなく、重機の音がしない。道路はガタガタだし危険な建物ばかりだし、パッと見では重機がいくらあっても足りないという状態なのだけれども。そして倒壊している家としていない家、しているエリアとしていないエリアを明確な線で区切れないことにも気づく。同じくらいの年数、構造に見える隣接した家でも、片方は全壊、片方はほぼ無傷というパターンもある。何が運命を分けたのか。果たしてたまたま以上の理由があるのだろうか。東工大と書かれたヘルメットの一群がNHKの撮影チームと共に視察していた。ぜひ解明してほしいが、その理由が分かったとしても完全に被害を防ぐことは難しいだろう。

電柱には迷い猫を探すチラシが貼ってあって、愛猫家として胸がつぶれる思い。他の人がなんと言おうと、飼い主にとってはペットは家族であるという事実は変えられない。この猫たちがせめてどこかで元気で暮らしていますように。川で見かけた鷺だけが、私の住む街と同じだった。

 

2件目は集合住宅。タンスを運び出してほしいという依頼なので台車も持っていく。が、地震のせいで集合住宅の入口が道路から50センチくらい隆起して段差ができており、まったく使いものにならない。断層からは先が途絶えた下水管が露出している。つまりこの建物全体の下水は通っていないということか。一見無傷に見える建物なのに、共用スペースに仮設トイレが設置されてた理由を理解した。水道はほぼ復旧したと聞いていたけど、個人宅単位ではまだまだなんだろう。が、基礎からズレてしまった建物にどうやって管を通すのかまったく見当がつかない。

例によって歪んだドアをこじ開けて部屋に案内してもらうと、六畳くらいのスペース全てを覆うようにバラバラになったタンスが三つ転がっている。地震の時にこの部屋にいなくて良かったと依頼主は言うが、本当に恐ろしい光景である。みんなでタンスを起こしてみるとどれも無傷。一番背の高いものだけ捨てることに。きれいなのにもったいなくないですか?と聞くと、借家では壁に固定もできないし、また倒れてきたら怖いから、とのこと。

さっきの光景を見た後では、壁に穴を開ける固定ができないというのはあまりにもひどいと思わずにはいられない。生死を分ける問題なのに…と内心で憤りながら、大物家具を運びだす。ちなみに私たちボランティアが乗る車の後にはかなりの確率で廃品回収業者がついてきて、我々が運び出した荷物から価値のありそうなものを、持ち主と交渉した上で持っていく。このタンスは彼らが持っていくようである。持ち主とは基本的にギブアンドテイクの関係なので悪いことではないが、被災地ではこういうビジネスもあるということを知った。

 

帰りのバスまではまだ時間がある。チーム全員がせっかく来たのだから1秒でも長く作業したいという気持ちが強く、もう一件回ることに。今度は一戸建ての2階から家具を運び出してほしいという依頼。台車を積んだバンを私が運転して、本部スタッフが運転する車について現地に向かった。道の舗装ははげていて、ほとんどがガタガタのオフロード。渡れなくなっている橋や点灯していない信号もちらほら。しかも途中の交差点で先行車と離ればなれになってしまい、見知らぬ土地で迷子に。なんてことだと嘆きながら本部へ戻って道を聞く。でもその間、北海道から来たという同乗者に貴重な話を聞くことができてよかった。思えばこれがこの二泊三日で唯一の雑談タイムだった。とは言え私も基本的には人見知りなので、黙々と仕事をするチームの雰囲気はとても心地が良い。ちょっとしたやり取りだけで皆さんが悪い人ではないということは伝わってくるので、それで十分なのである。

先行車から30分近く遅れて現地に着く。無事に見えるお宅だが、真横から見ると家の形が平行四辺形型に歪んでしまっている。素人から見ても修復は難しいことは明らかだ。ちょうど二日前に住宅が倒壊する瞬間の動画がSNSで流れてきたのだが、あれはボランティアの目の前で起きたらしい。正直あんなのいつどこで起きてもおかしくないし、もしそうなったらヘルメットなんて役に立たない。ちなみにこの家に「立ち入り危険」を表す赤紙が貼られているのに気づいたのは作業も終盤になってからだった。

せっせと運び出す大量の荷物から、依頼主の男性がかつて周囲から尊敬される職業を長年続けていたことが分かる。感謝の手紙や写真など、思い出の品がたくさんあったけど全部捨てるとのこと。そして趣味人でもあったらしく、大量のカセット、ビデオテープもあるがこれも処分するとのこと。几帳面な文字で書かれたインデックスを見ると泣けてくる。諸行は無常。そして私が大切にしているレコードとかCDとか本とかもいつかこうなるのか…と気が遠くなりそうになる。

そして荷物の重さはともかく、やはり階段の登り降りがかなりキツい。年を取ったら断捨離して平屋に住みたい。一通り片付けて作業終了。依頼主のご夫婦に挨拶。奥さんは気丈に対応されているが、旦那さんがちょっと魂が抜けた感じになっていて心配。なんとなく他人とは思えない雰囲気の人だった。

 

午後4時。作業終了して本部に全員集合。皆さん怪我なく戻ってこられた模様。社協の方の挨拶によると、被害が大きかった輪島市は市外に避難している人がようやく帰ってきたところで、これからボランティアの需要が増えていくところだという。しかし受け入れ体制が整っておらず、どこまで応えられるか分からない、と。じゃあまた来ますね、と言いたいところだけど、それを約束できないのがつらい。今さら言っても仕方ないし難しい事情もあったのだろうけど、やっぱり夏が来る前、このゴールデンウィークに戦力を投入できるようにするべきだったと思う。

「ぜひ皆さんのSNSでここの現実を伝えてほしい」とボランティアセンターの人に言われたので、帰りのバスの中で見てきたものをTwitterにあげていく。あの光景に対して自分が何の役に立ったのか。私のような者が貴重なボランティア枠を埋めてまでやって来る意味は本当にあったのだろうかという思いは頭から離れない。

そもそも4ヶ月も経つのに、高速道路を含めたあらゆるロジスティクスがこんなに貧弱なままなのかが理解できない。もしこれがこの国の本気だとしたら悲しいことだし、もし本気じゃないというのならば許しがたい。何かというと自己責任というのが2000年以降の貧しい日本の風潮だけれども、人生がうまくいくのもいかないのも、「たまたま」という要素があまりにも大きいことは大人だったら誰でも知っているはず。病気でも事故でも就職でも受験でも、生まれたままの自分の力だけで成し遂げられることも回避できることだってないですよ。その中でも最大のたまたま案件である、地震という天災に対して、「たまたま俺ではなかっただけ」という前提に立てば、被災者の生活再建に対しては最大限のサポートをするべきだろう。しかも支出したお金は間違いなく国内で循環するわけだし。ケチケチすんなよ、と思ってしまう。

 

7時頃に金沢駅にバスが着く。チームのみなさんとは「お疲れ様でした」と一言だけ挨拶して解散。今夜の宿のカプセルホテルへ歩きながら、金沢の圧倒的な大都会ぶりとさっきまでの光景のギャップに圧倒される。ちなみにこないだから北陸への旅行割りが再開されていたけど、ほぼ意味がないと思う。すでに金沢は観光客でいっぱいだし、被災地の観光施設はすべてクローズしている。税金は被災地を直接支援するために使うべきだと思う。

ホテルに着き、荷物を整理して熱いシャワーを浴びてひと息つく。そのまま事前に調べておいた素敵なジャズバーへ行き、カレーを食べ、ビールとウィスキーを飲み、巨大なJBLアート・ペッパーを聴く。はっきり言って天国だ。が、数時間前までいた街で会った人は誰も自宅のお風呂もトイレも使えていない。コンビニで買ったビールをホテルの休憩所で飲みなおして就寝。身体はクタクタだが頭が興奮して寝付けない。

翌日は5時に目を覚ます。カプセルホテルの上段から降りるのに苦労するくらいには筋肉痛。シャワーを浴びてダラダラしてからチェックアウト。朝ごはんを食べようと思うがピンと来る店がないまま金沢城まで歩いてきてしまった。60年近く前に義父母がこの辺に住んでいたらしい。めちゃくちゃいいところだし、めちゃくちゃいい天気。昨日のご褒美だと思うことにして、近接する石川県立博物館、鈴木大拙記念館、金沢21世紀美術館をはしごした。幸いにして金沢市内はほぼ地震の影響を感じないが、21世紀美術館の有料展示が休止中ということだけが私が感じた爪痕。社会におけるカナリアとしてのアートという意味で、どこか象徴的なものを勝手に感じてしまう。しかし別館で特別無料展示されていた作品がヤノベケンジだったのは、美術館から現在の世界に対するメッセージなのだろう。それにしても初めて訪れた21世紀美術館は完全に街並みに溶け込み、老若男女が集う集会所のような雰囲気。感動した

 

金沢の中心部を歩いていると、巨大な北國新聞社の本社ビルにぶち当たった。北國新聞と言えば、石川県が生んだ大政治家・森喜朗との蜜月で知られる。しかしオリンピックやワールドカップで利権を漁りの剛腕をふるったあの老人が、震災に際して何か活動したという話は寡聞にして聞かない。裏金づくりの言い訳は一生懸命する元気はあるのに。自然災害に党派性は持ち込みたくないが、虚しい気持ちにはなった。

 

目の前を通りがかったカラスを黒猫と見間違えるくらい愛猫に会いたくなってきたところで帰りのバスの時間。いつになるかわからないけど、絶対にまた能登半島に来よう。今回はチラッとしか見えなかった海に触れて、魚を食べ、日本酒を飲むのだ。もちろんゴミ出し作業でもいいけど、そんなニーズは早く無くなるのが一番いい。