ドリーミー刑事のスモーキー事件簿

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映画「ドライブ・マイ・カー」にまつわる車の話

村上春樹の「ドライブ・マイ・カー」は出たばかりの時に読んだはずなのだけど、その内容はほとんど覚えていなかった。今回、映画を観てから改めて読み直してみたが、やはりあまりピンと来るものがなかった。主人公・家福が抱えていた葛藤が私にとってはそこまで切実あるいは特別なものとは思えないのかもしれない。


それにも関わらず、3時間にもわたる映画「ドライブ・マイ・カー」から一瞬も目を離すことができなかったのは、この映画が結論や主題によって引っ張るものではなく、過程と細部を堪能させる作品だったからということなのだろう。そしてこの過程と細部を丹念に描き込むにあたり、原作と絶妙に設定をずらすことで、村上春樹特有の灰汁のようなものを取り除き、彼の作品とは距離を感じている私のような人間を含めた、多くの人々の琴線に触れることができたように思う。


この「過程と細部の描き込み」という観点において、時代遅れの車好きである私がどうしても語りたくなってしまうのは、なんと言っても映画に登場する自動車たちのことである(もちろん他にも語りたくなるあれやこれやは山ほどある映画なのだけど、そこは然るべき人が然るべき内容を語ってくれるでしょう)。


まずは影の主役と言うべき家福の愛車である赤い車。スウェーデンのサーブ社が1978年から1993年まで製造していた900という名車である。かつてこの車を本気で手に入れようと思った者として、この映画に登場する900の美しさには心底胸を焦がされた。なぜあの時、勇気を出して手に入れなかったのかと悔やんでしまうくらいに。空力特性を意識した先進的なボディライン、運転手の操作性を重視し内側へと湾曲したインストゥメンタルパネル、そして経年変化と相まってシックさを増したボディカラーといったサーブの愛すべき特徴がスクリーンにしっかりと刻み込まれており、こんな魅力的にサーブを撮るなんて…と濱口竜介監督に嫉妬と畏敬が入り混じった感情を抱いてしまった。そして映画のクライマックスで、サーブが古い車体を軋ませながら自らの生まれ故郷にも似た北国へとひた走る姿はあまりにも健気だったし、戦闘機も製造する航空機メーカーというサーブ社の誇り高き出自を思い起こさせるほどに勇壮だった。普段はその大ぶりの皮シートで家福の心の傷を包み込み、いざとなればどこまでも乗員を乗せて駆け抜けていくサーブの忠実さと力強さ。この映画の主役の一人と言っていいだろう。


ちなみに販売時期が日本のバブル期と重なっていたこの車は、こだわりを持ったリッチな人々が、メルセデスBMWオーナーとのセンスの違いを示すための、ややスノッブな選択肢ともなっていた。その象徴的なモデルがイエローのカブリオレ(オープンカー)であり、雑誌のグラビアなどでもよく見かけた記憶がある。原作では家福はこの黄色いカブリオレを所有しており、人気俳優同士のカップルであった家福夫妻のハイセンスな都会性を表す小道具という側面があったことが伺える。しかし、映画に登場する赤いそれは、かくしゃくとしつつも重ねてきた年月を感じさせるサーブ(と言っても年式を考えれば極上のコンディションである。だってサンルーフは動くし、雨漏りだってしないのだから)からは、そうした虚飾はまったく感じられず、ひたすらに家福の質実さを強調する相棒として存在している。つまり、同じメーカーの同じ車種を登場させながらもディテールを微妙にずらすことで、原作とは異なる性格を主人公に宿らさせたということである。どちらが正しいという問題ではないが、やはり私は赤いサーブに乗る家福にこそシンパシーを感じてしまう。もちろん西島秀俊の素晴らしい演技があってこその話ではあるが。


なお、この車と同年代の欧州車を保有したことのある者として付け加えると、高温多湿の日本において30年前に製造されたサーブを広島から北海道まで走り切れるくらいのコンディションで維持するのは、一定の経済力はもちろんのこと、頑なこだわりと車に対する深い愛がなければ絶対に不可能である。

 


また車という観点でもう少し細かい点を書くと、家福を演出家として広島に招いた公的機関の公用車として登場するミニバンが、広島に本社を置くマツダビアンテ(不人気につき17年に生産終了している)だったという芸の細かさも映画のリアリティを高めていた。おそらく誰も意識しないくらいのさりげなさだったとは思うが、同じくらいの細かさがそれ以外の部分、例えば衣装や音楽や録音などにも張り巡らされていたと思えば、あの映画の異常なまでの説得力にも納得がいく。


さらに、岡田将生演じる若き俳優・高槻の愛車がサーブと同じスウェーデンのメーカーであるボルボであったことも見逃せない。しかし、家福のクラシカルなサーブとは対照的に、高槻のボルボはおそらく最新型のV60だったというところがポイントだ。この違いが、同じ女性を愛しながらも、生き方や価値観において相入れない二人の関係性を暗示しているように思えてしまうのである。

 


なお、自動車メーカーとしてのサーブは2010年に事実上姿を消している。この苦い史実もまた、家福やみさきが歩んできた道のりと重ね合わせてみるとどこか示唆的であるように思えてならない。だからこそ、みさきがあの忠実で勇敢な車を、今もまだどこかの国で走らせているというエンディングが、より大きな希望を与えてくれるのである。