ドリーミー刑事のスモーキー事件簿

バナナレコードでバイトしたいサラリーマンが投げるmessage in a bottle

真夏のクライマックス 後編(9/3 東京国際フォーラム)

アメリカの生きる伝説スパークスから始まった2023年の夏休みは、日本のロックシーンが誇るリビング・レジェンド佐野元春の東京公演で終わった。今回の『今、何処』ツアーは6月の名古屋ですでに目撃していたのだけれども、去年からいくつかの記事を書いたご縁でライブにご招待頂いたのである。

こういう時っておみやげとか持っていくものなのだろうか。いや業界人がそんなことするわけないじゃないか。いやでもお前は業界人じゃないだろう、と前日から緊張∞(むげんだい)。新幹線の席に着いた瞬間、髪をセットしていないことに気づく。時速300キロで運ばれるモジャおじ。

 

とりあえずせっかくプライベートで東京に来たのだからと吉祥寺へ。いせやで(お店の人のぶっきらぼうぶりにびびりながら)昼飲みした後に、コロナ禍以降足を運べていなかったココナッツディスクへ。矢島店長はいらっしゃらなかったが、相変わらず最高のヴァイブス。ジュークボックスに飾ってある佐野元春のサインを拝んでから都心へ戻る。サニーデイの『東京』のジャケットを撮影したという千鳥ヶ淵を通ってイタリア文化会館で「江口寿史×ルカ・ティエリ展」へ。巨大なサイズの『いいね!』のジャケットを見ることが目的だったが、江口寿史の作品もとても良かった。美少女の絵というものがちょっと苦手なのだが、江口寿史が描く絵のキャラクターには男女を問わず凛とした意志が感じられ、素直に素敵だと思えた。今さら何言ってんだという話ですが。

 

インディーおじとしての自分のルーツを確認した後、いよいよ宮殿のような東京国際フォーラムへ。ご本人には会えないだろうからと近くのプロントに入ってCDと一緒に渡す御礼のメッセージカードを書く。が、私の字は控えめに言ってシンナーをきめた中学生が書いたものにしか見えないのでかえって失礼であることは分かっているのだがもう後には退けない。長蛇の列を後ろめたい気持ちですり抜けて関係者受付へ。いろいろと親切にして下さったマネージャーさんにご挨拶すると「終演後、ロビーでレセプションがあるので本人にも会っていってくださいね」なんておっしゃっる。え?会えるの?マジで?どうする?家康?と緊張∞の岡崎市民。ふと前を見ると目の前に七尾旅人がいた。なんなんだここは。

 

席につき超満員5,000人の聴衆を眺める。二日前のブラジルコーヒーとのスケールの違いに脳がバグりそうになっていると、前の席には萩原健太能地祐子今井智子が並んでいる。やっぱここはすげーところだ…と頭の中で「オラ東京さ行くだ」が鳴り出してしまったところで客電が落ちて我に帰った。するとまだメンバー姿が見える前なのに、満場のお客さんが手拍子を始める。なにこの雰囲気みんな最高じゃん…と驚愕しているところに佐野元春とコヨーテバンドが登場。今日も黒いスーツでビシッと決めて「さよならメランコリア」からスタート。ふわふわしていた魂がぶち上がり熱い血が沸る。

 

ほぼ最新作である『今、何処』のみのセットリストにオーディエンスも熱狂的に応える。一定以上のキャリアがあるのに最新作が一番盛り上がるアーティストはサニーデイ・サービスだけだと思い込んでいたのだが、デビュー 41年の佐野元春のライブでもまったく同じ光景が広がっている。青春期の思い出と共に佐野元春の作品を血肉化したファンが、大人になってから聴き始めた私と同じテンションでこの作品を受け入れているのは奇跡のように思える。しかし長年サポートしてきたアーティストが瑞々しい創造性をもってシーンに広く深く刺さる作品を作り出すなんて、ファンとしても最高に誇らしい心境だろう。そんな両者の信頼関係を感じる美しい光景だった。

そしてこの日の佐野元春は、この大舞台をのびのびと楽しんでいるようにも見えた。最高の舞台を用意してくれるスタッフと完璧な演奏をしてくれるバンドに後を任せ、本人はフロントマンとしてより良いパフォーマンスをすることだけに集中すればよいという境地だったのではないか。こうした最高の環境の中で、最高のファンを前に、自分のやりたいことだけを詰め込んだ最新作を演奏できるということこそが、40年以上も音楽産業のど真ん中で戦い続けてきた最大の成果なのではないかという気がした。

 

本編の終盤では10年代の傑作『Blood Moon』から「優しい闇」も演奏され、私はもうすっかり感極まると同時に、ずっと気になっていた自分に対する疑問の答えを得たような気がした。それは、例えばブラジルコーヒーで演奏する東郷清丸やOhhkiと、国際フォーラムのステージに立つ佐野元春は、自分にとって同じ「音楽」と言っていいものなのか、ということである。

もちろん東郷清丸、Ohhki、そして佐野元春の表現が刺激してくる部位は異なる。前者は抽象的な想像力を、後者はより実際的な勇気を高めてくれる。しかしこの週末ではっきりしたことは、ステージの大小に関わらず、私が敬愛するアーティストにはやはりどこか通じるものがあるということである。それは、自らの魂にだけに忠実な表現であること、そして社会に対して独立した個として対峙していること。こういったことをパフォーマンスから感じられる表現者にこそ惹かれてしまうのだ。そもそも00年代以降の佐野元春こそ、メジャーを離れてインディペンデントに活動するアーティストのパイオニアなのだから、共通するアティテュードがあるのは当然だろう。そんなことを5000人の視線を一身に引き受けながら、観客それぞれと一対一の関係を作っていく佐野元春を観ながら考えていた。

 

そして終演後。ついに私はテレビでよく見るタレントさんや中学生の頃から文章を読んでいた背の高い評論家、ブロックで有名などうした東京の音楽ライターや人格形成に多大なる影響を与えてくれた大物ミュージシャンたちに混じって、本日の主役にお礼を言う機会を得ることができた。もちろん伝えたいことはもちろんたくさんあったけど、肝心な時ほどうまく動かない口だということはこれまでの人生で嫌というほど知っている。「ありがとうございました。本当に感動しました」とだけ伝えると、みんなが知ってるあのジェントルな笑顔で握手をしつつ、思いがけないほど優しい言葉をかけてくれた。もちろんすれっからしの社会人である私は、こうしたレセプションが業界の慣例であるということは理解している。が、そんなともすれば寒々しくなりかねない場であっても、佐野元春は私のような者にも真摯に接することで、その場を血の通うものにしていることを体感した。よく考えてみると、数字が全ての音楽産業の中で彼がずっとやってきたことも、結局のところこういうことだったのかもしれない。生き方を貫き通すということはこういうことか。完全にバグった脳でそんなことを考えながら、最終の新幹線に乗り込んだ。熱すぎる夏の終わりだった。