ドリーミー刑事のスモーキー事件簿

バナナレコードでバイトしたいサラリーマンが投げるmessage in a bottle

「PERFECT DAYS」と「枯れ葉」、意識の低い仕事初めに考えたこと

冬休みが終わり、2024年の仕事が始まった。これでもう23回目の仕事初めということになるが、やはり憂鬱だ。今週は三回も人身事故で電車のダイヤが乱れていた。結局、多少給料が増えようとも、仕事の種類が変わろうとも、労働はしょせん労働。意に沿わない、生きていくための、繰り返される諸行無常にすぎない。仕事の外で音楽ライターの真似をしてみたところで、俺が戻ってくるのはここしかない。悲しいか?と問われれば、もちろん悲しい。つまんない?と問われれば、もちろんつまらん。でもやるしかないんだよ。

 

こんなしみったれた悲しみを、しかしながら、実のところ私は深く愛しているのかもしれない。そんなことをヴィム・ヴェンダースの映画『PERFECT DAYS』を観て気づかされた。自分の根っこにある、労働者であることを掠め取られたような気がして、途中で席を立ちたくなるくらいムカついていたのだ。逆に言うと、自分がこの労働者性というものに並々ならぬこだわりを持っていたということに初めて気付いたのである。

あの映画は一見すると労働と労働者を讃えているようで、実はそうではない(と思う)。低賃金にも文句を言わず、不衛生なトイレ掃除の道具を私有車に積み、意識の低い同僚を尻目に黙々と働く一方でフィルムカメラと古典文学、そしてロックやソウルミュージックを愛する男・平山。彼を通じて見えてくるのは、どんな泥にまみれても汚れることのない、鋼のように強い哲学と美意識。それを讃えているのだ。珍妙なトイレも、労働も、ボロいアパートも、それを際立たせるための小道具にすぎない。そしてその根底には「こんな風に見える彼ですが、実は俺たちと同じ風流を解する男なんですよ」という作り手たちの(無意識かもしれないが)選民意識があることを否定するのは難しいだろう。その疑念は、「実は富豪の息子でした〜」という(少年アシベの父ちゃんと同じ)設定で一層深まる。なぜ市井の労働者を市井の労働者として美しく描くことができないのか。そこにこの作品の弱さがある、と元労働組合役員として厳しく指摘しておきたい。

確かに世界的な映画監督や、ユニクロの御曹司プロデューサーや、電通のエリートクリエーターから見れば、クソみたいにつまんない仕事をして、同僚や上司の悪口を言い、安い酒とロックンロールで憂さを晴らす私のような者の日々は、哀れで不自由なものに見えるのかもしれない。実際(程度の差こそあれ)その通りである。しかし、少なくとも俺たちには、この不自由を謳歌する自由がある。この不自由に唾をかけ、毒づく自由だけは手にしているのだ。かつてECDが「俺は俺の貧しさを手放さない」と書いていたように、俺にとってはこの「不自由な労働から逃れられないこと」こそがアイデンティティである。貴族が気安く触るな。こっちは「ぼくが考えたさいきょうのクールジャパン」のために生きてるわけではない。趣味のいい歯医者が選んだロック/ソウルの名盤500みたいな選曲にすっかり白けながら劇場を後にしたのだが、しかし、ここまで書いた文章を読み返すとまだ俺にこんな怒る元気があったのかというくらいにみなぎっているという点においては、この映画に感謝すべきなのかもしれない。

 

それとは対照的に(という話し方がいかに品がないものであることは分かっているが)、同時期に公開されたアキ・カウリスマキの「枯れ葉」は、これまでの彼の作品同様、労働者そのものに焦点を当て、そこから1ミリも目を逸らさずに撮り切った作品だ。いつものように、善人でも悪人でもない、しかし不器用な主人公を淡々と、しかしこれでもかというくらいにひどい目に合わせて、その果てに残るささやかな希望を描いている。善人でも悪人でもない労働者は、共産圏の寒々しさが漂う店で不味そうな酒を飲み、ダサい音楽を聴き、生きるための仕事を探して小さなベッドの上で眠る。そこに平山のような美学や哲学は存在しない。

そして私が最も感動したことはこの物語がアキ・カウリスマキが90年代に制作した「敗者三部作」とまったく同じ筋書きをなぞっていたことである。冷戦が終わっても、格差が広がっても、戦争が起きても、私たちはメシを食う必要がある。労働とはその手段であり、それ以上でも以下でもない。この揺るぎのない退屈な真理を、自らの人生をかけて証明している。だから彼の作中に出てくる主人公は、職がなくても家がなくても、決して卑屈な表情を見せず、誰にも媚びず、常に無愛想かつ堂々としているのだろう。太鼓持ちのサラリーマンである私としてはそこに大いに励まされるような気持ちになる。今の仕事を失ったとしても、それはただ仕事失っただけにすぎない。また堂々と、坦々と、食うための仕事を探せばいいのだ、と。

映画の終盤でなんだか急に小学生の頃に夢中になっていたチャップリンの映画を見返したくなったのは、彼もまた労働と生活の坦々とした悲しみ(と犬のかわいさ)を、何度も何度もミニマルなサイレント映画で描いていたからだろう(たぶん。もう30年も観ていないから)。だからあのラストシーンには心底驚いたし、ちょっと泣いた。