ドリーミー刑事のスモーキー事件簿

バナナレコードでバイトしたいサラリーマンが投げるmessage in a bottle

コーネリアスと東京五輪、私たちの90年代。2021年7月の話(未来の人へ)

TURNの取材で曽我部恵一さんにインタビューさせてもらった時に言われた「今、25歳に戻してあげるって言われても嫌だな。あの頃はもっと無礼だった。今は昔より純情だし、もっとけがれなく世の中のことを見ている」という言葉が強く自分の中に残っている。初期の傑作を軽やかに生み出していった才気に満ちた日々よりも、おそらく色々な荷物を背負いながら戦っているであろう今の自分を選ぶ勇気と自信。とっくに40を超えても相変わらずどうしようもないことばかりやってる俺でも、明日はもっとマシな人間になれるんじゃないか、いつかこんな風に昨日より今日の方がいいと言える日が来るんじゃないか。『いいね!』を聴くたびに曽我部さんの言葉を思い出しては、励まされるような気持ちになっている。

 

映画『アメリカン・ユートピア』を観た時もそれに通じる気持ちを感じた。もちろん最初はデヴィッド・バーンとバンドメンバーの人間の限界を超えた肉体性と創造性に圧倒されたのだけど、二回観た後に思い返してみると、実は一番心を打たれたのは過去の自分をフラットに見つめ直し、今を変えていこうという姿勢だったのかもしれない。つまり何歳になっても人は成長することができるし、未来は変えることができるということ。あの作品から受け取ったメッセージは、いわゆるミッドライフクライシスにどっぷりと足を突っ込んでいる私にとっての希望である。

 

 さて小山田圭吾というミュージシャンは自分にとって心理的な距離が近い存在ではなかった。小学生の頃に初めて聴いた「恋とマシンガン」は人気ドラマの主題歌だったし、ソロになってからも常に時代の先頭、そしてシーンの真ん中にいるスターであり、エンターテイメント業界の向こう側にいるポップアイコン。特にセカンドアルバム『69/96』の頃まで時おり顔を出していたトリックスター的なふるまいが鼻につくと思いながらも、やはりその動向をチェックしなければならない存在だった。そして中学3年生の時に読んだロッキングオンジャパンにおける例のインタビュー記事も、そのトリックスター性をアピールするための与太話というか、マッチョでフィジカルな不良性が主流だった当時のロックシーンに対する、文系キャラによるカウンターという感じで受け止めていたのだと思う。セックス・ピストルズでも電気グルーヴでもダウンタウンでも中田英寿でも、何かを更新しようとする者にはある種の暴力性を孕んでしかるべきであるという受け手としての思い上がった興奮が、そこにリアルな被害者がいるという想像を消し飛ばしてしまっていたのだ。この点についてはもう自分を恥じるしかないし、本当に愚かだったと思う。しかし一方で、15歳の自分に対する責任をすでに40歳を超えた私がどこまで引き受けられるのか、という思いを抱えていることも事実だ。たしかに私は愚かで浅はかだった。しかし、ある時点で気づかなかったことやできなかったことを拾い集めながら、少しずつ善なる方向へ歩もうとすることが成長というものだとするならば、そうした側面が私の人生にもあったのではないか。もし少年期特有の残酷さが永遠に許されないのならば、一体なんのための人生なのだろうか。この点については、今もまだ整理ができないままでいる。

 


そんなコーネリアスとの距離感が明確に変わったのは、今のところ最新のオリジナルアルバム『Mellow Waves』を聴き、そのリリースツアーを観た時からだ。デビューから一貫して感情や衝動、ひいては言語そのものからも距離を置いてきた彼が、(作詞は坂本慎太郎だったとしても)明らかに歌を通じてオーディエンスとエモーショナルなやりとりを試みようとしていることは驚きだったし、そのトーンはかつての彼からは想像もつかないほど、暖かかった。それでいて、『FANTASMA』の頃から追求してきた人間と機械、音楽と映像が完璧に同期したパフォーマンスのエッジの鋭さはさらに研ぎ澄まされており、今思えば感情と感覚、頭脳と肉体の双方に強い作用をもたらし、成長という意味を考えさせてくれるという意味で、『アメリカン・ユートピア』と同じ感動があったのかもしれない。

 


そして彼の表現が自分の中で決定的に重要なものとなったのは、子供と一緒に豊田市美術館で観た「デザインあ」展である。音楽と映像の科学的な融合…と言ってしまうとありきたりだが、他に観ることのできない発想で作り上げられた世界を、10年にもわたってつくり続けてきたのかと思うと気が遠くなりそうだったし、これが才能と時間の切り売りだけでできるものだとは到底思えなかった。人間性を完全に排除した論理的表現だからこそ逆説的に浮かび上がる、目には見えない、何か大きなものに対する愛と献身を感じてしまったのである。もう少し控えめに言っても、そこにはかつてのトリックスターのイメージからは想像できない深い成熟があったことは間違いなく、その変化は、曽我部恵一デヴィッド・バーンから受け取ったものと通じる希望を私にもたらしてくれた。つまり、人は変わることかできるし、過去には予想もつかない未来を作り出すことができる。そんなメッセージを都合の良く自分の人生に重ねてしまったし、きっと彼もそういう道のりを歩いてきたのだろうという確信に基づく物語を作り上げてしまった。それはまったく見当違いのことかもしれないけど、彼の表現が私にもたらした、誰にも変えることが出来ない真実である。もちろんだからと言って彼の罪が軽くなるなどと言うつもりはない。ただ私は私の中の真実を文字にしておきたかっただけのことである。

以下、そんな私の目から見た2021年夏の記録を書き残しておく。今ではなく、未来からの検証のために。

 

 

 

7月15日(木)

小山田圭吾東京五輪の開会式に参加するというニュースを知った。その時の私の感想は「へえ」という一言。石原慎太郎が思いつき、竹田恒和がワイロを配りまくって招致し、安倍晋三がはしゃぎまわる汚職と利権の祭典。そんなものに加担するなんてダサすぎる…という落胆と、それでもまぁ他人のセックスと仕事は笑ってはいけないし…という自重、しかし椎名林檎がやるよりはいくらかマシなものになるだろう…という消極的な希望が重なりあった上での「へえ」。その時点ですでにYahoo!ニュースのコメント欄に過去のいじめ問題を指摘する声もあったけど、さほど大きいものになるとは思わなかった。いくらなんでも小山田圭吾という音楽家が国民的な関心を呼ぶことになるとは思えなかったし、総理大臣による不正に端を発したパワハラ自殺を許した国民が30年前の真偽不明の与太話に夢中になるとも思えなかった。

 


そんな困惑と他人事感から出た、今から14日ほど若く、そして傲慢で浅はかだった私のツイートがこれである。被害者の方に対する配慮やオリンピックの公共性や国際性に対する思慮が欠けていた点については率直に反省している。彼はこの仕事を引き受けるべきではなかったし、速やかに辞退すべきだった。

 


ただ、ここに補足するならば、この行為に加担した(とされる)時の彼はまだ未成年だったという客観的な事実は「考慮」されるべきだった。彼自身もまだ成長の過程にあり、保護者の庇護や学校の指導を受ける立場だった。とくに「うちの学校はいじめがすごかった」と言及されている学校側の方針や運営に問題がなかったのか。そうした検証は「いじめ」という罪を裁く上では絶対に必要だと思うのだけれども、それに言及している人はほとんどいなかった。では成年後にいじめについて雑誌において公言したという点はどうか。これは大人になってからの行為であり、汲むべき事情はほぼない。しかしこれをもって彼に罰を与えるならば、当時語ったどこまでが事実でどこまでが誇張だったのかという点はしっかりと確認されるべきだったと思う。もし時間の経過によって十分な検証ができないということであれば、その分だけの留保が必要ではなかったか。少なくとも騒動に乗じたマスメディアがその点を確認せずに一方的な報道を繰り返したのは過剰で軽率だった。訴えてこない、権力を持たないと値踏みした相手ならば、報道の正確性をかくも簡単に放棄することを日本のジャーナリズムの安易さを改めて思い知らされた。

こうした少年法の精神や時効の概念、後述する遡及処罰の禁止といった法治国家における大原則は、立場や意見の違いを超えて、そこに暮らす者として一定程度は引き受けなければならない現実だと思う。どんな犯罪者にも人権があり、弁護される権利がある。その点が誰にも顧みられなかったことに疑問を感じた。

ただ改めて言っておくと、私はあくまでも「考慮」が必要であると言っただけであり、不問にすべきだ、無罪だ、と言っているわけではない(この違いはまったく理解されない、ということを痛感したこの2週間である)。

 


話を時系列に戻す。この日の夜、先ほどの私のツイートを読んだ人からDMを受け取った。要旨は「過去に某ロックバンドのドラマーによる差別扇動的表現を糾弾した貴方がなぜ小山田のいじめは許すのか」というもの。許しているわけではないということと、それでもなぜ全面的に否定しないのか、という理由は上述の通りである。しかし、某バンドに対する反応との違いについては改めてここに理由を書いておきたい。まず、私は基本的に批判の対象は作品であり、アーティスト本人ではない思っている。ゆえに「表現そのものに問題があるか否か」という前提において、両者は異なる問題だと思っている。しかし表現というものを広く捉えるならば、雑誌のインタビューも表現活動とも言えるわけであり、同じ態度を明確にするべきだったと思う。ただ、私は某バンドに対しても「表現の不適切な点を明確に認めて撤回するまでは聴かない」というスタンスしか取っていない。つまり過ちを認めれば聴くのである。だってそもそも聴きたいんだから!そしてもう一つ大事なことは、そのドラマーがどんな舞台に立とうと基本的には自由であり、緊急性のない理由でそれを阻止するべきとは思っていない。表現者から表現の機会を奪うというのは、死刑宣告にも近いものであり、極めて慎重な判断が求められるはずだからだ。そう言うと「いや小山田だって同じくらいひどいことをしたじゃないか」と言われるだろう。たしかにそうかもしれないし、そうではないかもしれない。いずれにせよ2021年の我々はハムラビ法典の時代に生きているわけではない。目には目を、という発想で私刑を課すのは野蛮すぎるわけで、法治国家の精神に沿った抑制的な手続きが必要なはずだ。だって彼は政治家でも大資本家でもない、人より少しだけ有名な一人の音楽家でしかないのだから。しかし、多くの「正しい人たち」はそうは思わなかった。「表現の不自由展」の中止に抗議してきた人々はもちろん、ミュージシャンとして、現代のモラルでは許されないくらいに奔放な言動で知られるアーティストとコラボレーションしてきた人までもが、謝罪後もなお小山田圭吾を表舞台から消し去ろうとする勢いは恐ろしいものがあった。罰とは人ではなく罪に対して与えられるべきではないのか。私はこれからも民主主義社会に暮らす市民として必要な意見は口にするつもりだけど、こうした人たちとは目指すところが違うのかもしれないということが頭をよぎった。例えば私は安倍晋三はしかるべき法的・政治的責任を取ればそれでいいと思っているけど、彼らはもしかするとそれに加えて市中引き回しの刑までやらないと気が済まないのかもしれない。こうしていつの時代においても、「正しさを追求する私たち」は大別すれば同じ側に立ちながらも、その純度の違いによって分裂し、憎み合い、そして結局負け続けるのだな…と暗澹たる気持ちになった。

 


さらにもう一つ某バンドとの差異を言わせてもらえれば、その事案が発生した時間軸の問題である。昨日今日起きたことと30年前に起きたこと。そこに適用されるルールやモラルがまったく同じであるはずはない。もちろん暴力は時代性を超えて処罰されるべきものだが、30年前の私たちにとって、それはもっと身近なものであったことも紛れのない事実である。中学生の娘から現代の学校生活を聞くとあまりの違いに驚いてしまう。いわゆる不良生徒はいないし、部活の上下関係はゆるやか。そして教師による体罰など一切ないという学校生活。実際、マクロで見ても少年犯罪件数のピークは小山田の行為が行われたであろう昭和50年代であり、検挙者数は毎年20万人を超えていたが、平成の終わりにはわずか3万人にまで減少している。繰り返すけど、だからと言って彼の行為が正当化されるわけではない。ただこうした社会全体の価値観の違いを無視して、あのような暴論がなんの問題もなく世に出てしまったこと、私を含めた社会がそれを受容してしまったという事実を説明することはできないだろう。はっきり言って当時は大した問題だと認識されなかったのだ。それがウソだと言う人がいれば、それはあなたが幸せな人生を送ってきたというだけの話だ。我々は、少なくとも私は今よりももっと野蛮な時代を生きていた。俺のシャツを引きちぎってタコ殴りにした教師も、下校途中に突然公園に引き摺り込んで集団で暴行を加えてきた先輩も、誰も謝罪になんかこないし、覚えてもいないだろう。でもきっとお互い様なのだからどうでもいい。程度の差こそあれ、あの時代から生きてきた大人たちに、ここまで執拗に他者を攻撃できる高潔さがあるのだろうか。少なくとも私の人生は、過去からの検証に耐えられるようなものではない。今も落とし前をつけていないことだって、たくさんある。

 


7/16(金)

夕方になり、本人からの謝罪文が出た。その内容は「誤解と不快な思いを与えてすみませんでした」的テンプレートではない、本人の肉声が伝わってくるものだと私には思えた。しかし案の定、批判の声は止むことはなかった。むしろ謝罪文で続投の意思を示してしまったことが火に油を注いだのだろう(が、ほとんどの人は中身を読まずに批判するという事実も今回得た学びである)。それにしても「あんな謝罪は安倍・菅と同じ」と切り捨てた歴史学者のことは一生信用しない。学者が、記者が、作家が、言葉の価値を認めないなんて、あなたのしていることはなんなのかと問いたい。

とにかく、まだターゲットの首が取れていない以上、世論は攻撃の手を緩めることはなく、やがて私のような人間を「擁護派」「信者」とカテゴライズし、冷笑し、断罪する動きも増えてきた。見ず知らずの人から私の言動に疑問を投げかけるリプライが来た時、私は自分が「正しくない側」、つまり人民裁判の被告人側に立たされていることを自覚した。

 

 

 

7/17(土)-18(日)

人民裁判は続く。全員が検察官。弁護士はおろか裁判官もいないし、参照される法律も判例もない。しかも唯一の証拠である記事すらも検証されない中で、量刑の重さが決められていく。ようやく証人というべきロッキング・オン山崎洋一郎がコメントを出したが、小山田だけを切り捨ててやり過ごそうという意思だけが伝わる中身のないものだった。日頃は「鋭い批評」「的確な論評」で鳴らしているこの出版社出身の評論家も、なぜか揃いも揃って黙っている。きっとほとぼりが冷めた頃に「なるほど!あの沈黙にも深い意味があったんですね!」とでも言われるような言い訳を考えているのだろう。素晴らしい。いつだってあなたたちは賢い。

それにしても、なぜこんなにも私と世間の間に深い溝ができてしまったのだろう。その理由が知りたくて、日頃から信頼する、しかし今回の件では意見の異なる何人かに(これまでほとんどしたことがない)ツイッターでリプライをしてみた。こちらから聞いたことは、小山田にどこまでの処罰を求めるのか、なぜ本人以外の人間まで攻撃するのかということだったのだが、最後まで会話が噛み合うことはなかった。私のコミュニケーションが上手くなかったということはもちろんあると思うけど、ある人からブロックされ、ある人からはフォローを外され、試みは失敗に終わった。なお、彼らは「五輪開会式の制作チームを辞任させることが目的」と言っていた。たしかにそれは妥当な判決かもしれない。ただ、もし本当にそれだけが目的ならばJOCにだけ抗議すればいいのではないか。いたずらに戦線を拡大し、攻撃対象を増やすことは不毛だと思う。しかしこの日の私も結局は同じようなことをしていたわけで、人のことは言えない。

 


7/19(月)

とうとう小山田の辞任が発表された。遅くとも土曜日の時点で世論は決定的になっており、ただ傷口を広げただけの数日間だったように思う。しかし彼が五輪からの退場することで、「暴力は許さない」というメッセージを発することができたのであれば、その分だけまた社会が進歩したということなのかもしれない、と自分に言い聞かせる。そしてこの日は漫画『ルックバック』が突如発表されたのだけど、「小山田圭吾が罰せられる27 年前があったならば…」と想像せずにはいられなかった。しかし、過去のどこかで罰せられる、あるいは過ちを認めるタイミングがあったとして、それはいつどのように行われるべきだったのかと考えると、とても現実的なことではないように思えた。「20年前の雑誌の件ですが」とか「30年前のいじめの件ですが」といきなり切り出すのは不自然だし、結局こういうことになる日を待つしかなかったのだろうか。

ちなみに『LOOK BACK』というタイトルの元ネタはOASISの名曲だと思うのだけど、小山田や私を手厳しく批判していたアカウントが「やっぱOASIS最高!」みたいなことになっていて、ギャラガー兄弟の悪行はノープロブレムなんだな…と脱力した。別にギャラガー兄弟の過去も掘り起こせと言いたいわけじゃなくて、できるだけ過去の自分をこの問題に引き寄せて考えないと、「元いじめっ子の小山田をいじめる」ということだけで終わってしまうのではないか、と言いたいのである。あの兄弟の悪行自慢は有名だし、インタビューでの行儀の悪さは相当なものがある。それらを無批判に受容してきた多くの一人ひとりが少しずつ反省して、これからの行動をアップデートすれば社会全体がもっと変わるはずなのに。小山田を蹴れば何か良いことをしている気になっているかのような人々を見て、ああ今までの俺もこうだったのかもしれないと、恥ずかしい気持ちになった。だからというわけではないが超低額を定期的に寄付している障害者団体からコロナで収入がなくピンチだというメールをちょうどもらったので、これまた本当に僅かながらの寄付をした。小山田事件によって生まれたものとしてはあまりにもささやかなものなのだが。

 


7/20(火)-21(水)

さすがに喋りすぎたしこの件を内面化しすぎて精神に変調をきたしている気もするので蟄居謹慎。円形脱毛も大きくなった気がするし、もう音楽を聴く気にもなれず、海の底からことの推移をじっと見つめる。見なきゃいいんだけど。案の定「五輪からの退場がゴール」と言っていた人たちも相変わらず死体蹴りを続けているし、「擁護派」に対する嘲りも継続中。その甲斐あって、「デザインあ」は休止。ラジオ局のジングルや「サ道」の主題歌も放送中止され、さらには彼が作曲を手がけた「ちびまる子ちゃん」のアーカイブやmei eharaをフィーチャーしてリリースされたばかりのAmazon music限定の新曲も抹消された。これは本当にいい曲だったし、この破局を予言していたような歌詞が怖いくらいのすごみがあったんだけど、今はもう聴くことはできない。とにかくこれで結果的に完璧なゾーニングが完成したことになり、これで「ファン以外の人が意図せずに彼の音楽に触れてしまう」という事態は起きないだろう。罰としてはもう十分ではないだろうか。これからしばらくは「擁護派」と「信者」だけが聴いていけばいい。それにしても、この件を知りながら彼に仕事を依頼し、騒ぎになったらしれっと無かったことにするテレビ局やラジオ局のモラルはどうなっているのだろうか。本当によくわからない。

 


7/22(木)

ようやく私刑に飽きてきた人々が立ち去りつつあるところで、過去のコントの内容が問題視された小林賢太郎が開会式のプロデューサーを解任された。問題の発覚からたった半日のスピード対応。この対応が本質的に正しいものだったのかよくわからないが、危機管理的には正解だったのだろう。しかし菅首相が「言語道断」という極めて強い表現で小林氏を批判していたことには失笑した。ならば「ナチスの手口に学べ」と言った麻生太郎にあなたはどんな言葉を送るつもりなのか。本当にコミュニケーションセンスのない人である。もちろんその場合でも、ならば自分の犯罪的行為を隠蔽するために組織的ないじめで無辜の公務員を自死に追いやった安倍晋三に相応しい言葉は何か、ということを問い詰められなければならないのだが。一介のミュージシャンとタレントが詰め腹を切らされ、巨悪はのうのうと生きていることの理不尽を改めて思い知らされる。そしてこの日、クイックジャパンの元編集長・北尾修一氏のブログを読む。制作側に肩入れしすぎではないかという意見もあったが、初めての(そして今のところ最後の)当事者による証言。今は受け入れられなくても、いつか冷静にこの件が検証される日が来た時にはとても重要な資料になるはずだが、著作権の兼ね合いなのか期間限定公開とのこと(しかしこれは本来太田出版が期限を設けずにやるべき仕事だろう)。そしてその中で、マスコミを含めた日本中が小山田叩きの根拠とした、クイックジャパンの記事をまとめたブログには、控えめに言って恣意的な、率直に言って強い悪意のある編集が加えられていたことも発覚。原文からは「彼自身が加えた凄惨な暴行を嬉々として自慢していた」という当初流布されたものとはかなり異なる様相が浮かんでくる。もちろん「いじめ」という犯罪的行為があったことには変わりがないのだが「一次情報にあたる」という取材における基本的動作すら取られずに、あれだけの報道が行われていたことに愕然とする。「大筋はずれてないからOKでしょ?」とでも言うつもりなんだろうか。

 


7/23(金)

開会式当日。さすがにもう声高に小山田を批判する人も減ったのだが、北尾修一氏の記事とそれに対する「古参サブカル業界」の好意的な反応が気に入らない「新興サブカル業界」の人々がいるらしく、本筋とは関係ないところで小競り合い。狭い領土、少ない利権をめぐる争いに虚しさを感じる。とりあえず津田大介さんに対するサブカル業界での嫉妬パワーがものすごい、ということだけは把握した。

そして巨大利権の権化であるオリンピック開会式は無事に開催された(見てないから知らない)。小山田の音楽は使用されず、小林賢太郎が関わった演出はそのまま、という場当たり的な対応。すべての作品は納期が生み出す、という格言を思い出す。また前日から漏れ伝わってきたように、現在進行形の差別主義者であるすぎやまこういちが作曲した楽曲も高らかに鳴らされた(らしい)。「LGBTには生産性がない」と言い放った杉田水脈を支援し、南京虐殺への疑義を示す意見広告にも名を連ねる筋金入りの極右。マイノリティの人権侵害を糾弾された小山田、ホロコーストをネタにしたことを指摘された小林賢太郎も浮かばれない…というかこれ以上の皮肉があるだろうか。もちろんそれを問題視する意見も一部にはあったが、結局は何事もなかったかのように祝祭ムードによって鎮火された。そうなんだよ。この国はいつだってそう。悔しさ紛れにまったく本質的ではないことを言うけど、小山田にしても小林賢太郎にしても、開会式の後に参加が発表されたなら、間違いなくこういう事態にはならなかった。だからそうするべきだったと言うわけではないけれども。この彼我の差にやり切れなさが増す。

 


7/24(土)-7/28(水)

オリンピック競技が本格化し、案の定コロナ感染者も急上昇中。なんだこの地獄は…とも思うけど、都民みんなで選んだことでしょ、と突き放したくなるくらいに気持ちが荒んでいる。しかし突き放したくても突き放せないのが政治というもの。

小山田の件は後追いの週刊誌がまったく価値のない記事を書いているだけ。もちろんそのベースにあるのは例のブログであり、原典を当たった形跡なし。こうやって悪意が既成事実化していくのだろう。今はもう何を言っても無駄だ。せめて未来の人による公平な検証に期待したい、という思いでこのメモを書き続けている。

 


7/29(木)

小山田が参加しているMETA FIVEの新作が発売中止になった。その理由は明かされていないので、メンバーの意思によるものなのか、それともレコード会社の意向なのかは分からない。しかし充分な説明がないまま、音楽だけを殺すという日本のレコード業界特有の悪癖が繰り返されたことは間違いない。殺人の罪に問われたフィル・スペクターの音楽が発禁されたという話は聞いたことがないのだけど、一体どこに差があるのか。もし今回の件がレコード会社の意向によるものだとしたら、もうメジャーレーベルと契約するのはアーティストにとってリスクしかないのではないのだろうか、とすら思う。いざとなったらアーティストを守らず、あっさりと音楽すらも捨ててしまうような会社に原盤権を握られてしまうというのは、普通のビジネス感覚ではありえないのではないか。昨年の電気グルーヴの一件でも感じた認識を改めて強くした。

そして出演が予定されているフジロックについては今のところ発表がないが、ほぼ絶望的だと覚悟している。グリーンステージで観るコーネリアスを目当ての一つとしてチケットを買った私としては本当につらいが、さすがに諦めがつきつつある。とにかく今はもう彼の心身の無事を祈りたい。ちなみにコーネリアスの直後、ホワイトステージに出演するのはナンバーガール。かのドラマーを擁するバンドである。とことん過去から復讐されているな俺…という気持ちである。

 


7/30(金)

例のブログを書いた人、このエントリーを消したらしい。なぜなんですかね。

俺のブログが炎上しててワロタ - 孤立無援のブログ

 


META FIVEのメンバーであり(しかも電気グルーヴのメンバーでもあった)砂原良徳が語るアルバム発売中止の経緯。メンバーの意思ではなくレコード会社上層部の意向とのこと。やっぱりメジャーレーベルと仕事をするメリットなんてないのではという思いが強くなる。このままお蔵入りさせるくらいなら、クラウドファンディングで原盤権をみんなで買って、自主レーベルでリリースするのが経済的にも一番良い様に思う。素人考えですけど。

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7/31(土)

7月最終日。月が変わると共にこの問題も忘れられていく気配。Yahooニュースに山陰中央新報という新聞社の社説のような記事が出ていた。特に中身のない記事だけど、寄せられるコメントの数と内容に変化が感じられる。火をつけ回るだけの人は去りゆき、執念深い少数だけが残ったという印象。来年の今頃には「あったねーそんなこと」という感想だけが残るのだろうか。このまま勝者なき戦争、で終わらせていいのだろうか。

news.yahoo.co.jp