ドリーミー刑事のスモーキー事件簿

バナナレコードでバイトしたいサラリーマンが投げるmessage in a bottle

スカートの新作をココナッツディスクで買った日のこと

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さる1月22日、私は都内某所に出張していた。

 

仕事で東京にしょっちゅう来ているものの、レコード屋さんが営業しているような時間にフリーになることはめったになく、しかもその日はスカートの新曲「君がいるなら」のフラゲ日だった。

取引先での打ち合わせが終わった後、私は地理に不案内な上司を東京砂漠ど真ん中に置き去りにし、ココナッツディスク吉祥寺に走った。

 

基本的に私はおトクなものが大好きな性分だし(プレミアのついたレコードとか一度も買ったことない)、一定以上の音質で聴ければフォーマットに強いこだわりもないし、そもそも文化資本が乏しい地方在住の身としては、CDやレコードの入手はオンラインに頼ざるを得ないし、もちろんサブスクにもしっかり加入している。

しかしそんな私だからこそ言える逆説的な事実は、「いつ・どこで・どうやって・それを手に入れたのか」ということが、音楽そのものに対する愛着を変化させるということである。

つまり、余計なことはしすぎる方がいいよ、ということ。

 

なので、せっかくこんな日に東京にいるのだから、新幹線の時間を遅らせてでも、あるいは上司の怒りを買ってでも、ココ吉に足を運びスカートの新譜を買うという行為には、それに見合う十分な価値があるのだ。

 

吉祥寺駅から徒歩5分。店の入口で視界に飛び込んでくるのは、私がつくった例のフリーペーパー。

貴重なスペースの一角を、この怪しげな紙で占領させてもらっていることに改めて感謝の念が湧いてくる。

どうか一人でも多くの方に手に取って頂き、あーだこーだと話のネタにしてもらい、レコード店に再び足を運ぶきっかけになってくれることを祈るばかり。

そして売り場に足を踏み入れると目に入るのは、おそらく届いたばかりの「君がいるなら」がずらっと並んだ棚。

この光景を見るために、私はここに来たと言っても過言ではない。

 

もちろんここで売っているCDも、オンラインで注文してコンビニで受け取るCDも、同じ工場の同じラインで製造された物質的にはまったく同じものである。

しかし、そのCDが震わせる空気を受け止める、俺の鼓膜や脳までもが同じであると言い切ることが、果たして誰にできようか。


必然と偶然によってここに集まってきた膨大なレコードやCDの中から、自分の目で見て、手で触れて、なんなら匂いまで吸い込んで選んだ、30年前の沢田研二の7インチやスクーターズのCD、そして去年出たばかりの工藤将也のCD-R。

それらと共に袋に入れてもらったスカートのニューシングルは、間違いなく俺だけのためにカスタマイズされた「君がいるなら」だ。

 

そんな自己満足の詰まった物質で狭い部屋を満たしていく倒錯的な喜びを、AmazonSpotifyは届けてくれないのである。


そう言えば、震災後の女川を歩いたロロの三浦直之は、「記憶とは自分の内側ではなく、外側に宿るもの」と言っていた。

ならばレコードやCDとは、アーティストの歌と演奏だけではなく、聴き手である私たちの記憶をも封じ込めてくれる媒体である。

そしてそれらを過剰な愛と共に私たちに届けてくれる、ローカルでインディペンデントなレコード店

私にそんなことを願う資格はないけれど、いつまでもそれぞれの街の文化的灯台として、私たちの闇を照らしてほしいと思わずにはいられないのです。