ドリーミー刑事のスモーキー事件簿

バナナレコードでバイトしたいサラリーマンが投げるmessage in a bottle

どついたるねんを聴きながら豊田市美術館「絶対現在」展を観た日のこと。

百鬼夜行」を観に行った次の日。英検を受けたいという娘の勉強に付き合いながら、豊田市美術館でもらったパンフレットを眺める。昨日は時間がなくて断念したコレクション展に河原温杉本博司の作品が展示されてたのか…。行きたい。しかし時間がない。と一瞬だけ迷ったフリをして、わりとあっさり豊田市を目指す。


車の中でどついたるねんの先輩をゲストに迎えたスカートの「NICE POP RADIO」を聴く。おすすめの曲紹介だけで秘孔のような深いツボをついてくるセンスは尋常ではない。そして結成初期にCD-Rを金網に挟んで売っていたというエピソードには、レコードを裸で売ったというクリスチャン・マークレーと同じじゃん!と興奮した。スカート澤部氏が常々彼らを「天才アーティスト集団」と呼ぶのはこういうことだったのかとようやく合点する。もちろんこれは冗談でもアーティストという称号の安売りではない。


豊田市美術館に到着し、最終日を迎えてさらに混んでいる「百鬼夜行」を横目に、コレクション展「絶対現在」へ。「歴史に竿刺す時間をどう捉えるか」という視点というテーマに沿って展示された名作たち。中には何度も観たものあるけれども、新鮮な気づきや新しい謎を投げかけてくる。私もそれに呼応する感情や感覚を探し出そうと頭と心を動かしてみるのだが、私の乏しい語彙力では応答がおぼつかない。とは言えこの拙いコミュニケーションに没頭している間だけは、次から次へとやってくる浮世の雑事をシャットアウトすることができる、切実に貴重な時間。


まるっと1ヶ月分が展示された河原温の「デイト・ペインティング」も、杉本博司の劇場、海景シリーズといった大名作ももちろん素晴らしかったけど、初めて観る下道基行の「torii」がホー・ツーニェンとの相乗効果で興味深いものになっていると感じた。大日本帝国が旧植民地に建立した神社の鳥居の現在を撮影した写真たち。鳥居は言うまでもなく国家神道の象徴であり、ホーが妖怪として描いた「国体」の一部を担ったものである。下道が撮影した鳥居は、戦後70年を経て、あるものは忘れ去られて雑草に囲まれ、あるものは神性を失った上で公園の一部と化しており、もはや大東亜共栄圏の面影はどこにもない。しかし建立の動機となった帝国主義の幻影は、まだこの建物のどこかに妖怪として存在しているわけで…。そう考えるとどうしようもない禍々しさと同時に、芸術的なスリルも感じる。

またホー・ツーニェンの軍国主義に対する厳しい評価という軸を取り出して、杉本博司と並べてみれば、また別の緊張関係も浮かび上がってくる気もする。杉本博司を極右主義者と短絡的に断じるつもりはないけれども、戦犯とされた日本の指導者に対して彼が一定のシンパシーを抱いていることは間違いなく、そこだけを切り取ればホーとは真逆の位置に立っていると言ってもいいだろう。ホー・ニーツェン、杉本博司、そして下道基行。この日まで同じ建物に展示されていた作品には、ビザールなトライアングルが浮かび上がってくるような気もして、キュレーションの妙というものを感じた。昨日に引き続き、豊田市美術館すげぇという気持ちに。


そんなこんなで帰宅すると、娘がまったく勉強もしないで妻の化粧品で遊んでいたことが発覚。私も連日遊んでいる身だから大きなことは言えないが。どうしてそんなに簡単に自分の中の暗黒面に負けてしまうのか若きジェダイよ…。


ヤング・ダースベーダーが塾に行った後、ホー・ツーニェンが一般の観客からの質問に答えるオンライン・インタビューを観る。とにかく質問のレベルが高い…と言うかそれを聞いてくださってありがとうございますというものばかりだったし、ホー氏の応答も熱心かつ丁寧で、とても素晴らしいやり取りだった。特に北朝鮮のプロダクションにアニメーションを依頼していたことに驚いた。シンガポールのアーティストが日本で開催する展示のために中国経由で北朝鮮のスタジオと協業していたというところがすでにコンセプチュアル。そして歴史認識に関する質問では、ホー氏が「ギャップがないこと自体が危険なこと。ギャップをめぐって対話を続けることが重要」「自分はそのための問いを投げかけている」という主旨のことをおっしゃっていて、コレクション展のキュレーションはそれを体現したものなのかもしれないな…と思ったりした。いずれにせよ、我々は杉本博司でもホー・ツーニェンでも、アーティストからの問いかけを感じ、考え続けるということが大切なのだろう。そしてその問いの純度、切実さ、斬新さこそが、その作品の芸術的価値なのかもしれない…などと生意気なことを思った。


それにしても、今日も余計なことを書くならば、作品を通じて向けられる自国の歴史に対する厳しい問いを侮辱だと受け止める一部の人たちの気持ちが私にはよく分からない。私は国家を構成する一部ではあるかもしれないけど、国家は私ではない。そもそも国家とは人格ではなく機能(しかも時々暴走する)なのだから、問いを受け止めて、更新していけばいいだけだと素朴に思う。

本来拳を上げること必要がないはずのものになんとなく腹を立ててしまう、立てさせられてしまう状況は、誰かに仕組まれたものなのではないだろうか。