ドリーミー刑事のスモーキー事件簿

バナナレコードでバイトしたいサラリーマンが投げるmessage in a bottle

otonano佐野元春特集のあとがきのようなもの

Webマガジンotonanoの編集の方から「佐野元春の特集記事を書かないか」と声をかけてもらったのは1月の半ばくらい。『Sweet16』のデラックス版のリイシューに合わせて、90年代の佐野元春の歩みを5回にわたって連載するという企画。週一回4,000字。5回で20,000字。しかもこの特集には佐野元春自身のインタビューをはじめ、錚々たる執筆陣が名を連ねている。いやいや無理ですもし落としたら大変なことになりますし…と一瞬謙虚なフリをして断わろうと思ったが、今までの自分にできることだけやっていても仕方ないし、とサラリーマン生活では決して見せない前向きさで引き受けさせてもらった。

 

そしてそこからはもう佐野元春漬けの日々。90年代を語るには80年代から抑えなければ…と毎朝早起きしてすべての音源を聴き直し、足りないものは買い足して、編集部から送ってもらった資料を読み込んだ。娘が受験勉強の追い込みをしている隣で必死に。しかし佐野元春という名峰は、すでに何人もの名だたる音楽評論家が様々なルートで登っている。しかもご本人がこれまでのドキュメント、アーカイブをしっかりと保存するタイプのアーティスト(とても大事)なので、検索すればいくらでも情報が出てきてしまうのである。ありがたい反面、これらと異なる登山ルートを私が書き加えなければ、この企画の意味はないことになってしまうことになる。なんということだ。

もちろん音源を聴けば書きたいこと、書くべきことはいくらでも出てきた。なので一回あたり4000字以上というボリュームは思ったより苦にならなかった。問題はとにかく新しい登山ルートの方である。

 

しかしちょうど同じタイミングで、TURNに台風クラブ待望のセカンドアルバムのレビューも書かせてもらったのが良かったのかもしれない。例えばロバート・グラスパーを聴きながら、台風クラブガレージ・ロックに興奮する。そんな聴き方をしている人は30年前にも20年前にも存在しなかった。そもそも台風クラブみたいなバンドが、30年前に正当に評価されたかどうかも怪しい。つまり今と昔の価値観はどうしたって違うわけで、同じ登山コースを歩くことはもうできない。2023年を生きるリスナーとして90年代の佐野作品に触れて素直に感じたことを書けば、それは即ち新しい登山道になるということだ。果たしてそれが価値があるものかどうかは分からないけど、私は私なりの誠意を尽くすことしかできない。勝手にそう開き直ることにした。

turntokyo.com

今回取り上げた6枚のうち、一枚だけ選べと言われればやはり『The Circle』をあげたい。重くて、ダークな色合いの作品だが、その分だけタイムレス。そして未来を生きるための手がかりが一番多く詰まっている。この作品を一番最初に聴いた印象は、同じ時期に出たREMの『オートマチック・フォー・ザ・ピープル』に似ているということだった。具体的なサウンドというよりも、社会や心情を見つめる眼差しに通じるところがあるように思ったのである。かなり飛躍した発想だと思っていたけど、後に出るアルバム『THE BARN』を録音したスタジオが『オートマチック〜』と同じだと後から知ってちょっと震えた。マイケル・スタイプ佐野元春。日米ロック界の賢人、という共通点もある気がする。
このアルバムのクライマックスは「君をつれてゆく」という真ん中に置かれた曲にあるのだけど、このリズム、サックスの音色、静かに語りかけてくるようなボーカル。どうしても同じ年に出た小沢健二犬は吠えるがキャラバンは進む」を思い出してしまう。明け方にこの曲を聴きながら近所を散歩していると、15歳の夜、塾の帰り道に「天使たちのシーン」を聴いた時と同じ昂りに襲われ、サビにくるたびに涙ぐんでいた。よく通報されなかったな、とも思う。

この1ヶ月は佐野元春漬けと言ったけど、決して彼の作品だけを聴いていたわけではなかった。佐野作品は一枚ごとにカラーが違っていて、しかも高度に折衷的なのである。これはあの曲からインスパイアされたのかな?とか考えながら、古今東西の音楽をたくさん聴いて、メモ代わりに使っていたプレイリストはあっという間に3時間以上になってしまった。彼はきっと30年前もこうやってポップミュージックのエデュケーションをしていたのだと思う。

https://open.spotify.com/playlist/3WT1NPZnwsOnmVNXHoxAQj?si=c8cd80b48c6e4fb8

 

そんな感じで、アルバム一枚ごとに大騒ぎしながら書いた記事が本日すべて公開された。私はもう元春ロス。さびしいし落ち着かない。なのでこんなに長い文章をクールダウンのために書いている。朝早く起きて音源を聴きながら歩き回り、夜は佐野元春のライブの夢まで観るほど(会場はニューヨークだった)ストイックな生活を送っていたら体重も少し減っていた。ありがとう佐野さん。6月のツアーをめちゃ楽しみにしてます。

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言葉にできないものにこそ 『窓辺にて』の感想

別人格であるアーティストを安易に比較することは控えるべきと思いつつも、映画『街の上で』を観て以来、今泉力哉濱口竜介と同じくらい称賛されるべき映画監督なのではないかと感じていた。丁寧に描きこまれた群像劇、フィクションとノンフィクションの境界線を越える演出、品のある音楽の使い方…。具体的な項目を挙げるとキリがないが、要は私にとって「いつまでもそこにいたいと思わせる世界」を作ってくれる稀有な映画監督ということである。


そして今泉力哉の最新作「窓辺にて」。スカートが主題歌を担当しているということもあり(ちなみに『街の上で』はラッキー・オールド・サン、前々作『愛がなんだ』はHomecomings。2013年の『サッドティー』の音楽はトリプルファイヤー)、鼻息も荒く映画館に足を運んだわけですが、大変に素晴らしかった。

全ての登場人物が不完全なのに、パチンコ屋で隣合わせた客から乗り合わせたタクシーの運転手まで、全てのキャラクターに愛しさを感じずにはいられない映画。映画や音楽が、その時代を生きる人間の歪さに光を当て、慈しむための営みだとするのなら、これはもうある種の完全形なのでは…とすら思ってしまった。

 

稲垣吾郎主演の映画を撮らないか」という制作側のオファーによって書き始めたという今泉の脚本は、「私たちがイメージする稲垣吾郎」と絶妙に重なりながら、彼が演じた市川茂巳という人格の奥深くへと誘う。いつも物腰柔らかで善良でありながら、小さな、しかし大切な何かを人生のどこかに落としてしまった中年男性。出身地も年齢も明かされない、自らを「自分よりつまらない人間はほとんどいない」と卑下するような(しかも実際にそれは半分くらい当たっている)男に、私たちはどうしようもなく惹かれていってしまう。それは多分、市川が抱えている空虚は、私たち自身の退屈さを投影するのに最適な白紙だったからかもしれない。

そして「多くを語らず、全てを伝える」といった趣きの脚本に応えた、稲垣吾郎の繊細な演技も見事だった。妻との一見誠実そうで生気のないやりとり、奔放な若者たちを見つめる眩しげな眼差し、他者(主に女性たち)にぶつけられた感情を理解できずに困惑する表情。微妙に変化する無意識をも演じ分けるスキルと感受性に驚くと共に、自らのために用意された舞台で期待以上の結果を出すプロフェッショナルぶりに、国民的スターの矜持を見た思いがした。奇しくも上映前に木村拓哉がキムタク道を突き詰めていくことが伝わってくる主演映画『レジェンド&バタフライ』の予告が流れていたこともあり、組織と業界の非道さに翻弄された者たちの生き方について、誠に僭越ながら私も折り返し地点を過ぎたサラリーマンとして思いを馳せないわけにもいかなかった(いや本当に僭越だな…)

 

そしてこの映画が決定的に素晴らしいのは、決して明るい話ではないのに、ちょっと道を逸れると吹き出してしまうようなユーモアが常に並走していたところにあるのでないか。「おもしろのたっちゃん」のような強烈な飛び道具をはじめ、喫茶店のオーダーをめぐるやり取り、瑠璃の叔父の深いような浅いような佇まいなど、意味深なエピソードやディテールを投げかけて放置したり、気まぐれにまた拾ってみたりという緩急が絶妙だった。この常に入れ替わる空気が、2時間半以上という静かな時間を豊潤な沈黙へ変化させていたのだと思う。


ユーモアという文脈で語っていいのか迷うところではあるのだけど、映画の中でちょっと気になった、やや不自然な点が二ヶ所ある。一つは、大変失礼ながら成己はあまりガツガツ働いている感じじゃないのに(フリーライターなのに文章を書いているシーンは一回も出てこない)、なぜあんなわざとらしいくらいに都会的なメゾネットの部屋に住めるのか。そしてフリーライターらしさを分かりやすく演出するための小道具であろう肩かけ鞄を、なぜ瑠璃と訪れた山にまで持っていくのか。あんな部屋に住むほどのファッションセンスの持ち主なら、おしゃれなバックパックくらい持っている方が自然なのに…というところまで考えてはたと気がついた。もしかして、あのメゾネットのおしゃれな部屋や妻が浮気をするというストーリーは『ドライブ・マイ・カー』に対する、そして中年フリーライターが両親不在の美少女に翻弄されるというプロットは『ダンス・ダンス・ダンス』へのオマージュというか、ツッコミだったのではないか、と。アカデミー賞受賞監督あるいはノーベル賞候補作家に対する「俺ならこうやるよ?」「実際はこんな感じじゃない?」という感じの不敵なアンサー。そう思うと、稲垣吾郎のどこか軽みのある演技も、西島秀俊のシリアスさに対するカウンターという要素があったように思えてくる。もちろん両者ともに名演であることは大前提として。


以上、映画を観て思ったところを色々と書いてみて、もし根気よく読んで下さった方がいたら本当に申し訳ないのだけれども、結局のところこの映画はこうして「点」を語ることにあまり意味はないような気がしてきた。何より大切なのは、点と点の間に流れる空気や時間、時おり射し込んでくる光なのである。

近所のシネコンではもう打ち切りの気配が濃厚だったけど、なんとか一人でも多くの方に、あの世界を味わってほしいと願わずにはいられない。

 

2022年11月の日記(リヒター、ツルロックとカクバリズム20周年)

11月2日

高速に乗って豊田市方面へ。車中BGMは昨日出たばかりのサニーデイ・サービス『DOKI DOKI』。気がつくと制限速度をすぐ超えちゃうし、目的地で降りたくなくなるから本当に危険。まずは鞍ケ池公園にできたスノーピークのカフェへ。蔦屋書店とスノーピークから放たれる「こっちに来れば誰でもオシャレに!」というムードにはやすやすと乗ってたまるかと思ってしまうのだが、今回もやすやすと乗った。最高の景色の中で食べるガッツリカフェメシ。座っていたアウトドア用のベンチが欲しくなってしまった。

リヒター展では初めて豊田市美術館のボランティアガイドさんの解説を聞きながら館内を回る。いつかこの仕事をやってみたい、というのが私の密かな夢。

「世界で最も重要なアーティスト」と(うるさいくらいに)評されるリヒターの作品を観ながら改めて感じたことは、優れたアートとはその時代に対する問いかけなんだな、というシンプルなこと。だから作品そのものはもちろん、その質問がその時代を生きる人々にどう受け入れられたのか、あるいは受け入れられなかったのかということが、後々作品を語る上では重要な要素。私には何かを創造する才能はないけれども、せめてこの時代における大切な問いは見逃さず、しっかりとリアクションしていきたい。私もまた歴史による評価の対象なのだから、と思った次第。まあこうやって美術館だのライブハウスだのに通っていることの言い訳なんですけど。

 


11月4日

下の子どもと鶴舞ロックフェスティバル。略してツルロックへ。名古屋、愛知の強豪アーティストが多数参加。タイムテーブルを知らなかったのだけど、着いた時にちょうどsitaqが演奏していた。内気そうに見えて、いきなりソウルだったりプログレっぽい方向に飛んでいこうとする感じが面白い。終盤の二曲が特に良かった。早く新譜聴かなきゃ。そして続いてはブラジルコーヒー店主・角田さん率いるTHE PYRAMID。このモグリめ!と怒られそうだけど、今回が初見でした。が、ぶっ飛ばされましたね…。どことなくトロピカリズモの香りも漂うプログレッシブなグルーヴ。ノンアルビールでめちゃくちゃに酔っ払ってしまった。子どもに「あの人知ってる?」って聞いてみたら、「ブラジルコーヒーの店長さんでしょ」と即答された。先週、アジフライ定食とリンゴジュースとクリームソーダを平らげたやつは違う。

とにかくこの日は天気が良くて、最近はそれなりに悩み多き年頃になってきた子供と、久々にのんびり遊べて楽しかった。こんなイベントを手弁当で開催してくれて本当にありがとうございます…という気持ちで胸がいっぱい。ムルヒさんや最後の小池喬さんまで観たかったけど、またライブハウスで観ることを心に誓い、寒くなってきたのでお先に失礼させて頂く。成城石井で惣菜を買って帰宅。サニーデイの配信ライブを観る。Jマスシスみたいな渋いおじさんがめちゃくちゃ楽しそうに演奏していた。

 


11月5日

ダイヤモンドホールカクバリズム20周年イベントへ。日曜日の14時から21時という長丁場は中年サラリーマンにはしんどいぞ、と思いつつ、ラジカクリスナーとしての矜持を示すために参加。妻には「今日こそ社長に挨拶してくっから」と謎の宣言をして家を出る。昨日のイベントが楽しかったのか、ツルロックキャップをかぶった子どももついてきた(ちなみに中学生以下無料。ありがとうございます社長)。


会場に着くとちょうど在日ファンクが演奏中。久々に観るけどすんごい迫力。子どもも圧倒されている…が、MCになると一気に空気が溶解するギャップがなんとも愛しい。果たして天国のジェームズ・ブラウンは、新曲のアカペラパートをトチったこのバンドにいくら罰金を払わせるのかな…なんて思った。


VIDEOTAPEMUSICのDJを挟んで登場したのはmei ehara。森道に続いてのバンド編成。この日印象に残ったのはcoffのぶっとくて重いベースの音。それがmei eharaのどこまでも澄んだボーカルとの間に広大なスペースを作り、音と感情が自由にたゆたうことができるのではないか。聖と俗のコントラストと言ってもいいかもしれない。発表前の新曲も、バンドアンサルブル全体が大きく、そしてクールに揺れるグルーヴがめちゃくちゃかっこいい…と盛り上がっていたら演奏が止まった。歌詞を忘れてしまったらしい。ライブではたまにある光景ではあるけど、その後のテンパり具合が最高だった。客席から「がんばれー」という声がかかると「がんばれとか言われると余計わかんなくなる!」と言い返すmei ehara。場内爆笑。かなり長い中断の末、歌詞をスマホで確認してことなきを得た模様。めちゃくちゃ高度でかっこいいことをやりつつも、どこかアマチュア的なにくめない空気こそが、なんともカクバリズムらしいと思った。良きパーティである。


この日は30分ライブ、30分転換DJという構成だったので、こまめに外に出て子どもはお菓子、中年はエナジードリンクなどを摂取することができた。ちなみにダイヤモンドホールに着くまでの階段が大変だ…と子どもがボヤくのを聞いて「若いもんが情けない。歌舞伎町時代のリキッドルームなんてなぁ…」と言ってしまいそうになるが自粛。


次は急遽出演が決まったトークボックスをくわえた変態王子・藤井洋平。子どもには「次の人はソウル版のDEATHROさんみたいな感じ」と雑に説明しておいたが、実際勝るとも劣らないインパクト。髪型や笑顔から放たれる羽振りの良さが半端ない。そして子どもに聴かせるにはOh…って歌詞すらも良い社会勉強と思っちゃうくらいにゴキゲンな音しか鳴ってない。バグルズオマージュの「意味不明な論理・方程式」で絶頂に到達した。ちなみにドラムの光永渉さんはfrueの角銅真実とceroと合わせてトリプルヘッダーでは。ドラム界の衣笠じゃん。


次はYOUR SONG IS GOOD。今日のアクトの中でウチの子どもが楽しめるのはこの人たち!と思っていたので、「ラジカクの人のバンドだからフロアに降りて踊ろうぜ」と提案してみた。前半のカリプソやロックステディのビートはちょっと小学生には大人っぽすぎたみたいだったけど、途中の「Double Sider」くらいからペースを掴みはじめ、最後のドラムとパーカッションのめちゃくちゃ熱いバトルから始まった「ON」ではしっかりフロアに降りてステップ踏んでましたよ。ナイスグルーヴをありがとうユアソン!と感無量。この日の我が家的ベストアクト。そういえばこの子がまだ赤ちゃんの時に連れていった初回の森道にもユアソン出てたよな…。


キセルは夕飯休憩@松屋のためちょっとしか見れなかったけど、明らかに時間の流れが違う、宇宙の音楽。小学生は「清丸さんに似てるね」と言っていた。なかなか鋭い。


長いようであっという間にトリのcero。そういえば俺のミッション「角張社長に挨拶をする」は果たせないまま終わりそうだなーと開演前にトイレで手を洗っていると、なんと隣に社長が。完全に条件反射で「あ!社長、20周年おめでとうございます!」とサラリーマン仕様の声が出ていた。社長も「ありがとうございます。最後まで楽しんでいってくださいね」と返してくれたけど、どこか表情が固い気がしたのは、俺が怪しかったからか。

 

それはともかくceroである。6月のワンマンは観れなかったので今年初。VIDEOTAPEMUSIC が流す最高のダンスビートと入れ替わるような沸き起こってくる電子音から始まったのは「Nemesis」。目の前に幻想的な景色が浮かび上がってくる感覚にシビれる。まんま流れてきたのは「Fdf 」。厚海さんのスラップベースがカッコよすぎたし、こんなにパワフルだったっけ?ってくらいにコーラスを含めた歌声がソウルフル。そのまま「Elephant Gohst」になだれ込み、ああもう圧倒的だなーと思って隣を見たら小学生も踊っていた。人生初の変拍子。それにしてもceroを観ながらこんなに広いスペースで踊ることはないだろうね…というくらいに快適すぎた。ありがてえけどもったいない。

MCでは高城さんが「カクバリズムのアーティストのライブは観ていて疲れるくらいすごい」って言ってたけど、この方は本当にずっとPAの横でライブを見ていた。誠実な人だなーと思って感動してしまったよ。

アンコールは「Summer Soul」。小学生もよく知ってる名曲。こりゃテン年代の「接吻」だなーと思っていたところ、間奏でまさかのラップをかますしたのは角張社長。90年代風のライムと力の入り具合に、同い年としてマジ泣けたっす。開演前のトイレで心ここにあらずだったのはこういうことか…と一人で納得していた。

 

ファクトリー・レコードは14年、クリエイションは16年、トラットリアは10年で終わったことを踏まえれば、インディー・レーベルを20年続けるというのは偉業というか完全に奇跡。しかもこの音源が売れない、ライブができないご時世に。実際、この日の動員もかなり厳しい感じだったんじゃないかと余計な心配をしてしまう。しかし俺はこの日改めてやっぱり現在進行形のポップミュージックが一番好きだし、その中でも「ある(しかもかなりぶっちぎりの)基準」を示し続けているカクバリズムにはリスペクトしかないっす。

長かったけどいい一日。明日は学校&会社だ。

 


※なお後日、ラジカクにこの日の感想を送ったら番組の中で読んでくれてリスナー冥利につきまくった。

最と高、その間に入るもの。サニーデイ・サービス『DOKI DOKI』

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最高。それも最と高の間に「っ」が5個くらい入るやつ。スピードメーターを振り切って、青空を切り裂いて、俺たちをどこか遠く、取り返しのつかない場所まで連れていってしまうロックンロール。サニーデイ・サービスの最新作『DOKI DOKI』について言うべきことはもうこれだけ。それ以上の言葉はすべて蛇足だ。


でも野暮を承知で『DANCE TO YOU』以降何度も繰り返した問いを、俺は今回もまた口にせずはいられない。なぜサニーデイは、サニーデイだけが、とっくの昔に死んだはずのロックンロールという恐竜を生き返らせることができるのか。彼ら自身、一度はロックンロール絶滅後の世界を『Popcorn Ballads』『The City』という異形の傑作で追求したはずなのに。

もちろんその答えは三人のみぞ知るということだろうし、すべては風の中ということなのかもしれない。


このアルバムを聴いて、「最っっっっっ高」という単語の次に浮かんだイメージ。それは目に映るすべての景色、耳に届くすべての音を飲み込んで、前へ前へと進むバンドワゴンの姿。

冒頭を飾る「風船讃歌」。いにしえのフォークの匂いを濃厚に感じさせるメロディは、MIDI時代の名盤の数々と共に1月にリリースされた「おみやげを持って」を彷彿とさせる。その一方、爆裂するバンドサウンドは『いいね!』の流れを引き継いでおり、しかもMVには代々木の駅前に降り立ったおじさん天使まで登場する。これって曽我部恵一BAND「天使」の14年越しのセルフオマージュじゃん。『東京』と『キラキラ』も『いいね!』も、これまでの足跡をすべて引き受けて鳴らす、大らかで強い音に乗せて歌われる

“あなたのそばに行き 歌をうたってあげたいな 世界が終わる日も”

というフレーズ。その説得力といったら。


その強度は続く「幻の光」でさらに高まる。

“ここに来れば 夢が見られると 瞳輝かせ人が集まってくる”

“遠くから来た車が濡れて光ってる 待っている 揺れている”

という歌詞から目に浮かぶ景色は、サニーデイを追いかけて足を運んだ21年のフジロックや今年の森道市場。何にもない平原に数日間だけ現れる祝祭の場。その喜びと儚さをいやという感じた、『いいね!』からの約3年間。ある時は人目を避けてこっそりと、ある時は大手を振って堂々と、感染者数に右往左往しながら束の間の陽光を全身で分かちあうために集まったひとりひとりの私たち。そしてその期間は大工原幹雄が新しいメンバーとして加入後とほぼぴったり重なるわけで、俺たちもバンドも暴風雨の中を進んできたよな…としみじみと思う。でももしこうした共通体験が燃料となって素晴らしい曲として結実したならば、こんなにファン冥利に尽きることもない。ちなみに最初に聴いた時は、二曲目にスローナンバーがくることがちょっと不思議な感じがしたけど、高速道路に乗る前に、俺たちも機材車に乗せてくれたってことなのかな、と勝手に思っている(妄想力)。


そしてここからは、文字にするのが追いつかないくらいのスピードでぶっ飛ばすオルタナ、パンク、ロックンロールの三車線から成るハイウェイ。その先導車はなんと言っても大工原幹雄のドラム。ここ数年のライブを観た人なら分かってくれるかもしれないけど、これまでのサニーデイの楽曲は彼のドラムによって新たな生を得た、と思う。どっちがいいとか誰がいいとかの問題ではなく、プリミティブで、ガレージで、気持ち良さしかないの彼のドラミングによって、過去の名曲たちも完全に別モノになったように思ったのだ。「ノー・ペンギン」のアウトロや「メキシコの花嫁」のぶっといタムの音を聴くと、その興奮が克明によみがえってくる。

そしてこの時間帯のピークはなんと言っても「Goo」。タイトルはSONIC YOUTHだけど、ベースの音色からして完全に『Doolittle』期のPIXIES。40代以上の琴線を直撃すると同時に90’sオルタナ再評価の波を捉えたセンスも感じさせる元ネタ感。相互監視社会が完成した2022年に、無邪気なくらい大胆に投げ込まれたど真ん中のストレート。まるで学祭に出るバンドのようなみずみずしさ…とか思ってしまうんだけど、もちろんアマチュアにこんな迫力は出せるわけもない。アマチュアにも手練れのプロフェッショナルにも鳴らすことのできない、青く燃える純情があるのだ。これと同じ感覚を、画面越しで観たフジロックDinosaur Jr.にも感じていたことを思い出した。


「すべて蛇足」とか言いながら、既に多くの文字を費やしてしまった。最後に言っておきたいのは、脳内に別の世界を喚起する歌詞力について。例えば「恋におちたら」でも「サマーソルジャー」でもいいんだけど、これまでのサニーデイの名曲たちは私たちの心の中に一編の映画を再生してくれるようだった。でも前作の「コンビニのコーヒー」「春の嵐」くらいから、もちろん演奏の力強さも相まって、聴き手をどこか別の世界へさらっていってしまうような強烈な引力があるように思う。今回、特に持っていかれたのが「浜辺のレストラン」の冒頭。

“最後は海で騒ぐ 今日のたぶん結末 

だったらあれ持ってく? 

昔くれたミックステープ”

こうして文字に書くだけでも気持ちのいい押韻が脳に刻まれ、リアルな手触りを伴って浮かんでくる若者たちの高揚感。前後関係など一切分からないまま、自分がその場にいるような気持ちになってしまう。本当は44歳のおっさんなんだけど、ビートがつまらない現実を引きちぎって、俺をもう一つの世界のなかに放りこむ。「レコードプレーヤーのスイッチを入れたらいつでもおまえを14歳にしてやるぜ」という名曲があったじゃないですか。まさにアレですよ。

 

俺みたいな人間でも、新しい音楽を聴くと無意識のうちに乏しい手持ちの知識で因数分解をして、分かったような気になってしまう。でも本当に大切なのことは、そんなことで分解できない部分にしかない、と最近よく思う。その意味においてこの作品は、巨大な素数のようなものなのかもしれない。PIXIES、Ben WattやOASIS、いくつも浮かんでくるキーワードでもきれいに分解することなんてできない。はっぴいえんどを用いても『東京』の魅力を説明できなかったことと同じように。見たもの、聴いたもの、食べたもの。リアルタイムの人生が表現に還元されているからこそ、ここにしかない有機的なスリル、『DOKI DOKI』が生まれたということなのかもしれないし、俺がずっと彼らを追いかけてしまう理由なのかもしれない。

 

 

 

ゆく憂さくる憂さロックンロール(2022年10月の記録)

10月1日
自宅軟禁解除。いきなりの休日出勤をキメてから名古屋城で開催されていた「Social Tower Market」へ駆け込んだ。10月とは思えない暑さの中、エマーソン北村 with mmmのライブ。ドラムは菅沼雄太。めちゃくちゃ豪華じゃないですか。エマーソンさんのキーボードは大御所なのに初めて音を鳴らす子供のような純真さ。そしてmmmのボーカルはライブであることを忘れるくらいに深いツヤがある。この三人で演奏されたmmmのソロ曲「blue」のドープな切なさといったら。強すぎる日差しの中で身も心も溶けていきそうだった。
続いてはKing of Mellow Rock曽我部恵一。今年何度目かわからないくらい観てるけど、いつも表情が違う。同じ曲を歌っても。この日はフリーイベントだったから初めて観る人、久しぶりに観る人も多かったと思うのだけど、「コンビニのコーヒー」でぶち上げまくった上に、「青春狂走曲」やアンコールの「サマーソルジャー」で心のお土産まで持たせてくれる完璧なホスピタリティ。もうひれ伏すしかない。物販の近くでPAPERMOON細田さんに遭遇。

 

10月2日
翌日も名古屋城へ。まずはLIVERARYエリアでSummer Eyeこと夏目知幸のライブ。かつてのバンドサウンドから遠く離れて、ラップトップとポエトリーなラップ。拳法の達人のように、しなやかで力まず、ここぞというところでパンチをくり出すような表現。そして夏目さんの傍で必死の形相でパソコンを抑えているPAPERMOON細田さんを発見。
お昼ごはんはカクバリズムのお店で海南鳥飯とビオワイン。ただし車だったのでワインは妻だけ。美味しかったし、美味しそうだった。カクバリズムは何から何まで気が利いている。VIDEOTAPEMUSICとOGAWA&TOKOROのスプリット7インチも入手。

この日のメインは家主。サウンドチェックの時点から早く演奏したくて仕方ないって感じで本気で歌うヤコブ氏。完全に子供のようで微笑ましいが、鳴らしている音は凶暴そのもの。名古屋城シャチホコが暴れ出し、石垣が崩壊するんじゃないかと思った。今年は今まで一度も観ることができなかった家主を3回も観れたけど、観るたびに良くなっていく。この日はモニターに苦戦していたようで音が思いっきり外れる時もあったけど、これくらいラフにやってもスーパーグッドメロディーはビクともしないし、むしろこれぐらい揺さぶってやるくらいがちょうどいいのかも。めちゃくちゃ興奮した。


10月8日
得三でリ・ファンデ主催のTears Rock Show。今回のゲストは奇妙礼太郎、そしてオープニングアクト檸檬
最初に登場した檸檬。前回観た時と同じように、シンプルなグッドメロディーを虚飾ゼロで鳴らすポストパンク的な佇まいがMarine Girlsのようだった。特に今回はソウルフルな礼太郎さんファンがたくさんいるという特殊空間だったので、そのユニークさが際立ったような気がする。
そして得三で観れる日が来るとは思わなかったリ・ファンデはわずか3ヶ月前に観た時よりも自信に溢れていた感じ。開場前に雑談していた時も、前回の僕とはちょっと違いますよ、と言っていた。この日も披露された年末にリリースされる新曲が最高の仕上がりだったからかもしれない(一足先に聴かせてもらった!)。この日もひたすらに良い曲を誠実に聴かせていたが、特にアントニオ猪木の話題からさりげなく歌った「イムジン河」もグッときた。さりげなく、というのがポイント。ファンデ・マニアとしてはこの後に「山の中で踊りましょう」を続けて聴けたら…と思ってしまった。
そしてトリの奇妙礼太郎は全身が音楽とフェロモンだけできた謎の生命体。歌声と仕草の一つひとつで完全に会場を支配していて本当に恐ろしいことだと思った。歌唱力が人間力を作るのか、人間力が歌唱力をつくるのか…。ピアノとギターとトークを自由に行き来するかなり即興的な内容。そりゃこれだけ「その場かぎり」の空気をつくってしまうんだから、毎晩のように歌ってもお客さんがたくさん集まるわけですよね。
ちょうど前の週に奇妙さんと並ぶ弾き語りモンスターである曽我部さんのステージを観たばかりだったので、両者のあり方の違いがよくわかって興味深かった。奇妙さんは全身音楽家、曽我部さんは自身とお客さんとの間に楽曲を打ち立てているイメージ、と言えば伝わるだろうか。ちなみにこの日もPAPERMOON細田さんがいた。新作リリースおめでとうございます。

 

10月15日
娘の部活の大会が長野県で行われるということで、応援にかこつけて松本市へ前入り。ここに来たのは2019年7月以来。当時は仕事で毎月のように訪れていたのに、コロナの影響もあってそれらのプロジェクトは手を離れてしまった。本当にこの3年間はしんどいな…と中央道を走りながら改めて自覚して落ち込んだ。が、美しい山に囲まれた松本の街は相変わらず他にはないバイブス。昼間はMarking Recordsさんを訪れて、店主の前田さんが書く日本で一番魅力的と断言できるポップだけを頼りに、あえて知らないアーティストを妻と一枚ずつ選んだ。そして夜はGive me little moreへ。いつ来てもおもしろい話をしてくれるお客さんがいて長居してしまう。この日はラテンのDJの方にミックスCDを頂いた。新美さんが勧めてくれる珍しいお酒も全部美味しくて、日付が変わるまで飲んでしまった。
翌朝は珈琲美学アベでモーニングを決めてから吹奏楽部の大会へ。娘の学校ももちろん良かったんだけど、どこかの山間部の学校の演奏がめちゃくちゃ印象に残った。人数は他の学校の半分以下、衣装もバラバラ、演奏も決して技巧的ではないのに、何かが胸を打つ。気がつくと涙があふれてきて、俺なんかおかしいのかなと思って隣を見ると、妻も感極まってるようだった。ロックに例えるとパステルズとかヴァセリンズとかCAMISAMAみたいな感じだろうか。音楽って本当に不思議。善光寺に寄ってから帰宅。サニーデイのワンマンには行けなかったのでPAPERMOON 細田さんには会えなかった。

 

 

10月18日
昼休みに最近手に入れたTALKING HEADS「Remain in Light」のレコードを聴いていた。アフロビートとポストパンク。文明の衝突と融合。こいつはこの時代に生きていたら絶対聴かなきゃいけない音楽だな、と思った。
夕方から車でダイヤモンドホールへ向かう。車中では岡村詩野さんのラジオ番組で佐野元春が「アーティストは時代の空気を感じることができるし、未来を見通すこともできる」とちょっとぶっきらぼうに語っていた。
この日は折坂悠太のワンマン。ほぼ5年遅れくらいでやってきた我が家の折坂ブーム。きっかけは今年のフジロック配信。これはいい加減にちゃんとライブを観ないとまずいのでは、と平日なのに夫婦で来てしまった。すまん子供たち。スタンディングエリアのあまりの狭さに愕然としたが、ライブは期待に違わず素晴らしかった。歌と演奏はさることながら、冒頭に手で作った影絵でイマジナリーな「名古屋の犬」を登場させる演出にも痺れた。人間の業の深さを不思議に思う彼(彼女かも)が、「今日はここにいようと思います」と言うことによって、観客である私たちもまた、動物という第三者から観察・鑑賞される対象となり、ライブという一対一の関係性を立体的な関係へと作り替えてしまった。そして演者である折坂悠太とバンドメンバーは言わば人類代表として、芸術という人間の業の極みを犬に披露することになったわけだけど、もちろん彼らは見事にその大役を全うした。終盤には(影絵の)「名古屋の鳩」がやってきて「11月の寒さは10月の寒さとは違う。それは絶対に違う」と呟く。人間に最も身近な、そして平和の象徴とされる鳥のこの言葉に、北の国で人間が起こしている愚行と悲劇を思い出さずにはいられない。ステージに設置された焚き火に照らし出される人間の業。すべて火を操るところから始まった。
これだけ完璧なパフォーマンスを見せつけておきながら「私と同じ動きをしないでください。いつか私が同じ振り付けや旗を振ったりすることを要求したら止めてください」と自分を笑い、あくまでも観客とフラットな立ち位置にいることを強調するモダンな価値観。これはもう好きにならずにはいられない。というか、好き嫌いに関わらず2022年に生きる音楽好きとして体験しておくべき表現だと思った。まさに1980年のトーキング・ヘッズと同じ様に。ちなみに折坂悠太の衣装は『アメリカン・ユートピア』のデヴィッド・バーンに影響を受けたものらしい。
そう言えば、週末のGive me little moreで伝統的なクンビアを現代的に進化させた「デジタル・クンビア」なるジャンルの存在を教えてもらい、日本にはそういうアーティストは民謡クルセイダースくらいしかいないっすね、とか言ってしまったのだけど、この人がいた。佐野元春がラジオで語っていたことも含めて、なんだか自分が見聞きしてるものの全てが折坂悠太につながっている…というのは言い過ぎにしても、とにかく破格にスケールが大きいアーティストであることは間違いない。今さら私などが言うまでもないことですが。

 

10月22日
センチュリーシネマで『クリエイション・ストーリーズ』を観る。クリエイションと言えば、私の青春ど真ん中。音楽の才能がないと分かった人間が次に夢みる職業と言えばレーベルのオーナー。よってアラン・マッギーには当時から憧れていたし、私と同い年の角張渉社長には憧れと羨ましさしかない(彼らには音楽の才能もあったけど)。とは言え、映画としてはちょっと微妙かも。アラン・マッギーの半生の描き方が直線的すぎたし、ライブシーンもまあまあって感じ(テレビジョン・パーソナリティーズが出てきたところは別)。ディズニープラスで配信されていたセックスピストルズのドラマにもいまひとつ乗り切れなかったし、ダニー・ボイルとの相性が悪いのかも。でもこの映画がどこかもっさりしてる一番の要因は、オアシスで大成功した後にトニー・ブレアと手を組んで結果的に新自由主義の片棒をかついだことの言い訳が長すぎたからだと思う。だからこれはアラン・マッギーのせい(たぶん)。でも、自分が元気なうちに懺悔しておきたいという彼の気持ちも分かる気がするし(勝手に推測)、そういう人間くさいところがこの映画のチャームポイントかもしれない。あ、あと一瞬出てくるボビー・ギレスピーのお父さんがちゃんと彼の自伝に書いてある通りのキャラクターだったのが良かった。
ちなみにこの日のスクリーンは、アラン・マッギーの偉大なる先輩とも言うべきトニー・ウィルソンを描いた、私が一番好きな映画『24hour Party People』を観たのと同じ場所だった。あれから何年経ったんだろうと思って調べてみたらなんと19年も前のことだった。せいぜい10年くらい前だと思っていたのに!もう自分の感覚がまったく信じられない。そう思いながら家に帰り、久々にDVDを観てみたけどやっぱり最高の映画で安心した。

 

10月30日
朝、なんとなく気になって鏡で後頭部を見てみたら、小さな穴が空いていた。すっかり完治したはずの円形脱毛の再発。おそらく理由は来年も異動できないことが分かったから。とは言えもはや異動したいのかどうかも分からない。とにかく脱毛そのものよりも、いいおっさんのくせに妙に繊細であることに落ち込む。
夕方からブラジルコーヒーへDEATHROのライブを観に行く。U-23は無料という太っ腹な料金設定に甘えて下の娘も連れていく。DEATHROは去年のボロフェスタのライブが衝撃的すぎて次のワンマンは絶対行くぞと思っていたのだけど、(ハゲが発覚した)今日という日に見れて良かった。ブラジルコーヒーを純喫茶武道館と呼び、呼ぶだけじゃなくて数十人のお客さんに1万人分の愛を本気で届けようとしてくれた。最近読んでいるギー・ドゥボールの「スペクタクルの社会」(まったく理解できていない)に従えば、彼は状況主義に思想的裏付けを持つパンクロックの伝統をその対極にあるビジュアル系のイメージでハックした、いわば究極の状況主義者と言えるのかもしれない。しかし、スペクタクル=見せ物として消費されるイメージをぶち破る血の通った愛がある、というか愛しかないという点では、完全にスペクタクル社会の外側にいるのではないか。窓の外にかわいい赤子がいれば駆け寄って歌い、窓の外に誰もいなくても店から飛び出して公道の上で歌う。会場でたぶん三番目くらいに若かったであろう娘はいつ自分のところに駆け寄られるかビビりまくっていたけど、お父さんは爆笑しながら泣いていたよ。帰りに駅前の成城石井で「DEATHROさんがあんなに頑張ってるんだから、俺たちも頑張ろうな」と励まし合いながらパンを買う。ロックに生かされてるな、と思う日。

 

カルチャー、コロナ&ギックリ腰(22年9月の日記)

9月はギックリ腰になったり、給湯器が壊れて一週間スーパー銭湯に通うハメになったり(大出費)、中盤にはギックリ腰を再発させ、さらに家族全員がコロナに感染するというつらい30日間であった。

 


以下、厄落としの日記。

 


9月3日

映画『NOPE』を観にいく。私は映画は本当に疎いので、岡村詩野さんが紹介していた作品、または曽我部恵一佐藤優介がほめていたものの中から選んで足を運んでいる。今回は曽我部さんと佐藤さんが絶賛していたのでダッシュイオンシネマに。できるだけ前情報を入れずに観る、というのがいつものやり方なので今回もそうしたんだけど、恥ずかしながら見終わった後はどこがそんなにすごかったのか、今ひとつピンと来なかった。いやまあおもしろかったけど…という感じ。その後、反省会として妻と二人でモスに行き映画サイトでレビューを読み漁り、「そういうことだったのか!」と衝撃を受けまくる。もう一回観たいと思ったけど田舎のシネコンだとすぐ終わっちゃうのよねこういう映画は。しかしテーマの一つである「カメラ/撮ることの暴力性」は『ハッピーアワー』の解説本の中で濱口竜介が繰り返し強調していたことでもある。濱口監督とジョーダン・ピールはほぼ同い年(関係ないけど俺も…)。スマホSNSが当たり前の世代として抱く問題意識なのかもしれないとちょっと思ったりした。

 


9/4(日)

半裸と刺青がデフォ。靴なんて履いてるやつは貴族かよ?という、あらゆる価値観がひっくり返った独立国家・橋の下音楽祭へ行った。諸般の事情で日曜日だけ。GO FISHからジャガタラ、ラフィンまで観てやるぜ…と思っていたけど、朝起きると腰にミシミシとした痛みが走り、靴下を履くのも苦労する状態に。ギックリ腰というやつですね。それでもこの地方に暮らす音楽ファンとして足を運ばないわけには…と娘に付き添いを頼みGEZANだけ観た。橋の下で観る彼らのライブなんてもう絶対に間違いないやつだろと思ってはいたけど、彼らと彼らの友達の魅力が超濃縮された想像以上のパフォーマンスだった。最前でブチ上がれなかったのが悔やまれる。しかし、超久々に今は木こりになったカゼノイチ上野さん、新婚のニノさんに会えて嬉しかった。そして文系男が完全アウェイの環境下で、元TURN編集部・加藤さんに会った瞬間は、やっと会えたね…という感動と共に俺より文系っぽい人がいるぞ、という大いなる安堵感に包まれました。わずか3時間の滞在だったけど、死ぬ思いで行って良かった。

 


9月11日

あいち2022、一宮市会場へ。愛知県西部については本当に何も知らないのだけど、まずはON READINGさんのインスタで見た喫茶店シェルボンへ。素敵な建物と愛知ローカルほ喫茶店文化が混ざり合う素敵なお店だった。

最初に訪れたのは中心部から一番離れた墨会館(丹下健三設計)へ。おそらくこの建物が売却される時に払い下げられた家具を10年以上愛用しているので、絶対に足を運びたかったのだ。未来に向かって伸びていく凛とした志が濃厚に漂う空間に感無量。

続いては、のこぎり二で塩田千春の作品を。繊維を中心とした文化、生活、労働のすべてを貫いていた生命力を蘇らせ可視化したような作品。そして駆け足で中心部へ。この時点ですでに夕方。旧一宮市立中央看護専門学校では西瓜姉妹と枡山和明の作品が印象に残った。アウトサイダー・アートとヒップホップカルチャーの親和性。そして旧一宮市スケート場のすべてを使ったアンネ・イムホフの作品も期待以上の迫力。外界から隔絶されたシューゲイズ、ノイズ天国。特にロックファンは絶対に観た方がいいと思った。そして豊田市美術館で観たことあるけど…と思っていた奈良美智の作品は、神々しさすら感じた。場所が変わればメッセージも変わるということを教わったような。

そして最後に18時を過ぎてようやく辿り着いた大宮公園のバリー・マッギーは、古い街並みから人影が消えてカラスの大群が公園に戻ってくる時間帯ということもあって、不気味とロマンチックが半ばするなんとも言えない雰囲気があった。人間が消滅し、公園は木々の生命力に飲み込まれ、街は野生動物たちが奪い返す…みたいな近未来のストーリーが頭に浮かんできた。すごい体験だった。

 


さて帰ろうと駐車場に戻ると、めちゃくちゃかわいい野良猫がニャーニャー泣きながらすり寄ってきて、これは連れて帰らなきゃダメか…と一瞬思ってしまったが、餌やりの方が来る時間だったみたいで安心した。とは言えこの街に一匹で生きる孤独を勝手に想像して胸がチクチクする。

とにかく一宮会場は街並みを含めて名古屋会場以上に見どころ満載だった。もっと時間をとって訪れるべきであった。

 


9月12日

風呂が壊れる。すぐに交換を依頼したが工事は一週間後。それまでスパ銭通いの日々。めんどくさいし出費が痛すぎる。この家に引っ越してもうすぐ15年。いろいろとガタがくる季節。

 


9月18日〜

娘の学校でコロナクラスタ発生。そこから我が家に持ち込まれたウィルスを華麗にリレーして最終的に全員が罹患。三日間の高熱と喉の痛み、倦怠感。軽症だと思うけどしんどかった。しかも俺はこないだワクチン打ったばっかりだし、妻にいたっては半年で二回もかかっているので抗体とはなんなのか、と言う気もする。そして濃厚接触者から感染者へ、というルートを辿ったのでほぼ二週間を自宅待機になってしまった。

幸い、数日を除いて映画を観る体力はあったのでアマプラで色々と観る。中でも深夜についうっかり見てしまった『最後にして最初の人類』がワタシの潜在的かつ根源的恐怖をビンビンに刺激してくるたまらない作品だった。みんなも夜中に観てビンビンになってほしい。


療養中に開催されたムーンライダーズ、いや澤部渡佐藤優介を加えたmoooonriders のレコ発ライブは解熱剤を飲んで生配信を観た。本当は遠征したかったんだけど。ロックやユースカルチャーがひたすらに忌避してきた「老い」という現実を、エッジーな表現に変えていく音楽家としての凄みとバンドの絆。私は決して彼らの熱心なファンとは言えないが、独立した音楽家による大人の連合体というイメージのあったムーライダーズが、結成から40年を優に超えてもなお、バンドというフォーマットにこだわった活動をしていることは驚きだし感動してしまう。むしろ個々人がアーティストとして独立できていることこそが、バンドを保つことができた要因だったのかもしれないな、とも。もちろん昔に比べればフィジカルの衰えはあるかもしれないけど、その境地に達しないと鳴らせない音があるのだと教えてくれた気がした。俺もコロナに負けているわけにはいかない。我らが(と言わせてくれ)澤部渡佐藤優介も時には前面に立ってバンドサウンドを支えていて、めちゃくちゃグッときた。

 


9月29日(木)

療養期間もほぼ通常通りリモートで仕事をしていたけど(有休なのに)、合間をぬってボビー・ギレスピーの自伝を読み進める。曽我部さんも療養中にこの本を読んでいたそうなので、俺も絶対にこの期間中に読破しようと決めていたのである。なかなかの厚さの本なので、読む前は最後まで辿り着けるか心配だったが、まったくの杞憂。幼少期からの出来事が異常に濃厚な筆致で描かれており、完全にボビーの半生を追体験できた感じ。いかにして左翼思想を獲得したかというエピソードは左翼家庭で育ち労働組合で働いていた私に深く刺さったし、ドラッグでぶっ飛んだシーンの描写はもう笑っちゃうくらいイキイキしてたし、メリーチェイン時代の青春物語は本当に美しく、読み終えるのがさびしかった。そしてこれは個人史であると同時に、サッチャー以降の政権が労働者階級の生活にどのような影響を与えたのか、若者たちはなぜパンクに心酔したのか、セカンドサマーオブラブとは…などなど、イギリスの社会・ロック史を体感できるルポタージュにもなっており、読み応えが異常だった。「リトル・ダンサー」「ブラス」「ノーザンソウル」といった映画な世界観がリアルなものとして自分と繋がったというか。私にとってボビー・ギレスピーはスタイルと快楽と虚無の人というイメージだったけど、情熱と執念と理性の人でもあることを知った。そんなことを無性に誰かと語りたくなったけど、私にそんな友達はいない。赤と黄色の装丁もオシャレで良かったです。

8月27日の思い出②(「表現の不自由展 その後」を観た話)

(前回からの続き)

ハポンを後にして、急いで完全予約制の栄市民ギャラリーへ。そこに待つであろう殺伐とした光景を想像すると、良いライブであたためてもらった記憶が台無しになりそうで気持ちが重くなる。ライブ中に取ったメモを、心の中の別の箱にしまう。

 

案の定、会場のビルが立っているワンブロックが、完全に警察官と警察車両によって取り囲まれている異様な光景。そしてその外側で中止を求めて騒いでいる極右の活動家が数名。先週通りかかった時も同じ人たちかいたのだが、ずっと同じような罵詈雑言を繰り返している。こんな人たちのために駆り出された警察の皆さんが気の毒としか言いようがないし、費用に換算したら一体いくらになるんだろう…とクラクラする。

 

警察官の間を通り抜け、ビルの8階に上がり、厳重な本人確認と空港と同じ金属探知機を使った手荷物検査を経て、3年越しで「私たちの表現の不自由展 その後」の会場にたどり着く。が、まるで爆弾を持った立てこもり犯がいるかのような外の喧騒と、会場の中の静けさのギャップがうまく飲み込めない。

 

展示してあった作品は全部で8作品。

これらはもちろん私やあなたに直接危害を加えてくるものではないし、内なる憎悪を駆り立てたり暴力を扇動して、社会秩序や公共の福祉を脅かすようなものでもなかった。

 

「不自由展」と言われて多くの人がイメージするであろう、キム・ソギョン、キム・ウンソンによる「平和の少女像」。ある種の人々はこれを慰安婦像と呼んでいるが、正確な名称ではない。慰安婦問題に対する抗議活動がきっかけで作られたことは間違いないが、この作品に作者が込めた思いは、慰安婦問題に留まらず、広く女性の人権を守らなくてはならないというものであり、実際に作品を観てもその言葉以上の意図が込められているとは感じなかった。芸術というよりは民芸品としてとらえた方が適切と思えるほど素朴な佇まい。つまりこの作品自体に攻撃性があるわけではなく、多くの人はこれを取り巻く文脈「だけ」を見ているのだろう。その責任をこの作品が取らされるのは不当である。

 

そして「不自由展」を象徴するもう一つの作品が大浦信行「遠近を抱えてⅡ」という20分の映像作品。「昭和天皇の写真を燃やし、踏みつけるとんでもない作品」と名古屋市長の河村たかしがやり玉に挙げていたものである。この作品に対する私の率直な感想を言うと、わからない…という一言。確かに映像の中に、昭和天皇の写真が燃やされ、足でその火を消すシーンは出てくる。が、そこに単純な怒りや憎しみというメッセージが込められているようには思えなかった。実際、作品に添えられた大浦本人のステートメントにも「皮膚の毛穴の中にまで染み込んである内なる天皇」、「燃やす行為は、新たな自己を星座に発見する旅への祈り」という記述があり、彼自身に天皇に対する深い思い入れがあり、このシーンにも極めて個人的な必然があることが伺える。ただ、それが何なのかは理解できなかったし、自分の感性の凡庸さを棚に上げて言わせてもらうと、積極的にそれを観る者に訴えようという意図も感じられなかった。いずれにせよ結果的にセンセーショナルなシーンが含まれているものの、この観念的な作品を「反日」といった政治的なイデオロギーだけで断罪することには無理がある。少なくとも展示を禁止しなければならない差し迫った危険性を含んでいるものとは思えなかった。もちろんこの作品に対する批判は自由だが、あくまでも言論をもって対抗すべきだし、一般論として「見られないようにしてしまう」という表現に対する極刑を行使することには最大限の慎重さが必要。ましてや権力者が撤去・中止を要求し、脅迫行為を助長するような動きなど論外だ。

 

今回の展示の中で純粋に最も心に刺さったのは、安世鴻が中国に取り残された従軍慰安婦の女性たちを撮影した「重重」である。年齢を重ねた女性たちの姿と、慰安婦として中国へ連れて来られた時の状況やその後の筆舌に尽くし難い苦労を語ったインタビューを組み合わせたドキュメント。直視するにはあまりにも重いが、直視しなければならない必然がある。これを見れただけでもここまで来てよかったと言える。しかしこの優れたドキュメンタリーに多くの人がアクセスできる機会が奪われたと思うと、2019年のあいちトリエンナーレでの展示を中止に追い込んだ人間の罪は重い。改めてそう思わずにはいられない。

 

こうしてようやく実物を前にして、作品の目線に立って考えてみると、2019年に「不自由展」を敵視した政治家や活動家たちは、これらの何をどう解釈して、あそこまで恐れ、怒り、煽り立てたのか、さっぱり分からなかった。とにかくひとつだけ言えることは、彼らの多くは作品を見ていないということである(河村たかしがサラッと会場を流す映像は見たが、大変失礼ながらあの方に抽象芸術を理解する素養はないと思う)。

では、まだ見ぬ作品を殺そうとする欲望が一体どこからやってくるのか。その答えは簡単で、彼らが殺したかったものは作品でも芸術でもなかったということである。そのことは「不自由展」を中止に追い込んだ河村たかし、維新の会の松井一郎、吉村洋文が、その一年後に何を画策したかを見ても明らかだ。つまり政敵を追い落とすための口実がたまたま「不自由展」だっただけのことなのである。「平和の少女像」や「遠近を抱えてⅡ」なんて理解する気もなかったし、タイトルも覚えてないだろう。こんなにも芸術と民主主義を馬鹿にした話があるかと、改めて怒りが湧いてくる。

 

警察官3人と一緒に下りのエレベーターに乗って会場の外に出ると、活動家の人たちはまだ元気に騒いでいた。彼らもきっと作品を見ていないだろう。せっかく一日中そこにいるなら、メガホンを置いて見てみればいいのに。現物を見れば彼らも感動して心を入れ替えるはず…とは思わない。でも彼らの中であの作品たちが、実体以上に大きな存在に育ってしまっていることだけは分かるのではないだろうか。果たして実際の作品を見てもなお、この熱量を維持することができるだろうか。


そして最後にもう一つだけ証言を残しておくと、いわゆる「表現の自由戦士」と呼ばれる政治家もネット論客も、この戦後最大級の表現の自由の危機において、助けるそぶりすら見せなかった。彼らがエロマンガ・アニメの表現空間の拡張・侵食に特化したロリコン戦士であることは、歴史修正が蔓延る中でも、末代まで正確に語り継いでもらいたい。