ドリーミー刑事のスモーキー事件簿

バナナレコードでバイトしたいサラリーマンが投げるmessage in a bottle

8月27日の思い出②(「表現の不自由展 その後」を観た話)

(前回からの続き)

ハポンを後にして、急いで完全予約制の栄市民ギャラリーへ。そこに待つであろう殺伐とした光景を想像すると、良いライブであたためてもらった記憶が台無しになりそうで気持ちが重くなる。ライブ中に取ったメモを、心の中の別の箱にしまう。

 

案の定、会場のビルが立っているワンブロックが、完全に警察官と警察車両によって取り囲まれている異様な光景。そしてその外側で中止を求めて騒いでいる極右の活動家が数名。先週通りかかった時も同じ人たちかいたのだが、ずっと同じような罵詈雑言を繰り返している。こんな人たちのために駆り出された警察の皆さんが気の毒としか言いようがないし、費用に換算したら一体いくらになるんだろう…とクラクラする。

 

警察官の間を通り抜け、ビルの8階に上がり、厳重な本人確認と空港と同じ金属探知機を使った手荷物検査を経て、3年越しで「私たちの表現の不自由展 その後」の会場にたどり着く。が、まるで爆弾を持った立てこもり犯がいるかのような外の喧騒と、会場の中の静けさのギャップがうまく飲み込めない。

 

展示してあった作品は全部で8作品。

これらはもちろん私やあなたに直接危害を加えてくるものではないし、内なる憎悪を駆り立てたり暴力を扇動して、社会秩序や公共の福祉を脅かすようなものでもなかった。

 

「不自由展」と言われて多くの人がイメージするであろう、キム・ソギョン、キム・ウンソンによる「平和の少女像」。ある種の人々はこれを慰安婦像と呼んでいるが、正確な名称ではない。慰安婦問題に対する抗議活動がきっかけで作られたことは間違いないが、この作品に作者が込めた思いは、慰安婦問題に留まらず、広く女性の人権を守らなくてはならないというものであり、実際に作品を観てもその言葉以上の意図が込められているとは感じなかった。芸術というよりは民芸品としてとらえた方が適切と思えるほど素朴な佇まい。つまりこの作品自体に攻撃性があるわけではなく、多くの人はこれを取り巻く文脈「だけ」を見ているのだろう。その責任をこの作品が取らされるのは不当である。

 

そして「不自由展」を象徴するもう一つの作品が大浦信行「遠近を抱えてⅡ」という20分の映像作品。「昭和天皇の写真を燃やし、踏みつけるとんでもない作品」と名古屋市長の河村たかしがやり玉に挙げていたものである。この作品に対する私の率直な感想を言うと、わからない…という一言。確かに映像の中に、昭和天皇の写真が燃やされ、足でその火を消すシーンは出てくる。が、そこに単純な怒りや憎しみというメッセージが込められているようには思えなかった。実際、作品に添えられた大浦本人のステートメントにも「皮膚の毛穴の中にまで染み込んである内なる天皇」、「燃やす行為は、新たな自己を星座に発見する旅への祈り」という記述があり、彼自身に天皇に対する深い思い入れがあり、このシーンにも極めて個人的な必然があることが伺える。ただ、それが何なのかは理解できなかったし、自分の感性の凡庸さを棚に上げて言わせてもらうと、積極的にそれを観る者に訴えようという意図も感じられなかった。いずれにせよ結果的にセンセーショナルなシーンが含まれているものの、この観念的な作品を「反日」といった政治的なイデオロギーだけで断罪することには無理がある。少なくとも展示を禁止しなければならない差し迫った危険性を含んでいるものとは思えなかった。もちろんこの作品に対する批判は自由だが、あくまでも言論をもって対抗すべきだし、一般論として「見られないようにしてしまう」という表現に対する極刑を行使することには最大限の慎重さが必要。ましてや権力者が撤去・中止を要求し、脅迫行為を助長するような動きなど論外だ。

 

今回の展示の中で純粋に最も心に刺さったのは、安世鴻が中国に取り残された従軍慰安婦の女性たちを撮影した「重重」である。年齢を重ねた女性たちの姿と、慰安婦として中国へ連れて来られた時の状況やその後の筆舌に尽くし難い苦労を語ったインタビューを組み合わせたドキュメント。直視するにはあまりにも重いが、直視しなければならない必然がある。これを見れただけでもここまで来てよかったと言える。しかしこの優れたドキュメンタリーに多くの人がアクセスできる機会が奪われたと思うと、2019年のあいちトリエンナーレでの展示を中止に追い込んだ人間の罪は重い。改めてそう思わずにはいられない。

 

こうしてようやく実物を前にして、作品の目線に立って考えてみると、2019年に「不自由展」を敵視した政治家や活動家たちは、これらの何をどう解釈して、あそこまで恐れ、怒り、煽り立てたのか、さっぱり分からなかった。とにかくひとつだけ言えることは、彼らの多くは作品を見ていないということである(河村たかしがサラッと会場を流す映像は見たが、大変失礼ながらあの方に抽象芸術を理解する素養はないと思う)。

では、まだ見ぬ作品を殺そうとする欲望が一体どこからやってくるのか。その答えは簡単で、彼らが殺したかったものは作品でも芸術でもなかったということである。そのことは「不自由展」を中止に追い込んだ河村たかし、維新の会の松井一郎、吉村洋文が、その一年後に何を画策したかを見ても明らかだ。つまり政敵を追い落とすための口実がたまたま「不自由展」だっただけのことなのである。「平和の少女像」や「遠近を抱えてⅡ」なんて理解する気もなかったし、タイトルも覚えてないだろう。こんなにも芸術と民主主義を馬鹿にした話があるかと、改めて怒りが湧いてくる。

 

警察官3人と一緒に下りのエレベーターに乗って会場の外に出ると、活動家の人たちはまだ元気に騒いでいた。彼らもきっと作品を見ていないだろう。せっかく一日中そこにいるなら、メガホンを置いて見てみればいいのに。現物を見れば彼らも感動して心を入れ替えるはず…とは思わない。でも彼らの中であの作品たちが、実体以上に大きな存在に育ってしまっていることだけは分かるのではないだろうか。果たして実際の作品を見てもなお、この熱量を維持することができるだろうか。


そして最後にもう一つだけ証言を残しておくと、いわゆる「表現の自由戦士」と呼ばれる政治家もネット論客も、この戦後最大級の表現の自由の危機において、助けるそぶりすら見せなかった。彼らがエロマンガ・アニメの表現空間の拡張・侵食に特化したロリコン戦士であることは、歴史修正が蔓延る中でも、末代まで正確に語り継いでもらいたい。