ドリーミー刑事のスモーキー事件簿

バナナレコードでバイトしたいサラリーマンが投げるmessage in a bottle

初めて演劇を観に行った話。 ロロ「父母姉僕弟君」について

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会場のサンモールホールは、新宿御苑前駅2番出口を出てまっすぐ歩いて徒歩3分。と頭に叩き込んでいたにも関わらず、きっちり反対方向に歩いていた方向音痴の私。気がつくと新宿御苑に到着していた。
あぁまたやってしまった、と思って引き返そうとした瞬間、苑内から漂ってきた銀杏の匂いで、幼稚園の遠足でここに来たことをふと思い出した。30年以上前の話である。
今となっては、この演劇を観るにあたって、これ以上ないプロローグだったと思う。


演劇というものを自分の意思で観るのは、生まれて初めてのこと。なので、このロロによる「父母姉僕弟君」という演劇の巨大な感動を正確に伝えるボキャブラリーはまったく持ち合わせてはいない。でもそれがどんなに拙い言葉でも、なにかを書き残しておくべきだという気がしている。この観劇後の感情と記憶が、自分の中で失われていていくことに、少しでも抗いたいから。


何より衝撃的だったのは脚本そのもの。一見でたらめに流れる小さな川が、近づいたり離れたりしながら、最後は津波のように押し寄せる、圧倒的な構想力と情報量。それはエンターテイメントとしての大サービスであると同時に、観る側の記憶力と想像力を試すような過剰さだった。この過剰さこそテーマであると言わんばかりの。

 

俳優たちも本当に素晴らしかった。濃厚すぎる個性と矛盾をはらんだ登場人物たちのキャラクターを違和感なく体現し、コミカルとシリアスの境界線を自由に行き来する、いきいきとした演技。
最初は口がポカンとしてしまった私も、気がつけばあの破天荒でセンチメンタルな旅路の一員となっていた。

 

そして今は、主人公のキッドが感情のメーターを振り切った瞬間の、彼が俺に乗り移ってきたような感覚について考えている。

例えば夜中にふと目を覚ました時、隣にいる子供の寝顔が目に映った瞬間に湧いてくるカラメルを煮詰めたような多幸感。しかしそれと同時に訪れるあらゆる記憶や感情も、いつかは無に帰してしまう事実に対する無力感。

あるいは、人生という流動体において絶えず迫られる選択と、選ばれなかった方の人生について。あの時、カーブを反対に曲がっていればあったはずの人生は、今ここに存在しないという点において、過去に過ごしてした人生と何が異なるものなのかという詮なき疑問。繰り返される諸行無常

 

しかしそうは言っても、俺も娘も、なんらかの偶然と決断の結果として、今ここに生きている。そしてそもそも俺は三人姉弟の末っ子長男として育った、戸籍上の次男である。現世で会うことのなかった長男が無事に育っていれば、おそらくこの世に存在しない人間なのである。生まれることができなかった陸生とはもう一人の俺なのだ。

だからこそ、キッドが一人になり、壁が閉じられた瞬間に襲ってきた孤独と悲しみは、まさに俺自身のものになっていたのだと思う。その孤独を、岡崎京子のように「僕たちはなんだかすべてを忘れてしまうね」と呟いて、その孤独を静かに抱きしめることもできただろう。

でも彼はそれを選ばなかった。過去に置き去りにしたもの、選ばなかった別の人生、死んでるものや生まれなかったもの、その全てを心の内に生かし続けるために必死に抗った。

 

何度反芻しても胸が熱くなるこのシーンの素晴らしいところは、私たちが平坦な戦場を生きるために、時に暴力的な衝動の助けを借りることを肯定しているところなのかもしれない。

だからラストシーンでキッドが、車の中にバットをちゃんと載せたのはすごく良かったなと思った。人生という名のドライブにロックンロールが必要なということである。


そんなこんなで頭と心を使い果たした2時間。
終演後は何にも考えられなくなって、新宿駅までトボトボと歩いた。
そして東京駅に着くと予定の新幹線まで少し時間があったので、kiiteにあるインターメディアテクに立ち寄った。
東京大学の研究者たちが100年以上に亘って集めてきた、今は絶滅してしまった動物の化石、植物の標本、遺跡の数々。


すでに無くなってしまったものを前に、俺はまた泣いた(心の中で)。