ドリーミー刑事のスモーキー事件簿

バナナレコードでバイトしたいサラリーマンが投げるmessage in a bottle

リ・ファンデ『HIRAMEKI』にまつわる私的な記録

リ・ファンデ『HIRAMEKI』がリリースされた。最大限冷静かつ客観的に見たとしても、同じ日に出た田中ヤコブと並んで、ポップミュージックの一つの基準になるような名盤、と言っていい作品だと思う。

open.spotify.com

ちょうど一年ほど前、リ君に連絡をもらった私は、出張の帰りに品川駅の近くの居酒屋で久々に彼と再会した。そしてその場で「これからソロで本格的に活動していくので、スタッフみたいな感じで協力してほしい」と言われたのだった。

彼のファンとしてはもちろんそんな風に言ってもらえたことは嬉しいけれど、こちらもいい年した社会人である。素人のおっさんが力になれることなど、1ミリもないことくらいは分かる。当然の反応として、いやいやいやいや他の人に頼みなさいよ、と言ってみた。しかし彼は今の自分にそういう存在はいないし、それでも自分は誰かと相談しながら活動していきたいのだ、と言う。嗚呼なぜ今の音楽業界はこんなにも輝く才能を放っておいてしまうのか…と思わずにはいられなかったが、そこまで言うならできることはなんでもしますよ…ということになった。

しかし今だから言えるけど、内心「もし彼のつくる作品が、自分の好みに合わなかったとしたらどうしよう」という不安があったのも事実。生活のための仕事ならばしれっとやり過ごせばいいけど、これは感情だけが原動力である。かえって迷惑をかけてしまうのではないか…と。

我ながら恥ずかしくなるほどの小心ぶりなのだけど、とにかくこの無人駅のような場所から、『HIRAMEKI』はスタートしていたのである。今となっては本当に信じられないことである。


さて、「スタッフ的な立場」を与えられた私(と摩硝子さん)は、一体なにをしてきたのか。結論から言うと、まあ大したことはしていない。


折に触れて彼が送ってくれるデモ音源を聴かせてもらって好き勝手な感想を言ったり、「次は〇〇さんと対バンしちゃいなよ」とか好き勝手な思いつきを言ったり、彼が直面する音楽業界のリアルに一緒に驚いたり悲しんだり、時折り飛び込んでくるグッドニュースに喜んだりするくらいのことだった(Negiccoのnaoさんから楽曲提供の依頼があった時は盛り上がった)。


なので音楽制作の裏側とか苦労みたいなことはまったく知らないし、なんの助けにもなっていない。しかし彼は、私たちが好き勝手なことを言っている間に、素晴らしいミュージシャンとスタッフを集め、レコーディングをして、ジャケット写真を撮影し、ロゴをつくり、MVを撮影し、流通の手配をしていた。日中の仕事もこなしながら、である。

あの飄々とした佇まいの裏側に秘めた、とんでもない体力と情熱。彼は私よりもだいぶ年下だけど、もう本当に尊敬してしまう。本人にはあまりちゃんと伝えたことないけど。そして音楽の才能だけでは音楽を届けられない時代を生きるアーティストの厳しさも痛感せざるを得ない。


なお、私がした数少ない仕事らしいことと言えば、レコード屋さんに配布する資料の文章を書くこと、そして二つのインタビュー記事を書かせてもらったことだろう。


TURNの岡村詩野さんはこんな野良リーマンの私に定期的に文章を書く場を提供してくださった大恩人だけど、まだソロ名義でのリリースのないファンデ君のロングインタビューを快く掲載してくださり、その後もいろいろと相談に乗って頂いた。

turntokyo.com


そしてCINRAの山元翔一さんは2年前にサニーデイ・サービスの特集記事になぜかどこにもなんにも書いたことのない私に寄稿の機会をくれた極めて奇特な方(最初に依頼メールを見た時は新手の振り込め詐欺に違いないと思った)。いつも心の通った記事を手掛けている。今回も大メディアの編集者ということでかなり緊張してしまったが、私以上に真っ直ぐな音楽愛、ファンデ愛で私の拙いインタビューと原稿を完成まで導いてくださり、とても勉強になった。

www.cinra.net

 

なお、このお二人の名にかけて一応誓っておきたいのは、私がリ・ファンデの「スタッフ的な立場(そういえばPromotional writerという肩書をもらっていました)」だからと言って、それぞれの記事で語った言葉の中には、一切の誇張も嘘もないということである。そんなことは音を聴いてもらえれば分かってもらえると思うのだけれども、私が記事の中でしたことは、彼の歌声にある方向から光を当て、魅力を際立たせていくという照明係のようなものにすぎない。そもそもそこに空虚な美辞麗句が入る余地も、入れる必要もないのである。


とは言え、個人的にもなんとなくこのリリースを目がけて、執筆活動を細々と頑張ろうと思っていたこともあったので、今はちょっと安心したような気が抜けたようなところがある。そんな気持ちを一回整理するためにこの文章を書いてみた。


明日(10/18)はリ君は曽我部さんとツーマンライブ。そう言えば、品川で飲んだ時「いつか曽我部さんと共演したいんですよね。もし実現したらドリーミーさんも嬉しいでしょ?」と言っていたのだった。またあの時の目標が一つ叶ったじゃん。憎きコロナのせいで現場に行けないのが悔やまれるけど、メロウロックの王様に挑むファンデの勇姿、配信でしかと見届けますよ。

 

 

 

スカート 、トリプルファイヤー、ミツメのライブを2日で観た週末の話。

「月光密造の夜」が私の生き方をもんのすごく深いところからひっくり返してしまった…という話はもう何回目だよってくらいにしているので詳しいことは割愛するとして、スカートのデビュー10周年を飾る「真説・月光密造の夜」もあわよくば東京まで遠征してやろうと思っていたわけですが、断念。その経緯は言わずもがななのでこれも割愛。


コロナ禍で苦境にあるミュージシャンというのはたぶんたくさんいる…というか苦しんでないミュージシャンなんて一人もいないとは思うのだけれども、スカート澤部氏は毎週ラジオで近況を話してくれるし、日記も書いているし、自宅から配信していた「在宅・月光密造の夜」で感極まる姿など、かなりリアルタイムで心情を共有されていたように思うので、ようやくたどり着いたこの日のライブを(配信とは言え)目撃できたことは誠に勝手ながら感慨深いものがあった。

「ハル」「ゴウスツ」という初期の名曲から始まったライブだが、当たり前だと思っていた日常が姿を消してしまった今だからこそ、新たな意味を宿してしまった歌詞の一つひとつが心に刺さって仕方がない。澤部渡にしか書けない色濃い悲しみと、かすかに差し込んでくる光。2020年の残酷な日々すら美しさに変えてしまうこの人は、やっぱりポップミュージックに選ばれた人…などと無責任なことを思ってしまう。音声が途切れたり画像がちょっと粗かった気もしたけども、あれはタケイグッドマンオマージュに決まってんだろ。←後に機材の不調によるものとアナウンスあり

 

翌日はもともとミツメの配信ライブを観る予定だったけど、つくばロックフェスに出演しているトリプルファイヤーの配信もあることに気づく。ということはつまり二日に分けて「第7回月光密造の夜」を観るようなものじゃないかと急いでプールから帰ってきてYouTubeにアクセス。昨日スカートのライブに出ていたシマダボーイがサポートに入ってるのも同じイベント感がある。夕食前の慌ただしい時間帯である上に、爆音ノリノリで聴いてるところにお義母さんが猫と遊びに来たりしちゃって、なかなか集中して観ることが難しかった。が、特にまだ音源になっていない楽曲のビートが、呪術的にヤバいプリミティブさをまとっているように思われ、早くちゃんとした形で聴きたいという欲望がわきあがってきた。それにしても、子供が一生懸命宿題をやってる隣で「俺は酒飲んだらおもしろい」などと歌うバンドをヘラヘラと観るのはものすごくいけないことをしているような気持ちになった。


さて、19時からはいよいよ大トリのミツメ「mitsume Autumn Camp」である。

音も映像も、これ録画じゃないの?と勘違いするほどの美しさで、さすがの完璧主義…と唸ってしまう。

私にとってミツメとは、楽曲ごとに設定した枠の中で、一定のレンジや密度、そして湿度と温度を厳密に守りながら、未知の音を構築していくバンドだと思っているのだけど、この日新たなアレンジで披露された「停滞夜」「cider cider」といった過去曲では、そのレギュレーションから逸脱して宇宙空間に飛び出していくような瞬間が何度もあって、関節が外れそうになるくらい興奮した。やっぱりミツメってめちゃめちゃライブバンドですよね!ラストの「煙突」はイントロ前のノイズの部分でもうすでにグッときてしまったよ。それにしてもこんな演奏を、声も上げることも立ち上がって観ることも許さないコロナウィルスのサディスティック性は本当に異常だ。

 

この週末は他にもつくばロックフェスで東郷清丸のライブやSAGOSAIDの無観客ライブも観て、自宅に居ながらにして音楽を満喫したのだけれども、素人の直感としては配信ライブって、コストを収入で賄うレベルに達していないのでは…という気がしている。これまで私が観た中でビジネスとして成り立っていそうなのは、4500円で過去のライブ映像を流した山下達郎くらいなんじゃないかしら。こないだ見た日経のセミナーで、渋谷陽一先生は「エンタメの未来はオンラインライブにしかない」と仰っていたけど、それは私の愛するシーンにも当てはまる予言なのだろうか。

音楽との向き合い方を模索の日々はまだまだ続く。

イノセントとドキュメント。サニーデイ・サービス「いいね!」

 

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2020年3月18日。世界中を覆う黒く分厚い雲に一筋の光を差しこみ、新しい季節を招き入れるようなサニーデイ・サービスの新作が届いた。連日の残業でボロボロになっていた俺は深夜に一聴するなり、この作品が放つ生命力の眩しさについ涙をこぼしそうになってしまった。

 

POPCORN BALLADS』に象徴される最新型のサニーデイ至上主義者であり、ノスタルジーという脳内フィルターに対する警戒感の強い俺としては、こういう表現を安易に使いたくないのだけれども、街の鮮やかな息づかいを感じさせるこの作品こそ、歴史的名盤『東京』以来の”みんなが一番聴きたかったサニーデイ・サービス”であると断言してもいい気がする。いや、新メンバー・大工原幹雄が叩き出すグルーヴがソカバンを彷彿とさせるプリミティブな躍動感にあふれているという点においては、”みんなが一番聴きたかったベストオブ曽我部サウンド”と呼んでもいいかもしれない。

 

それにしても2019年12月末に期間限定公開された丸山晴茂を追悼するドキュメンタリー映画『GOODBYE KISS』や、20年の元旦に配信リリースされた渾身のブルーズ『雨が降りそう』からわずか3ヶ月で、こんなにもフレッシュなアルバムが届けられるとは、まったく想像できなかった。

幸運にも俺は1月4日に行われた江ノ島OPPA-LAでの134名限定ライブを観ることができたのだけれども(予約のために127回も電話した)、その場で披露された新曲たちもやはり不在や死と隣合わせの日々を生き急ぐような切迫感にあふれているように感じたし、年が明けてもドラマーが変わっても、サニーデイ・サービスとそれを追いかけている俺たちが今いる場所は『GOODBYE KISS』と地続きの世界なんだなと(当たり前だけど)痛感させられた。だから勝手に、きっと来たる新作はこの混沌としたヒリヒリするエネルギーに満ちたパンクロックアルバムになるのではないかと想像していたのだ(ちなみにその日配布された歌詞カードを見返してみると、披露された新曲のうち、『いいね!』に収録されているのは『春の嵐』のみ)。新たなメンバーを迎えたサニーデイは、本当に新しいバンドに生まれ変わった、ということかもしれない。

 

でもやっぱり、それこそ『東京』から25年も生きてしまった人間の心を動かすほどの特別な深みをもたらしているものは、イノセントな輝きを放つ高い作品性・フィクション性の裏側に垣間見れる、サニーデイ・サービスというバンドのこれまでの道程と現在地を刻み込んだドキュメントフィルムとしての切実な表情にあるような気がしてならない。

 

例えば、M2『OH! ブルーベリー』におけるロックンロールという怪物にずっと取り憑かれている自分を俯瞰するような視点、あるいは「優勝者のラン」というワーディングからは、バンドとしての来し方を「表彰状でももらいにいこう」と歌った名曲『コバルト』を連想してしまう。そして全曲シングルカットが可能と思われる楽曲がならぶアルバムの中でもひときわ鋭いフックを持つM5『エントロピー・ラブ』の「安定剤も切らしてしまって」とか「愛も憎しみもどっちでもいいけど もうすこし仲良くできなかったか じゃあそろそろ出かけるね ポケットに星があふれて」なんて歌詞を聴くと、そういう歌じゃないってことは頭では分かってるんだけど、どうしてもあの人の顔を思い出さずにはいられない。他にも・・・ってキリがないからもうやめておくけど。でもこの最新作には、随所にこれまでのサニーデイ・サービスが埋め込まれていることは間違いないと思う。


そして最後に『POPCORN BALLADS』至上主義者の妄想として言っておきたいのは、ここ数年のサニーデイ・サービスの作品は、ファシズムディストピアの影が色濃くなっていく10年代終盤の時代性と明確にリンクしていたということである。その視点において、この『いいね!』という作品は、その最高なタイトルも含めて、新たなウィルスによって急激に視界を失いつつあるこの世界に対する、最も切実なカウンターとして送り出されたものではないか、と思ってしまうのである。さすがにその発想は飛躍しすぎかもしれないけど、全ての名作は時代を代弁し、未来を予言する。後年この作品が振り返られる時には、この視点と共に語られるような気がしてならない。

 

 

 

革命から疎外された者の目線から GEZAN「狂(KLUE)」について

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ファシストと革命家。一見、対極の存在に思える両者だが、本質的には同義だ。彼らがシンパシーを寄せる対象が、ピラミッドの上部に君臨する特権階級か、底辺で暮らす弱者であるかという違いはあれど、誰かから何かを奪うことをいとわない暴力性や、頂点と底辺の間をたゆたうように生きる私のような「その他大勢」に対するまなざしが希薄であるという共通点がある。そもそも歴史を振り返ってみても、悪名高いファシストの多くは、かつての革命家である。よって私は革命を信じない。革命という単語を無邪気に使うアーティストも信用することはできない。
 
GEZANというバンドが、革命家のイメージを自らに重ねてきたことに異論の余地はないだろう。マヒトゥ・ザ・ピーポーの著書は「世界で一番静かな革命」だったし、彼のCINRAでの連載タイトルも「月間 闘争」だ。ゆえに私は、彼らに対して畏れと警戒心を抱いてきた。


例えば、彼らを象徴すると言ってもいいイベント<全感覚祭>。その行動力には最大級の敬意を払うものの、投げ銭制・フリーフードといった、既存のビジネスの仕組みをひっくり返すようなやり方には、まったくピンとこなかった。結局、モノやサービスの媒介手段を貨幣から善意に置き換えたところで、行き着く先はGEZANというカリスマを中心とした新たなバビロンシステムにすぎないように思われるからだ。その熱狂に身を投じることができず、際立った才を持たない私のような凡人は搾取され続けるだけなのではないか。マヒトゥ・ザ・ピーポーによるステートメントを読んでみても、その冷めた疑問を拭い去ることはできなかった。
 
とは言え、一人の音楽ファンとして彼らの存在を無視できるものではない。そもそもロックバンドに対して社会的な正しさや政治的な整合性を求めることが無粋なことなのかもしれないし。そんなことを考えながら、彼らの最新作『狂(KLUE)』もリリース早々に入手した。
 
しかしなんのことはない、一曲目の「狂」から
「シティポップが象徴していたポカポカした幻想にいまだに酔っていたい君にはオススメできない/停止ボタンを押し、この声を拒絶せよ」と、(広義の)シティポップとを愛する私は、この世界へ入り込むことをあっさりと拒否されてしまった。
 
ならばこちらも遠慮なく言わせてもらうと、2011年の東日本大震災、あるいは15年の安保法制以降のストリートデモクラシーを通過した後の目線で言えば、この作品の中で語られる社会観は、あまりにも凡庸で幼く、支離滅裂である。いま・ここで起きている問題に対するコミットメントを突き詰めないまま、「破壊」や「革命」という気持ちの良いリセットボタンを押したがっているように見えてしまうのだ。「ていねいな暮らし」「インターネット」「メディア」「いいねの数」といったやり玉にあげていく対象も、「これは政治の歌じゃない」「左も右もない」「正しさってなんだろ?」という自分の判断を留保するナイーブな態度も、俺から言わせればもうすっかり見飽きた光景だ。私たちが殺されないために必要なものは、彼らが歌う「これから始めなければならない革命」の幻想ではなく、私たちが今持っている権利の正当な行使による政権交代だ。レジスタンスの皮を被った逃避は、傍観よりも罪が重い。
 
そんな予想通りの相容れなさを感じつつも、それでも私は停止ボタンを押そうという気にはならなかった。なぜならば、その言葉の後ろで不穏に蠢くベースラインや、内田直之のミックスによって深い残響が施されたギターとドラムの音が、これから起きる巨大なスペクタクルの予感をこれ以上ないくらいに掻き立ててきたからだ。
 
その予感は早速二曲目「EXTACY」で的中する。漆黒の闇の中でうねるグルーヴと跳ね回る残響、狂気と紙一重の咆哮。あえて私が想起したアーティストを挙げるなら、マーク・スチュアート率いるポップグループや内田とも縁の深い伝説のダブバンド・オーディオアクティブ、そしてP.I.LやINUといったニューウェーブ/パンクパンクのレジェンドだろうか。しかし、あくまで新たなアートフォームとしての矜持や安易にリスナーを寄せつけないストイックな鋭さを持ったそれらのアーティストたちに対し、GEZANはどこまでも無国籍・タイムレスを貫き、ケチャやディドゥリジュまでごった煮にして享楽性を高めていく。ボトムを支える四つ打ちのキックには、圧倒的な混沌においても盆踊りすら許容するような懐の広さを感じるほどだ(そういえばジャケットには和服で踊る男があしらわれている)。そしてこの快感が頂点に達しようとした瞬間、突如としてBPMは倍速となり、ハードコアナンバー「replicant」が始まる。超高速の轟音ビートだが、スムーズな繋ぎと絶妙な低音処理によってダンスミュージックとしての快楽性はまったく失われることなく、デタラメなステップとアドレナリンの分泌を促し続ける。これまで体験したことのない興奮の坩堝に叩き落とされた私は、たった3曲でこのアルバムが20年代を代表する名盤であることを悟ってしまった。彼らのバビロンから排除された者であるにもかかわらず。
 
彼らの社会観に対する拒否反応と、抗いがたい肉体的快感。私の中で起こる激しい葛藤は、アルバム全体を通じて絶えず激しい火花を飛ばし続けることになるのだが、その矛盾が重なり合う唯一の瞬間が、M10「Free Refugees」だ。おそらく入国管理局に収監されて在日外国人を念頭に「難民を解放せよ」というマヒトの叫びは、今この瞬間も多くの外国人から人権を奪い続けている、世界の中心で美しく輝いているはずの欺瞞を暴くリアリティがある。そしてその咆哮が宇宙まで届きそうなトライバルな打楽器と人声が楽器かも判別できないほど太く低く膨らまされたコーラスの洪水と混ざり合うことによって、収容所の鉄格子をこじ開けんばかりのエネルギーを獲得し、そのまま「東京」へとなだれ込んでいく迫力には、私と彼らの埋めがたい価値観の違いを軽々と乗り越えて押し寄せてくるカタルシスがあった。我々の間で飛び散っていた火花が、何か巨大なものに火をつけてしまったような。

この激しい愛憎の中で訪れた邂逅がこの先に繋がるものなのか、それともただの偶然か、まったく予測がつかないが、とにかく今はこの深い混沌の中で、目を開けたまま踊ってみようと思っている。

思い出野郎Aチームのパーティーに行った日

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思い出野郎こそが日本一のパーティーバンドである。もうそう言い切ってしまっていいだろ、と言いたくなる最高の夜だった。

それはただごきげんな音楽でオーディエンスを盛り上げるということだけじゃない。ソウルミュージックというものが、パーティーというものが、この社会の中でどうやって成り立っているものなのか。なぜ君や僕やあの人は今ここでステップを踏むことができるのか。それを根本から理解し、感謝し、みんなが持ち寄った喜びを不器用な手つきで分かち合おうとするバンド、俺は今まで見たことがない。2019年に現れた日本のカーティス・メイフィールドはこんなにもチャーミングなんだぜ、と勝手に誇らしい気持ちになってしまうのは、俺もこの夜を構成する重要な一員だと彼らが思わせてくれるからだ。


しかしそんな彼らにAマッソの差別発言事件が降りかかってしまったことは、神様ってどこにいるんだよ、というくらいに残酷で皮肉なことだった。言ってしまったことは取り消せないし、こんなことはもう二度とあってはいけないことだけれども、事後の対応はこれまでの芸能界にはない水準のものだったように思うし、その裏側には彼らや所属するカクバリズムからの働きかけもあったのではないかと想像している。


そんな不幸な事件を経て迎えたツアー初日。ステージに現れた彼らの姿からは、考えすぎかもしれないけど、やはりそこはかとない緊張感も漂っていたように思う。

最新作『Share the light』と同様に、ライブの冒頭を飾ったのは『同じ夜を鳴らす』。

「まるで石のかわり 言葉をうけて血を流す罪なき人を尻目に もはや都合よくラブソングを歌う気にはなれない」

こんなにも冷徹なまなざしで今の社会を見つめた上で、それでもささやかな希望を捨てないという覚悟を込めた歌を、真剣な表情でユニゾンするメンバーの姿にグッときたし、この夜はもう間違いないという気持ちにさせられた。


とは言え、俺たちはメッセージで踊るわけではない。社説なら新聞で読めばいいし、スローガンなら政治家の演説で聞けばいい。シリアスで骨が太いメッセージをライブハウスという祝祭の場で伝えるためには、それに負けないくらいの強度を持ったビートが必要だ。

しかしそんなことは百も承知と言わんばかりに、今の彼らが鳴らす音は貪欲でタフである。『Share the light』というアルバムは、それまでの二作に比べて明らかに歌からリズムへと音楽的な重心を移しているが、そこにはダンスというものの社会的な意味を訴求するという側面と、バンドとしての成熟という二つの側面があると思っている。この日のライブでも『ウェザーニュースがはずれた日』から『周回遅れのダンスホール』のメドレーで会場を完全にディスコティークに変えてしまっていたし、『それはかつてあって』のアフロビートは関東大震災の時に起きた朝鮮人虐殺事件というテーマの重さにも押しつぶされない堅牢さがあった。


そして最新作の輝きは、過去の作品にも新たな光を招き入れることになる。会場中の老若男女がお腹の底から「すげー自由!」と叫んでいた『夜のすべて』、ミラーボールの光で人々を優しく照らすような『TIME IS OVER』の深み。しかし何と言ってもグッと来たのは初期の代表曲『週末はソウルバンド』だ。バンドにうつつを抜かす恋人の姿をユーモラスに描いたこの「続けてもいいから 嘘は歌わないで」というリフレインは、本当のことを口にすることがどんどん難しくなっていく日本の息苦しさを告発していく今の彼らの姿に重ね合わせるとまた別の意味が感じられ、俺はまた泣いた。


そんなこんなで場内が熱くなってくると、ヒートアップしすぎちゃうお客さんが出てくるのもまたパーティーの宿命。この日もちょっと盛り上がった愛すべきアホな友達が最前列ではしゃぎすぎてたんだけど、そろそろちょっと危ないなって思った瞬間、それを感じ取った別のお客さん(女性)が周囲の女性や子供を安全な場所にさっと避難させて事なきを得たという場面があった。その素早い行動に惚れ惚れすると共に、自分たちの遊び場は自分たちで守ろうぜ、という参加者としての心意気を感じた。ステージからの高橋一の温かいフォローもあり、結果的に会場の一体感が高められた感じすらあって、こうやってああやって最高の夜はつくられていくのだなと実感した。


色々な意見もあるだろうし、これが正解ってわけじゃないけど、芸術家が自分の内的世界から生み出される芸術のことだけを考えていられる幸せな時代は終わった。と言うかそんな時代はそもそも無かった。それがはっきりしてしまったのが2019年の夏だったように思う。あいちトリエンナーレで起きたことは、明日にでも音楽の世界で起こったとしてもなんら不思議はない(もちろん起きないかもしれないけど、それはまったくの偶然か、他の誰かがあなたの分まで体を張ってくれたということだ)。

この日のライブハウスで俺が体験したドラマは、厳しい寒空の下で焚かれた小さな火にすぎないかもしれないけど、そこにはそれゆえの美しさがあり、それゆえの確かな温かさが心と身体に伝わってきた。これから楽しく暮らしてやるぜ。そんな気持ちになった。

植本一子『台風一過』を読んだ

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ようやく夏が去ってくれそうな気配が感じられた日曜日の夕方、家族で名古屋へ。ON READING で濱田紘輔さんの写真を受け取る。ちょうど3ヶ月ほど前、家族四人でわちゃわちゃ言いながら選んだ一枚。アメリカ西海岸を旅しながら、コインランドリーの風景を切り取った写真集「THE LAUNDRIES」に収められた1枚。めちゃくちゃファッション性が高いとか尖ったコンセプトとかいうわけじゃないけど、品良いセンスがあって、まっすぐで優しくて、何より瑞々しい。この感じ、リ・ファンデ(ex.Lee & Small Mountains)の歌に通じるものがあるよねというのが我が家の一致した見解。とりわけ私は20歳の頃、1カ月だけサンディエゴにホームステイをしていたことがあり、この空気感には、ちょっとした愛着のようなものがある。

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ON READINGでは佐久間裕美子の『ピンヒールははかない』と、まだ手に入れていなかった植本一子『台風一過』を購入。植本一子の本はここで買うというのがマイルール。個展を初めて見たのがここだからという理由もあるけど、彼女の著作にはいつもこのお店が登場するので、読んでいる時に感じる臨場感が違うのだ(しかし今回はそのリアリティがこれまでとは段違いだった。ネタバレになるから書かないけど)。
それにしてもこの一年くらい女性作家の書いた本しか読んでいない気がする。夏休みに読んだ本もミランダ・ジュライ『最初の悪い男』だった。社会の変化や諸々の問題に対する当事者性が、私のようなぼんやり生きている旧来型男性に比べてずっと高い作家が多いからだと思っている。
さてその『台風一過』だけど、当然のように衝撃的な紆余曲折をはらんでいるのだが、結論としてはものすごくいい本だった、とストレートに言い切ってしまいたい。夫を亡くしてからの激動の日々を描いた本に対する感想としては不似合いかもしれないけど、彼女の著作の中で最も、いや初めて、最後まで心穏やかに読めた作品のように思う。
その理由を説明するには、前作『降伏の記録』まで遡る必要があるかもしれない。あの本の最終章、そこだけ紙の色を変えて書かれたエッセイは、読者の顔色をも変えてしまうほど鋭い刃を、自分の人生と夫であるECDに突き立てるようなものだった。末期がんで死を間近にした夫に向けて、これまでの関係性を根元から覆すようなことを書くなんてと眉をひそめる人がいるのも不思議ではない。ただ、私はあの文章は、彼女がECDの喪失を受容し立ち直るための、いわゆる「喪の仕事」のプロセスの一端なのではないかと思っていた。もちろんあの時点でECDは存命していたわけだけれども、死の影は日に日に色濃くなっていたことは否めないだろう。いずれにせよ、もしあの文章をECDが読んでいたとしても、腹を立てるとか落胆するとか、そういうことにはならなかったのではないかと思っている。むしろ年の離れた妻の、自分という傘を飛び出して生きようという覚悟を垣間見て安心すらしたのではないかという気がしていた。その達観こそが彼女を追い詰めた一因なのかもしれないということは承知の上でもなお、もし俺だったらそう感じるだろうなと思ってしまう。もちろん実際は、その時になってみないとわからないことではあるのだけれども。

そんな勝手な先入観もあり、『台風一過』の文章には、嵐が過ぎ去った朝のような柔らかい光を感じる。例えば2月11日の日記に、一子さんとお嬢さんたちが公園で父・ECDのことを思い返すシーンがある。

 

「お父さん、意外と優しかったよね、ジュース買ってくれたし」
「そうそう」(略)
「うつわがおおきい」
「器が大きい…」と私も繰り返す。そうだね、器は大きかったね。

 

このくだりを読むたびに、私は泣けて泣けてしかたがない。悲しいからという理由だけではない。もしも残された人たちがこんな風に自分のことを思い出して、不在を受け入れてくれるのなら、もう思い残すことはないんじゃないか、と胸がいっぱいになってしまうのだ。特に日頃から「本当にお前はうつわが小さい。おちょこの反対側のくぼみくらいの大きさしかない」と妻と娘たちから非難され続けている私にとっては、このやりとりは他人事とは思えない。私の死んだ後、彼女たちが「あの人、うつわが小さかったよね」「うん、小さかったね」と笑い合っている姿がありありと想像され、こんな感じでまた自分たちの人生を歩んでいってもらいたいなと願わずにはいられなかったし、死ぬことが、生きることが、少しだけ怖くなった。

 

植本一子の本は、自分がどの立場で彼女の人生をのぞき込むのか、どのような心持ちで彼女の心中と向き合えばいいのかという、読者としてのスタンスの取り方が難しいと思うのだが(彼女の著作を受け入れられない人が多い理由も結局はここに帰結するような気がする)、このシーン以降、私の目線は完全に「あの世にいる夫」というところに定まった。するとこの後に続く、いわゆる一般論で言えば衝撃的な展開も、すべては彼女が彼女の人生を歩む上で必要あるいは自然な選択肢として理解し、受け入れることができる。生まれたからには避けることはできない、絶対的な理不尽である死というものに直面した彼女が、生をより輝かせる選択をすることは、とても自然なことのように思えるからだ。人間が大きな悲しみと絶望からいかにして再生していくのかということを、身をもって示してくれる作品だと思う。

夏休みのこと 〜曽我部恵一・さとうもか・SAGOSAID ・あいちトリエンナーレについて〜

今年の夏休みは下の娘が定員オーバーで学童に入ることができなかったため、祖父母の力も借りつつ、私と妻が順番に仕事を休んで(あるいは家で仕事をしながら)学校と塾の宿題、自由研究、読書感想文、部活の送り迎えなどをやったりやらせたりしなければならず、まるで大人と子供の夏休みを同時に生きたような慌ただしさと懐かしさがあった。

 


そんな日々の中、いくつかライブにも行った。

まず8月1日はあいちトリエンナーレの企画として円頓寺商店街で開催されているフリーライブで曽我部恵一ソロ。円頓寺商店街アーケードのド派手な装飾と鷲尾友公の巨大なペインティング、そして曽我部恵一の歌のぶつかり合いがとんでもなかった。

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恋におちたら』『あじさい』といったサニーデイクラッシクスから始まり、『キラキラ』や『満員電車は走る』といったソカバンの名曲を経て、ギターの弦をほとんど切りながらの『青春狂走曲』まで約1時間を駆け抜けた。開演前「そかべ…けいいち?」「たしかサニーデイ…なんとかの?」とお話しされていたご婦人方の胸もバッチリと打ったこと間違いないだろう。なお、個人的な白眉は2005年のソロアルバム『ラブレター』に収録された『抱きしめられたい』と、やっぱりこの季節にはこれでしょう!と言いたくなる『サマーソルジャー』を聴けたこと。この時ばかりは、名古屋名物の灼熱地獄も一瞬和らいだような・・・(いやこれは錯覚。完全に暑さにやられてた)。

 


で、あいちトリエンナーレと言えば、「表現の不自由展・その後」をめぐって極めて残念な展開になっている。政治家による検閲的行為と、それに誘引されたテロ行為。まさか自分の生きている時代にこんなにわかりやすく戦前がやってくるとは思わなかった。表現の自由という健全な民主主義の発展において死活的に重要な権利が、俺の住む愛知県で、これだけ堂々と蹂躙されていることに衝撃と憤りを覚えている。

超基本的な大原則として、万人に支持される芸術というものは存在しない。誰かにとって価値のある表現も、別の誰かにとっては不快あるいは退屈なものである。万人に受け入れられる存在、たとえば空気や水のことを芸術とは誰も呼ばない。

では、決して市民全員の賛同を得られることのない芸術祭を国/自治体がサポートする大義はどこにあるのか。それは、芸術という人間の未知なる創造性を自由に追求する営みが、中長期的な社会の発展にとって必要なことだからというコンセンサスが、民主主義が成熟していく過程で長い時間をかけて形成されてきたからだと思っている。今日のメシのタネにはならない、でもいつか意味を持つかもしれない謎行動。そこに価値を見出すかどうかこそが、ホモサピエンスネアンデルタール人を分ける分岐だった…というのは言い過ぎだとしても、例えば世界地図を自由な表現が認められている国とそうではない国に色分けした時に、どちらにより豊かで暮らしやすそうな国が多いかは一目瞭然だろう。でも、これらはしょせん、明文化されていない「コンセンサス」にすぎない。悪意を持った権力者が現れれば、こんなにも簡単にぶっこわされてしまうということをまざまざと見せつけられて、ほとんど絶望的な気持ちになっている。

『「自由な社会があってこその自由な表現」という当たり前の事実には、ロックやヒップホップのように、良い意味で場末の、吹けば飛ぶようなアートフォームを愛する人間が一番敏感であるべき、と思っている』と2015年にリリースされたECD『Three Wise Monkeys』の感想の中に書いたんだけど、あれから4年経ってまた屋根のトタンが一枚吹き飛んでしまった気がする。もしイギリスがセックスピストルズザ・スミスを発禁処分にする国だったとしたらくるりの音楽は存在していただろうか。同性愛が禁じられているサウジアラビア橋口亮輔の映画は上映できるだろうか。政治家は権力の行使に抑制的であるべきだが、アーティスト自身もせめて肉屋に並ぶ豚にはならないでくださいと祈らずにはいられない。

dreamy-policeman.hatenablog.com

 


8月9日はさとうもかさんが私の住む街のギャラリーにやって来た。地元の酒屋さんが主催した「スナックもか」なるイベント。会場はライブハウスじゃないし、フリーイベントなのでお客さんも必ずしももかさんをよく知っているお客さんじゃないし…というわりとタフな環境だったけど、この人はやっぱりすごい。おずおずと…という感じでピアノを弾きだしたかと思ったのに、『歌う女』ではミュージカル女優のように歌い踊り、『Melt Summer』で胸キュンの頂上に到達したかと思えば、最後の『Lukewarm』ではお客さんと円陣を組みながら合唱しているという凡人には全く予測のできない展開で会場をロックしていた。この天才ソングライターでありながら、お客さんを楽しませるためならその珠玉の楽曲たちをブン回すことも厭わないエンターテナーぶり。いやパンクスピリットとでも言おうか。もかさんのライブを観るのは去年12月の私のイベント以来(ご無沙汰してすみません)だったのだけれども、人が輝く時ってこういうことなんだろうなぁという眩しさをまとっていた。

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終演後、物販でこれまで自費でリリースしていたデモ音源25曲と解説をまとめたZineを購入。このクオリティの楽曲をフルアルバム二枚の間につくり続けるとは…とナチュラルボーンな作家性にまたしてもおののいた。

 


そして、翌日には実家に帰省。諸般の事情により長女と二人で長距離ドライブ。車に乗り込むなりヘッドホンと文庫本で完全防御。父親とのコミュニケーションを一切取らないストロングスタイル。車内にはNICE POP RADIO「親子で聴くナイスポップレディオ特集」が空しく流れていた…。

 


帰省中に下北沢BasementbarでSAGOSAIDのライブを観た。SAGOSAIDは松本市にあるMarking Recordsでカセットシングルを入手して以来、たぶんこの夏一番くらいの回数を聴いていて、TURNの<Tracks of the month>でも紹介させてもらった。

turntokyo.com

なんとかライブ観れないものかと思っていた矢先の僥倖。わずか30分、知ってる曲はカセットに収められた2曲のみというはじめまして感だったんだけど、男性メンバー三人と共に立ったサゴさんのパフォーマンスは最高にクールでかっこよかった。

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ジーザスアンドメリーチェイン、ダイナソーJr.やヴァセリンズの時代から脈々と継承されてきた「甘いメロディ+轟音ギター」という黄金の組み合わせは、肯定と否定を同時に突き付けてくる音楽だ。その子孫というべきバンドは、古くはナンバーガールスーパーカー、最近で言えば彼女が所属していたshe saidも含めてこの日本にもたくさん存在するけれども、SAGOSAIDからはその否定の部分、なぜノイズをかき鳴らす必要があるのかという点に対する説得力というかリアリティが図抜けているように感じた。リード兄弟が、J.マスシスやルー・バーロウが最初にノイズをぶちまけようと思った時の、気怠い衝動までもが音像として浮かび上がってくるように思えたのだ。それはSAGOSAIDの楽曲が、80年代のアメリカやイギリスにも通じるような、2019年のどん詰まった日本社会の空気を吸い取っているからなんじゃないかという気がした。

この日はSuper friendsのレコ発だったのだけど、トップバッターのSAGOSAIDだけ見て地元にとんぼ帰り。中学校の同級生と数年ぶりに飲んだ。翌日は当然のように二日酔い。両親からの冷たい視線に、学生時代の生きづらさがよみがえってきた。

 


あと、今年の夏は念願の山登りをしたり、サウナ&水風呂の魅力に遅ればせながら気づいたり、タピオカデビューしたりといろいろあった。今はとにかく明日から会社に行きたくなくて震えている。