ドリーミー刑事のスモーキー事件簿

バナナレコードでバイトしたいサラリーマンが投げるmessage in a bottle

ロロ「はなればなれたち」とはなんだったのかを考える

f:id:dreamy_policeman:20190718220832j:image

さる6月29日、吉祥寺シアターにて劇団ロロの公演『はなればなれたち』を観てきた。

なんといっても私の観劇はこれで3回目、しかも過去2回はいずれもロロ。それでいてロロの劇団史にも詳しくない…という感じなので、今から書くことはまったくあてにならない、あてにならなさすぎてむしろ貴重、くらいのレベルなんだけど、この記憶を無くしてしまうのはあまりにももったいないので個人的な覚えとして書いておこうと思う。

まずもって、メタ構造を何層にも重ね合わせた2時間半にわたる超絶に複雑な物語を、一切飽きさせることなく、舞台芸術/娯楽として成立させていた役者さんとスタッフに最大限の敬意を表したい。ステージに登場する全員が魅力的だった役者さんの演技、その裏にある脚本や演出はもちろんのこと、DJミックスのようにスムーズに姿を変えていく美術が素晴らしかった。

 

一方、すでに「超絶に複雑な物語」と書いてしまったように、この演劇は、あらすじを説明することすら難しいほど、様々な流れが入り組んで成立している。いつも通りのロロと言えばそうかもしれないけど、これまで見た二作(『マジカル肉じゃがファミリーツアー』『母姉僕弟君』)よりも、その光の発散度合いは高かったように思う。

この戯曲をある切り口から見れば「ひとりの少女とその仲間たちの成長を描いた物語」と言えなくもないかもしれないけど、その「少女」に該当しそうな登場人物が三人くらいいる。また成長と言ってもあの登場人物たちは過去から未来という時制に沿って生きていたのか、そもそも生きた人間だったどうかすら判然としない。

ただ、脚本・演出の三浦直之は別にこの話を「複雑な物語」として書いてやろう、という気持ちはこれっぽっちもなかったように思う。彼はただ、彼の目に映る「ただの現実」「地球そのもの」の一部を舞台の上に現出させただけなのだろう。その中にどのような物語を見出すのか、あるいは見出さないのか、その点をかなり思い切って観客に委ねたということなんじゃないか。いや偉そうなこと言ってごめん。

 

でも、

「はなればなれの花たちを はなればなれのまま 花束にして 抱きしめる」

という物語のクライマックスで、脚本家志望の佐倉すい中が繰り返すセリフは、

「ただバラバラに生きている人たちを 物語に封じ込めることなく ありのまま愛をこめて描きます これはそういう戯曲なのです」という三浦直之のステートメントのように思えてならない。もしその解釈が大きく外れていないならば、この劇の複雑さとは即ち、私たちが生きている世界そのものの複雑さである、ということができる。

 

それと同じように、今作ではAmazonとかAIとかTwitterとかVRとか、今日的かつ社会的なキーワードが全面に出ていたが、それも「グローバル企業の非人間性を告発!」「GAFAの闇!」といった問題意識が強くあったわけではなく、

 

Amazon(的なもの)が私たちの生活や囲い込んでいる

・そうした企業では低賃金で働いている労働者がいる

・おびただしい数の口の悪いTwitterユーザーが存在している

・自分の記憶を脳ではなく外部のサーバーに預けている人たちがいる(このブログもそうだ)

・日用品から音楽まで、自分の好みを知り尽くしたAIがレコメンドしてくれる

 

といった客観的事実を、淡々と所与のものとして提示しているだけなのだろう。

いや、「提示しているだけ」というのは言い過ぎか。広い世界からそれらの事象にフォーカスして、生身の役者さんに演じさせている(=花束にしている)のは、三浦直之の意思と身体にほかならないわけだから。そこに何らかの意図があったことは間違いない。

とは言え、やはりその花束の中から(必ずしも美しい花だけではない)、何を見出すか、何を感じるかは、観客に委ねられている部分が大きい。

 

この作品におけるクライマックスは何と言っても、2009年に上演された「わが星」(作・演出柴幸男 音楽三浦康嗣(口ロロ)の1シーンをまるごとそのままサンプリングしてぶち込んだ「劇団サンリオピューロランド」による劇中劇。いや劇というか、出演者全員が拍単位で切り分けたラップを見事に決めていくシーンだ(ロロメンバーの身体性の高さに驚愕)。残念ながら私はこの「わが星」を見たことはないので(DVDも廃盤)、これまた超見当違いかもしれないけど、このシーンは「宇宙も人間も誕生した瞬間に消滅までのカウントダウンが始まっているのに、なぜか淡々と日常生活を送っている人間の不可思議さと、それゆえの面白さ」を表したものであると勝手に理解した。

 

そしてその名シーンを、まったく違う劇団が10年後に上演する新作のクライマックスにぶち込むという、電気グルーヴShangri-La」やRUN DMC「Walk This Way」級の大ネタづかいをするからには、それなりの必然性というか、そこまでして加えたかった新たな意味があったと考えるべきだろう。

このラップの内容と、随所に散りばめられたAmazon、AI、Twitterといったキーワードを重ね合わさることによって見えてくるその意味とは、2009年には考えられなかった情報技術の進化が、人の死生観すらも変えつつある、ということではないか。

 

おはようからおやすみまで、クラウドサーバーとAIが私たちのライフを見守ってくれる時代。「わが星」のラップで示された「生から死までの一部始終」が半永久的に記録され続けてしまう時代。このいわば「死ぬことができない時代」における、生きること、死ぬこととは、一体どういうことなのか。三浦直之はそんな巨大なクエスチョンを、私たちに投げかけたかったのではないか。

 


そして、その問いの解像度をもう少し上げてみる。すると芋づる式に「常に誰かとつながっている時代における寂しさの存在意義とは?」とか「自分のプロファイルの蓄積によってAIが判断する時代における自己とは?」「ヴァーチャルな世界にいる自分はリアルな自分を追い越してどこに向かうのか?」という具合に、向井川淋しいや稲葉物置、近藤巧磨といった登場人物が背負っている、時に切なく、時にイビツで、そして時にグロテスクな、問いが次々と浮かんでくるじゃないですか。

 


そうなると、それに対する答えは?と聞きたくなるのが当然の人情というものなんだけど、その明確な答えはステージの上には無かったように思う。

ただそこにあったのは、もはや誰もものかもわからないくらいに入り組んだ欲望も、埋めれば埋めるだけ深まっていく孤独も、全て共に生きる構成要素として抱きしめていこう覚悟と、曽我部恵一演じる「僕」が体現していた、言葉や記憶を介在しない生死を超えた深いコミュニケーションがあるはずだ、という希望だったのではないか。そんな風に思っている。

 


とは言え、この程度の理解でちゃんと観たと言っていいものか、彼らの真意を受け取ることができたのか、心もとない部分も残っている。そしてこの余韻は感動や興奮といったわかりやすいカタルシスとは遠い場所にあるものであることもまた事実だろう。

 


それでも(愛知から弾丸ツアーで)観に行って良かったと心から思えるのは、役者さん一人ひとりの演技がとてもキラキラしていたことか、曽我部恵一の歌声が素晴らしかったことか、劇場全体に漂うポジティブな空気が最高だったとか、理屈をこねくりまわす前に伝わってくる特別なものがあったからだ。

それはまさに、言葉や意味や記憶が介在しない領域で成立する深いコミュニケーションであり、ロロが10年かけて育んできた本質なのだと思う。

森道市場2019に行ってきました

今年も森道市場に行ってきました。

しかも三日間。

おかげで今は肩が、背中が、首が、もうガタガタなんですが(前の日記で「老いを感じない」などと書いた罰か)執念で備忘録を残しておきたい。

 

初の金曜開催となった1日目。

とりあえず、涼しい・空いてる・身軽(子どもを連れてきてないから)ということにマジ感謝。

まずはサーカスステージでキイチビール&ザ・ホーリーティッツ。下北沢の古着屋からそのまま出てきたような佇まいがキュートだ。新しいアルバムからのオリエンタルな曲が特に良かった。ただ最初のバンドということもあってか、PAの具合がちょっと耳に痛くて、ライブハウスでまた見たいです…。

 

続いて、遊園地ステージでHFこと藤原ヒロシ。もはや彼が偉大な音楽プロデューサーということを知る人はどれくらいいるのかわからないけど、音楽性は収入に比例するのか、と言いたくなるほどのラグジュアリー&セレブ感。キイチビールとは真逆すぎる世界。とにかく鉄壁の演奏によるAOR。お客さんのファッショニスタ感もハンパ無かった。PAのところには何度も雑誌で顔を見たことがあるソニーの超エラい人もいたし。

でもやっぱり俺はこれをナニクソって蹴っ飛ばすような音楽が聴きたい。それこそがHFに対するマキシマムリスペクトだって思うし。

 

で、もう一回サーカスステージに戻り、前野健太。初めてバンドセットで見るマエケンは、マエケン濃度がそのまま5倍くらいになってて最高だった。出色だったのはこの曲で反戦デモやりたいと呟いてからの「マッシソヨ・サムゲタン(参鶏湯、美味しい)」。お客さんにシンガロンを無茶振りしたかと思えば、最後はポンチャックで暴走。どこまで本気かわからない前野健太の怪しげな愛が凝縮されていた。

蒲郡競艇場まで届くくらいにリバーブかけて」と言ってから歌った「ファックミー」を聴いてたら、無性に蒲郡駅前の赤ちょうちんで日本酒が飲みたくなってしまった。

 

しかしここは森道市場だ。せっかく空いてるし、おしゃれなフードを食べねば…と浜松に行った時には入れなかったnaruの蕎麦などを食す。この写真からではオシャレ感が伝わらないと思うけど…。

f:id:dreamy_policeman:20190609073926j:image

 

そしてその目前ではodolがライブ中。予備知識なしで観たけど、硬質で清冽なダンスビートと、ちょっとイアン・カーティスっぽいボーカルの佇まいがカッコ良かった。

 

海側のエリアへ。

グラス ステージではm-floが。昔はもうちょっと好きだったと思ったんだけどなと、曖昧な記憶と時の流れの残酷さを噛みしめながら浜辺を散歩。

f:id:dreamy_policeman:20190608214708j:image

 

さて。いよいよこの日の大本命・佐野元春&THE COYOTE BANDの登場。

聴かず嫌いしていた佐野元春の音楽を初めてちゃんと聴いたのは今から20年くらい前。その力強さとモダンさにすっかりやられてしまったわけだが、今の今までライブを観る機会がなかった。しかも今日はあの超名盤「Blood moon」を生み出したCOYOTE BAND(ベースは高桑圭!)との共演ということで、私の期待は最高潮に。

この日のライブはモニターの調子が悪かったのか、ややボーカルが不安定なところもあったけど、目の前に元春がいる、という事実だけでもう感無量。彼がニコッと微笑んで親指を立てる度に感じる肯定感はいったい…。

「今日集まってくれた幅広い世代の人たち、20代、30代、40代、50代の、いつかきっと!という気持ちを歌にしたから、よかったら一緒に歌ってくれるかな?」というMCの後で演奏された『SOMEDAY』で泣いた。我ながらベタだ。しかしベタでなぜ悪い。だって40年近くも風化せず背中を押してくれる歌、ほかにあるかい?演奏後、颯爽とかけ足で退場する元春の背中に手を合わせて1日目の森道市場が終わった(子どもを迎えに行かねばならないので)。

そういえば、佐野元春のライブ中にふと後ろを見ると、KIRINJIのメンバーがいた。フェスで次の出演者が客席で見てるのも珍しい。みんなのヒーロー元春。

 

さて二日目。

柴崎祐二氏のDJが聴きたくて頑張って早起きしたものの、前日とは打って変わって人が多い!三河大塚駅からの送迎バスに乗れず、トボトボ歩いて会場へ。ボッチフェスの悲哀を感じる。そして会場に着いても動線の混乱が大変なことに。会場奥のサーカスステージに着いた頃にはもうぐったり…って柴崎祐二が出るのここじゃなくてディスコステージじゃねーか!と気がついた時にはタイムオーバー。強い日差しでジリジリと背中を焼かれながらHei Tanakaを待つ。

 

Hei Tanakaを観るのは3年ぶり。前回はちょうどこの時期、渋谷WWWだった。チンドン屋スタイルでジャズ、アフロ、ブギをごった煮にした音楽を全力で鳴らすスタイルは不変。しかしメンバー間の呼吸がよりぴったりきてる感じで、スタイルなんかでは語れない、何か巨大な岩を動かそうとしているような無謀さが良かった。一日目はちょっと厳しかったこのステージのPAも改善されていた。

 

その後は、メジャーなバンドの演奏を横目にブラブラしたが、暑さもあいまってどっと疲れる感じだった。一人だと耳に入ってくる音楽を聞き流すこともできず、ひたすら受け入れるしかない。ボッチフェスの悲哀再び。

 

昼過ぎに妻と合流してグラスステージへ。今日の大本命・曽我部恵一率いる抱擁家族を観るのだ。細野しんいち、MC.sirafu、平賀さち枝、加藤雄一郎という個性的なメンバーを引き連れた新バンド。なんと曽我部はドラム&ボーカルを担当。タイムテーブル上は曽我部恵一の文字が一切なかったので、ノーマークにしてた人も多かった模様。「あれ曽我部じゃん!」という声がちらほらと聞かれた。音としてはランデブーバンドに近い気もしたけど、平賀さち枝がボーカルを取る演歌っぽい曲もあったりして、より演劇的というか、この編成自体にテーマがあるようにも感じられ、とにかく計り知れない。「家族をテーマにした曲が多かった」というのは妻の見立てだが、正解かどうかは不明。それにしても曽我部恵一の、常に新しい環境に身を置いて、初期衝動を内在化させようとする姿勢には本当にすごいと思う。

 

↓もしよろしければTURNに書かせてもらったこの記事もぜひ。

http://turntokyo.com/features/series-btotm201904/

turntokyo.com

「まだ音源もないバンドなんで、終わったらフリマやります」という曽我部のMCも気になったけど、いや俺は物販より音楽だから!と言い聞かせてサンドステージでカーネーション

遠くに曽我部フリマが視界に入ってくる落ち着かない環境だったが、そんな煩悩をぶっ飛ばしてくれるカーネーションのライブだった。どこまでも男くさい歌なんだけど、ソウルやソフトロックの匂いをさりげなく感じさせるソングライティングが洒脱で心地良く、なんと言っても演奏が素晴らしかった。やっぱロックンロールは(ギターも含めて)リズムが大事、と改めて教えてもらったような気分。カーネーションとはあまり縁のなさそうなバンドのTシャツやタオルを身につけたキッズも楽しそうに踊っていて、さっきこのバンドの暑苦しさに毒づいていた自分の狭い了見を反省。こういう若者たちがカーネーションを発見してくれると思うと、幅広いブッキングにも意義があるんですよね。。。

そしてラストの「EDO RIVER」で呼び込まれたスペシャルゲストはなんと曽我部恵一!私が高校生の頃から大好きな曲を、俺の一番のアイドルが歌っている。このご褒美具合、もうこっちがごめんごめんごめんごめんだよ…と軽く錯乱した。

 

ライブ終了後、残り少なくなった曽我部フリマでレコードを無事に3枚購入。超定番のイカしたやつばかり。しかも超良心的プライス。家宝にしたい。

f:id:dreamy_policeman:20190608214839j:image

 

カゼノイチ上野さんファミリーと会ってムスコ氏をイジり、ペトロールズをチラッと見てベースの人(三浦淳悟)が昨日のHFバンドでも弾いていたことを確認し、この日は早々に切り上げ。娘たちを迎えに行かねばならぬゆえ。なんだか贅沢な過ごし方をしている。

 

そして3日目。

この日のみ家族全員で朝から参加。

昨日の反省を生かし、車で9時45分に会場到着。さあDJ松永良平に行くぞ…って思ったらもうめちゃくちゃ長い列が入口にできている。最後尾まで1キロ以上歩いてから並んだわけだが、The XXXXXXって書いてあるTシャツを着ている人がめちゃくちゃ多い。なるほどさすが…と感心している間に時は過ぎ去り、松永良平には全然間に合わず、なんとかシャムキャッツのライブギリギリに飛び込む。

 

が、しかしこれが素晴らしいライブだったんすよ。普通のお兄さんたちが歌う半径5メートルの日常が、なぜにこんな大きなステージで、こんなにたくさんの人の気持ちをぶち上げてしまうのか。一年前に観た時もたぶん同じこと思ったんだけど、確実にあの時よりも強度を増してたし、ビーチで聴く「渚」とか「GIRL AT THE BUS STOP」とか爆発しないわけないし、「逃亡前夜」はもはや発明って感じのアンセム感。盛り上がった夏目君、最後はTシャツまで脱いでましたね。そうやってキャーキャー言われてる姿も実に絵になる。

 

続いてはサンドステージでGUIRO。本日の目玉である。

この日のメンバーは高倉、厚海、牧野の三人に、西尾賢、亀田暁彦、光永渉、あだち麗三郎が加わった豪華な7人編成。超待望の新作『A MEZZANINE』(英語読みだとマッシブアタックとかぶるからラテン語読みで『ア・メッザニネ』)が出たばかりということもあったのか、エクスペリメンタルでありながら、かなり仕上がった感じの演奏。普通のバンドのアルバム3枚分くらいの情報量が一曲ずつビシッと過不足なく封じ込められていた。特に亀田暁彦のシンセ。彼が加わることで、彼らの普遍的で独創的な音像が200年分くらいモダナイズする感じがする。そしてこの日も演奏された新曲「三世紀」がヤバかったのだけど、この話はまたいずれ…。「海の前で演奏するのが夢だったんです。ありがとう!」と珍しくストレートな高倉さんのMCにもグッときた。

 

雨が降りそうな天気の中、遊園地側に移動。子供とそれなりに大きくなったので、遊園地で放牧できるのが楽だ。今までがんばって育ててきて良かったぜ…。

 

で、観るのはドレスコーズ

遊園地のプールのそばに立つステージと、ニューアルバムからのメロウなグルーヴがもう最高にロマンチックだった。ちょっと名盤「ティンパンアレイ」を彷彿とさせる憂いもあって。新作を聴かねば…。それにしても志摩さんはいい意味で20世紀的なグラムスター感がありますね。。

 

と、ここでとうとう今年はじめての雨が。しかも結構シトシトと。でも次はフレシノだから、俺は頑張る。

というわけで、遊園地ステージでKID FRESINO。しかも念願のバンドセット。メンバーは小林うてな、佐藤優介、柏倉隆史、斎藤拓郎に三浦淳悟と超豪華。え?三浦淳悟?ってことは一昨日このステージに出演していたHFバンドで弾いてたじゃないですか。めちゃめちゃプログレッシブでタイトなパフォーマンスに、藤原ヒロシがメジャーフォースで日本にまいたヒップホップの種は、今やこんなに成長しましたよ…と、1日目と3日目をまたぐブッキングのストーリーを勝手見出してグッときてしまった。

 

いよいよ雨が強くなってきましたよ。もう帰ってもいいんだけどな・・・と思うのだけど、小6長女がKing Gnuが見たいとおっしゃるので、最後まで粘ることに。しかもご本人と妻は車の中で昼寝するから、次女を連れて遊園地で遊んで来い、と。

というわけで、降りしきる雨の中、メリーゴーランドに並び、ジェットコースターに乗り、3D映画を見て、父親業に専念する。遠くから真心ブラザーズの歌う「拝啓、ジョンレノン」が聞こえてきてきた。

 

そして父ちゃん疲労困憊の中、力を振り絞ってカネコアヤノを観に行くためにサンドステージまで歩く。通りがかったグラスステージではソフトバレエが演奏しているのが聞こえ、ついに幻聴が…と思いきや、演奏しているのはソフトバレエではなくThe XXXXXXで、歌っているのは遠藤遼一ではなく山田孝之だった。ソフトバレエ、人生で初めてCD買ったバンドの一つですけどね。

 

さてカネコアヤノ。晴れていれば海に沈む夕陽を見ながら、という最高のシチュエーションだったわけですが、残念ながら雨は止まず。しかし、カラッとバンカラなバンドサウンドはメインステージのやたら重厚な音とは対照的に、黒塗りの高級車を単車で追い抜いていくような風通しの良さがあった。乙女心の機微がわからないおっさんなので、音源をちゃんと追えていないのですが、「とがる」「天使のスーパーカー」はやっぱり胸ぐらをつかんでくるような良さがあった。

 

いよいよ大トリ・長女お待ちかねのKing Gnuの登場。次女と私は後ろの方に下がり、キャンプサイトのあたりから見学…してたんだけど、降りしきる雨のせいもあってか、どんなに離れても仮設トイレの匂いが追っかけてくるのよね…。ライブ終わってから大観衆と一緒に移動するのも大変そうだし、途中で離脱して遊園地に戻る。するとディスコステージではゴリゴリにハードなミニマルテクノがかかっていて、二階のベランダみたいなところで半ばやけくそで踊った。気持ちよかった。ちなみにこの日は車だったのでシラフだ。そしてDJが世界のKEN ISHIIだったことを知ったのは、翌日の昼になってからだった。

f:id:dreamy_policeman:20190608215017j:image

 

というわけで、三日間の森道が終了。

今年のラインナップは昨年までとは微妙に趣向が変わったので、そこまで行かねば!って感じにはならなかったのだけれども、佐野元春抱擁家族GUIROと各日に見逃せないアーティストが出演することから、初回からの皆勤記録を伸ばしてしまった。

このままロックインジャパン化が進んでしまうとちょっと足が遠のくかもしれないけど、私と家族にとっては定点観測的というか、毎年つける柱の傷というか、変わっていく家族のありようを知るイベントでもあるので、とりあえず来年も楽しみにしたいと思います。

 

※写真が少ない&イマイチなのは「傘禁止・撮影禁止」と言う規制が厳しかったため、であります。傘は常識としても、いまだに撮影禁止って…。

 

5月のこと。

この5月で41歳になった。

若い時にイメージしてた40代というのは、首まで砂風呂に埋められた人のように、仕事とかローンとか体力の低下とか、ほとんど身動きの取れない生き物であり、そしてたぶん実際はその通りのはずなんだけど、のしかかった砂の重さをやりすごす、あるいはそもそも重いと感じないようにするスキルも身につけてしまったせいで、意外と心身の可動域が広いように感じている。つまり、あまり老いを自覚していない。もちろんこれはこれで恐ろしい事態であることは重々承知だ。

 


5月には私が住む愛知県岡崎市という小さな街で、図書館を舞台にしたフェス「リゾームライブラリー」があった。

これといった見どころも名産品もない街には不釣り合いなほど豪華な出演者が最高のライブをかましてくれて、ホール着座で観るVIDEOTAPEMUSIC の贅沢さとか、誰も知らない岡崎のバンドのレコードが欲しいと言ってお客さんをキョトンとさせる台風クラブとか、本当に素晴らしかった。そしてこの日は、ちょうど一年前、この地で私が開催したイベントに出てくれた東郷清丸さんも出演したのだけれども、せっかく近くに来てくれるならば、セカンドアルバム発表間近の彼の手伝いになることはできないかというお節介モードが発動してしまった。今考えると何が「せっかく」なのか、さっぱりわからない。

 
とにかく5秒にわたる熟考の末に出た結論は、「俺が清丸さんにインタビューして、それをまとめた原稿をどこかの媒体に載せてもらう」という、極めて安直かつ突拍子のないもの。

 
しかしこれが無駄に可動域の広い40代の恐ろしいところで、清丸さんにインタビューの許可を取り付けた上で、4月の「うたのゆくえ」で挨拶させて頂いた音楽ライターの岡村詩野さんにメールを送りつけ、岡村さんがエグゼクティブプロデューサーを務めるwebマガジン「TURN 」に掲載してもらえないかとお願いしてみた。

dreamy-policeman.hatenablog.com


はっきり言って勝算ゼロのギャンブル。ダメなら清丸さんに謝るしかないな…と思っていたところ、まさかの掲載オーケーの返信が。

あの日本屈指の評論家である岡村詩野さんが、こんなど素人からの申し出を受け入れてくれるとは…と度量の大きさに感謝しつつ(これはインタビューを受けてくれた清丸さんにも言えることだけど)、インタビューの準備を進めた。

 
ちなみに私がインタビューというものをやるのは、実はこれが初めてではない。本業の業界紙的なものに掲載するために、国会議員に話を聞くという仕事をやったことがある。

与えられたインタビュー時間は1時間半ほどだったが、それは今思い返してみても、人生最長最悪の90分と言うべき、苦悶に満ちた時間であった。何を聞いても「・・・で?」。やっと答えたと思ったら絶対文字にできない悪口ばかり。結局紙面には、その議員の秘書が書き上げたほぼ架空のインタビュー記事が掲載されることとなった。ちなみにその議員はまだ現役。三日に一回くらいのペースで犬のフンを踏めばいいと思っている。

 

なので今回のインタビューについても、自分で言いだしたにもかかわらず、大きな不安があった。しかし東郷清丸は大人だ。ファッキンシットな国会議員とは器が違う。私の的外れな質問を冷静に咀嚼し、ジェントルにフォローしながら、全編にわたって誌面に映えるパンチラインをぶち込んでくれた。とても私より年齢が一回り下の若者とは思えない明晰ぶり、ビジョナリー感。インタビューから一ヶ月近く経った今も、「こういう時、清丸さんならなんて言うかな」と考えてしまっている自分に気づくところがままあるほど。リゾブラの会場(つまり俺がいつも本を借りている図書館だ)のそばを流れる河川敷で話を聞いた1時間を忘れることはないだろう。

 

というわけで、この拙い文章と質問を通じて、日本のポップミュージックの基準を塗り替えてしまった新作「Q曲」の魅力はもちろん、東郷清丸というアーティストの新しさと勇敢さの一端が伝われば、と思ってます。

  

さて、清丸先生のインタビューを掲載してもらえればもう思い残すことは何もない…はずだったのだが、岡村さんから声をかけて頂き、TURNにディスクレビューも書かせてもらいました(掲載はこちらが先)。しかも王舟と川辺素という私にとって最重要アーティストの新作。震えるわ。

 

turntokyo.com

 

turntokyo.com

 

 

TURNの雰囲気に合う文章が書けるのか甚だ不安だったが、岡村さんの適切なアドバイスとエンカレッジのおかげで、なんとか作品に対する私なりの愛と敬意だけは表せたのではないかと勝手に思っております。

ぜひご一読の上、この傑作二枚を聴いてもらえると嬉しいです。

 

 

 

火の玉のゆくえについて 台風クラブ「火の玉ロック」

f:id:dreamy_policeman:20190418121824j:image

「うたのゆくえ」の余韻も未だぼんやり心に残る中、京都から台風クラブの「火の玉ロック」の7インチが届いた。

新曲のタイトルがジェリー・リー・ルイス往年のスタンダードナンバーと同じと知った時から、これはきっと広大なハイウェイを全速力でブッ飛ばすようなロックンロールに違いない、と思っていたのだけれど、開けてびっくり。The Byrdsを思わせるイントロから始まる、(私の知る限りでは)台風クラブ史上最も感傷的なメロディーと繊細なコードワークからなる楽曲だった。

そう、「火の玉」とは燃え上がる台風クラブのことではなく、彼らを次々と抜き去っていく、無数の車の赤いテールランプのことだったのである。

それに追いつこうとするわけでも、引き返そうとするわけでもなく、人生の結末を知っているかのような諦めに満ちた眼差しで、見送るだけの男の姿。

今回もまた、石塚淳の書く歌詞は暗い。ほとんど絶望的と言ってもいい。

 

彼の歌詞に出てくるのはいつだって、自分と、自分の部屋と、街だけ。まるっきりひとりぼっちである。

その完全に閉じた世界の中で抱えた蹉跌や不如意の原因はついぞ語られることなく、行く末も明かされない。

 

しかし、この第三者の介在を一切拒否したような世界の窓をこじ開けて、夕焼けを招き入れ、暗い顔を紅く染めていくのもまた、石塚淳自身による天才的なソングライティングであり、山本啓太、伊奈昌宏のドカドカっとしたバディ感たっぷりの演奏である。

曲が転調するたび、少しずつ灰色の世界に色がついていくこの感覚に名前をつけることはできないのだけれども、いつも俺は彼らの三分にも満たない楽曲の中に、瀕死の魂とその再生のドラマを見ている。

そしてその闇が深い分だけ、それを救い出すメロディと演奏が人懐こい分だけ、俺の魂の揺動もまた大きくなっていくのだ。

その意味で「火の玉ロック」は名曲ぞろいの台風クラブのレパートリーの中でも、特別な輝きを放っている。

 

しかし思えばきっと、ロックンロールってやつはジェリー・リー・ルイスの時代から、ラジオやジュークボックスを通じて、遠く離れた場所に住む誰かの孤独を浮かび上がらせ、そっと光を当ててきたのだろう。この曲で踊っている間は、お前も俺も一人じゃないぜ、と。


ちょっとチリチリした懐かしい音質のレコードに針を落とす度に、そんな感慨を抱いてしまう。

第二回うたのゆくえ(二日目)に行ってきました

f:id:dreamy_policeman:20190409223208j:image

地方分権のかけ声も今は昔、政治も経済も東京への一極集中の度合いを高めまくってる現代の日本。

しかしポップミュージックの世界においては各地方をベースにしつつも、活動全国区で活躍するミュージシャンやレーベルが目立つ。

その背景には在京メジャーレーベルの地盤沈下という事情もあるのだろうけど、それはともかくとして、とりわけ近年の京都からは台風クラブや本日休演をはじめ、素晴らしいミュージシャンが次々と現れている。

 


そんな京都のオールスターキャストと、それに呼応する東京のミュージシャンが一同に会するイベント「うたのゆくえ」に行ってきました。

 


あまりにも観たいアーティストだらけすぎて、開催が発表された瞬間から、俺はもうこれだけを希望に年度末を生き抜くぞ…と思っていた次第です。

諸般の事情により残念ながら2日目だけの参加となりましたが、最高だった一日の記録を残しておきます。

 

 

開演は13時ということで、その前にレコード屋さん行ったり、聖地α-station(ラジオ局)を拝んだりしようかな…と思っていたのだけれども、急遽12時からタワーレコードで田中ヤコブがライブをやるということで、まずはそちらへ。ここから私の「うたのゆくえ」がスタート。

 

f:id:dreamy_policeman:20190409222037j:image

 

18年のニューカマーの中では一番よく聴いたアルバムは多分彼の「お湯の中のナイフ」。

レイドバックしているようでいてニューウェーブ的な緊張感とモダンさのあるメロディー、そしてするっと入ってきていつのまにか壮絶なことになっているバカテクのエレキギターにすっかりやられてしまったのです。

それに加えてこの日のアコギ弾き語りでは、そのルーツにかなり濃厚なブルーズを感じて、一筋縄ではいかない音楽性が京都の街にとても似つかわしいもののように思われた(ヤコブ氏は東京から来たはずだけど)。

飄々とした語り口とインパクトのあるルックスもクセになりそうで、早くバンドセットで観たいという思いが募った。

 

 

 

さて。ヤコブ氏のライブ終了後、いよいよ会場であるVOX hallへ急ぐ。まずはメイン会場のホールで本日休演を。

 

f:id:dreamy_policeman:20190409222144j:image


彼らのライブを観るのは約2年ぶり二度目。前回観たのは金山ブラジルコーヒーで、完璧なまでにねじ曲がった音楽性と予測のできないパフォーマンスに衝撃を受けたのだけれども、その核となっていた埜口敏博さんが直後に急逝。四人体制になってから初めて観た。かつての愛すべきすっとぼけた学生感は大きく後退し、EP-4やFriction、ゆらゆら帝国を彷彿とさせる、ひんやりとした硬質さが前景化されていた。ロックンロールというフォーマットから体温や感情をすべて取りさらったようないびつな音楽。のっけからとんでもなくかっこいいものを見てしまった…と口がポカンとあいた次第。

 


六曜社でコーヒーブレイクを挟んだ後に観たのは、京都初登場という東郷清丸。

f:id:dreamy_policeman:20190409222202j:image

まるでビートルズゲットバックセッションのような都会のビルの屋上で清丸氏の歌を聴けるなんて…と思いきや本番直前になって突如雨と風が。さすが嵐を呼ぶ2兆円男である。

なんとか持ち直した空の下始まったライブは、よりスケールが大きくなった歌唱力が印象的。あっという間にみんなの心と京都の空に虹をかけていく。特に「Super Relax」と「サマタイム」はこのまま陽光の中に溶けるんじゃないかという気持ち良さ。しかしそれすらを上回る快感がこの日も披露された新曲「L&V」には宿っていて、一度聴いたら忘れられない止められない中毒性。来月にもリリースされるというニューアルバム(!)が法律で禁止されやしないかと心配なほどである。

 

 

 

さて、屋上からホールに戻ると、すでにとてつもなくファンキーなビートがガンガン鳴らされている。すばらしか、である。

f:id:dreamy_policeman:20190409222250j:image

彼らが昨年出したアルバム「二枚目」があまりに素晴らしく、つい拙フリーペーパーの巻頭に歌詞を無断引用してしまった私だが、実はライブを見るのは今日が初めて。重ね重ね本当にすみません。

そのフリーペーパーを設置頂いたココナッツディスク吉祥寺の矢島店長に「ライブもつっぱっててかっこいいんですよ!」と教えてもらっていた通り、荒々しくてぶっきらぼうで、とんがりまくったロックンロール。いやだけどここまで壮絶なライブだとは思わなかった。

アルバムで聴かせたグッドメロディーはすべて解体され、ギターやクラビネットが時おり鳴らすリフに、そのわずかな痕跡が読み取れるだけ。ただひたすらにフロアの温度を上昇させるためだけのダンスミュージックへと変貌していた。この「うたのゆくえなんて知ったこっちゃないぜ」とばかりにボルテージを上げていく様に、97年のミッシェルガンエレファントの亡霊を見た。そしてラストのロック史上屈指の名曲スライアンドザファミリーストーン「Thank you」と取っ組み合いながら一体となっていく「うそは魔法」で、たぎった血液が体内を逆流するのを感じながら、俺はロックンロールでこんなに興奮したのはいつ以来だろうと考えていた。

 

 

さて、すばらしかで盛り上がり過ぎてフラフラになりながら移動すると、入口付近で「今からライブやりまーす。よろしくお願いしまーす」とビラを配る青年。そう、マーライオン本人である。なぜ会場の中でビラを配っているのか。ライブが始まる前から120%じゃないか。その心意気に胸を熱くしながらサブ会場である十八番へ。

f:id:dreamy_policeman:20190409222315j:image

初めてマーライオンのライブを観た時は、その爆発的なパフォーマンスが俺の(暗くて小さい)脳内処理能力を超えてしまった感じだったのだけど、過去の音源もしっかり聴いて臨んだこの日のライブは、彼の表現を受け止められた(ような気がする)。

なんてことない人の、なんてことのない日常の、でも絶対に二度とない瞬間。そこに全力で、まさに120%の熱量でフォーカスしていくことの勇気。ステージ横で音楽ライターの岡村詩野さんがインスタでライブ配信するためにずっと撮影されているのを見て、そのつい応援したくなる気持ち、なんかわかります…と勝手に共感していた。

 


マーライオンの「よしみんなで山本精一観に行こうぜ!」という呼びかけに従い、続いてはメインステージで山本精一&SEA CAMEを。間違いなくこの日一番の大御所である。20年前、彼が率いる羅針盤「らご」の衝撃といったら。しかしそのホンモノぶりが私のようなあまちゃんには敷居が高いように思われ、ライブを観るのはこの日が初めて。

f:id:dreamy_policeman:20190409222510j:image

どんなライブになるのかしらと緊張していたが、ボーカルの透明感、メロディの瑞々しさはあの当時のままで、今まで勝手にハードルを上げていたことがばからしく思えるほど、最高にポップな音楽。しかし、ギターの一音一音にはさすがの説得力が、バンドのアンサンブルにはえも言われぬ緊張感があり、やはりホンモノは違うぜ…と唸ってしまうライブだった。今日のような機会がなければ、ずっと見逃し続けたままになっていたかもしれない。主催者様に感謝したい。

 


京都は夜の6時。さぁいよいよ佳境に…という時間帯でありましたが、寄る年波と空腹には勝てません。ちょっと街に出て休憩。どなたかがまとめてくださっていた#ラジカクキョート部で紹介されていたお店リストから見つけたお店に向かうも、立ち飲み屋さんだったため断念(足が限界)。適当に選んだ近くの居酒屋に入る。有線で徳永英明とかバブルガムブラザーズがかかる店なのに、トイレに誰かが貼ったEP-4のステッカーが残されていて、改めて京都という街の業の深さを感じた。

 

f:id:dreamy_policeman:20190409222348j:image

 

 

さて再び会場に戻り、中村佳穂のライブを。

f:id:dreamy_policeman:20190409222408j:image

各所で去年のベストアルバムとの賞賛されている「AINOU」に私もぶっとばされた一人だが、あまりにも急激に人気が出るものだから、このタイミングを逃すともう観ることもないかもな…と思ったりもしていた。が、本当観れて良かったです!と言いたくなるライブだった。あれをライブと呼んでしまっていいのか、よくわからないくらいの体験だったのだけれども。

一言で表現すると、モノが違う。細かな音楽性を云々することが意味のないものに思えてしまうほど、中村佳穂自身が放つパワーが圧倒的。音楽が身体と分かち難く結びついているというか、一挙手一投足のすべてが音楽になっているというか。それでいて、圧倒的なカリスマにありがちな暑苦しい圧力も感じさせない、ポップミュージックとしての軽やかさもあるという、不思議としか言いようのないライブ。

この奔放な輝きをよく一枚の録音物に封じ込めることができたものだな…と改めて「AINOU」という作品の果てしなさも感じずにはいられなかった。


この後もトリの折坂悠太までがっつりいきたいところだったのだけれども、終電の関係で、ギリシャラブをちょっとだけ見てから会場を後に。


帰りの新幹線の中、なぜ京都がインディーシーンにおいて特別な存在なのか、ということをぼんやりと考えていた(ちなみに京都市の人口は148万人、名古屋市は230万人、大阪市は270万人である)。

それはおそらく、大学という有為な若者を引き寄せる施設が集まり、自由な表現を許容するライブハウスやカフェが充実していて、彼らに愛ある眼差しを注ぐ今回の主催者である須藤朋寿さんのようなオーガナイザーや、岡村詩野さんのような評論家がいて、さらには日本で一番インディペンデントな音楽に理解のあるα-stationというラジオ局まで存在している、つまり新しい音楽が生まれ、育ち、発信されるエコシステムが成立しているから、ということなのだろう。


なんとうらやましいと思わずにはいられないけど、辺境の地から現れる奇跡を目撃するというのもなかなかロマンのある話じゃないか。日本のデトロイトこと愛知県に住む私も、そんな瞬間に立ち会えるように徳を積みながら生きていきたい。

 

 

そして人生は回る。 さとうもか「Merry Go Round」について。

f:id:dreamy_policeman:20190402195946j:image

 

老若男女を問わず聴く者すべての心を奪う名曲ばかりがずらりとならんだ、さとうもかのデビュー作「Lukewarm」。


待ちに待ったセカンドアルバム「Merry Go Round」は、あのつい口ずさみたくなる親しみやすさはそのままに、より深い感情が刻み込まれた楽曲が13曲も収録されています。全員必ず聴いてください。

 


以上。

 


この作品の素晴らしさを伝えるにはこれだけで言っておけばほぼほぼオーケー。もう何も付け加えることはない…はずなんだけど、やはり妄想刑事としてどうしても申し上げておきたいことがあります。

 


それは、アルバム全体を包み込むストーリーの存在が、この作品を揺るぎない名盤へと押し上げているのではないか、ということであります。

 

 

 

アルバムの前半でそのカギとなるのは、M1「Insomnia flower」から切れ目なく連なるM3「ばかみたい」。


10年代ヒップホップをさとうもか的に咀嚼したクールなトラックに乗せられる、訴求力と洗練が同居した流麗なメロディー、リアルなリリック。

こりゃこのまま月9の主題歌になってもおかしくないぜ…とテンションが高まってきたところで入り込んでくる、プロデューサーである入江陽のラップ。そこにはこんなシーンが描かれている。

 


夜中のカフェで寝落ちしそうになりながら、「もかチャンの恋バナ」を延々と聞かされる男(おそらく密かにもかチャンに好意を抱いている)。

 


さすがにちょっとイライラして

「もかさんはどうしたいの?」聞くと、

「それがわかりゃ苦労しないわ」と理不尽に怒られて、心に割り切れないものを抱える。

(「 」部はいずれも原文ママ


あえて実名を登場させたこの生々しいリリックによって、フィクションとノンフィクションの壁を壊していくと共に、1曲目のタイトル「Insomnia Flower =不眠症の花」に込められた伏線もさりげなく回収する。


つまりこの16小節が、アルバムに収録された楽曲にさとうもか自身のパーソナルな感情が込められていることと、それらの楽曲が相互に作用しながらアルバムが構成されていることを聴き手に強く印象付けた、という事である。このもか&陽の華麗で周到な仕事ぶりに震えが止まらない。

 

 

こうして作品全体への求心力をぐっと高めたところでドロップされるのはM5「LOOP」。

この曲をライブで初めて聴いた時は、バンドサウンドを加速させていくメロディーが最高に気持ちよくて、これはスカート「静かな夜がいい」以来のRIDE ON TIMEポップスだ!と熱くなっていたのですが、Tomgggにアレンジを託したアルバムバージョンは、むしろChocolat以来のレイハラカミポップスだと呼びたくなる、熱い感情がギュッとクールにパッケージされた、アルバム全体のテイストにふさわしいものになっていた。

そして、「メリーゴーランド=回転木馬」というアルバムの中心にある曲が「LOOP=円環」と言うのも、なんだか象徴的である。

 


そしてタイトルトラックであるM10「Merry Go Round」。

さとうもかの特長の一つである、ディズニー映画のようにキラキラしたメロディに乗せて歌い出される、

「私の人生の一番素敵な日には どうか君がいてほしいんだ」

というまっすぐなフレーズに、「Merry Go Round」というアルバムタイトルが、楽しいだけのアトラクションを表しているわけではなく、めまぐるしく回り続け、確かなことなど一つもない「人生」そのものを表していることに気づかされる。

そしてそんな思うようにならない回転木馬の上で綴られる、

「幸せになろう ふたり一緒にね」

というとてもシンプルでささやかな願い。


この歌詞を噛み締めてから、

「ジェットコースターこわくないよ ジェットコースターこわくないよ」

と、ロボ声で繰り返すだけのM11「こわくない」を聴くと、ふざけてるとしか思えないこの曲も、「シャレにならないスリルに満ちた遊園地=人生」を乗り越えていくための、大切なおまじないのように聴こえてくる。


この楽曲同士の相互作用と相乗効果。

かつてプリンスがグラミー賞のスピーチで語った「みんな忘れちゃってるかもしれないけど、アルバムって大事だよ」というセリフが頭をよぎるじゃありませんか。

 

そして回り続けたメリーゴーランドも、いよいよ閉園直前のクライマックスへ。


トリを飾るのは去年配信でリリースされて以来、ポップミュージックラバーの心を貫いたままの名曲「melt summer」。

さとうもかが、ユーミンaikoに比肩する才能の持ち主であることを完全に証明してしまった決定打。

改めてこのドラマチックな名曲をアルバムの中で聴くと、ここまで丹念に描いてきた物語を、花火のように昇華させる爆発力がある。


特に素晴らしいのが、否が応でも映像を喚起させる歌詞。


「時が止まった

 息の仕方も わかんない手の位置も

 考える暇はなかったの

 一瞬の一生だった」


という冒頭。


こんなおっさんが言うのもアレなんですけど、この「一瞬の一生だった」というフレーズが指している状態って、いわゆるキュン死って呼ばれるやつですよね?

それをこの歌の世界にふさわしい、リアルな手触りのある一言で表してしまうセンスに、さとうもかの非凡さが凝縮されていると思うのですよ。


映画のエンドロールのように流れていくエモーショナルなアウトロにシビれながら、この曲で青春を鮮やかに彩っていくであろう日本中のガールズ&ボーイズの眩しい姿を思い浮かべずにはいられませんでしたね。。。

 

というわけで、私が思うところを長々と暑苦しく書いてしまったので、もしかしたらこの作品自体がそういうものではないか、という誤解を与えてしまったかもしれないのですが、安心して下さい。実はこの作品、トータル33分しかないのです。これだけの情報量を詰め込んでいるのに!

このサブスク時代のサイズ感、繰り返し聴きたくなる(ループ!)余白を残しておく入江陽のプロデュースワークは本当に隙がないな…とまたしても戦慄が走るのであります。


というわけで、さとうもかの新作「Merry Go Round」はぜひ歌詞カードを読みながら、何度も聴いて頂くことをオススメしたい作品となっております。

 

こちらからは以上です。

 

 

Lee & Small Mountainsのラストライブを観た話。

f:id:dreamy_policeman:20190321220744j:image

 

リースモの音楽とは、キリンレモンである。

 

さわやかな甘さとほのかなすっぱさ。それでいてパンチのある炭酸が効いていて。なによりも、いつ飲んだって絶対に美味しい。

あまりにもさりげなく、優しい面持ちでいてくれるものだから、刺激的なコピーを引っさげて現れる新製品の前では控え目に見えるかもしれないけど、まあ一口飲んでみてくれよ。やっぱこれだな!という気持ちになるから。


そんなリースモ、略さずに言うとLee &Small Mountainsという名前の最高にイカしたプロジェクトが、その看板を下ろすという。

今から3年前、彼らの7インチ「Teleport  City」に出会って心を躍らせ、ついにはリー・ファンデ本人のライブを企画するくらいに人生を変えられてしまった者として、この節目のライブは絶対に目撃したいと願っていたのだけれども、やっぱ神さまっているのかもしれない。なぜか俺はその日、下北沢はモナレコードにいたのだよ。

 

開演からだいぶ遅れて会場に到着すると、ステージではちょうど対バンのSaToAが演奏を始めるところだった。

去年ハポンでライブを初めて観て以来二度目。


名作 「スリーショット」からのナンバーが中心だったこの日もライブも、ソフトロックなハーモニー、その裏側からチラッと見えるパンクな鋭さとソウルの熱さがかっこいい。


こうした過去の音楽的遺産をセンス良く参照していくスタイルの音楽をこの時代に表現しようと思うと、DJや打ち込みの方が自然のように思えるのだけれど、あえてバンドで、しかもスリーピースで、という意思こそが、彼女たちにしか放つことのできない輝きの根源にあるように思えた。


(この時点では)まだ発売前の新譜からの曲も聴けたのだけれども、どこかオルタナ感のあるメロディーが新鮮で、彼女たちの音楽が届く射程距離がぐっと伸びるような気がした。

そしてワタシは、この繊細だけど確かな光を、いくつになっても感じられる人間でありたいと強く思いましたね。

 

さて、続いて登場するのはこの日の主役、Lee & Small Mountains。バンドが演奏するソウルフルなイントロダクションが鳴り響く中、客席後方から(プロレスラーのようなスタイルで)入場してきたリー・ファンデ。

長い手足をスーツに包んだ姿が実に精悍。


学生時代から名乗ってきたリースモ名義のラストライブということで、きっとこれまでの集大成的セットリストになるのだろう…と勝手に予想していたのだけれども、この日の本編は一曲を除いてすべて未音源化の新曲。


「カーテンナイツ」からはやんないのかい!とツッコミつつも、ソロアーティストとしてのリー・ファンデの第一歩を刻みたいという意気込みや良し。やっぱソウルボーイはこうでないと!


その新曲たちは、これまでのソウルをベースにした路線を踏襲しつつも、よりポップな彩りと、メロディーの力を重視しているような印象の曲が多いように思える一方、スティービーワンダーの「Superstition」を下敷きにしたであろう重いファンクナンバーもあったりして、来るべき次作の充実をギンギンに予感させてくれた。


さて実は私、リースモをバンドで観るのは実はまだ2回目でして、1度目は野外のイベントだったこともあり、じっくり堪能したのは今日が初めてと言ってもいいんですが、この地に足の着いたグルーヴが実に気持ちいい。パーマネントなバンドじゃないというのが不思議なくらいのステディ感。このバンドで名古屋また来てほしい。


そしてそんな完璧なアシストを受けて聴き手のゴールに迫るのボーカルのリー・ファンデ。

オーセンティックなメロディーに「今・ここ」の切実さを宿らせて、オーディエンスの心の壁を真正面から貫こうとする、熱くて青くて愛に溢れたうた。観るたびにスケールが大きくなっているように思えてならない。

 

最高だ…と感極まったところで時計の針は9:30を指していた。シンデレラおじさんことドリーミー刑事(40歳)、お迎えの馬車が来たようです。泣く泣く本編ラスト曲で会場を後に…。

最終の新幹線の中でアンコールが「Teleport City」「山の中で踊りましょう」だったことを知り、100万バレルの涙で大井川を氾濫させました。


ちなみにLee & Small Mountainsという名前はこの日は最後ですが、今後はリー・ファンデという名前で今日のバンドメンバーと共に活動していくとのこと。


また新たな歌を聴かせてくれる日を私は心から待っております。