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ロロ「はなればなれたち」とはなんだったのかを考える

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さる6月29日、吉祥寺シアターにて劇団ロロの公演『はなればなれたち』を観てきた。

なんといっても私の観劇はこれで3回目、しかも過去2回はいずれもロロ。それでいてロロの劇団史にも詳しくない…という感じなので、今から書くことはまったくあてにならない、あてにならなさすぎてむしろ貴重、くらいのレベルなんだけど、この記憶を無くしてしまうのはあまりにももったいないので個人的な覚えとして書いておこうと思う。

まずもって、メタ構造を何層にも重ね合わせた2時間半にわたる超絶に複雑な物語を、一切飽きさせることなく、舞台芸術/娯楽として成立させていた役者さんとスタッフに最大限の敬意を表したい。ステージに登場する全員が魅力的だった役者さんの演技、その裏にある脚本や演出はもちろんのこと、DJミックスのようにスムーズに姿を変えていく美術が素晴らしかった。

 

一方、すでに「超絶に複雑な物語」と書いてしまったように、この演劇は、あらすじを説明することすら難しいほど、様々な流れが入り組んで成立している。いつも通りのロロと言えばそうかもしれないけど、これまで見た二作(『マジカル肉じゃがファミリーツアー』『母姉僕弟君』)よりも、その光の発散度合いは高かったように思う。

この戯曲をある切り口から見れば「ひとりの少女とその仲間たちの成長を描いた物語」と言えなくもないかもしれないけど、その「少女」に該当しそうな登場人物が三人くらいいる。また成長と言ってもあの登場人物たちは過去から未来という時制に沿って生きていたのか、そもそも生きた人間だったどうかすら判然としない。

ただ、脚本・演出の三浦直之は別にこの話を「複雑な物語」として書いてやろう、という気持ちはこれっぽっちもなかったように思う。彼はただ、彼の目に映る「ただの現実」「地球そのもの」の一部を舞台の上に現出させただけなのだろう。その中にどのような物語を見出すのか、あるいは見出さないのか、その点をかなり思い切って観客に委ねたということなんじゃないか。いや偉そうなこと言ってごめん。

 

でも、

「はなればなれの花たちを はなればなれのまま 花束にして 抱きしめる」

という物語のクライマックスで、脚本家志望の佐倉すい中が繰り返すセリフは、

「ただバラバラに生きている人たちを 物語に封じ込めることなく ありのまま愛をこめて描きます これはそういう戯曲なのです」という三浦直之のステートメントのように思えてならない。もしその解釈が大きく外れていないならば、この劇の複雑さとは即ち、私たちが生きている世界そのものの複雑さである、ということができる。

 

それと同じように、今作ではAmazonとかAIとかTwitterとかVRとか、今日的かつ社会的なキーワードが全面に出ていたが、それも「グローバル企業の非人間性を告発!」「GAFAの闇!」といった問題意識が強くあったわけではなく、

 

Amazon(的なもの)が私たちの生活や囲い込んでいる

・そうした企業では低賃金で働いている労働者がいる

・おびただしい数の口の悪いTwitterユーザーが存在している

・自分の記憶を脳ではなく外部のサーバーに預けている人たちがいる(このブログもそうだ)

・日用品から音楽まで、自分の好みを知り尽くしたAIがレコメンドしてくれる

 

といった客観的事実を、淡々と所与のものとして提示しているだけなのだろう。

いや、「提示しているだけ」というのは言い過ぎか。広い世界からそれらの事象にフォーカスして、生身の役者さんに演じさせている(=花束にしている)のは、三浦直之の意思と身体にほかならないわけだから。そこに何らかの意図があったことは間違いない。

とは言え、やはりその花束の中から(必ずしも美しい花だけではない)、何を見出すか、何を感じるかは、観客に委ねられている部分が大きい。

 

この作品におけるクライマックスは何と言っても、2009年に上演された「わが星」(作・演出柴幸男 音楽三浦康嗣(口ロロ)の1シーンをまるごとそのままサンプリングしてぶち込んだ「劇団サンリオピューロランド」による劇中劇。いや劇というか、出演者全員が拍単位で切り分けたラップを見事に決めていくシーンだ(ロロメンバーの身体性の高さに驚愕)。残念ながら私はこの「わが星」を見たことはないので(DVDも廃盤)、これまた超見当違いかもしれないけど、このシーンは「宇宙も人間も誕生した瞬間に消滅までのカウントダウンが始まっているのに、なぜか淡々と日常生活を送っている人間の不可思議さと、それゆえの面白さ」を表したものであると勝手に理解した。

 

そしてその名シーンを、まったく違う劇団が10年後に上演する新作のクライマックスにぶち込むという、電気グルーヴShangri-La」やRUN DMC「Walk This Way」級の大ネタづかいをするからには、それなりの必然性というか、そこまでして加えたかった新たな意味があったと考えるべきだろう。

このラップの内容と、随所に散りばめられたAmazon、AI、Twitterといったキーワードを重ね合わさることによって見えてくるその意味とは、2009年には考えられなかった情報技術の進化が、人の死生観すらも変えつつある、ということではないか。

 

おはようからおやすみまで、クラウドサーバーとAIが私たちのライフを見守ってくれる時代。「わが星」のラップで示された「生から死までの一部始終」が半永久的に記録され続けてしまう時代。このいわば「死ぬことができない時代」における、生きること、死ぬこととは、一体どういうことなのか。三浦直之はそんな巨大なクエスチョンを、私たちに投げかけたかったのではないか。

 


そして、その問いの解像度をもう少し上げてみる。すると芋づる式に「常に誰かとつながっている時代における寂しさの存在意義とは?」とか「自分のプロファイルの蓄積によってAIが判断する時代における自己とは?」「ヴァーチャルな世界にいる自分はリアルな自分を追い越してどこに向かうのか?」という具合に、向井川淋しいや稲葉物置、近藤巧磨といった登場人物が背負っている、時に切なく、時にイビツで、そして時にグロテスクな、問いが次々と浮かんでくるじゃないですか。

 


そうなると、それに対する答えは?と聞きたくなるのが当然の人情というものなんだけど、その明確な答えはステージの上には無かったように思う。

ただそこにあったのは、もはや誰もものかもわからないくらいに入り組んだ欲望も、埋めれば埋めるだけ深まっていく孤独も、全て共に生きる構成要素として抱きしめていこう覚悟と、曽我部恵一演じる「僕」が体現していた、言葉や記憶を介在しない生死を超えた深いコミュニケーションがあるはずだ、という希望だったのではないか。そんな風に思っている。

 


とは言え、この程度の理解でちゃんと観たと言っていいものか、彼らの真意を受け取ることができたのか、心もとない部分も残っている。そしてこの余韻は感動や興奮といったわかりやすいカタルシスとは遠い場所にあるものであることもまた事実だろう。

 


それでも(愛知から弾丸ツアーで)観に行って良かったと心から思えるのは、役者さん一人ひとりの演技がとてもキラキラしていたことか、曽我部恵一の歌声が素晴らしかったことか、劇場全体に漂うポジティブな空気が最高だったとか、理屈をこねくりまわす前に伝わってくる特別なものがあったからだ。

それはまさに、言葉や意味や記憶が介在しない領域で成立する深いコミュニケーションであり、ロロが10年かけて育んできた本質なのだと思う。