ドリーミー刑事のスモーキー事件簿

バナナレコードでバイトしたいサラリーマンが投げるmessage in a bottle

リゾームライブラリーに行ってきました

 f:id:dreamy_policeman:20180902085855j:image

 

我が家からバスに揺られることわずか10分、近所の図書館で開催されるリゾブラへ行ってまいりました。

 


トップバッターはホールでシャムキャッツ

彼らのライブはほとんどちゃんと観たことがないので120%偏見なんだけど、シャムキャッツとは「ほんとは直球で勝負できるけど、あえてゆるい変化球ばっかり投げてくるピッチャー」だと思っていた。しかし、配信で観た今年のフジロックのライブがど直球の素晴らしさで、パソコンの前でちょっと涙ぐんでるしまったんだよ。

そしてこの日もその時と同じ誠実さで、心のキャッチャーミットにビシビシと145kmのストレートを投げ込んでくるライブだった。しょっぱなの『カリフラワー』のキラキラ感、『Travel agency』の夏休み感、そして『AFTER HOURS』の王道感。ああ全曲いい!

「東京で一番のロックバンド、シャムキャッツです」という自己紹介に誇張なし、と思えるライブだった。

 


続いてはスタジオ(小さな方の会場)でAlfread Beach Sandal。最初に観てからもう2年以上経ってしまったけど、今でも日本一歌うまいんじゃねーかこの人って本気で思っています。この日も朴訥とした表情から生み出されるマジックボイスが洞窟のような会場を飲み込んでいくようである。。。もっと聴いていたいと思ったが、夏バテか酸欠か、頭がクラクラしてきたので無念の離脱・休憩。

 


次はホールで個人的ヘッドライナー・GUIROである。彼らのライブをこの音響の下、この椅子に座ってGUIROを観れるとは、なんて贅沢なことでしょう。主催者様に感謝である。


メンバー前回のハポンと同じ(しかしこの1ヶ月で厚海さんを3回観てる…)。

なのでより成熟した、いわば完成形のようなステージを観れるのではないかとワクワクしていたのだが、その予想は半分当たり、半分外れた。

セットリストは前回同様。しかしその演奏は安定に向かうのではなく、それぞれがより高みへ上り、バチバチと火花を散らす緊張感を増していた。特に亀田暁彦によるシンセサイザーの切れ味はほとんど暴力的なまでに鋭さを増していたように思われ、それに呼応するように松石ゲルのドラムがグイグイと攻め上がってくるせめぎ合いが実にスリリングで、座席に座っているのが苦痛になるくらいのグルーヴだった(勝手である)。

やはりGUIROとは絶えず進化を続ける、完成形のない生き物のようなバンドなんだなと思い知った次第。しかし一番圧巻なのは、こんな嵐のような演奏にも関わらず「お盆だねぇ」なんつって泰然としていた高倉一修の胆力であることは言うまでもない。

 

カネコアヤノをチラッと観たあとは、環ROY×蓮沼執太×U-Zhaan。レイハラカミとの『川越ランデブー』の頃から好きだったけど、初めての生U-Zhaan。やっと会えたね…という感慨をよそに淡々とダラダラとステージ上で続くサウンドチェック。そしてそのままなし崩し的に本番へ突入。

この凄腕プロフェッショナル三人、リハと本番、リズムとメロディ、ラップと演劇、本気と冗談、予定と即興…あらゆる境界線をボカしつつ、意表をつきつつ、居合抜きのようなせめぎ合いを続けていく。観ているこちらも爆笑したり息を飲んだりアドレナリンを出したり、まったく気が抜けない。実にすごいものを観た。

それにしても途中で披露された、「蓮沼執太が実はニューヨークに住んでないんじゃないか疑惑」を歌にしたという『ベーグル』、曲調が在NY文化人の代表・坂本龍一の『Ballet Mecanique』にそっくりだったのはシャレが効きすぎているのではないだろうか。

 


その後もスタジオでHomecomingsやGEZAN、ホールで向井秀徳などを観て、どれも素晴らしかったのですが、ここらへんで体力の限界に達したようでメモが残っておりません…。いい加減なこと書いてもアレなんで、ここで筆を置きます。

また来年。

 

 

 

 

スカート澤部vsミツメ川辺!「夏の庭」に行ってきました。

f:id:dreamy_policeman:20180812074307j:image

前回も書きましたが、夏休みの土日はとても忙しい。

だから土曜も日曜も両方ライブ行くなんてムリ!ゼッタイ!!な話なのです。それがたとえ澤部と川辺のゴールデンコンビであっても…。

 

 

ところが。

ライブ当日の朝、携帯を見てみると、届いてるんですよ予約完了メールが!

やだなーこわいなー。

 


というわけでワタシは日曜日もハポンにいましたよ。ええ。

 

 

 

オープニングアクトのてんしんくんがつくりだした絶妙に混沌とした空気の中で登場するのはスカート澤部渡

前に観たのは5月の六本木ヒルズで、その堂々たるポップスターぶりがまぶしかったのだけれども、今日はこんなに近くに!
そういえば音源やラジオのおかげで、すっかり何度も観たことがある気がしてたのですが、何を隠そうスカートの弾き語りライブを観るのは初めて。心臓がバクバクしてしまう。

 


一曲目は『月の器』。

音源は入手できない幻の名曲(再発熱望)。メロディの美しさはもちろんのこと、とにかく澤部氏がかき鳴らすギターの迫力に圧倒されてしまう。今までに感じたことのない凄み。

 
続いての『ストーリー』、『CALL』『回想』と怒涛のキラーチューン攻めには、いつもなら滝のような涙を流すところなんですけど、この日はとにかく圧が!圧が!という感じでもうそれどころじゃなかった。

ひょっとして俺にだけ見えないシマダボーイの霊がどっかにいるんじゃないかってほどの極太グルーブだったんですけど、とにかくギターが常人離れ。ほれぼれするほど縦横無尽にリフを、コードを、カッティングをキメまくる。
どうしてあれだけの名曲を、手癖やパターンを感じさせずに量産できるのか、ずっと不思議に思っていたんですが、こんなに自由に手が動けばそりゃインスピレーションも無限に湧いてくるわね…とすっかりわかったような気になってしまいました(ギターまったく弾けませんが)。

 
スカートを初めて観たのは3年前の同じく8月の名古屋で、あれから何度もライブを観てきたけれど、今日もまた過去最高を更新されてしまった。そんな心地よい打ちのめされ感があるライブでした。あぁでもまだ聴きたい曲がたくさんありすぎたぜ…。

 


さあ満員のハポン、スカートの熱演でいよいよ盛り上がってまいりました

トリで登場するのは、ミツメ川辺素!!!というこちらのテンションとはまったく裏腹に、いつも以上に消え入りそうな声で「こんばんは…」とあいさつする川辺氏。最高である。

おそらく会場にいた全ミツメギャルの皆さんは「スカートがあんなに盛り上げちゃった後で大丈夫かしら素くん…」って心配したと思うんですけど、これがもう本当に素晴らしいライブで。

 


ある時は子供のように無垢でたどたどしく、ある時はぞくっとするほどの色気を発する川辺素のマジックボイスで歌われる、初期の名曲『migirl』から最新シングル『セダン』までのオールタイムなセットリスト。

もういっぱいだと思っていた胸の中が、またひたひたと柔らかいもので充たされていく不思議な感覚。

 
ミツメというのはロックンロールのお約束を次々と無効化し、更新していく、いわば引き算のバンドで、そこがアートとして最高にクールなんだけど、その原型とも言うべき裸の歌には、掛け値無しに美しいメロディーと、まっすぐすぎるくらいの切実さが凝縮されていることに気づく。

 
それは何かを声高に訴えるような類いのものではないけれども、控えめで親切で、それでいて個として生きる現代の若者たちを象徴する普遍性のようにも思われ、実は川辺素という人は、ある世代や時代を代表するソングライターなのではないかという妄想を、本編ラストの『煙突』を聴きながら、潤んだ瞳で膨らませていた。

 
そしてアンコールでは、火星がぐっと近づいてきたこの夏にどうしても聴きたいと思っていた『fly me to the mars』を歌ってくれてなんだかもう感無量。あぁでもまだ聴きたい曲がたくさんありすぎるぜ(本日二度目)。

 


平成最後の夏に、素晴らしい才能を持ったバンドが次々と現れる中、自分がなぜスカートとミツメから目を離せないままなのか、ということを改めて気づかされてくれた夜でした。

 

 

 

ささやかだけど大切なこと 思い出野郎Aチーム『夜のすべて』

 

iphoneのメモ帳をめくっていたら、去年の夏に書いたままアップしていなかった文章が出てきました。

アナログ盤が出たことに便乗して一年遅れで掲載します。。。

 


———————————————————

f:id:dreamy_policeman:20180811232747j:image

 

思い出野郎Aチームの新作。

その名も『夜のすべて』。

 


2017年に聴いた音楽の中で、一番優しくて、一番俺の生活に近いところで鳴っている音楽という気がして、聴けば聴くほど愛しさを感じている。

 

つまらない仕事に追われるいい大人が、友達や彼女と週末のダンスフロアーで踊り、酒を飲み、また踊り、やがて月曜日の朝を迎える、というのがアルバム全体を通じたストーリー。


ふと思い出したのは、世界各地で走る夜のタクシーを舞台にしたジム・ジャームッシュの名作『ナイトオンザプラネット』。

 
それはただ単に、「ある夜に起きたことを記録した短編集」という外形的なことだけじゃなくて、愛とユーモアにあふれた人物の描写や作品全体が保持する体温に、なにか通じるところがあるように思えたのです。

 
 つまり、この『夜のすべて』という作品は、決して夜な夜なクラブに集う洒落た若者のためだけの音楽ではなくて、私のように大都会のクラブなんて縁遠い39歳会社員の心身にも沁みわたる、懐の深いポップミュージックだ、ということです。

 


例えば先行7インチにもなった超名曲『ダンスに間に合う』。
この「ダンス」という言葉を、あなたの大切にしているなにか、例えば子供とか野球とか釣りとかラーメンとか、に置き換えてみる。

 


すると残業とか休日出勤とか幼稚園の送り迎えとかで簡単に失われてしまうそれらの時間を必死に守ろうとしているあなた自身の姿と、その背中を優しく叩いてくれる大きな手が見えてこないだろうか。

そう、誰にでも人生を楽しむ権利はあるんだぜ、と。

 


そしてこのアルバムを特別なものにしているもう一つのポイント。

それは、私たちが大切にしているささやかなものたちを脅かすのは、残業や家事といったパーソナルな事情だけではなく、社会が持つ暴力的側面、例えば差別や戦争、圧政のようなもの、でもあることを指摘しているところだろう。

 


例えば7曲目『Magic Number』のディスコビートに乗せて歌われるこんな言葉たち。

 
「街に微かに暴力の香り」

「ださいレイシスト

「力をなくした歌はブックオフ

「シティポップで行進するファシスト

「役に立たないミュージック 役立たずのミュージック」

 


曲の前半では、あえて波紋を呼びそうな刺激的な単語を用いてまで、不穏な社会と音楽の無力さを残酷なまでに言い募る。

 
しかし、その間もドラムとベースは4つ打ちのビートを刻むことを止めず、ホーンはひるむことなくファンキーなフレーズを鳴らし続ける。

 
そして訪れる大サビの

「小さな魔法 ささやかな希望 僕には必要」

「少しの魔法 かけてくれよ今夜 Magic Number」

という懇願のような、決意表明のようなシャウトに繋がる瞬間。

 
俺はいつもここで、ダンスミュージックの尊さと生命力のようなものを感じて、つい極まってしまうのです。

 

クソみたいなことが9割の人生の中でかすかな光を放つ音楽をブルーズと呼ぶのならば、

この作品こそ2017年に生きる俺たちのそれなんじゃないか、と。

 


以上、ついムキになって語ってしまったけど、とにかく最高のパーティーアルバムですので、聴いてるうちに踊りたくなった方は次回のKENNEDY!!!へ。

ぜひダンス間に合うようお越しください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

溶けそうなサマタイムに東郷清丸を観た話

f:id:dreamy_policeman:20180807190001j:image

8月です。

我が家の小学生たちはサマタイムのバケーション。いわゆる夏休みの真っ最中。

しかし親であるワタシは読書感想文やら自由研究やらプールやらおばあちゃんちの犬の散歩やらの手伝いで超多忙。しかもこの溶けるような暑さである。遊んでる暇も体力もまったくないのである。

 
しかし、東郷清丸が新バンドを率いて名古屋にやって来るとなれば話は別だ。応援に行かない手はないのである。

 
清丸氏が愛知に来るのは今年に入って5回目とのこと。そのうち4回は観ていることになる。ほぼ2ヶ月に一度のハイペースだが、まったく見飽きるということがない。むしろ、その才能が変容していく様を、一瞬たりとも見逃したくないという気持ちが強くなるばかりなのである。

 


ちなみにこの日は、4月のイベントでさんざん遊んでもらった子供たちも「清丸さん見たーい」と言うので無謀にもK.Dハポンへ家族全員で押しかけてしまった(すみません)。

 


この日も、おなじみ『サンキスト』の弾き語りでスタート。しかしその艶やかな歌声が、より広く遠くまで届く力強さを増したように感じる。フジロックをはじめとした大舞台を踏みまくった経験のあらわれだろうか。

 

続く『ロードムービー』からは、ベースに厚海義朗、ドラムに河合宏和を迎えた新編成で。

まるで闇夜を切り裂くような斬れ味が衝撃的だったあだち麗三郎/池上かなえ期のサウンドは、厚海氏のキラーフレーズぶち込みまくりの音数の多いベース、あるいは河合氏の柔らかくモダンなドラムによって、より粘り気と深みのあるグルーヴを獲得していたように思う。すぐれた楽曲とは演奏者によって新たな命を吹き込まれる生き物であることを痛感させられた。

 
特にこの日は比較的テンポがゆっくりとした曲の演奏が素晴らしく、『劇薬』や『美しいできごと』は、時間の流れ(と、落ち着きのない子供たちがそばにいること)を忘れるような美しさであった。

こんなスケールのデカい、ドラマチックな曲を、去年デビューしたばかりのルーキーが書いてるなんて信じられるかい?

 
中盤では、うたのおにいさんが清丸氏に憑依する「みんなで『よこがおの歌』を歌おうコーナー」も初体験。

さっきまで危険なほどヒリヒリしたロックンロールを鳴らしまくった後での豹変ぶりをやや唐突に感じる人もいるかもしれないけれども、自分の持つ表現の幅や可能性を全て見せつけたい、というのびやかな野心にグッとくる。

 
そう、この東郷清丸の、楽曲はもちろん、アートワーク、物販アイテムから告知用フリーペーパーやMCに至るまで、自分の一挙手一投足のすべてを意味のあるものとしてレペゼンしてやろうという過剰なまでのエネルギー。

それは時に高すぎる技術と鋭すぎるエッジゆえ、とっつきにくい印象を与えることもあるかもしれないけれども、根元にあるのは、自分を見つけてもらいたいというアーティストとしての純粋で素朴な欲求と、ミック・ジャガー矢沢永吉から横山剣曽我部恵一へと脈々と受け継がれるクールでD.I.Yなロックンローラーだけが持つ生存本能だ(と勝手に思っている)。


つまり東郷清丸に注目するということとは、その素晴らしい音楽に心と身体をアップリフトされるということであり、アーティストとしての冒険譚を共有することでもある、と思うのです。こんな風に思わせるアーティストはそうそういないぜ、というのが40年生きてきたワタシの偽りなき実感。

冒頭に書いた、「一瞬たりとも見逃したくない」という気持ちは、きっとここからやってくるのであろう。

 

そんなことを、物販で購入した7インチ『サマタイム』にぶっ飛ばされた頭で考えた次第。

 

めちゃくちゃ暑かったけど、ハポンのアットホームな雰囲気もあいまって、真夏の良い思い出となりました。

(なお、本来のメインアクトであるセバスチャンXのライブは子供たちの腹減ったコールに負けて断念しました。無念…。)

 

f:id:dreamy_policeman:20180807190557j:image

f:id:dreamy_policeman:20180807190634j:image

 

 

真夏の夜の夢 GUIROとSweet Sunshineのライブを観た話。

とても悲しいことがあって、とてもライブを観る気にはなれなかった7月のある夜。

しかし、そうは言っても、なんと言ってもGUIROなのである。一年以上も待ち焦がれたライブなのである。

厳正なる抽選を乗り越えて得た貴重な機会を無駄にするという選択肢はなく、暑さにまかせ私は街へ出た。

 


彼らのライブを観るのはこれで三度目。

一度目は二年前のハポンワンマン。そして二度目は昨年の名古屋クアトロでのceroとのツーマン。

いずれも音楽を聴くと言うよりは、彼らのつくった船で、知らない海を旅するような、特別な体験だったことを覚えている。

 


この日のGUIROは、ボーカル高倉一修、ドラム松石ゲル、ベース厚海義朗、ギター牧野容也に加えてピアノ西尾賢、シンセサイザー亀田暁彦のすべて男性の6人編成。個人的に初めて観る亀田氏はGUIROのオリジナルメンバーとのことだけれども、ARPiPhoneiPadというオリジナリティあふれる機材セットからしてすでに濃厚なGUIRO感がにじみ出ている。

 

 

 

一曲目は『あれかしの歌』。

流麗な倍音をたっぷりと湛えた牧野館長のギターに、少年のような若々しさの中に深すぎる色気を潜ませた高倉氏のボーカルが重なった瞬間に鳥肌が立つ。決して抗うことのできないこの美しさよ。GUIROが始まった…という感慨に襲われる。

 


原曲通りに一番を演奏後、パッと暗転するようなブレイクの後に流れ出すのは、軽やかなサンバのリズム。

なんとそのままジョビン/ジルベルトによるスタンダードナンバー『三月の水』のカバーへ。

そのアイデアはもちろんのこと、ついばむようにポルトガル語の歌詞を歌い、軽やかにステップまで踏む高倉氏のチャーミングぶり、自由なふるまいに驚かされる。

 


そう、この日のGUIROはこれまで観た二回の神々しいほどの緊張感とは異なり、終始とても温かみのある、リラックスした雰囲気をまとっていた。これはハポンという会場の効果か、はたまたSweet Sunshineの前座(高倉氏曰く)という気楽さからくるものか。

 


三曲目の『祝福の歌』は(おそらく)未音源化のベース厚海氏によるボサノバ風ナンバー。どことなく初期ピチカートファイブを彷彿とさせる美しいメロディが印象的だった。

そのアウトロからまたしてもメドレーで突入したのは『山猫』。スタジオ録音の音源からしてポップミュージックの域を超えたスリリングなセッションが印象的な曲だけれども、ライブで体感するそれはもう通常の音楽体験を超えたクライマックス感がある。

この日もピアノの西尾賢と松石ゲルのドラムを中心に、闇夜の中で獣たちが咆哮をあげるような演奏と、その混沌において見事な剣さばきを見せる王子様のような高倉一修のボーカルが相見える様が声も出ないほどのスリリングだった。

 


嵐の後の静けさ、印象派の絵画のような美しさが漂う『いそしぎ』を経て演奏されたのは『エチカ』。

GUIROの中でもっともポピュラリティーのあるメロディとリズムを持つ楽曲だと思うのだけれども、この日はそこに亀田氏が絶妙に差し込んでくるシンセの音によって、この曲の持つファンクネスと同時代性を際立たせていた。GUIROが進化し続ける有機体であることの象徴のように思えた。

 


そして際立つファンクネスと言えば、『ハッシャバイ』を挟んで演奏された『アバウ』も出色だった。

硬質なグルーヴ、熱いボーカル、そしてデュークエイセスのよう男性コーラスは 、私の中にある男性的というかロックンロール的肉体性を刺激してくるものだった。

つまり平たく言うとメチャぶち上がったぜ!ってことなんですけど、GUIROのライブでこんな気持ちになるとは思わなかったよ。

 


ここでGUIROの出番は終了…のはずでしたが、こんな熱演を見せられた私たちが彼らをそのまま帰すはずもない。

アンコールを求める拍手に応えて披露されたのは『東天紅』。

濃厚な旅から戻ってきた私たちを包みこむような、優しく気品のあるピアノ。そしてまっすぐで安心感のある高倉氏の歌声に、私の心深くに沈む悲しみにも、やわらかい光があたるような気持ちがした。

 


まるで夏の夜の夢のようなGUIROのライブはこれにて終了。ああ次に観れるのはいつかしら…といつもなら思うところなんですが、今回はもう決まっているのですよ。

しかもなんと来月、おらが住む街・岡崎で。コイツは熱い夏になりそうだ…。

 

 

 

あ、あとMCで高倉氏が厚海義朗氏がサポートすることになった東郷清丸について「すごくかっこいい、ライブ必見じゃないですか?」とおっしゃっていたことも付記しておきます。

 

 

 

GUIROに続いて登場したのは磯たか子率いるSweet Sunshine。

名古屋の音楽シーンというのは、よそから来た私のような者から見ると、流行や既成のジャンルにもとらわれない個性的なミュージシャンが多い一方で、個性的すぎてなかなかとっつきにくいアーティストも多いという印象がある。

しかし初めて観るSweet Sunshineはそうした閉鎖感とは一切無縁の、とても開かれた、メロディやリズムをオーディエンスと共有する喜びにあふれたバンドだった。

 


彼らの音楽性を一言で表すならば、シュガーベイブ直系のシティポップということになるのかもしれないけど、単なるカテゴライズで片付けてしまうわけにはいかないリアリティ、血の通った真心のようなものを一曲ずつから感じた。

そして驚くべきは磯たか子の包容力ある歌を時にがっちりと支え、時に洒脱に彩っていく鉄壁の演奏。ビビりました。

 

 

 

 

 

 

-お知らせ-

 来たる7/28(土)18:00~いつものカゼノイチでDJパーティーKENNEDY!!!を開催します。いつもはチャージフリーでやってるこのパーティーですが、今回は全額を西日本豪雨災害の被災者支援に寄付するため1000円(1ドリンク付き)を頂きます。皆様の最高の夏をより完璧にしちゃう私が選曲したミックスCDもお付けしますので、ぜひ遊びに来てください!

 

 

 

 

禁断の果実か、王道の名作か。広瀬愛菜『午後の時間割り』

f:id:dreamy_policeman:20180630145444j:image

 

二人の強い姉に囲まれて育ったトラウマのせいか、生まれてから一度も女性アイドルを好きになったことがない。写真集もレコードもライブ経験もゼロ。

 
「〇〇ちゃんが好き」と会ったこともない人に、好意や幻想を抱く動機がどうにもよくわからないのである。


もちろん女性アーティストのレコードは何枚も持っているし、好きな女優さんもいないわけではないけれども、それはその人がつくる音楽なり演技が好きなわけであって、その人の存在そのものが好き、という感覚とはやはり違う気がする。

 
とは言え、近年ではアイドルに楽曲提供をすることが、優れたミュージシャンの証しとも言える状況なわけで、ポップミュージックを理解する上では重要不可欠なものであることはわかっているし聴いてもみるのだけれども、「どっちかって言うと(歌のうまい)アーティスト本人に歌ってほしいなぁ」と思うことがほとんどで、音源の購入に至ったことはなかった。

 
そんな私なのでこの広瀬愛菜のデビュー作『午後の時間割り』を耳にした動機はプロデュースを担当した関美彦の仕事をチェックしておかなければという気持ちからだけであり(CDではなくストリーミングだったし)、きっと聴いた後には「これもいいけど、やっぱり関さんの新譜が聴きたいのう、嗚呼…」という気持ちに駆られることになると思い込んでいた。

 

しかし一曲目の『ペーパームーン』の冒頭から、丁寧に扉をノックするようなベース、素朴でいて果てしない気品を感じさせるドラム、ギター、ピアノが耳に入った瞬間、これはもしかして普通の音楽ではないのでは…という予感が脳裏をよぎる。楽曲と演奏のクオリティ、そしてそこにあくまでも自然に入り込んでくるボーカル。この組み合わせが魔法がかっているように思えたのだ。

 
二曲目は曽我部恵一ソロ初期の代表曲『おとなになんかならないで』。タイトルの通り、曽我部恵一が生まれたばかりの愛娘を思って書いたメロウナンバーである。曽我部マニアの私としては必聴である。

ただそれをまだ15歳の子どもである広瀬愛菜に歌わせるという構図にはなんとなくノボコフ的な倒錯の気配を感じ、二人の娘の父親としては最大級のガードを固めて聴かざるを得ないのも事実。

しかし、メルティーなカスタードクリームのように甘く柔らかいエレピに乗る広瀬愛菜の歌は、「歌わされる」というぎこちなさとは一切無縁で、全てを知っているような、なにも知らないような、おそらくは人生でこの瞬間にしか出せない歌声で新たな命をこの名曲に吹き込んでいた。

ゲンズブールバーキン型(あるいは秋元・AKB型)の先入観に凝り固まっていた自分の不明を恥じたわけだけど、もちろんこれが相当際どいボールであることは間違いない。「愛と性と死の濃厚な香り」という関美彦作品最大の魅力もまた、この海の底深くに埋められていますからね…。

 

そしてこの曲に関するトピックとして見逃せないのが、スカート澤部渡の口笛での参加。続く『いきすぎた友達』が柴田聡子の絶妙なカバーであることも含め、この作品がテン年代のインディーシーンに深くコミットした、つまりいま聴かれるべき同時代性を持った作品であることがよくわかる。

 

90年代サバイバー関美彦と曽我部恵一、10年代の代表選手であるスカートと柴田聡子、そして20年代に成人になる広瀬愛菜スクランブル交差点ですれ違った直後に訪れるクライマックスが、83年の原田知世の大ヒット作『時をかける少女』(作詞作曲・松任谷由実)なのだから、関美彦がこのミニアルバムで成し遂げようとしたものと広瀬愛菜というシンガーの才能の大きさがわかるというもの。圧巻である。

 

というわけで、当初の予想は大きくはずれ、私が生まれて初めて買ったアイドルのCDは広瀬愛菜ということになりました。

もちろん最終曲の『さようなら、こんにちは』の黄金メロディーを聴けば、やっぱり関美彦の新譜も聴きたいぜという気持ちは予想どおりめちゃめちゃ高まってますけどね。

 

民謡クルセイダーズを観てきたよ。ヤァ!ヤァ!ヤァ!

f:id:dreamy_policeman:20180613214926j:image

先日、仕事で東京の西の端まで行く機会があった。

東京駅から中央線に揺られて立川で乗り換えると、車窓からの景色はさっきまで視界を覆っていた摩天楼のことなんてすっかり忘れてしまったようにように、ぐんぐんと緑の割合を増していく。

果たして俺はちゃんと目的地まで着くことができるだろうか…と心細さを感じながら路線図に目をやると、この電車の向かう先には牛浜福生があることに気づいた。そう、VIDEOTAPEMUSIC 『ON THE AIR』の舞台と言ってもいい土地である。

そうかーここかーと、ひとり密かに盛り上がっていると、すでに電車は降りるべき駅を通り過ぎており、慌てて降りた名も知らぬ駅からタクシーで取引先に向かうはめになり、後で上司にこっぴどく叱られた。

 


それから数日経ち、その福生からやってきた民謡クルセイダーズのライブを観ることができた。その音楽をとても大雑把に説明すると、その名の通り日本の民謡とラテン、カリブ、レゲエといった異国のダンスミュージックをガツンとマッシュアップしたようなバンドである。

 


私は非常に音楽の趣味がコンサバティブかつリズム感に欠けた人間なので、西洋音階から外れたメロディや二拍四拍にアクセントが来ないリズムには上手く対応することができない。おまけに小さい頃から盆踊りなんてまっぴらこめんと思うような恥ずかしがり屋さんだ。

よって彼らの音楽性は私の嗜好からは最も遠いもののはずなのに、去年の終わりに初めて耳にした時から、心と身体のかなり深い部分からごっそり持ち上げられる感覚があった。この謎めいた音楽を鳴らすバンドの正体は絶対にライブで確認せねば…と心に決めていたのだ。

 

いよいよその念願かなってKDハポンで対面した民クル。満員のフロアでなんとか数えたメンバーは総勢10名(たぶん)。みんないい感じにバラバラな佇まいである。そしてお揃いのデニムっぽい生地のハッピには、いなたい盆踊り感と洒脱な洋物感が絶妙に同居しており、民クルの魅力が凝縮されているように思った。

 
一曲目は『ホーハイ節』(たぶん)。青森県の民謡とアフロビートを合体させてしまった楽曲である。

チープでドープなツボを刺激するアナログシンセと呪術的なお囃子、そしてフレディ岡本の惚れ惚れするほど朗々とした歌声とディアンジエロもかくやと言うほど揺れまくるビートが一体となって押し寄せ、一切の地理感覚、時代感覚を奪い去っていく。

どこの村のものでもない、ただただ巨大で純然たる祝祭の高揚感。

 


90年代のいわゆるワールドミュージックブームの空虚さをなんとなく覚えている者として、私は社会や共同体への反発や軋轢を表現する西洋の現代音楽と、逆に共同体への帰属と愛着を再確認する民謡の土着的なリズムが、一つの音楽の中に心地よく共存することは不可能だと思い込んでいた。

しかし民クルは、その高いハードルを易々と飛び越えて、唯一無比のダンスミュージックを作り出していた。
なぜ彼らだけがそんなことができるのか。

その理由はおそらく、西洋と東洋、南半球と北半球、どちらの音楽も等しく愛して、等しく咀嚼して、完全に血肉化してるからなんだろう。

 

しかしこれは生半可なセンス、技術では到底できないことである。この「等しさ」のバランスが崩れた瞬間に、無残な結果になることは明らかだからだ。

 

おぉなんて恐ろしいミュージシャンなんだ、とガクブルしながらリーダーの田中克海氏に目をやると、殺気や才気といった単語とは一切無縁のとにかく気のいい兄ちゃん的な雰囲気だけを漂わせており、つくづく不思議な人たちだと思った。

 


そして不思議なと言えばもう一つ。

こうした卓越したアイデア、咀嚼力と表現力を持ったミュージシャンが、かの大瀧詠一がナイアガラレーベルの本拠地を構えた福生という土地から出てきたというのは、果たして単なる偶然なのだろうか。いやきっと違う。私に電車の乗り換えをしくじらせたものと同じ魔力が、きっとあの土地にはあるのだ。