先日、仕事で東京の西の端まで行く機会があった。
東京駅から中央線に揺られて立川で乗り換えると、車窓からの景色はさっきまで視界を覆っていた摩天楼のことなんてすっかり忘れてしまったようにように、ぐんぐんと緑の割合を増していく。
果たして俺はちゃんと目的地まで着くことができるだろうか…と心細さを感じながら路線図に目をやると、この電車の向かう先には牛浜や福生があることに気づいた。そう、VIDEOTAPEMUSIC 『ON THE AIR』の舞台と言ってもいい土地である。
そうかーここかーと、ひとり密かに盛り上がっていると、すでに電車は降りるべき駅を通り過ぎており、慌てて降りた名も知らぬ駅からタクシーで取引先に向かうはめになり、後で上司にこっぴどく叱られた。
それから数日経ち、その福生からやってきた民謡クルセイダーズのライブを観ることができた。その音楽をとても大雑把に説明すると、その名の通り日本の民謡とラテン、カリブ、レゲエといった異国のダンスミュージックをガツンとマッシュアップしたようなバンドである。
私は非常に音楽の趣味がコンサバティブかつリズム感に欠けた人間なので、西洋音階から外れたメロディや二拍四拍にアクセントが来ないリズムには上手く対応することができない。おまけに小さい頃から盆踊りなんてまっぴらこめんと思うような恥ずかしがり屋さんだ。
よって彼らの音楽性は私の嗜好からは最も遠いもののはずなのに、去年の終わりに初めて耳にした時から、心と身体のかなり深い部分からごっそり持ち上げられる感覚があった。この謎めいた音楽を鳴らすバンドの正体は絶対にライブで確認せねば…と心に決めていたのだ。
いよいよその念願かなってKDハポンで対面した民クル。満員のフロアでなんとか数えたメンバーは総勢10名(たぶん)。みんないい感じにバラバラな佇まいである。そしてお揃いのデニムっぽい生地のハッピには、いなたい盆踊り感と洒脱な洋物感が絶妙に同居しており、民クルの魅力が凝縮されているように思った。
一曲目は『ホーハイ節』(たぶん)。青森県の民謡とアフロビートを合体させてしまった楽曲である。
チープでドープなツボを刺激するアナログシンセと呪術的なお囃子、そしてフレディ岡本の惚れ惚れするほど朗々とした歌声とディアンジエロもかくやと言うほど揺れまくるビートが一体となって押し寄せ、一切の地理感覚、時代感覚を奪い去っていく。
どこの村のものでもない、ただただ巨大で純然たる祝祭の高揚感。
90年代のいわゆるワールドミュージックブームの空虚さをなんとなく覚えている者として、私は社会や共同体への反発や軋轢を表現する西洋の現代音楽と、逆に共同体への帰属と愛着を再確認する民謡の土着的なリズムが、一つの音楽の中に心地よく共存することは不可能だと思い込んでいた。
しかし民クルは、その高いハードルを易々と飛び越えて、唯一無比のダンスミュージックを作り出していた。
なぜ彼らだけがそんなことができるのか。
その理由はおそらく、西洋と東洋、南半球と北半球、どちらの音楽も等しく愛して、等しく咀嚼して、完全に血肉化してるからなんだろう。
しかしこれは生半可なセンス、技術では到底できないことである。この「等しさ」のバランスが崩れた瞬間に、無残な結果になることは明らかだからだ。
おぉなんて恐ろしいミュージシャンなんだ、とガクブルしながらリーダーの田中克海氏に目をやると、殺気や才気といった単語とは一切無縁のとにかく気のいい兄ちゃん的な雰囲気だけを漂わせており、つくづく不思議な人たちだと思った。
そして不思議なと言えばもう一つ。
こうした卓越したアイデア、咀嚼力と表現力を持ったミュージシャンが、かの大瀧詠一がナイアガラレーベルの本拠地を構えた福生という土地から出てきたというのは、果たして単なる偶然なのだろうか。いやきっと違う。私に電車の乗り換えをしくじらせたものと同じ魔力が、きっとあの土地にはあるのだ。