ドリーミー刑事のスモーキー事件簿

バナナレコードでバイトしたいサラリーマンが投げるmessage in a bottle

植本一子『台風一過』を読んだ

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ようやく夏が去ってくれそうな気配が感じられた日曜日の夕方、家族で名古屋へ。ON READING で濱田紘輔さんの写真を受け取る。ちょうど3ヶ月ほど前、家族四人でわちゃわちゃ言いながら選んだ一枚。アメリカ西海岸を旅しながら、コインランドリーの風景を切り取った写真集「THE LAUNDRIES」に収められた1枚。めちゃくちゃファッション性が高いとか尖ったコンセプトとかいうわけじゃないけど、品良いセンスがあって、まっすぐで優しくて、何より瑞々しい。この感じ、リ・ファンデ(ex.Lee & Small Mountains)の歌に通じるものがあるよねというのが我が家の一致した見解。とりわけ私は20歳の頃、1カ月だけサンディエゴにホームステイをしていたことがあり、この空気感には、ちょっとした愛着のようなものがある。

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ON READINGでは佐久間裕美子の『ピンヒールははかない』と、まだ手に入れていなかった植本一子『台風一過』を購入。植本一子の本はここで買うというのがマイルール。個展を初めて見たのがここだからという理由もあるけど、彼女の著作にはいつもこのお店が登場するので、読んでいる時に感じる臨場感が違うのだ(しかし今回はそのリアリティがこれまでとは段違いだった。ネタバレになるから書かないけど)。
それにしてもこの一年くらい女性作家の書いた本しか読んでいない気がする。夏休みに読んだ本もミランダ・ジュライ『最初の悪い男』だった。社会の変化や諸々の問題に対する当事者性が、私のようなぼんやり生きている旧来型男性に比べてずっと高い作家が多いからだと思っている。
さてその『台風一過』だけど、当然のように衝撃的な紆余曲折をはらんでいるのだが、結論としてはものすごくいい本だった、とストレートに言い切ってしまいたい。夫を亡くしてからの激動の日々を描いた本に対する感想としては不似合いかもしれないけど、彼女の著作の中で最も、いや初めて、最後まで心穏やかに読めた作品のように思う。
その理由を説明するには、前作『降伏の記録』まで遡る必要があるかもしれない。あの本の最終章、そこだけ紙の色を変えて書かれたエッセイは、読者の顔色をも変えてしまうほど鋭い刃を、自分の人生と夫であるECDに突き立てるようなものだった。末期がんで死を間近にした夫に向けて、これまでの関係性を根元から覆すようなことを書くなんてと眉をひそめる人がいるのも不思議ではない。ただ、私はあの文章は、彼女がECDの喪失を受容し立ち直るための、いわゆる「喪の仕事」のプロセスの一端なのではないかと思っていた。もちろんあの時点でECDは存命していたわけだけれども、死の影は日に日に色濃くなっていたことは否めないだろう。いずれにせよ、もしあの文章をECDが読んでいたとしても、腹を立てるとか落胆するとか、そういうことにはならなかったのではないかと思っている。むしろ年の離れた妻の、自分という傘を飛び出して生きようという覚悟を垣間見て安心すらしたのではないかという気がしていた。その達観こそが彼女を追い詰めた一因なのかもしれないということは承知の上でもなお、もし俺だったらそう感じるだろうなと思ってしまう。もちろん実際は、その時になってみないとわからないことではあるのだけれども。

そんな勝手な先入観もあり、『台風一過』の文章には、嵐が過ぎ去った朝のような柔らかい光を感じる。例えば2月11日の日記に、一子さんとお嬢さんたちが公園で父・ECDのことを思い返すシーンがある。

 

「お父さん、意外と優しかったよね、ジュース買ってくれたし」
「そうそう」(略)
「うつわがおおきい」
「器が大きい…」と私も繰り返す。そうだね、器は大きかったね。

 

このくだりを読むたびに、私は泣けて泣けてしかたがない。悲しいからという理由だけではない。もしも残された人たちがこんな風に自分のことを思い出して、不在を受け入れてくれるのなら、もう思い残すことはないんじゃないか、と胸がいっぱいになってしまうのだ。特に日頃から「本当にお前はうつわが小さい。おちょこの反対側のくぼみくらいの大きさしかない」と妻と娘たちから非難され続けている私にとっては、このやりとりは他人事とは思えない。私の死んだ後、彼女たちが「あの人、うつわが小さかったよね」「うん、小さかったね」と笑い合っている姿がありありと想像され、こんな感じでまた自分たちの人生を歩んでいってもらいたいなと願わずにはいられなかったし、死ぬことが、生きることが、少しだけ怖くなった。

 

植本一子の本は、自分がどの立場で彼女の人生をのぞき込むのか、どのような心持ちで彼女の心中と向き合えばいいのかという、読者としてのスタンスの取り方が難しいと思うのだが(彼女の著作を受け入れられない人が多い理由も結局はここに帰結するような気がする)、このシーン以降、私の目線は完全に「あの世にいる夫」というところに定まった。するとこの後に続く、いわゆる一般論で言えば衝撃的な展開も、すべては彼女が彼女の人生を歩む上で必要あるいは自然な選択肢として理解し、受け入れることができる。生まれたからには避けることはできない、絶対的な理不尽である死というものに直面した彼女が、生をより輝かせる選択をすることは、とても自然なことのように思えるからだ。人間が大きな悲しみと絶望からいかにして再生していくのかということを、身をもって示してくれる作品だと思う。