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映画「ハッピーアワー」体験記

濱口竜介監督「ハッピーアワー」を名古屋シネマスコーレで観た。観たというよりは体験したという方がいいだろう。映画ではなく、どこかにある現実を。


上映時間は5時間17分。休憩を入れると約6時間。もちろん自分史上最長の映画。堪え性のない私が果たしてこんな長い時間じっとしていることができるだろうか。そんな不安は序盤からいきなりその大きさを増す。画面の中の四人の俳優の動きはぎこちなく不自然で、とても長い時間の鑑賞に耐えられるようには思えない。そして会話から予想される30代後半の四人の女性(全員既婚歴あり)の人間関係というストーリーもいかにもドラマ的な既視感があるように感じてしまう。本当に5時間も身を任せて大丈夫なんですか濱口監督…と彼女たちが訪れた山頂の景色のように心の中を濃い雲が覆う。そしてその不安は楽しいのか楽しくないのかよく分からないワークショップと明らかに楽しくないその打ち上げのシーンにおいて、ずっしりとした質量をもったいたたまれなさへと変容する。その胡散臭いワークショップはなに?なぜそんなつまらなさそうな打ち上げに行くの?と言いたくなる気持ちに駆られるのだ。

今思えば、こうしたある種の当事者意識を持ってしまったこの時点で完全に濱口竜介の術中にはまっていたということなのだろう。芝居のぎこちなさを不器用な人間性あふれる台詞や定石から外れた生々しいカメラワークを重ね合わせることで映画と現実の境目がぼやけさせる。その結果、私もこの世界の一員として巻き込まれ、彼女たちと同じように現実の中で迷子になっていくのである。

そうなるともはやスリル、ロマンス、アドベンチャーといった、映画としてのアトラクティブな要素はもうどうでも良くなってしまう。面白いか面白くないか、見たいか見たくないかではない。ただ見届けなければならないのである、この人間関係の成り行きを。それがどんなにいたたまれなくて、どんなに凡庸で、どんなに残酷なものだったとしても。

 

観客をスクリーンの向こう側に深く誘い、没入させてしまう手法は「ドライブ・マイ・カー」と同様だが、あの作品においては演出家とその妻、俳優や運転手など、登場人物のキャラクターが明確かつ固定されていた。一方、誰でもない誰かを描いた「ハッピーアワー」では、それぞれのパーソナリティーを根本の部分から観客と共有するために、何気ない日常生活のシーンや、人間の素が出るワークショップを経ていく必要があったのだろう。2時間という上映時間の差には、この没入までのプロセスにどれだけ手間をかけたか、という違いがあるように思う。

 

そして映画を見終えて印象に残っているのは、冒頭に大いなる違和感と不安を覚えた演技経験がない四人の主人公をはじめとする俳優たちの演技が、映画の進行と共にどんどん輝きを増していったことである。もはや演技という言葉を使うことためらうほどに、演者本人とそれぞれに割り当てられた役の人格がピタッと重なっていき、当初の違和感は完全に消え去っていた。映画の撮影がどのような順序で行われたのかは分からないが、もしシーンの順番通りの撮影だったとしたら、この作品は役柄が俳優に乗り移っていく過程を記録したドキュメンタリー、あるいは彼女/彼らの成長譚でもあったのかもしれない。またもし、これらが進行とは関係なく、ランダムに撮られたとしたならば、時間の経過に合わせて焦点を徐々に合わせていく演出と編集がなされてるということであり、それはそれで驚嘆するしかない。

ちなみに私が好きなシーンは、有馬温泉から帰るバスの中で、潤が見知らぬ若い女性の身の上話を聞くシーン。心の奥底に不安を抱えながらも、何気ない会話によってもたらされる不意の心地よさがなんとも愛しく、いつまでも観ていたいと思わせるものだった。そして演技と現実の狭間を絶えず行き来するこの映画の特徴が最も穏やかな形で現れていたシーンだと感じた。

 

冒頭にも書いた通り、この映画は四人の婚姻歴のある女性の物語である。ということは必然的に、男たちの物語でもあるということだ。しかし年齢や役回りを問わず、今作に登場するすべての男は最低なものとして描かれている、ということもこの作品の特徴だろう。アーティストの鵜飼はサイコパス、潤の夫はストーカー、桜子の夫も息子も無責任に現実から逃避し、フミの夫は救いがたく愚鈍。主要な人物はもちろんのこと、数回しか画面に現れない登場人物の中にも「いい人」は存在しない、と言っていいだろう。同じ男性としてはいやちょっと待ってと言いたくもなるが、それぞれの愚かさの描写があまりにも正確で、しかも私の中にも確実に存在する・した・いずれするかもしれないものばかりなので、この苦しさはぐっと噛み締めるほかない。そういえば「ドライブ・マイ・カー」に批判的な意見の多くは「中年男性が若い女性に救われるという都合の良さが許せない」というものだった。私はその説に同意しないけど(だってあれはみさきが再生するストーリーでもあったわけでしょう…)、「ハッピーアワー」における辛辣な描写と照らし合わせると「男は滅びろ。優越的地位にいるおっさんは絶対に滅びろ」という、全方位的な圧を感じずにはいられない。毎日のように性差や社会的地位を背景にしたおっさんによる愚行が報道される現代においてはごもっともである。しかし正直に告白すれば、私を含む世の中の中年男性に取って自らの優越性を認めるのは意外と難しい。40代半ばまで歳を重ねて分かったのだが、精神的な自分の老いにはなかなか気がつかないのである。外型的には老いているのに気持ちが歳をとらないまま、若い頃には許された言動をとってしまうことはままあるだろう(犯罪は論外としても)。そして社会的地位がちょっと上がったところで、上にも下にも気を遣わなくてはいけない場面は増えていき、果たしてこんな俺のどこかが偉いんだ?という自己憐憫にすらかられる時もある。しかしこれは自分のことを自分の目線でしか見ていないために陥る罠だ。良き大人でありたいのならば、社会における自分の現在地を俯瞰して、絶えず価値観を更新していく必要があるのだろう。大変だけど。その意味でこの映画の公平さと辛辣さは、これ以上ないほど正確なGPSと言える。そして「ドライブ・マイ・カー」への的はずれな批判の根底にあるものもやはり引き受けなければならないのだろう。俺たちは最低。しかし変わることもできる、かもしれない。

 

改めてこの異形の作品「ハッピーアワー」から6年後の、「ドライブ・マイ・カー」との距離に思いをはせてみる。洗練という点において両者には決定的な違いがあるが、鑑賞という言葉に収まらない体験をもたらすという意味では、両者は完全に地続きの関係にある。「ドライブ・マイ・カー」がアカデミー賞にノミネートされてもっとも嬉しかったことは、注目、評価されることでこの体験を共有する人が世界中で増えるということだった。そしてその思いは、より実験的で原器的、そして拘束時間というハードルが高い「ハッピーアワー」の方が当然強い。もしチャンスがあればこの行き先の分からないバスに飛び乗ってみることを、ぜひおすすめしたい。

 

しかし最後に、音楽好きとしてどうしても気になったことをひとつだけ書いておきたい。それは劇中に登場するクラブの描写がどうしてあんなに実際のそれとは違ってしまうのか、という点である。いかにもクラブに行ったことのない人が想像する「危険な若者が集まるといかがわしい場所」という感じだし、そこで起こったエピソードもこの映画の中で唯一、現実離れしていた。つまりここだけとてもダサくて嘘くさいのである。これはこの映画に限ったことじゃないのだけど、きちんと舞台を描けないのなら無理して登場させるべきではないし(普通のバーでも十分だったと思う)、登場させるのならば「24アワーパーティーピープル」や「ノーザンソウル」までとは言わないけど、音楽や店の雰囲気、客の佇まいまで正確に描写してほしい。この「日本映画に出てくるクラブがダサすぎる問題」の早期解決、今後も断固として要求し続けていきたい。