ドリーミー刑事のスモーキー事件簿

バナナレコードでバイトしたいサラリーマンが投げるmessage in a bottle

存在しないはずの最高傑作。 サニーデイサービス『DANCE TO YOU』

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ジャケットを飾る永井博のイラストさながらの8月の眩しすぎる日差しの中、サニーデイサービスの新作「Dance to you」を聴きながら、時計の針を2000年12月14日に戻してみる。

あの冬の日、新宿リキッドルームでの解散ライブを見届けた22歳のドリーミー青年に、「涙を拭けよ。この続きは、16年後の夏にやってくるから」と教えてやったら、彼は一体どんな顔をするだろう。
ついそんなことを考えてしまうほど、このアルバムは訪れることのなかった2001年の夏に発表されるはずの、「失われた最高傑作」なのではないかという気がして仕方がない。
 
98年から00年にかけて発表された解散前の3作品(『24時』、『MUGEN』、『LOVE ALBUM』)。
あの三作三様のベクトルにおいて体現された、ギラリとしたロックンロールの狂おしさ、シティポップの瑞々しさ、ダンスミュージックのキラキラしたはかなさ。
二度と戻らないはずの、あの魔法の続きが、ここには確かに存在する。
 
例えば、M7「セツナ」の性急で美しいメロディには、『24時』に収録された「さよなら!街の恋人たち」の胸をかきむしりたくなる焦燥感を思い出さずにはいられないし、M2「冒険」の文字どおり大胆なAORへの接近は、「真夜中のころ・二人の恋」、「Let's make love」でのジャンルを超えた跳躍を彷彿とさせ、M8「桜 super love」のバレアリックなビートは「夜のメロディ」「魔法」の生まれ変わりのようである。
この遠い過去と今をつなぎ合わせてしまう、あり得ないほどの躍動感。
これまで数えきれないほどのバンドが、「かつての自分たち」とのギャップに苦しみ、幕を下ろしてきたことを知る大人ならば、そのことがいかに奇跡的なことであるかはよく分かるはず。
 
そして結果的に、このアルバムはシャムキャッツやスカート、Yogee new wavesといった、サニーデイをリスペクトする若きアーティストと共に聴かれるべき同時代性と新鮮さを備えているわけだけれども、そもそも曽我部恵一がこうした作品を作り上げる動機が、彼ら東京インディーに代表されるシーンからの刺激だったとしたら、最高に素敵じゃないか。
 
 
今思えば、サニーデイ再結成後に発表された『本日は晴天なり』『Sunny』の2枚は、「あの三人」が再び一緒に演奏してくれることを純粋に喜び、バンドとファンそれぞれの人生の重みを分かち合うような、心の奥深くで愛すべき作品だった。
しかし、そうしたシンプルな3ピースバンドとしてのサニーデイは、ライブ盤『The Birth of Kiss』においてピークに達していたのかもしれない。
そのピークという名のどんづまりに、立ち止まることも安住することもなく、まったく違うアプローチから、難産の末に最高のポップミュージックを作り上げた、曽我部恵一のアーティストとしての規格外の才能と執念たるや(彼が一人で弾いた膨大なギターのフレーズ!)。
 
と言いつつも一方で、長年サニーデイを愛してきた者として、このアルバムを「最高傑作」と手放しで迎え入れることには、ためらいがあったのも事実。
サニーデイサービスという「あの三人が揃って演奏してこそ」というバンドにおいて、丸山晴茂という唯一無二のドラマーの不在は、サニーデイサービスの存在理由そのものに関わる問題だから。
 
しかし、そのためらいや不安は、アルバムを一回通して聴いたところで消え去った。
サポートメンバーを入れることなく曽我部恵一が自ら担当したドラムは、楽曲全体の完成度とは対照的に、まるで丸山君が叩いているかのようなシンプルさ。
丸山君に、いつでも戻ってきていいよと呼びかけているような愛を感じたし、何よりもアルバム終盤に収められた「桜 Super love」の「君がいないことは 君がいることだ」という歌詞。
この意味がわかった瞬間、俺の涙腺は完全に決壊した。
確かに俺も丸山くんのことを考えながら、ドラムばかりを聴いていたから。
「いないのに、いる」
こんなことを感じさせるドラマーは、やっぱり他には存在しないんじゃないか。
 
この『DANCE TO YOU』というアルバムは、近年のサニーデイサービスのディスコグラフィとは明らかに一線を画す、聴く人や場所、時代を選ばない音楽的な強度をもったポップアルバムである。
しかし、サニーデイサービスをただのバンド以上の存在として、彼らのつくる音楽をただの音楽以上のものとして向き合ってきたパンチドランクな人間には、もう一段深い感慨をもたらしてくれる奇跡のようなアルバムであるということは、声を思いっきり大にして言っておきたいのです。
 
 
 
 

宇壽山貴久子・西村ツチカ「Left to Right, Right to Left」展に行ってきた話

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SHIBUYA PUBLISHING & BOOKSELLERS にて、宇壽山貴久子と西村ツチカによる「Left to Right, Right to Left」を見てきました。

宇壽山さんが暮らしていたニューヨークの地下鉄の乗客を撮った写真「Subway」シリーズと、その写真をもとに西村ツチカさんが描いた絵を同時に展示。

「同時に展示」とサラッと書いてしまったけれども、現実の光景を切り取った宇壽山さんの目線と、そこから跳躍する西村氏の創造力が、行き交い、対峙するギャラリースペースには、どこか引き締まった空気も。


「暮らしの手帖」で連載中の「ワンピースの女」にも感じることなのだけれども、宇壽山さんが撮るポートレートは、被写体が誰であっても、その人が持つ高貴さのようなものが引き出されているように感じる。

今回の被写体も、撮影されていることを意識していない(であろう)地下鉄の乗客であるにも関わらず、まるで映画のワンシーンのような、深みのある表情を捉えられている。

写真を通じてそうした瞬間を目の当たりにすることで、地下鉄にたまたま乗り合わせた名前も知らない誰かも、それぞれの人生の主人公であるという、当たり前の事実に改めて気づかされる。

一方で、それぞれの事情が最も慌ただしく交錯する地下鉄というタフな空間において、そのささやかな事実に、どれだけの敬意が払われているのか、ということに思いを馳せると、一抹の切なさもよぎるわけで。

そんなそれぞれの小さな、数え切れない事情を飲み込んで走り続ける地下鉄にこそ、都市の営みというものが象徴されているのかもしれない。


そして宇壽山さんの写真をもとに描かれた西村ツチカさんの絵。

ニューヨークで暮らす人々の輪郭を、柔らかな憂いと都会性を感じさせるタッチで描いた上で、人物たちの表情(目鼻)が、意外性のある漫画的な線で書き込まれている。

この洗練された色彩と、ローファイで親近感のある線の大胆な組み合わせ。それによって生まれる奥行と重層感がちょっとクラッとするほど新鮮。

特に単純化された線で描かれた、優しげで少し気弱にも見える人物たちの表情は、容姿や属性に関わらず、すべての人が抱える普遍的な心細さを浮かび上がらせているようで、(西村氏がメンバーの)トーベヤンソンニューヨークの世界にも通じる、心の機微に対する繊細なまなざしがあるように感じるのです。
勝手な思い込みかもしれないけれども。


小さなスペースでの展示だったけれども、いろいろな感慨を覚えたので、記録しておきたかった次第。




Yogeeとネバヤンの2マンを観に行ったダメな私

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心は若者のつもりでも、忍び寄る年波には勝てないお年頃・38歳のワタシ。
週半ばの深酒によるダメージを負った身体をダラダラと引きずって土曜日のライブハウス・得三へ。

今をときめく若手バンド・Never young beachとYogee new wavesの2マンを観るのだ。

開演前、ドリンクチケットと引き換えたラムの量に怯む不甲斐ない俺を尻目に、角舘健吾率いるYogee new wavesが颯爽と登場。
演奏前からまぶしいエナジーが、ライブハウス中に充満していくのを感じるよ…。

"Like sixteen candles"から演奏がスタート。
のっけからド直球で、こちらのストライクゾーンの真ん中に投げ込んでくる、歌の強さ。

フォークもパンクもヒップホップも食べ尽くしたビートは一見トリッキーだけれども、2010年代に生きる若者が真摯に音楽を咀嚼すればそりゃこうなるだろうという、必然性と王道感。

「Dreamin' boy」のエモさ120%の熱演には、「これからはお前の時代だぜ、健吾!」と叫んでダイブしたい気持ちになりました(気持ちだけ)。


それにしても角舘君の、在りし日の吉川晃司、尾崎豊岡村靖幸を彷彿とさせるギラギラした目を見ると一刻も早く武道館くらいでドカンとかましてほしいと思ってしまいます。


続いては本日のメインアクト・Never young beachの登場。

3月のIMAIKE GO NOWで初めてライブを観て、そのなんとも形容のしがたい、オーディエンスみんなを包み込む大きな波のようなグルーヴに衝撃を受けた。
そして6月に出たセカンドアルバム「fam fam」もギター、ベース、ドラムの音も生々しく、オーこれこれ!と思わず声が出る陽性なロックンロールが最高で。

そんな新作をひっさげてのレコ発ツアー。
今日はもう絶対いい波くるでしょ、とこれまたなみなみと注がれてしまった泡盛を片手に待ち構える。

最初はややゆったりめのスタート。
安部ちゃんがメンバーをいじりながら、マイペースに朗々とてらいなく歌い上げていく。

このネバヤンとyogeeの共通点でもある「大きな歌」とでも言うような、前面に押し出されるフォーキーなメロディ。
欧米との同時代性に重きが置かれる日本のインディーミュージックの最先端ではほとんど見られなかったユニークなものだと思うし、ドリーミー刑事的にはそこにはやはりサニーデイサービスの偉大なる影響力を感じる。

さて、ライブは中盤で披露された名曲「どうでもいいけど」で一気にギアが高まっていく。
跳ねてるのに重い、鉄壁のドラム&ベースに、3本のギターによるウォールオブサウンド。
特に間奏のギターユニゾンの高揚感は、まぁいいから一回ライブを観てみてくれよ、としか言いようがない。

その勢いで「明るい未来」、喉を枯らさんばかりに歌い上げられた「お別れの歌」と一気に駆け抜けてあっという間に本編終了。

アンコールではレッドブルとタイアップするという新曲を披露。
ルースターズもカバーした「Lipstick on your collar(カラーに口紅)」を彷彿とさせる、適度に力が抜けた感じがいいんでないかと。夏なんだし。


そんなわけで、若者たちにエネルギーをもらって無事帰路につきました。



新しいクラシックの誕生 ミツメ"A long day"

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学生時代、テトリスに没頭していた時期がある。

電車やトイレ、部室に教室、起きている時間のほとんどを費やしたあげく、くそ暑いテントの中で自己最高得点を記録したことは、決して誰とも共有できないフジロックのいい思い出。


ミツメの新作"A long day"を聴いて、最初に感じたのは、このテトリスの四つの正方形から成るブロックを回転させながら隙間なく並べていく感覚。

ギター、ベース、ドラムから鳴らされるフレーズが、微妙に形を変化させ、複雑に絡み合いながら、4拍に1回、ピッタリはまっていく感覚が身もだえしそうに気持ちいい。

そしてそのどこか幾何学的なフレーズは、ポストロック、インディーギター、ニューウェーブ、ファンク、多様なジャンルを参照しつつも、それらが持っていた匂いや温度といった固有性はバッサリと削ぎ落とされ、ピカピカの高機能素材として再生産されたような切れ味。

この大胆なやり口には、ミツメの批評性の高さとともに、ある種の暴力性のようなものすら感じてしまう。

その上さらに危険なのは、そのストイックな構造を保ちつつも、ポップソングとしての機能も今までよりも格段に高めているところ。
オープニングを飾る"あこがれ"、"天気予報"なんてJ-waveあたりで堂々とパワープレイされちゃうんじゃないかっていうヌケ感、名曲感がある。

しかしその広く開かれた入口から、心地よいビートに乗っかってしまえばズブズブの深みに。
タイトルも象徴的な"漂う船"にさしかかる頃には、瞳孔が拡がったまま、はるか沖の彼方まで流されている自分に気づく。

この聴き手が音の世界に取り込まれていくような感覚には、やはりテトリス的な中毒性があるとも言えるし、個人の意思に関係なく「大きななにか」に心と身体が吸い寄せられる様は、現実社会におけるメタファーのようにも思えてしまう。


と、わかったようなことを書いてみたものの、リリースから1ヶ月、何度聴いても未だにその全貌が掴めていない、というのが正直なところ。

ただ現時点で確信を持って言えることは、このジャンルレスでタイムレスな傑作は、向こう数十年間はポップミュージックの大海を漂い、何度でも最先端の音楽として再発見されていくであろうということ。

なので、せっかく10年代を生きながらえている者の特権として、この謎をじっくり楽しんでいこうと思います。


スカートVS曽我部恵一!世紀のタイトルマッチを観た話。

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スカートと曽我部恵一の共演。

それは私にとって、モハメド・アリVSアントニオ猪木戦にも匹敵するビッグイベントと言っても過言ではない。

と同時に、このシンガーソングライター頂上対決において、どちらも無傷というわけにはいかないのではないか…という一抹の不安も。

その緊張をほぐすため、サイゼリヤでワインを引っかけてから会場へ。

先攻はロック界のモハメド・アリこと曽我部恵一の弾き語り。
かわいらしいネバヤンのフラミンゴTシャツで油断させようという作戦らしい。

しかしその手はくわないぜ。
アンタの手強さはおれが一番わかってるからな…と身構えてみたものの、一曲目の"トーキョー・ストーリー"から、メーターを振り切る歌とギターでいきなりダウンを奪われてしまう。


さすが世界弾き語りチャンピオン・曽我部恵一
この人を好きとか嫌いとか、曲を知ってるとか知らないとかぜんぜん関係なく、会場中の聴衆の心をこじ開けてしまう熱量に、今日もまた圧倒されっぱなし。

この日は"シモーヌ"、"魔法のバスに乗って"といったソカバン期や、"ギター"、"Love sick"のようなソロ初期を中心にした選曲。
サニーデイの甘酸っぱいモラトリアムとは違う、一人の大人として、あるいは父親として生きていくことへの喜びとブルーズに、心の奥がブルブルと震えた。

と同時に、サニーデイ以外でこれだけのセットリストをつくれる楽曲の豊富さに、20年以上の最前線を走ってきたミュージシャンとしてのキャリアと無尽蔵な才能を見せつけられたような思いだった。

いつでもどこでも、必ずこの人はスゴイものを見せてくれます。


さて、そんな曽我部恵一の姿をPA席から真剣な表情で見つめていたスカート澤部氏はこの先制攻撃にどう応えるのか。

と、思う間もなくステージに登場するやいなや演奏スタート。

ファーストアルバム"エス・オー・エス"の一曲目に収録された"ハル"、10年代屈指の名曲"Call"を立て続けに披露し、キングオブメロウロック・曽我部恵一に真正面から挑んでいく。


ちなみに私が今年に入ってスカートのライブを観るのは1月のfever、5月のリゾームライブラリーに続いて3回目なんだけど、今日の演奏のグルーヴはこれまでとは桁違い。
6ピースが一つの塊になってこちらの足腰にグイグイ迫ってくる。

"返信"、"回想"のような激ファンキーチューンはもちろんのこと、"セブンスター"や"ガール"の8ビートや"アンダーカレント"のように大きなメロディを持つ曲であっても、常に身体のどこかしらが動いてしまう。

フロアの一番後ろで踊りまくりながらこの感覚ってなんだっけ…と召喚した作品は山下達郎御大が、1978年にリリースしたライブアルバム"It's a poppin' time"。
圧倒的なグッドメロディ、繊細な心象風景と濃厚なグルーヴを携えた、新しい日本の音楽を作り出さんとする若き梁山泊の記録。

この地下2階のライブハウスで演奏する、一筋縄ではいかないスカートのメンバーと、どこか重なるところがあるではないか。
そう言えばさっきから佐久間裕太の後ろに村上ポンタ秀一の、佐藤優介の後ろには坂本龍一の姿が透けて見えてるし(ウソ)。

しかし、アンコールで披露されたド直球にサマーブリージンな新曲。
コレはいよいよ本気で山下達郎に引導を渡そうとしてるんじゃなかろうかと思ったのは俺だけじゃないはず。
リリースが楽しみすぎる。

というわけで、(思いっきり)泣いたり笑ったりしながらステップを踏み続けたあっという間の一時間半。
俺にとってのスカートとは、まずなによりも最高のロックンロールバンド(あえてバンドと言い切りたい)なんだなということが実感できたライブだった。


そんな感じで名作"Call"の集大成にふさわしい世紀の一戦を見届けた後は、スカート御一行が前日に訪問したという焼き鳥屋さんで泥酔した日曜の夜なのであった。




関美彦のライブを見たことがあるかい?

 
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関美彦というミュージシャンの名前は、熱心なサニーデイサービスのファン以外にはあまり知られていないかもしれない。
 
私がその存在を初めて知ったのは、曽我部恵一が99年に発表した"昨日、今日、明日"という本の中に収められたエッセイ。
住んでいたアパートを追い出され、曽我部氏の部屋に間借りをしていた、”とてもおだやかな種類のミュージシャン”として。
 
 
そして初めて彼の音楽を聴いたのは、今から10年近く前、下北沢のCity Country City。
BGMで流れていた曲が気になって、思わずお店の人に尋ねてしまった作品が"スピルバーグ"だった。
 
 
それからこの曽我部恵一プロデュースのアルバムは、私の愛聴盤として存在し続けているわけだけれども、ライブは一度も見ることないまま長い年月が流れ、ついにタイミングがあったのが、先週の夜、下北沢に新しくできたライブバー・ラプソディーでの3マン。
 
 
共演のダニエル・クオン、Suppa micro pamchopの後に登場した関美彦氏はピアノの弾き語り。
 
できればバンド編成(ベース伊賀航、ドラム北山ゆうこという豪華メンバー)での演奏が観てみたかったというのが正直なところだったんだけど、そんな気持ちは歌が始まってすぐどこかへ行ってしまった。
 
年齢を感じさせないと言うよりも、むしろ過去のレコードよりも若返っているのではないかというほど甘く澄んだ歌声はシンプルなピアノによって引き立てられ、初夏の夜に溶け込んでいくかのよう。
 
シティポップという言葉が音楽を粗雑にカテゴライズする危険性を含んだものであることは重々承知しているけれども、それを「端正なコードとメロディで街の息遣いをメロウに切り取る音楽」と定義づけるならば、関美彦の音楽こそが本物のシティポップだ、と言い切ってしまいたくなる。
 
そして、関美彦というアーティストの魅力は、楽曲の美しさと同時に、しなやかなユーモアと、性と死の気配すらも感じさせる点。
 
この日も具体的なことを書くと差し障りがある歌詞の内容を実に飄々と説明する姿を見て、「あぁ、関美彦とは実在するアーティストなんだな」と妙にしみじみ実感することができた。
 
 
わずか40分弱の短い演奏ではあったものの、現時点での最新作"Hawaii"に収録された"Bloody rain"の美しさを何度も思い返しつつ帰路についた。
 
 
なお、この日はダニエル・クオンという素晴らしい新たな才能に出会うこともできたわけだけれども、それはまた別の話ということで。
 
 
(関さんの書いた小説"Boy meets girl "はローズレコードのホームページで読めます http://rose-records.jp/artists/yoshihikoseki/
 
 

VIDEOTAPEMUSIC奇譚 「存在しない映像の世界について」

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すでにその役割を終えて久しいビデオホームシステム、略してVHSは、約30年に亘るそのライフサイクルにおいて、9億台のデッキと300億本のテープが生産されたとされている。

そんな人類の残した膨大な遺産(正か負は知らない)のコラージュによって音楽と映像を制作するVideotape musicというアーティストのライブに足を運んだ。

しかし、生暖かい長雨やら休日出勤やらごった返す人混みなどにより、会場のLounge Vioにたどり着く頃には私の体力は相当に減退し、おまけにちょっとトイレに行ってる隙に私の椅子が美女を連れた「髪の毛ピッチリ撫でつけ男」に取られていたりもしたわけで、やっぱりこんなお洒落空間にくるべきではなかったぜガッデムと生来の人格の小ささを露呈する事態に及び、DJがかけるラテン音楽を聴きながら、会場の隅で缶ビールを一人あおっていた。


そんな私であるのだが、ビデオテープ氏の前に演奏を披露したTuckerの一人多重録音の鮮やかさには、子供のように純粋で大きな驚きを感じた。

ドラム、ベース、ギターにエレクトーンといった一般的な楽器はもとより、テルミンCDJ、一斗缶など特殊な機材や部材、さらには髭や毛髪までも駆使しながらファンキーミュージックを野菜炒めのように手際よく作り上げていく姿はまさに超人。

ライブのクライマックスでエレクトーンに放った火柱は、KISSやX JAPANのような命がけのカリカチュアであると同時に、アジアのネオン街に宿る生命力と妖しさの象徴にも感じられ、"世界各国の夜"というこの夜のテーマを浮き立たさせる素晴らしいパフォーマンスであった。


そんな熱演とアルコール、更には開演前に飲んだレッドブルの効果により、先ほどから感じていた不快指数も幾分和らいだところで本日の主役・Video tape musicが登場。

ビデオ氏本人が弾くピアニカに、パーカッション、トランペット、バリトンサックス(全員 from 思い出野郎Aチーム)が加わるという変則的な4ピース。

バックトラックに合わせて演奏をするという構造上、スリル1000%のTuckerに比べてしまうと即興性という点においてはハンデがあるわけだが、それを補って余りある存在感を放つのが、スクリーンいっぱいに映り出される、音楽に合わせて制作された映像の数々。

アナログテープ特有の不鮮明ながらも懐かしい質感。
すでに役割を終えた300億本のVHSからビデオ氏に見つけ出され、切り取られ、新たな命が吹き込まれた過去の時間の記録。
そしてそれらを彩る無国籍なサウンドトラックのような演奏が、聴き手を心地よく異世界に誘う。
 
アジアの雨季を思わせる夜に、Lounge vioという少しあやしげな地下のフロアで披露されるのにふさわしい音楽である。
私は当初の疲労感などすっかり忘れ、心地よい満足感と共に会場を後にして、地下鉄の駅へと向かった。


しかしその道すがら、私はあることに気づいた。
それは、ビデオ氏のパフォーマンスの裏側に存在する、300億本のテープの99.999%を占めるであろう「誰にも(ビデオ氏にも)見つけ出されることのなかった映像」の物語である。

そこに記録された、膨大な量の地球上の営みと、それに付随する喜怒哀楽は、テープの廃棄と共に全てが無に帰してしまうのであろうか。
それぞれのテープに焼き付けられ、閉じ込められた120分が完全に消滅してしまうということがあり得るのだろうか。
たとえテープという物質が消えたとしても、「見つけ出されなかった映像」の形而上的世界が、この宇宙のどこかに存在していると考える方が、今日のライブを観た後では、自然なことのように思えてくる。

そんなことをボンヤリと考えながら新栄町駅の改札を通り、階段を降りていくとそこに地下鉄のホームは存在せず、暗闇の中で椅子に座り、向かいに座る女性を口説き続ける髪の毛をピッタリ撫でつけた男の姿が。

予期せぬ事態にいささか混乱する私の目の前に、スポットライトの点灯と共に闇から現れたビデオ氏が、なにやらピアニカを吹き始めるのだが、音声がミュートされているようで、その旋律を一切聴くことができない。
そしてその隣ではTuckerが線路に油をまき火を放っている。


やれやれ。
やはり存在したのだ。
「見つけられなかった映像の世界」というものが。

たちまち周囲を埋め尽くす炎の中、冷静を取り戻した私は、自宅のパソコンの中に残してきてしまった秘密のフォルダのことを思い出し、どうせならあちらの映像の世界に迷い込んでみたかったものだと思いつつ、そっと目を閉じた。