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ドリーミー刑事のスモーキー事件簿

バナナレコードでバイトしたいサラリーマンが投げるmessage in a bottle

あくまで芸術としての記録。 植本一子 "オーマイドーター"

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先週は結局、石田家関連(ECD・植本一子)の本を5冊買った。

なぜそうなったかというと、ワタシと妻が日替わりで植本一子の「オーマイドーター展」を観に行ったから。

というわけで今回はその写真集「オーマイドーター」の話。



その名の通り、植本一子が二人の娘の日常風景を撮ったもの。



自分の子供というのは、親なら誰でも、シャッターを切ればそれなりの写真が撮れてしまう被写体だと思う。

その中で「作家としての表現」を成立させることは、逆にとても難しいことなんじゃないか。


そんなことを思いつつ、ギャラリーまで足を運んだ。


でもしかし。


実際に写真を見てみると、気持ちを揺さぶられるんです、しっかり。



わざわざ他人の写真で見なくても、毎日いやになるほど見ている光景なのに(我が家にも二人のバッファロードーターがいるので)。



なんでかなぁ、と考えていたんですけど。


それはやっぱり、前回書いた、「子供という存在のどうしようもない矛盾」と、「絶え間なく変化する親子の距離感」という、子供や子育てというもの本質が、植本さんのレンズを通すことでより濃厚に伝わってくるから、という結論に。




ある写真で娘たちに包み込むような愛に溢れたまなざしを向けたかと思えば、次の瞬間にはガキンチョならではのしょうもなさに鋭いツッコミを入れているし、またある時には我が子なのに初めて見る他人のような驚きを感じている。


そういう、他人だけど他人じゃない、瞬間ごとに表情を変える謎の生き物と暮らすことで遭遇するさまざまな感情。

忘れたくないんだけど、押し寄せる日々のデコボコに飲みこまれてしまうもの。


それらが生きたままフィルムに保存され、次々と目の前に突きつけられていく。


その鮮やかさ、濃厚さに、目眩がしそうになるのです。



そして、その上で衝撃だったのが、最後の「娘たちよ」という植本さんの文。

タイトルからして、普段は秘めている母としての愛の言葉が綴られているかと思いきや、「最近はもはや子供くらいしか撮るものがない」という衝撃の一文。
そして、娘のムの字も、母親のハの字も出てこない、「かろうじて写真家宣言」。


これはどういうことなのか。
実に計り知れない人である。