ECDの「何もしないで生きてらんねぇ」を読んでいる(発売日に買った植本一子「家族最後の日」は妻に取り上げられてしまった)。
曽我部恵一、寺尾紗穂、鴨田潤。そして最近では澤部渡もそうだったのだけれども、素晴らしい文章を書くミュージシャンはたくさんいる。
しかしその中でも、ECDの虚飾のない研ぎ澄まされた言葉は、読むたびに身が引き締まるような思いがする、自分にとっては特別なものである。
00年代にECDが書いたコラムやレビュー、短編小説を収めたこの本でも、やはり彼にしか書けない「強い言葉」が要所要所でこちらの胸元に投げ込まれる。
「何故、じぶんのやることに、自分がやりたから、という以外の動機付けが必要なのか?前例がないことをやるのは、ヒップホップのルールから外れることになるのだ、この国では」
「貧乏人が増えて困るのは、そのために税収が減る支配する側の人間だ。「反貧困」は支配者にとってこそ都合のよい言葉なのだ。僕達は貧困を手放すべきではない。」
「僕が望むのは誰にも参加を強制しない、そして誰も排除することのない革命だ」
「音楽を通じたコミュニケーションを求めているのだ。一方的に送りつけるのはコミュニケーションではない。欲しいものだけを買うのもコミュニケーションではない。」
なぜこの人はこうした核心へ迫るフレーズを書くことができるのか。
初めて「失点・イン・ザ・パーク」を読んで以来の謎が、この本に多く出てくる若き日のエピソードを読んで少しだけわかった気がする。
つまり彼は、天才たちがしのぎを削るシーンの最前線で、何度挫折しても、他の誰よりも「表現」に渇望し、考え抜くことを止めなかった。そうやって、90年代、00年代、10年代にそれぞれまったく異なるアプローチでヒップホップ史に残る名作をモノにしてきた。
自分の為すべきことを考えに考えて、やりきってきた人間だけが発することのできる言葉というものがある、ということなのだ。
今は病床でガンと戦うECDの、次の言葉、次の表現。
それにまた度肝を抜かれる日が来ることを、心待ちにしている。