ドリーミー刑事のスモーキー事件簿

バナナレコードでバイトしたいサラリーマンが投げるmessage in a bottle

革命から疎外された者の目線から GEZAN「狂(KLUE)」について

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ファシストと革命家。一見、対極の存在に思える両者だが、本質的には同義だ。彼らがシンパシーを寄せる対象が、ピラミッドの上部に君臨する特権階級か、底辺で暮らす弱者であるかという違いはあれど、誰かから何かを奪うことをいとわない暴力性や、頂点と底辺の間をたゆたうように生きる私のような「その他大勢」に対するまなざしが希薄であるという共通点がある。そもそも歴史を振り返ってみても、悪名高いファシストの多くは、かつての革命家である。よって私は革命を信じない。革命という単語を無邪気に使うアーティストも信用することはできない。
 
GEZANというバンドが、革命家のイメージを自らに重ねてきたことに異論の余地はないだろう。マヒトゥ・ザ・ピーポーの著書は「世界で一番静かな革命」だったし、彼のCINRAでの連載タイトルも「月間 闘争」だ。ゆえに私は、彼らに対して畏れと警戒心を抱いてきた。


例えば、彼らを象徴すると言ってもいいイベント<全感覚祭>。その行動力には最大級の敬意を払うものの、投げ銭制・フリーフードといった、既存のビジネスの仕組みをひっくり返すようなやり方には、まったくピンとこなかった。結局、モノやサービスの媒介手段を貨幣から善意に置き換えたところで、行き着く先はGEZANというカリスマを中心とした新たなバビロンシステムにすぎないように思われるからだ。その熱狂に身を投じることができず、際立った才を持たない私のような凡人は搾取され続けるだけなのではないか。マヒトゥ・ザ・ピーポーによるステートメントを読んでみても、その冷めた疑問を拭い去ることはできなかった。
 
とは言え、一人の音楽ファンとして彼らの存在を無視できるものではない。そもそもロックバンドに対して社会的な正しさや政治的な整合性を求めることが無粋なことなのかもしれないし。そんなことを考えながら、彼らの最新作『狂(KLUE)』もリリース早々に入手した。
 
しかしなんのことはない、一曲目の「狂」から
「シティポップが象徴していたポカポカした幻想にいまだに酔っていたい君にはオススメできない/停止ボタンを押し、この声を拒絶せよ」と、(広義の)シティポップとを愛する私は、この世界へ入り込むことをあっさりと拒否されてしまった。
 
ならばこちらも遠慮なく言わせてもらうと、2011年の東日本大震災、あるいは15年の安保法制以降のストリートデモクラシーを通過した後の目線で言えば、この作品の中で語られる社会観は、あまりにも凡庸で幼く、支離滅裂である。いま・ここで起きている問題に対するコミットメントを突き詰めないまま、「破壊」や「革命」という気持ちの良いリセットボタンを押したがっているように見えてしまうのだ。「ていねいな暮らし」「インターネット」「メディア」「いいねの数」といったやり玉にあげていく対象も、「これは政治の歌じゃない」「左も右もない」「正しさってなんだろ?」という自分の判断を留保するナイーブな態度も、俺から言わせればもうすっかり見飽きた光景だ。私たちが殺されないために必要なものは、彼らが歌う「これから始めなければならない革命」の幻想ではなく、私たちが今持っている権利の正当な行使による政権交代だ。レジスタンスの皮を被った逃避は、傍観よりも罪が重い。
 
そんな予想通りの相容れなさを感じつつも、それでも私は停止ボタンを押そうという気にはならなかった。なぜならば、その言葉の後ろで不穏に蠢くベースラインや、内田直之のミックスによって深い残響が施されたギターとドラムの音が、これから起きる巨大なスペクタクルの予感をこれ以上ないくらいに掻き立ててきたからだ。
 
その予感は早速二曲目「EXTACY」で的中する。漆黒の闇の中でうねるグルーヴと跳ね回る残響、狂気と紙一重の咆哮。あえて私が想起したアーティストを挙げるなら、マーク・スチュアート率いるポップグループや内田とも縁の深い伝説のダブバンド・オーディオアクティブ、そしてP.I.LやINUといったニューウェーブ/パンクパンクのレジェンドだろうか。しかし、あくまで新たなアートフォームとしての矜持や安易にリスナーを寄せつけないストイックな鋭さを持ったそれらのアーティストたちに対し、GEZANはどこまでも無国籍・タイムレスを貫き、ケチャやディドゥリジュまでごった煮にして享楽性を高めていく。ボトムを支える四つ打ちのキックには、圧倒的な混沌においても盆踊りすら許容するような懐の広さを感じるほどだ(そういえばジャケットには和服で踊る男があしらわれている)。そしてこの快感が頂点に達しようとした瞬間、突如としてBPMは倍速となり、ハードコアナンバー「replicant」が始まる。超高速の轟音ビートだが、スムーズな繋ぎと絶妙な低音処理によってダンスミュージックとしての快楽性はまったく失われることなく、デタラメなステップとアドレナリンの分泌を促し続ける。これまで体験したことのない興奮の坩堝に叩き落とされた私は、たった3曲でこのアルバムが20年代を代表する名盤であることを悟ってしまった。彼らのバビロンから排除された者であるにもかかわらず。
 
彼らの社会観に対する拒否反応と、抗いがたい肉体的快感。私の中で起こる激しい葛藤は、アルバム全体を通じて絶えず激しい火花を飛ばし続けることになるのだが、その矛盾が重なり合う唯一の瞬間が、M10「Free Refugees」だ。おそらく入国管理局に収監されて在日外国人を念頭に「難民を解放せよ」というマヒトの叫びは、今この瞬間も多くの外国人から人権を奪い続けている、世界の中心で美しく輝いているはずの欺瞞を暴くリアリティがある。そしてその咆哮が宇宙まで届きそうなトライバルな打楽器と人声が楽器かも判別できないほど太く低く膨らまされたコーラスの洪水と混ざり合うことによって、収容所の鉄格子をこじ開けんばかりのエネルギーを獲得し、そのまま「東京」へとなだれ込んでいく迫力には、私と彼らの埋めがたい価値観の違いを軽々と乗り越えて押し寄せてくるカタルシスがあった。我々の間で飛び散っていた火花が、何か巨大なものに火をつけてしまったような。

この激しい愛憎の中で訪れた邂逅がこの先に繋がるものなのか、それともただの偶然か、まったく予測がつかないが、とにかく今はこの深い混沌の中で、目を開けたまま踊ってみようと思っている。

思い出野郎Aチームのパーティーに行った日

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思い出野郎こそが日本一のパーティーバンドである。もうそう言い切ってしまっていいだろ、と言いたくなる最高の夜だった。

それはただごきげんな音楽でオーディエンスを盛り上げるということだけじゃない。ソウルミュージックというものが、パーティーというものが、この社会の中でどうやって成り立っているものなのか。なぜ君や僕やあの人は今ここでステップを踏むことができるのか。それを根本から理解し、感謝し、みんなが持ち寄った喜びを不器用な手つきで分かち合おうとするバンド、俺は今まで見たことがない。2019年に現れた日本のカーティス・メイフィールドはこんなにもチャーミングなんだぜ、と勝手に誇らしい気持ちになってしまうのは、俺もこの夜を構成する重要な一員だと彼らが思わせてくれるからだ。


しかしそんな彼らにAマッソの差別発言事件が降りかかってしまったことは、神様ってどこにいるんだよ、というくらいに残酷で皮肉なことだった。言ってしまったことは取り消せないし、こんなことはもう二度とあってはいけないことだけれども、事後の対応はこれまでの芸能界にはない水準のものだったように思うし、その裏側には彼らや所属するカクバリズムからの働きかけもあったのではないかと想像している。


そんな不幸な事件を経て迎えたツアー初日。ステージに現れた彼らの姿からは、考えすぎかもしれないけど、やはりそこはかとない緊張感も漂っていたように思う。

最新作『Share the light』と同様に、ライブの冒頭を飾ったのは『同じ夜を鳴らす』。

「まるで石のかわり 言葉をうけて血を流す罪なき人を尻目に もはや都合よくラブソングを歌う気にはなれない」

こんなにも冷徹なまなざしで今の社会を見つめた上で、それでもささやかな希望を捨てないという覚悟を込めた歌を、真剣な表情でユニゾンするメンバーの姿にグッときたし、この夜はもう間違いないという気持ちにさせられた。


とは言え、俺たちはメッセージで踊るわけではない。社説なら新聞で読めばいいし、スローガンなら政治家の演説で聞けばいい。シリアスで骨が太いメッセージをライブハウスという祝祭の場で伝えるためには、それに負けないくらいの強度を持ったビートが必要だ。

しかしそんなことは百も承知と言わんばかりに、今の彼らが鳴らす音は貪欲でタフである。『Share the light』というアルバムは、それまでの二作に比べて明らかに歌からリズムへと音楽的な重心を移しているが、そこにはダンスというものの社会的な意味を訴求するという側面と、バンドとしての成熟という二つの側面があると思っている。この日のライブでも『ウェザーニュースがはずれた日』から『周回遅れのダンスホール』のメドレーで会場を完全にディスコティークに変えてしまっていたし、『それはかつてあって』のアフロビートは関東大震災の時に起きた朝鮮人虐殺事件というテーマの重さにも押しつぶされない堅牢さがあった。


そして最新作の輝きは、過去の作品にも新たな光を招き入れることになる。会場中の老若男女がお腹の底から「すげー自由!」と叫んでいた『夜のすべて』、ミラーボールの光で人々を優しく照らすような『TIME IS OVER』の深み。しかし何と言ってもグッと来たのは初期の代表曲『週末はソウルバンド』だ。バンドにうつつを抜かす恋人の姿をユーモラスに描いたこの「続けてもいいから 嘘は歌わないで」というリフレインは、本当のことを口にすることがどんどん難しくなっていく日本の息苦しさを告発していく今の彼らの姿に重ね合わせるとまた別の意味が感じられ、俺はまた泣いた。


そんなこんなで場内が熱くなってくると、ヒートアップしすぎちゃうお客さんが出てくるのもまたパーティーの宿命。この日もちょっと盛り上がった愛すべきアホな友達が最前列ではしゃぎすぎてたんだけど、そろそろちょっと危ないなって思った瞬間、それを感じ取った別のお客さん(女性)が周囲の女性や子供を安全な場所にさっと避難させて事なきを得たという場面があった。その素早い行動に惚れ惚れすると共に、自分たちの遊び場は自分たちで守ろうぜ、という参加者としての心意気を感じた。ステージからの高橋一の温かいフォローもあり、結果的に会場の一体感が高められた感じすらあって、こうやってああやって最高の夜はつくられていくのだなと実感した。


色々な意見もあるだろうし、これが正解ってわけじゃないけど、芸術家が自分の内的世界から生み出される芸術のことだけを考えていられる幸せな時代は終わった。と言うかそんな時代はそもそも無かった。それがはっきりしてしまったのが2019年の夏だったように思う。あいちトリエンナーレで起きたことは、明日にでも音楽の世界で起こったとしてもなんら不思議はない(もちろん起きないかもしれないけど、それはまったくの偶然か、他の誰かがあなたの分まで体を張ってくれたということだ)。

この日のライブハウスで俺が体験したドラマは、厳しい寒空の下で焚かれた小さな火にすぎないかもしれないけど、そこにはそれゆえの美しさがあり、それゆえの確かな温かさが心と身体に伝わってきた。これから楽しく暮らしてやるぜ。そんな気持ちになった。

植本一子『台風一過』を読んだ

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ようやく夏が去ってくれそうな気配が感じられた日曜日の夕方、家族で名古屋へ。ON READING で濱田紘輔さんの写真を受け取る。ちょうど3ヶ月ほど前、家族四人でわちゃわちゃ言いながら選んだ一枚。アメリカ西海岸を旅しながら、コインランドリーの風景を切り取った写真集「THE LAUNDRIES」に収められた1枚。めちゃくちゃファッション性が高いとか尖ったコンセプトとかいうわけじゃないけど、品良いセンスがあって、まっすぐで優しくて、何より瑞々しい。この感じ、リ・ファンデ(ex.Lee & Small Mountains)の歌に通じるものがあるよねというのが我が家の一致した見解。とりわけ私は20歳の頃、1カ月だけサンディエゴにホームステイをしていたことがあり、この空気感には、ちょっとした愛着のようなものがある。

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ON READINGでは佐久間裕美子の『ピンヒールははかない』と、まだ手に入れていなかった植本一子『台風一過』を購入。植本一子の本はここで買うというのがマイルール。個展を初めて見たのがここだからという理由もあるけど、彼女の著作にはいつもこのお店が登場するので、読んでいる時に感じる臨場感が違うのだ(しかし今回はそのリアリティがこれまでとは段違いだった。ネタバレになるから書かないけど)。
それにしてもこの一年くらい女性作家の書いた本しか読んでいない気がする。夏休みに読んだ本もミランダ・ジュライ『最初の悪い男』だった。社会の変化や諸々の問題に対する当事者性が、私のようなぼんやり生きている旧来型男性に比べてずっと高い作家が多いからだと思っている。
さてその『台風一過』だけど、当然のように衝撃的な紆余曲折をはらんでいるのだが、結論としてはものすごくいい本だった、とストレートに言い切ってしまいたい。夫を亡くしてからの激動の日々を描いた本に対する感想としては不似合いかもしれないけど、彼女の著作の中で最も、いや初めて、最後まで心穏やかに読めた作品のように思う。
その理由を説明するには、前作『降伏の記録』まで遡る必要があるかもしれない。あの本の最終章、そこだけ紙の色を変えて書かれたエッセイは、読者の顔色をも変えてしまうほど鋭い刃を、自分の人生と夫であるECDに突き立てるようなものだった。末期がんで死を間近にした夫に向けて、これまでの関係性を根元から覆すようなことを書くなんてと眉をひそめる人がいるのも不思議ではない。ただ、私はあの文章は、彼女がECDの喪失を受容し立ち直るための、いわゆる「喪の仕事」のプロセスの一端なのではないかと思っていた。もちろんあの時点でECDは存命していたわけだけれども、死の影は日に日に色濃くなっていたことは否めないだろう。いずれにせよ、もしあの文章をECDが読んでいたとしても、腹を立てるとか落胆するとか、そういうことにはならなかったのではないかと思っている。むしろ年の離れた妻の、自分という傘を飛び出して生きようという覚悟を垣間見て安心すらしたのではないかという気がしていた。その達観こそが彼女を追い詰めた一因なのかもしれないということは承知の上でもなお、もし俺だったらそう感じるだろうなと思ってしまう。もちろん実際は、その時になってみないとわからないことではあるのだけれども。

そんな勝手な先入観もあり、『台風一過』の文章には、嵐が過ぎ去った朝のような柔らかい光を感じる。例えば2月11日の日記に、一子さんとお嬢さんたちが公園で父・ECDのことを思い返すシーンがある。

 

「お父さん、意外と優しかったよね、ジュース買ってくれたし」
「そうそう」(略)
「うつわがおおきい」
「器が大きい…」と私も繰り返す。そうだね、器は大きかったね。

 

このくだりを読むたびに、私は泣けて泣けてしかたがない。悲しいからという理由だけではない。もしも残された人たちがこんな風に自分のことを思い出して、不在を受け入れてくれるのなら、もう思い残すことはないんじゃないか、と胸がいっぱいになってしまうのだ。特に日頃から「本当にお前はうつわが小さい。おちょこの反対側のくぼみくらいの大きさしかない」と妻と娘たちから非難され続けている私にとっては、このやりとりは他人事とは思えない。私の死んだ後、彼女たちが「あの人、うつわが小さかったよね」「うん、小さかったね」と笑い合っている姿がありありと想像され、こんな感じでまた自分たちの人生を歩んでいってもらいたいなと願わずにはいられなかったし、死ぬことが、生きることが、少しだけ怖くなった。

 

植本一子の本は、自分がどの立場で彼女の人生をのぞき込むのか、どのような心持ちで彼女の心中と向き合えばいいのかという、読者としてのスタンスの取り方が難しいと思うのだが(彼女の著作を受け入れられない人が多い理由も結局はここに帰結するような気がする)、このシーン以降、私の目線は完全に「あの世にいる夫」というところに定まった。するとこの後に続く、いわゆる一般論で言えば衝撃的な展開も、すべては彼女が彼女の人生を歩む上で必要あるいは自然な選択肢として理解し、受け入れることができる。生まれたからには避けることはできない、絶対的な理不尽である死というものに直面した彼女が、生をより輝かせる選択をすることは、とても自然なことのように思えるからだ。人間が大きな悲しみと絶望からいかにして再生していくのかということを、身をもって示してくれる作品だと思う。

夏休みのこと 〜曽我部恵一・さとうもか・SAGOSAID ・あいちトリエンナーレについて〜

今年の夏休みは下の娘が定員オーバーで学童に入ることができなかったため、祖父母の力も借りつつ、私と妻が順番に仕事を休んで(あるいは家で仕事をしながら)学校と塾の宿題、自由研究、読書感想文、部活の送り迎えなどをやったりやらせたりしなければならず、まるで大人と子供の夏休みを同時に生きたような慌ただしさと懐かしさがあった。

 


そんな日々の中、いくつかライブにも行った。

まず8月1日はあいちトリエンナーレの企画として円頓寺商店街で開催されているフリーライブで曽我部恵一ソロ。円頓寺商店街アーケードのド派手な装飾と鷲尾友公の巨大なペインティング、そして曽我部恵一の歌のぶつかり合いがとんでもなかった。

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恋におちたら』『あじさい』といったサニーデイクラッシクスから始まり、『キラキラ』や『満員電車は走る』といったソカバンの名曲を経て、ギターの弦をほとんど切りながらの『青春狂走曲』まで約1時間を駆け抜けた。開演前「そかべ…けいいち?」「たしかサニーデイ…なんとかの?」とお話しされていたご婦人方の胸もバッチリと打ったこと間違いないだろう。なお、個人的な白眉は2005年のソロアルバム『ラブレター』に収録された『抱きしめられたい』と、やっぱりこの季節にはこれでしょう!と言いたくなる『サマーソルジャー』を聴けたこと。この時ばかりは、名古屋名物の灼熱地獄も一瞬和らいだような・・・(いやこれは錯覚。完全に暑さにやられてた)。

 


で、あいちトリエンナーレと言えば、「表現の不自由展・その後」をめぐって極めて残念な展開になっている。政治家による検閲的行為と、それに誘引されたテロ行為。まさか自分の生きている時代にこんなにわかりやすく戦前がやってくるとは思わなかった。表現の自由という健全な民主主義の発展において死活的に重要な権利が、俺の住む愛知県で、これだけ堂々と蹂躙されていることに衝撃と憤りを覚えている。

超基本的な大原則として、万人に支持される芸術というものは存在しない。誰かにとって価値のある表現も、別の誰かにとっては不快あるいは退屈なものである。万人に受け入れられる存在、たとえば空気や水のことを芸術とは誰も呼ばない。

では、決して市民全員の賛同を得られることのない芸術祭を国/自治体がサポートする大義はどこにあるのか。それは、芸術という人間の未知なる創造性を自由に追求する営みが、中長期的な社会の発展にとって必要なことだからというコンセンサスが、民主主義が成熟していく過程で長い時間をかけて形成されてきたからだと思っている。今日のメシのタネにはならない、でもいつか意味を持つかもしれない謎行動。そこに価値を見出すかどうかこそが、ホモサピエンスネアンデルタール人を分ける分岐だった…というのは言い過ぎだとしても、例えば世界地図を自由な表現が認められている国とそうではない国に色分けした時に、どちらにより豊かで暮らしやすそうな国が多いかは一目瞭然だろう。でも、これらはしょせん、明文化されていない「コンセンサス」にすぎない。悪意を持った権力者が現れれば、こんなにも簡単にぶっこわされてしまうということをまざまざと見せつけられて、ほとんど絶望的な気持ちになっている。

『「自由な社会があってこその自由な表現」という当たり前の事実には、ロックやヒップホップのように、良い意味で場末の、吹けば飛ぶようなアートフォームを愛する人間が一番敏感であるべき、と思っている』と2015年にリリースされたECD『Three Wise Monkeys』の感想の中に書いたんだけど、あれから4年経ってまた屋根のトタンが一枚吹き飛んでしまった気がする。もしイギリスがセックスピストルズザ・スミスを発禁処分にする国だったとしたらくるりの音楽は存在していただろうか。同性愛が禁じられているサウジアラビア橋口亮輔の映画は上映できるだろうか。政治家は権力の行使に抑制的であるべきだが、アーティスト自身もせめて肉屋に並ぶ豚にはならないでくださいと祈らずにはいられない。

dreamy-policeman.hatenablog.com

 


8月9日はさとうもかさんが私の住む街のギャラリーにやって来た。地元の酒屋さんが主催した「スナックもか」なるイベント。会場はライブハウスじゃないし、フリーイベントなのでお客さんも必ずしももかさんをよく知っているお客さんじゃないし…というわりとタフな環境だったけど、この人はやっぱりすごい。おずおずと…という感じでピアノを弾きだしたかと思ったのに、『歌う女』ではミュージカル女優のように歌い踊り、『Melt Summer』で胸キュンの頂上に到達したかと思えば、最後の『Lukewarm』ではお客さんと円陣を組みながら合唱しているという凡人には全く予測のできない展開で会場をロックしていた。この天才ソングライターでありながら、お客さんを楽しませるためならその珠玉の楽曲たちをブン回すことも厭わないエンターテナーぶり。いやパンクスピリットとでも言おうか。もかさんのライブを観るのは去年12月の私のイベント以来(ご無沙汰してすみません)だったのだけれども、人が輝く時ってこういうことなんだろうなぁという眩しさをまとっていた。

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終演後、物販でこれまで自費でリリースしていたデモ音源25曲と解説をまとめたZineを購入。このクオリティの楽曲をフルアルバム二枚の間につくり続けるとは…とナチュラルボーンな作家性にまたしてもおののいた。

 


そして、翌日には実家に帰省。諸般の事情により長女と二人で長距離ドライブ。車に乗り込むなりヘッドホンと文庫本で完全防御。父親とのコミュニケーションを一切取らないストロングスタイル。車内にはNICE POP RADIO「親子で聴くナイスポップレディオ特集」が空しく流れていた…。

 


帰省中に下北沢BasementbarでSAGOSAIDのライブを観た。SAGOSAIDは松本市にあるMarking Recordsでカセットシングルを入手して以来、たぶんこの夏一番くらいの回数を聴いていて、TURNの<Tracks of the month>でも紹介させてもらった。

turntokyo.com

なんとかライブ観れないものかと思っていた矢先の僥倖。わずか30分、知ってる曲はカセットに収められた2曲のみというはじめまして感だったんだけど、男性メンバー三人と共に立ったサゴさんのパフォーマンスは最高にクールでかっこよかった。

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ジーザスアンドメリーチェイン、ダイナソーJr.やヴァセリンズの時代から脈々と継承されてきた「甘いメロディ+轟音ギター」という黄金の組み合わせは、肯定と否定を同時に突き付けてくる音楽だ。その子孫というべきバンドは、古くはナンバーガールスーパーカー、最近で言えば彼女が所属していたshe saidも含めてこの日本にもたくさん存在するけれども、SAGOSAIDからはその否定の部分、なぜノイズをかき鳴らす必要があるのかという点に対する説得力というかリアリティが図抜けているように感じた。リード兄弟が、J.マスシスやルー・バーロウが最初にノイズをぶちまけようと思った時の、気怠い衝動までもが音像として浮かび上がってくるように思えたのだ。それはSAGOSAIDの楽曲が、80年代のアメリカやイギリスにも通じるような、2019年のどん詰まった日本社会の空気を吸い取っているからなんじゃないかという気がした。

この日はSuper friendsのレコ発だったのだけど、トップバッターのSAGOSAIDだけ見て地元にとんぼ帰り。中学校の同級生と数年ぶりに飲んだ。翌日は当然のように二日酔い。両親からの冷たい視線に、学生時代の生きづらさがよみがえってきた。

 


あと、今年の夏は念願の山登りをしたり、サウナ&水風呂の魅力に遅ればせながら気づいたり、タピオカデビューしたりといろいろあった。今はとにかく明日から会社に行きたくなくて震えている。

ロロ「はなればなれたち」とはなんだったのかを考える

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さる6月29日、吉祥寺シアターにて劇団ロロの公演『はなればなれたち』を観てきた。

なんといっても私の観劇はこれで3回目、しかも過去2回はいずれもロロ。それでいてロロの劇団史にも詳しくない…という感じなので、今から書くことはまったくあてにならない、あてにならなさすぎてむしろ貴重、くらいのレベルなんだけど、この記憶を無くしてしまうのはあまりにももったいないので個人的な覚えとして書いておこうと思う。

まずもって、メタ構造を何層にも重ね合わせた2時間半にわたる超絶に複雑な物語を、一切飽きさせることなく、舞台芸術/娯楽として成立させていた役者さんとスタッフに最大限の敬意を表したい。ステージに登場する全員が魅力的だった役者さんの演技、その裏にある脚本や演出はもちろんのこと、DJミックスのようにスムーズに姿を変えていく美術が素晴らしかった。

 

一方、すでに「超絶に複雑な物語」と書いてしまったように、この演劇は、あらすじを説明することすら難しいほど、様々な流れが入り組んで成立している。いつも通りのロロと言えばそうかもしれないけど、これまで見た二作(『マジカル肉じゃがファミリーツアー』『母姉僕弟君』)よりも、その光の発散度合いは高かったように思う。

この戯曲をある切り口から見れば「ひとりの少女とその仲間たちの成長を描いた物語」と言えなくもないかもしれないけど、その「少女」に該当しそうな登場人物が三人くらいいる。また成長と言ってもあの登場人物たちは過去から未来という時制に沿って生きていたのか、そもそも生きた人間だったどうかすら判然としない。

ただ、脚本・演出の三浦直之は別にこの話を「複雑な物語」として書いてやろう、という気持ちはこれっぽっちもなかったように思う。彼はただ、彼の目に映る「ただの現実」「地球そのもの」の一部を舞台の上に現出させただけなのだろう。その中にどのような物語を見出すのか、あるいは見出さないのか、その点をかなり思い切って観客に委ねたということなんじゃないか。いや偉そうなこと言ってごめん。

 

でも、

「はなればなれの花たちを はなればなれのまま 花束にして 抱きしめる」

という物語のクライマックスで、脚本家志望の佐倉すい中が繰り返すセリフは、

「ただバラバラに生きている人たちを 物語に封じ込めることなく ありのまま愛をこめて描きます これはそういう戯曲なのです」という三浦直之のステートメントのように思えてならない。もしその解釈が大きく外れていないならば、この劇の複雑さとは即ち、私たちが生きている世界そのものの複雑さである、ということができる。

 

それと同じように、今作ではAmazonとかAIとかTwitterとかVRとか、今日的かつ社会的なキーワードが全面に出ていたが、それも「グローバル企業の非人間性を告発!」「GAFAの闇!」といった問題意識が強くあったわけではなく、

 

Amazon(的なもの)が私たちの生活や囲い込んでいる

・そうした企業では低賃金で働いている労働者がいる

・おびただしい数の口の悪いTwitterユーザーが存在している

・自分の記憶を脳ではなく外部のサーバーに預けている人たちがいる(このブログもそうだ)

・日用品から音楽まで、自分の好みを知り尽くしたAIがレコメンドしてくれる

 

といった客観的事実を、淡々と所与のものとして提示しているだけなのだろう。

いや、「提示しているだけ」というのは言い過ぎか。広い世界からそれらの事象にフォーカスして、生身の役者さんに演じさせている(=花束にしている)のは、三浦直之の意思と身体にほかならないわけだから。そこに何らかの意図があったことは間違いない。

とは言え、やはりその花束の中から(必ずしも美しい花だけではない)、何を見出すか、何を感じるかは、観客に委ねられている部分が大きい。

 

この作品におけるクライマックスは何と言っても、2009年に上演された「わが星」(作・演出柴幸男 音楽三浦康嗣(口ロロ)の1シーンをまるごとそのままサンプリングしてぶち込んだ「劇団サンリオピューロランド」による劇中劇。いや劇というか、出演者全員が拍単位で切り分けたラップを見事に決めていくシーンだ(ロロメンバーの身体性の高さに驚愕)。残念ながら私はこの「わが星」を見たことはないので(DVDも廃盤)、これまた超見当違いかもしれないけど、このシーンは「宇宙も人間も誕生した瞬間に消滅までのカウントダウンが始まっているのに、なぜか淡々と日常生活を送っている人間の不可思議さと、それゆえの面白さ」を表したものであると勝手に理解した。

 

そしてその名シーンを、まったく違う劇団が10年後に上演する新作のクライマックスにぶち込むという、電気グルーヴShangri-La」やRUN DMC「Walk This Way」級の大ネタづかいをするからには、それなりの必然性というか、そこまでして加えたかった新たな意味があったと考えるべきだろう。

このラップの内容と、随所に散りばめられたAmazon、AI、Twitterといったキーワードを重ね合わさることによって見えてくるその意味とは、2009年には考えられなかった情報技術の進化が、人の死生観すらも変えつつある、ということではないか。

 

おはようからおやすみまで、クラウドサーバーとAIが私たちのライフを見守ってくれる時代。「わが星」のラップで示された「生から死までの一部始終」が半永久的に記録され続けてしまう時代。このいわば「死ぬことができない時代」における、生きること、死ぬこととは、一体どういうことなのか。三浦直之はそんな巨大なクエスチョンを、私たちに投げかけたかったのではないか。

 


そして、その問いの解像度をもう少し上げてみる。すると芋づる式に「常に誰かとつながっている時代における寂しさの存在意義とは?」とか「自分のプロファイルの蓄積によってAIが判断する時代における自己とは?」「ヴァーチャルな世界にいる自分はリアルな自分を追い越してどこに向かうのか?」という具合に、向井川淋しいや稲葉物置、近藤巧磨といった登場人物が背負っている、時に切なく、時にイビツで、そして時にグロテスクな、問いが次々と浮かんでくるじゃないですか。

 


そうなると、それに対する答えは?と聞きたくなるのが当然の人情というものなんだけど、その明確な答えはステージの上には無かったように思う。

ただそこにあったのは、もはや誰もものかもわからないくらいに入り組んだ欲望も、埋めれば埋めるだけ深まっていく孤独も、全て共に生きる構成要素として抱きしめていこう覚悟と、曽我部恵一演じる「僕」が体現していた、言葉や記憶を介在しない生死を超えた深いコミュニケーションがあるはずだ、という希望だったのではないか。そんな風に思っている。

 


とは言え、この程度の理解でちゃんと観たと言っていいものか、彼らの真意を受け取ることができたのか、心もとない部分も残っている。そしてこの余韻は感動や興奮といったわかりやすいカタルシスとは遠い場所にあるものであることもまた事実だろう。

 


それでも(愛知から弾丸ツアーで)観に行って良かったと心から思えるのは、役者さん一人ひとりの演技がとてもキラキラしていたことか、曽我部恵一の歌声が素晴らしかったことか、劇場全体に漂うポジティブな空気が最高だったとか、理屈をこねくりまわす前に伝わってくる特別なものがあったからだ。

それはまさに、言葉や意味や記憶が介在しない領域で成立する深いコミュニケーションであり、ロロが10年かけて育んできた本質なのだと思う。

森道市場2019に行ってきました

今年も森道市場に行ってきました。

しかも三日間。

おかげで今は肩が、背中が、首が、もうガタガタなんですが(前の日記で「老いを感じない」などと書いた罰か)執念で備忘録を残しておきたい。

 

初の金曜開催となった1日目。

とりあえず、涼しい・空いてる・身軽(子どもを連れてきてないから)ということにマジ感謝。

まずはサーカスステージでキイチビール&ザ・ホーリーティッツ。下北沢の古着屋からそのまま出てきたような佇まいがキュートだ。新しいアルバムからのオリエンタルな曲が特に良かった。ただ最初のバンドということもあってか、PAの具合がちょっと耳に痛くて、ライブハウスでまた見たいです…。

 

続いて、遊園地ステージでHFこと藤原ヒロシ。もはや彼が偉大な音楽プロデューサーということを知る人はどれくらいいるのかわからないけど、音楽性は収入に比例するのか、と言いたくなるほどのラグジュアリー&セレブ感。キイチビールとは真逆すぎる世界。とにかく鉄壁の演奏によるAOR。お客さんのファッショニスタ感もハンパ無かった。PAのところには何度も雑誌で顔を見たことがあるソニーの超エラい人もいたし。

でもやっぱり俺はこれをナニクソって蹴っ飛ばすような音楽が聴きたい。それこそがHFに対するマキシマムリスペクトだって思うし。

 

で、もう一回サーカスステージに戻り、前野健太。初めてバンドセットで見るマエケンは、マエケン濃度がそのまま5倍くらいになってて最高だった。出色だったのはこの曲で反戦デモやりたいと呟いてからの「マッシソヨ・サムゲタン(参鶏湯、美味しい)」。お客さんにシンガロンを無茶振りしたかと思えば、最後はポンチャックで暴走。どこまで本気かわからない前野健太の怪しげな愛が凝縮されていた。

蒲郡競艇場まで届くくらいにリバーブかけて」と言ってから歌った「ファックミー」を聴いてたら、無性に蒲郡駅前の赤ちょうちんで日本酒が飲みたくなってしまった。

 

しかしここは森道市場だ。せっかく空いてるし、おしゃれなフードを食べねば…と浜松に行った時には入れなかったnaruの蕎麦などを食す。この写真からではオシャレ感が伝わらないと思うけど…。

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そしてその目前ではodolがライブ中。予備知識なしで観たけど、硬質で清冽なダンスビートと、ちょっとイアン・カーティスっぽいボーカルの佇まいがカッコ良かった。

 

海側のエリアへ。

グラス ステージではm-floが。昔はもうちょっと好きだったと思ったんだけどなと、曖昧な記憶と時の流れの残酷さを噛みしめながら浜辺を散歩。

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さて。いよいよこの日の大本命・佐野元春&THE COYOTE BANDの登場。

聴かず嫌いしていた佐野元春の音楽を初めてちゃんと聴いたのは今から20年くらい前。その力強さとモダンさにすっかりやられてしまったわけだが、今の今までライブを観る機会がなかった。しかも今日はあの超名盤「Blood moon」を生み出したCOYOTE BAND(ベースは高桑圭!)との共演ということで、私の期待は最高潮に。

この日のライブはモニターの調子が悪かったのか、ややボーカルが不安定なところもあったけど、目の前に元春がいる、という事実だけでもう感無量。彼がニコッと微笑んで親指を立てる度に感じる肯定感はいったい…。

「今日集まってくれた幅広い世代の人たち、20代、30代、40代、50代の、いつかきっと!という気持ちを歌にしたから、よかったら一緒に歌ってくれるかな?」というMCの後で演奏された『SOMEDAY』で泣いた。我ながらベタだ。しかしベタでなぜ悪い。だって40年近くも風化せず背中を押してくれる歌、ほかにあるかい?演奏後、颯爽とかけ足で退場する元春の背中に手を合わせて1日目の森道市場が終わった(子どもを迎えに行かねばならないので)。

そういえば、佐野元春のライブ中にふと後ろを見ると、KIRINJIのメンバーがいた。フェスで次の出演者が客席で見てるのも珍しい。みんなのヒーロー元春。

 

さて二日目。

柴崎祐二氏のDJが聴きたくて頑張って早起きしたものの、前日とは打って変わって人が多い!三河大塚駅からの送迎バスに乗れず、トボトボ歩いて会場へ。ボッチフェスの悲哀を感じる。そして会場に着いても動線の混乱が大変なことに。会場奥のサーカスステージに着いた頃にはもうぐったり…って柴崎祐二が出るのここじゃなくてディスコステージじゃねーか!と気がついた時にはタイムオーバー。強い日差しでジリジリと背中を焼かれながらHei Tanakaを待つ。

 

Hei Tanakaを観るのは3年ぶり。前回はちょうどこの時期、渋谷WWWだった。チンドン屋スタイルでジャズ、アフロ、ブギをごった煮にした音楽を全力で鳴らすスタイルは不変。しかしメンバー間の呼吸がよりぴったりきてる感じで、スタイルなんかでは語れない、何か巨大な岩を動かそうとしているような無謀さが良かった。一日目はちょっと厳しかったこのステージのPAも改善されていた。

 

その後は、メジャーなバンドの演奏を横目にブラブラしたが、暑さもあいまってどっと疲れる感じだった。一人だと耳に入ってくる音楽を聞き流すこともできず、ひたすら受け入れるしかない。ボッチフェスの悲哀再び。

 

昼過ぎに妻と合流してグラスステージへ。今日の大本命・曽我部恵一率いる抱擁家族を観るのだ。細野しんいち、MC.sirafu、平賀さち枝、加藤雄一郎という個性的なメンバーを引き連れた新バンド。なんと曽我部はドラム&ボーカルを担当。タイムテーブル上は曽我部恵一の文字が一切なかったので、ノーマークにしてた人も多かった模様。「あれ曽我部じゃん!」という声がちらほらと聞かれた。音としてはランデブーバンドに近い気もしたけど、平賀さち枝がボーカルを取る演歌っぽい曲もあったりして、より演劇的というか、この編成自体にテーマがあるようにも感じられ、とにかく計り知れない。「家族をテーマにした曲が多かった」というのは妻の見立てだが、正解かどうかは不明。それにしても曽我部恵一の、常に新しい環境に身を置いて、初期衝動を内在化させようとする姿勢には本当にすごいと思う。

 

↓もしよろしければTURNに書かせてもらったこの記事もぜひ。

http://turntokyo.com/features/series-btotm201904/

turntokyo.com

「まだ音源もないバンドなんで、終わったらフリマやります」という曽我部のMCも気になったけど、いや俺は物販より音楽だから!と言い聞かせてサンドステージでカーネーション

遠くに曽我部フリマが視界に入ってくる落ち着かない環境だったが、そんな煩悩をぶっ飛ばしてくれるカーネーションのライブだった。どこまでも男くさい歌なんだけど、ソウルやソフトロックの匂いをさりげなく感じさせるソングライティングが洒脱で心地良く、なんと言っても演奏が素晴らしかった。やっぱロックンロールは(ギターも含めて)リズムが大事、と改めて教えてもらったような気分。カーネーションとはあまり縁のなさそうなバンドのTシャツやタオルを身につけたキッズも楽しそうに踊っていて、さっきこのバンドの暑苦しさに毒づいていた自分の狭い了見を反省。こういう若者たちがカーネーションを発見してくれると思うと、幅広いブッキングにも意義があるんですよね。。。

そしてラストの「EDO RIVER」で呼び込まれたスペシャルゲストはなんと曽我部恵一!私が高校生の頃から大好きな曲を、俺の一番のアイドルが歌っている。このご褒美具合、もうこっちがごめんごめんごめんごめんだよ…と軽く錯乱した。

 

ライブ終了後、残り少なくなった曽我部フリマでレコードを無事に3枚購入。超定番のイカしたやつばかり。しかも超良心的プライス。家宝にしたい。

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カゼノイチ上野さんファミリーと会ってムスコ氏をイジり、ペトロールズをチラッと見てベースの人(三浦淳悟)が昨日のHFバンドでも弾いていたことを確認し、この日は早々に切り上げ。娘たちを迎えに行かねばならぬゆえ。なんだか贅沢な過ごし方をしている。

 

そして3日目。

この日のみ家族全員で朝から参加。

昨日の反省を生かし、車で9時45分に会場到着。さあDJ松永良平に行くぞ…って思ったらもうめちゃくちゃ長い列が入口にできている。最後尾まで1キロ以上歩いてから並んだわけだが、The XXXXXXって書いてあるTシャツを着ている人がめちゃくちゃ多い。なるほどさすが…と感心している間に時は過ぎ去り、松永良平には全然間に合わず、なんとかシャムキャッツのライブギリギリに飛び込む。

 

が、しかしこれが素晴らしいライブだったんすよ。普通のお兄さんたちが歌う半径5メートルの日常が、なぜにこんな大きなステージで、こんなにたくさんの人の気持ちをぶち上げてしまうのか。一年前に観た時もたぶん同じこと思ったんだけど、確実にあの時よりも強度を増してたし、ビーチで聴く「渚」とか「GIRL AT THE BUS STOP」とか爆発しないわけないし、「逃亡前夜」はもはや発明って感じのアンセム感。盛り上がった夏目君、最後はTシャツまで脱いでましたね。そうやってキャーキャー言われてる姿も実に絵になる。

 

続いてはサンドステージでGUIRO。本日の目玉である。

この日のメンバーは高倉、厚海、牧野の三人に、西尾賢、亀田暁彦、光永渉、あだち麗三郎が加わった豪華な7人編成。超待望の新作『A MEZZANINE』(英語読みだとマッシブアタックとかぶるからラテン語読みで『ア・メッザニネ』)が出たばかりということもあったのか、エクスペリメンタルでありながら、かなり仕上がった感じの演奏。普通のバンドのアルバム3枚分くらいの情報量が一曲ずつビシッと過不足なく封じ込められていた。特に亀田暁彦のシンセ。彼が加わることで、彼らの普遍的で独創的な音像が200年分くらいモダナイズする感じがする。そしてこの日も演奏された新曲「三世紀」がヤバかったのだけど、この話はまたいずれ…。「海の前で演奏するのが夢だったんです。ありがとう!」と珍しくストレートな高倉さんのMCにもグッときた。

 

雨が降りそうな天気の中、遊園地側に移動。子供とそれなりに大きくなったので、遊園地で放牧できるのが楽だ。今までがんばって育ててきて良かったぜ…。

 

で、観るのはドレスコーズ

遊園地のプールのそばに立つステージと、ニューアルバムからのメロウなグルーヴがもう最高にロマンチックだった。ちょっと名盤「ティンパンアレイ」を彷彿とさせる憂いもあって。新作を聴かねば…。それにしても志摩さんはいい意味で20世紀的なグラムスター感がありますね。。

 

と、ここでとうとう今年はじめての雨が。しかも結構シトシトと。でも次はフレシノだから、俺は頑張る。

というわけで、遊園地ステージでKID FRESINO。しかも念願のバンドセット。メンバーは小林うてな、佐藤優介、柏倉隆史、斎藤拓郎に三浦淳悟と超豪華。え?三浦淳悟?ってことは一昨日このステージに出演していたHFバンドで弾いてたじゃないですか。めちゃめちゃプログレッシブでタイトなパフォーマンスに、藤原ヒロシがメジャーフォースで日本にまいたヒップホップの種は、今やこんなに成長しましたよ…と、1日目と3日目をまたぐブッキングのストーリーを勝手見出してグッときてしまった。

 

いよいよ雨が強くなってきましたよ。もう帰ってもいいんだけどな・・・と思うのだけど、小6長女がKing Gnuが見たいとおっしゃるので、最後まで粘ることに。しかもご本人と妻は車の中で昼寝するから、次女を連れて遊園地で遊んで来い、と。

というわけで、降りしきる雨の中、メリーゴーランドに並び、ジェットコースターに乗り、3D映画を見て、父親業に専念する。遠くから真心ブラザーズの歌う「拝啓、ジョンレノン」が聞こえてきてきた。

 

そして父ちゃん疲労困憊の中、力を振り絞ってカネコアヤノを観に行くためにサンドステージまで歩く。通りがかったグラスステージではソフトバレエが演奏しているのが聞こえ、ついに幻聴が…と思いきや、演奏しているのはソフトバレエではなくThe XXXXXXで、歌っているのは遠藤遼一ではなく山田孝之だった。ソフトバレエ、人生で初めてCD買ったバンドの一つですけどね。

 

さてカネコアヤノ。晴れていれば海に沈む夕陽を見ながら、という最高のシチュエーションだったわけですが、残念ながら雨は止まず。しかし、カラッとバンカラなバンドサウンドはメインステージのやたら重厚な音とは対照的に、黒塗りの高級車を単車で追い抜いていくような風通しの良さがあった。乙女心の機微がわからないおっさんなので、音源をちゃんと追えていないのですが、「とがる」「天使のスーパーカー」はやっぱり胸ぐらをつかんでくるような良さがあった。

 

いよいよ大トリ・長女お待ちかねのKing Gnuの登場。次女と私は後ろの方に下がり、キャンプサイトのあたりから見学…してたんだけど、降りしきる雨のせいもあってか、どんなに離れても仮設トイレの匂いが追っかけてくるのよね…。ライブ終わってから大観衆と一緒に移動するのも大変そうだし、途中で離脱して遊園地に戻る。するとディスコステージではゴリゴリにハードなミニマルテクノがかかっていて、二階のベランダみたいなところで半ばやけくそで踊った。気持ちよかった。ちなみにこの日は車だったのでシラフだ。そしてDJが世界のKEN ISHIIだったことを知ったのは、翌日の昼になってからだった。

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というわけで、三日間の森道が終了。

今年のラインナップは昨年までとは微妙に趣向が変わったので、そこまで行かねば!って感じにはならなかったのだけれども、佐野元春抱擁家族GUIROと各日に見逃せないアーティストが出演することから、初回からの皆勤記録を伸ばしてしまった。

このままロックインジャパン化が進んでしまうとちょっと足が遠のくかもしれないけど、私と家族にとっては定点観測的というか、毎年つける柱の傷というか、変わっていく家族のありようを知るイベントでもあるので、とりあえず来年も楽しみにしたいと思います。

 

※写真が少ない&イマイチなのは「傘禁止・撮影禁止」と言う規制が厳しかったため、であります。傘は常識としても、いまだに撮影禁止って…。

 

5月のこと。

この5月で41歳になった。

若い時にイメージしてた40代というのは、首まで砂風呂に埋められた人のように、仕事とかローンとか体力の低下とか、ほとんど身動きの取れない生き物であり、そしてたぶん実際はその通りのはずなんだけど、のしかかった砂の重さをやりすごす、あるいはそもそも重いと感じないようにするスキルも身につけてしまったせいで、意外と心身の可動域が広いように感じている。つまり、あまり老いを自覚していない。もちろんこれはこれで恐ろしい事態であることは重々承知だ。

 


5月には私が住む愛知県岡崎市という小さな街で、図書館を舞台にしたフェス「リゾームライブラリー」があった。

これといった見どころも名産品もない街には不釣り合いなほど豪華な出演者が最高のライブをかましてくれて、ホール着座で観るVIDEOTAPEMUSIC の贅沢さとか、誰も知らない岡崎のバンドのレコードが欲しいと言ってお客さんをキョトンとさせる台風クラブとか、本当に素晴らしかった。そしてこの日は、ちょうど一年前、この地で私が開催したイベントに出てくれた東郷清丸さんも出演したのだけれども、せっかく近くに来てくれるならば、セカンドアルバム発表間近の彼の手伝いになることはできないかというお節介モードが発動してしまった。今考えると何が「せっかく」なのか、さっぱりわからない。

 
とにかく5秒にわたる熟考の末に出た結論は、「俺が清丸さんにインタビューして、それをまとめた原稿をどこかの媒体に載せてもらう」という、極めて安直かつ突拍子のないもの。

 
しかしこれが無駄に可動域の広い40代の恐ろしいところで、清丸さんにインタビューの許可を取り付けた上で、4月の「うたのゆくえ」で挨拶させて頂いた音楽ライターの岡村詩野さんにメールを送りつけ、岡村さんがエグゼクティブプロデューサーを務めるwebマガジン「TURN 」に掲載してもらえないかとお願いしてみた。

dreamy-policeman.hatenablog.com


はっきり言って勝算ゼロのギャンブル。ダメなら清丸さんに謝るしかないな…と思っていたところ、まさかの掲載オーケーの返信が。

あの日本屈指の評論家である岡村詩野さんが、こんなど素人からの申し出を受け入れてくれるとは…と度量の大きさに感謝しつつ(これはインタビューを受けてくれた清丸さんにも言えることだけど)、インタビューの準備を進めた。

 
ちなみに私がインタビューというものをやるのは、実はこれが初めてではない。本業の業界紙的なものに掲載するために、国会議員に話を聞くという仕事をやったことがある。

与えられたインタビュー時間は1時間半ほどだったが、それは今思い返してみても、人生最長最悪の90分と言うべき、苦悶に満ちた時間であった。何を聞いても「・・・で?」。やっと答えたと思ったら絶対文字にできない悪口ばかり。結局紙面には、その議員の秘書が書き上げたほぼ架空のインタビュー記事が掲載されることとなった。ちなみにその議員はまだ現役。三日に一回くらいのペースで犬のフンを踏めばいいと思っている。

 

なので今回のインタビューについても、自分で言いだしたにもかかわらず、大きな不安があった。しかし東郷清丸は大人だ。ファッキンシットな国会議員とは器が違う。私の的外れな質問を冷静に咀嚼し、ジェントルにフォローしながら、全編にわたって誌面に映えるパンチラインをぶち込んでくれた。とても私より年齢が一回り下の若者とは思えない明晰ぶり、ビジョナリー感。インタビューから一ヶ月近く経った今も、「こういう時、清丸さんならなんて言うかな」と考えてしまっている自分に気づくところがままあるほど。リゾブラの会場(つまり俺がいつも本を借りている図書館だ)のそばを流れる河川敷で話を聞いた1時間を忘れることはないだろう。

 

というわけで、この拙い文章と質問を通じて、日本のポップミュージックの基準を塗り替えてしまった新作「Q曲」の魅力はもちろん、東郷清丸というアーティストの新しさと勇敢さの一端が伝われば、と思ってます。

  

さて、清丸先生のインタビューを掲載してもらえればもう思い残すことは何もない…はずだったのだが、岡村さんから声をかけて頂き、TURNにディスクレビューも書かせてもらいました(掲載はこちらが先)。しかも王舟と川辺素という私にとって最重要アーティストの新作。震えるわ。

 

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TURNの雰囲気に合う文章が書けるのか甚だ不安だったが、岡村さんの適切なアドバイスとエンカレッジのおかげで、なんとか作品に対する私なりの愛と敬意だけは表せたのではないかと勝手に思っております。

ぜひご一読の上、この傑作二枚を聴いてもらえると嬉しいです。