ECDの文章を読むと、普段自分がペラペラと喋ったり書いたりしている言葉が、なんだか軽くて薄っぺらいもののように思えて恥ずかしさを感じる。
無駄というものが存在しない、清潔な文体。
事実を淡々と書き連ねているようでいて、その心情をも過不足なく伝わるよう空けられた行間。
上手いとか素敵だと思わせる作家はたくさんいるのだけれども、恥ずかしいという気持ちにさせるのはECDだけである。
2009年に出版され、つい先日文庫化された「ホームシック」は、ECDが写真家・植本一子と結婚して、第一子のくらしちゃんが生まれるまでのエッセイ集。
中でも俺が一番好きなコラムは「一日」と題された文章。
くらしちゃんが生まれて間もない頃の、一児の父としてのルーティン、朝起きて、ミルクをあげて、仕事をして、家に帰ってお世話をしてから寝る、ただそれだけの記録。
それなのに、この時にECDが感じていたであろう静かで深い幸せがこちらにも伝わってきて、お腹の底からじんわりと暖かくなるような気持ちになる。
もちろん、この前には壮絶な「失点 イン・ザ ・パーク」の日々があり、この後には「かなわない」から「家族最後の日」に至る人生が待ち構えていることを、2017年の読者である私は知ってしまっている。
それを知った上でこの本を読むと、ひとしおの切なさを感じずにはいられないわけだけれども、同時に、ECDこと石田義則という人が生き抜いている、いくつもの季節の濃厚さに羨ましさにも似たような感情を抱いてる自分にも気づく。
これが極めて無責任な感想であることは分かっているのだけれども、苦境に満ちた現実を反転させてしまう強さが、ECDの文章には宿っていると思う。
特に家族を持つこと、子供を育てることに不安を漠然とした不安のある人におすすめしたい一冊。
続いて手に取ったのは故・徳大寺有恒巨匠1992年の著作「ダンディートーク2」。
徳大寺って誰だよ、と思われる方は、ムッシュかまやつと北方謙三と勝新太郎を足して3で割ったようなおじさんだと思ってもらえればいいと思います。
この本は徳大寺氏の愛するイギリス車を中心に書かれたコラム集なのだけど、普通の自動車評論のつもりで読むと、ヤケドすることになる。
例えばイギリスの高級スポーツカー、アストンマーチンの乗り心地は、巨匠の手にかかるとこんな風に表現される。
「知謀がありながら世に認められず隠遁していた老いらくの武将を、三顧の礼で軍師に迎えたため、そいつが感激して必死に主人に尽くそうとしている感じ」
果たしてこれがアストンマーチンという車の評価として正しいものなのかどうか、極めて怪しい。というか、そもそも何を言っているのかよくわからない。
しかし、そんなことはどうでもいいのだ。
どうせ俺がアストンマーチンを運転することなどないし、別に車の評論が読みたいわけでもない。
俺はただ、溢れんばかりの自動車への愛を、天を駆け回るほどのイマジネーションを駆使して語る、徳大寺有恒という人物の熱さに触れたいだけなのである。
「好きなこと好きなだけ 好きならもっと好きにやれ」と加藤ひさしも歌っていた通り、愛を愛として表現できる大人は、とてもチャーミングだ。
アストンマーチンに乗る財力のない俺も、かくありたいと思う。
それにしても、このECDの静謐な筆致とは対極の過剰なレトリックに満ちた文章。しかしこれもまた、私を構成する一部なのです。