ドリーミー刑事のスモーキー事件簿

バナナレコードでバイトしたいサラリーマンが投げるmessage in a bottle

前野健太「100年後」を読みました

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ネクタイを締めて不安を押し殺し、もっともらしい顔をして、遠方のお客さんのところに向かうべく、特急電車に乗っている。
新しい職場に移って半年。依然として俺は相変わらず空っぽのまま。
空っぽの自分に、ポップミュージックを注ぎ込み続ける毎日。


道中では、前野健太のエッセイ集「100年後」を読んだ。
空っぽの自覚があるのならばビジネス書の一冊でも読んだらどうだという気もするが、生憎そんなものが役に立つほど立派な仕事はしていない。


このエッセイ集、一章は彼が雑誌に寄稿した、比較的最近の文章で構成されている。

先日観たライブで受けた印象通りの、虚と実、いかがわしさと真摯さの境目が絶妙に滲んだ洒脱な文章。
競馬場、スナックにストリップ劇場、全国津々浦々の「場末」で起きるセンチメンタルなドラマに引き込まれてしまう。


しかし今の俺にとって特にグッときたのは、10年くらい前に書かれた二章以降の、日記のような、詩のような、日々の断片。
まだ何者でもない彼が、何者かになろうともがいている記録。

 

「もうバイトも限界だ。歌も誰も見向きもしない。滞る家賃。かさばる光熱費。見えない明日」

 

この日々の生活に追われつつ、自分の歌を必死に探す姿。

自分の中の母性のようなものを刺激され(おっさんだけど)、肩を抱きしめてやりたいような気持ちになってしまった。

 


当たり前のことだけれども、俺の前にアーティストとして現れる人たちはすでにアーティストである。


しかし彼らの全てに、こうした葛藤の季節があったということか。幸か不幸か、一切の芸術的才能に恵まれなかった俺には想像できないほどの深い闇が。

そこををくぐり抜けて、俺の手元に届いた作品たち。あるいは届かなかった作品たち。その重み。

 

そんなことに思いを馳せていたら、電車は目的の駅を通り過ぎていた。


どうやら乗る電車を間違えていたらしい。

 

果たして俺が何者かになれる季節はいつか訪れるのだろうか。