
そこに展示されていた、かつての恋人の写真は、「私小説」を通り越し、「私」そのものが剥き出しになったような生々しさで、「これは赤の他人が見てもいいヤツなんだろうか…」と動揺したことを覚えている。
ただ、愚鈍な俺は、その被写体が誰であるのか、いつ撮られたものなのか、まったくわかっておらず、1年半後にこの本を読んで、その伏線がダイナミックに回収されたことに思わず、オウ…と声を出すほどの衝撃を受けた。
と同時に、こんな愚鈍な俺の胸を騒がせたあの写真の力を今さらながらに噛み締めている。
さて、この新装"かなわない"は、2014年の日記がメインだった同人誌版に、衝撃の書き下ろしと、2011年からの日記が追加されたもの。
日記というものは、基本的に書き直しができない、その日その日の条件反射で書く文章だと思う。
しかも、この日記はすでにブログとして公開されているわけだから、書籍化にあたって大きく書き直すわけにはいかなかったはず。
にもかかわらず、その日の見た風景や感じた気持ちを、緩急自在に心のストライクゾーンに投げ込んでくるような文章力。
この本の紹介文でよく見かける「淡々とした筆致」という言葉では足りないものを感じる。
写真でも文章でも、一瞬を深く切り取っていく洞察力と反射神経が人並み外れている、ということなんだろうか。
特に2013年以降の、「屈折する星くずの上昇と下降編」とでも名付けたくなるような、好調な仕事、道ならぬ恋の終わりと自我の危機の記録。
それまでの主たる登場人物だった夫や子ども(もちろん家計や原発問題も)はおろか、日記の空白期間のほとんどを占めていたはずの恋人の記述すらも減っていき、ひたすら色彩のない深い内側に入り込んでいく様は、読み手の安易な共感を許さないまま、共に深淵に引きずり込んでいくような凄みがある。
そして行き着いた先にあるものは、「わたしはわたし」という事実。ただそれだけ。
主張や教訓、自己憐憫や言い訳など一切なし。
どうしてくれるんだ、この気持ち。
と、ワタシも深い井戸に置き去りにされたような気持ちになりました。
でも、よくよくそこで自分の気持ちを見つめてみると、この善悪を軽く超越して自由を求める生き様に恐怖すら覚える一方で、なんだか妙に清々しさを感じていることに気づく。
恋人だろうと家族だろうと、誰にも触れることのできない、人間一人ひとりの類なさ。
この、自分の中の一番深い部分を、力強く肯定された気がするのだ。
ともかく、5年に亘る上昇と下降を経て石田家に帰還したスターマン。
イヤーヨカッタネと言いたいところだけれども、彼女が(おそらく)この本を象徴する一言として、本の帯に選んだ言葉は、自分自身でも夫でもなく、別れた恋人の「愛はこういうことだよ」という言葉。
一方、その帯とカバーを外すと現れる鮮やかな水色の表紙は、ECDの名著"失点インザパーク"とうりふたつ。
これはどういう意味なのか。
少なくとも、彼女は決して我々が思う「正しくまっとうな場所」に着陸したわけではない、ということではないか。
最後にもう一度、胸ぐらをつかまれたような気がしました。