ドリーミー刑事のスモーキー事件簿

バナナレコードでバイトしたいサラリーマンが投げるmessage in a bottle

最近行ったライブの話(21年春。サニーデイ、SAGOSAID 、PALE BEACH)

去年はほぼ自粛していたライブハウス通いを再開させている。

事実上の営業禁止を強いられている音楽産業の苦境をただ眺めることと、可能な限りの感染対策をした上でライブに足を運ぶこと。そのどちらが罪深いことなのかを裁くことはもう不可能だと思うので、私は私の判断で、可能な限り後者を選びたいと思っている。


4/12は名古屋クアトロにサニーデイ・サービスを観に行った。もともと20年5月に予定されてた「いいね!」ツアーの会場はクアトロだったので、実質的な振替公演といってもいいかもしれない。この日のライブは前回行けなかった妻が優先ということでギリギリまで迷ったけど、娘に留守番を頼んで当日券で入場。新生サニーデイがツアーの中でどう変貌していくのかを観たいという欲望を抑えることができなかったのである。

前回はコロナ厳戒体制で行うツアー初日ということもあり硬かったバンドの雰囲気も、その後に各地を回ることですっかり馴染んだようで、「ソウルフルな名曲をどこまでも青くて熱いガレージサウンドで鳴らす」という大工原幹雄加入後のバンドの本質がより際立っているように思われた。ホワイトファルコンを抱えた曽我部恵一のずば抜けたミュージシャンシップとカリスマでぐいぐいと牽引する季節を過ぎて、大工原のパンクスピリットあふれるドラムの上でエフェクターもかかっていないフェンダーをザクザク鳴らして演奏していく様があまりにも若々しく、これもまたポップコーン〜the CITY期とは違う種類の魔法を見せつけられているようだなと思った。無理してでも行って良かったなというくらいに、心の芯から元気が出た。なお前回のボトムラインと同様、物販ではPAPERMOON細田さんが大活躍していた。


4/17は今池ハックフィンへ。去年の4月に予定されていたイベント「Departures」の一年越しの振替開催で、SAGOSAIDを観に行った。彼らを観るのは19年夏の下北沢ベースメントバー以来2度目。インタビューまでやらせてもらっているくらい大好きなバンドなのにこの有様。しかし冷たい春の雨が降る夜に、「Spring is cold」から始まったわずか30分弱のライブにおけるSAGO SAIDはあまりにも特別だった。90’sオルタナ直系の轟音ギターの中に光る美しいメロディーが彼らの魅力だと思うんだけど、聴く者の心に刺さる本質とは、そういう外形的な快感を超えたところにあるように思うんだよな。なんというか、フレーズの一つひとつから、うんざりした感じ、疲弊しきったムードが立ち昇ってくるんですよ。この日も「Past time」のイントロが鳴り出した瞬間、すごく絶望的な西陽が差してきた感じがした。この日ゲストで出演した6eyesのツチヤチカが「〇〇〇〇〇〇◯ちゃんと違ってSAGOSAIDは本物の90年代を鳴らしてるぜ」と言っていて、俺は〇〇〇〇〇〇◯ちゃんもすごく好きだけどねと反発しつつも、確かにこのSAGOSAIDがまとっている疲弊感はカート・コバーンが命を絶った90年代前半のアメリカのどん詰まり感と同じ種類のものかもしれないと思った(雑誌を通じてしか知らない世界だけど)。そしてそれは2021年の日本を覆う空気にとてもよく似ているということなのだろう。終演後、Skypeの音声インタビューでしか話したことのないメンバーの皆さんにご挨拶。思えばあの取材はコロナ前、リモート取材の先駆けだった。


そして少し間を置いて5/5。ゴールデンウィーク真っ只中に、移転後初めてのstiffslackへ。レコード店に併設されたライブハウスってありそうでなかったけど、庶民的な街の雰囲気と相まって、音楽と日常がシームレスに繋がった雰囲気が素晴らしい。なんか日本じゃないみたい。この日の目当てはTURNのBEST TRUCKS OF THE MONTHで紹介させてもらったPALE BEACH。まだ単独リリースとしては二曲入りのカセットしかないことが信じられないくらいに、完全に自分の世界が確立しているようなライブ。もうただただカッコよかった。ギターポップニューウェーブに対するまっすぐな愛を込めつつ、自分の鳴らしたい音以外は絶対に鳴らさない、迎合しない、視線も送らない。そんな気高さが眩しかった。

対バンのDAISY JAINEは音源も聴いたことがなかったけど、演奏もアレンジも完成度が高くて驚いた。イギリス北部を濃厚に感じさせるグルーヴとメロディ、そしてとっぽい雰囲気。私も世代的に観ることが叶わなかった、The Secret Goldfishのライブも、こんな感じだったのでは…などと夢想してしまった。

この難しい時期にライブを企画してくれたイベンターの方のセンスと行動力に深い感謝と敬意を捧げたい。


と、ここまで書き終えたところで愛知県にも緊急事態宣言が発令。まだ闇は続く。ワクチン早くくれよ。

小崎哲哉「現代アートを殺さないために」を読んだ話

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あいちトリエンナーレに端を発した大村愛知県知事の不正リコール問題。たぶん一般的には「うさんくさい医者と怪しげな政治家による度を超えた悪ふざけ」くらいの感覚なのかもしれない。


しかし私は、これは2000年代以降の日本社会に流れる三本の暗い濁流が混ざり合うことで起きた、象徴的な事件だと思っている。


一つ目の濁流は、本来は中立的な立場で住民サービスを提供するべき行政の長が党派性を剥き出しにして、国民や住民を二分する政治手法の蔓延である。小泉純一郎から橋下徹安倍晋三小池百合子松井一郎へとより品性を下げつつ引き継がれてきたやり方が、愛知県に襲いかかってきたということなのだろう。実際、首謀者たる河村たかしは、この県民の分断を煽るリコール活動を「名古屋市長としての公務としてやっている」と公言していたし、「表現の不自由展」に最初にクレームをつけたのは大阪維新の会を率いる松井一郎と吉村洋文だった。


二つ目は、2010年代前半に吹き上がった人種差別主義者による排外活動と、それに伴い息を吹き返した歴史修正主義者の跋扈だ。その代表とも言うべき存在が、今回の活動を支援した日本第一党在特会)、百田尚樹竹田恒泰といった面々である。この顔ぶれを見れば、今回のリコールの背景にどのような歴史観・国家観があったのかは言うまでもないだろう。安倍政権下の庇護を受けて増長した彼らによる付け火という感じすらする。ちなみに過去、高須克弥ホロコーストを捏造と発言しアウシュビッツ記念館から直接苦言を呈されたり、河村たかし南京大虐殺を否定したり、ベルリン市に設置された平和の少女像の撤去を求めて拒否されるなど、国際的な恥を重ねており、こうした勢力と極めて親和性が高い場所に立つ人物であることも付記しておく。


そして三つ目は、こうした企みを視界に入れながらも、スポンサーや政治家の顔色を伺い、正面から批判することを避け続けるマスメディアの責任放棄、ジャーナリズムの劣化である。表現の自由という民主主義の根幹が、政治家の介入、脅迫という直接的な暴力によって脅かされていたにも関わらず、彼らのあいトリに対する反応は終始冷淡だった。メディア各社にとって高須や河村、維新の会とは、時にスポンサーであり、時に監督官庁に影響力を行使し得る権力者であり、そして無料でニュース素材を提供してくれる存在だったのかもしれないが、その結果として、「昭和天皇や特攻隊を侮辱する作品」といった彼らの作品に関する主張は検証されることもない自らまま、一定の信憑性を持って世間に浸透してしまった。そして明らかに違和感のあった「43万筆」の署名に対する反応も鈍く、今なお「不正には一切関与していない」という彼らの言い分が無批判に垂れ流されている始末だ。


こうした年々勢いを増す一方であった「いやな流れ」を津田大介大村秀章という数少ないまっとうな人たちが堰き止めたことにより、濁った水がどっとあふれ出したというのが、今回の不正リコールの政治的・社会的な方向から俯瞰した光景だと捉えている。


では逆に、この事件をアートの世界から見ると、いったいどのように位置付けられるのか。その問いに200%の情報量と明快さ、そしてスリリングな筆致で答えてくれるのがこの小崎哲哉「現代アートを殺さないために」である。


第一章ではドナルド・トランプグッゲンハイム美術館のせめぎ合いである「黄金の便器事件」を入口に、保守勢力とリベラル、アーティストの文化戦争の歴史を紐解いた上で、二章であいちトリエンナーレの表現の不自由展の中止に関する経緯を、主催者側の問題点も指摘しつつ、詳細に解説する。この章まで読めばあいトリを巡る賛否両論の「否」の根拠がいかに虚ろで危険なものかが分かるわけだが、話はここにとどまらない。あいトリ以前にも、粛々と進んでいた安倍政権下における恣意的な芸術表現への介入とそれを易々と許してしまうアート界の脆弱性についても指摘することで、この問題が愛知県という一地方における茶番ではないことを明らかにしていく。(なお、同じように新型コロナウィルスというパンデミックを数百年にもおよぶ芸術史に紐づけて論じた三章以降もとても興味深い)。


こうして雑駁に概略を書いてしまうと、政治的な話題・解説に終始した内容にも思えてしまうかもしれない。しかしこの本の最も素晴らしい点は、政治と現代アートの関連性を綿密かつ具体的に解説することを通じて、現代アートの楽しみ方を私のような専門知識の乏しい読者にもわかりやすく教えてくれる点にあるように思う。例えば、安倍晋三のお友達としても知られた俳優・津川雅彦が発案した展示コンセプトに基づき、長谷川祐子がキュレーターを務めた「深みへ‐日本の美意識を求めて‐」について書かれたパート。ここを読めば、安倍政権の偏狭な国家観への忖度が疑われる展示内容の問題点と共に、一般的にはあまり馴染みのないキュレーションというもののあり方や奥深さも知ることができる。


この本の中で著者は、恣意的な政治的介入から表現の自由・独立を守るためには、アーティストのみならず美術館スタッフも含めた連帯が重要だと繰り返し説いているが、美術館職員は非正規雇用が多く、その立場は弱く、コロナ禍によりより不安定さを増している。やはり権力への牽制機能を果たすには、現代アートのファン・理解者を増やすことで、大きな塊をつくることが不可欠だろう。その意味においても、この本が果たす役割は大きいように思う。

 

横尾忠則「GENKYO」を観に行った話

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横尾忠則の作品はそれこそ物心ついた頃からあらゆるメディアで目にしていたが、あまりのビッグネームだからか、あるいは私の脆弱な感性のせいか、その表現にちゃんと向き合うことなくこの年まで生きてきてしまった。「アングラ」「スピリチュアル」という彼を語る時に必ず登場するキーワードが、清潔・退屈・無味乾燥なニュータウン文化圏で育った私にはどうにも敬遠せざるを得ないものだったんですよね…。その感覚は、ある時期までの細野晴臣にも通じることなんですけど。

とは言え私ももういい大人。人間の幅も広がってきた(はず)。芸術を見る目も昔とは違う(はず)。好き嫌いは別として、何か感じるものがあるだろうと愛知県美術館に足を運んだわけだけど、この巨匠はまったく容赦なかった。展示されたすべての作品がここではない世界へ誘うように、あるいは引き摺り込むように、ぱっくりと巨大な口を開けて私に迫ってきた。そのあまりの妖力にやられて、途中で(吸えない)煙草が無性に欲しくなってしまった。

「GENKYO」「原郷」「幻郷」「現況」とも読み替えられるタイトルの通り、子供の頃にコタツの中で見たような夢とうつつの間の風景、あるいは心の奥深くに封印してあるリビドーの原風景。赤裸々かつ執拗に、信じられないくらいに高度な技術と先鋭的なアイデアでもって具象化された作品数はざっと70年分・700点。それらが展示室の外の通路にあふれている様は、創造と狂気の拡大再生産と呼びたくなるものだった。と同時に、彼がいなければ存在しなかったであろうものたちの膨大さに思いを巡らせてしまい、またしても気が遠くなった。

そうした作品の中で唯一、一切の邪気を感じさせないシリーズがあった。それは横尾忠則が飼っていた愛猫タマの何気ない仕草や表情を描いた「帰っておいで、タマ」と名付けられた作品。その作品群だけは、ひたすら真っ直ぐな愛と優しさだけで満たされているように思う。しかし逆に言うと、この鬼才から毒気を抜き去ってしまう猫の愛らしさこそが、実は最も恐ろしいものなのでは…という気もしてくる。あれだけ人間の裏側にあるエロスを追求した(しすぎた)荒木経惟もそうであったように。なので凡庸オブ凡庸の私が猫に溺れてしまうのも、きっとやむを得ないことなのだろう。これからはより堂々と我が家の死ぬほど愛らしいキャットたちを可愛がっていきたい。お互いが現世にいる間に。


この日は時間があったのでコレクション展もじっくり観ることができた。正直、愛知県美術館のコレクションは豊田市美術館などに比べるとかなり地味という先入観があったのだけれども、展示に趣向が凝らされていることもあり、とても面白か観ることができた。特に「令和2年度新蔵作品」と書かれた作品は、(ある意味で横尾忠則とは対照的な)今日的で透徹したアティテュードが強く反映されていたものが多く、とても素晴らしかった。これらの作品は大村愛知県知事がコロナ禍における若手アーティスト支援の一環として提案した予算によって購入されたものだけど、その中に占める女性アーティストの比率が高いということも着目しておきたい。ここにはきっと「出展作家のジェンダーバランスを等しくする」というあいちトリエンナーレのポリシーが生かされているのだろう。不正リコール騒動の狂騒をよそに、着実にアートが社会を前進させていることを、主権者の一人として誇らしく感じずにはいられなかった。

”田中ヤコブと家主” @wwwの配信ライブを観た話

例によって配信最終日に駆け込みで田中ヤコブと家主のツーマンライブ@渋谷wwwを観た。もう最高すぎてその晩のうちに二回も再生してしまいましたよ。


最初は田中ヤコブのエレキ弾き語りソロ。今のところ唯一のヤコブ体験はちょうど2年前の今ごろ観た「うたのゆくえ vol.2」に合わせて行われた京都タワレコのインストアライブ。あの時も今回と同じ弾き語りだったけど、聴き手のことを意識しているのかどうかも分からない閉じ方と、とりあえずただ者ではないぞ…という鬼才感が強く印象に残っている。なのでこの日のヤコブ氏の、聴き手に真っ直ぐ向けられた歌心にはとても驚いたし、この人の歌はきっと50年後も必要な誰かに届いているだろうな…と勝手な想像を膨らませてしまった。特に、この社会からはみ出しそうになってるすべての老若男女を照らしてくれるような「ミミ子、味になる」はぜひちょうどこの日、浪人することを決めた甥っ子にも聴いてほしいな、レコードをプレゼントしようかなと思ったほど。でもナントカ坂46が大好きなんだよな、あいつ…。


そして、続く家主。こちらはまだ生で目撃したことはなく、去年渋谷ラ・ママの配信ライブで観たことがあるだけ。あの時は荒々しいガレージ感とエバーグリーンな楽曲、そして高校野球の部室にメジャーリーガーが混じったようなヤコブ氏の超絶ギターの支離滅裂感にビリビリきたけど、この日の彼らはそのバラバラ具合をバンドの個性としてモノにしているように思われた。

ヤコブ氏のギターはハードロック直系のバカテクフレーズをガンガンぶち込んでくるけど、そこには大ネタづかいのヒップホップのようなダイナミックな快感とユーモアがあり、それを受け止めるバンドの(100%褒め言葉としての)野暮ったさもたまらない。ベースの田中氏の朴訥としたノエル・ギャラガー的佇まい、冬なのに坊主でタンクトップの岡本氏の漫画感、ボーカルを取る時だけつい直立不動になっちゃう谷江氏の愛らしさ…。おいバンドって本当に最高だな!と隣の人の肩をバンバンせずにはいられなかったよ(一升瓶を抱えながら)。アンコールで披露された「THE FOG」はもう完全に20年代の「永遠なるもの」でしょこれ…という気持ちになってしまい滂沱の涙を流していた。


それにしても、田中ヤコブと家主をはじめ、台風クラブや本日休演…NEW FOLKから作品をリリースしているアーティストは皆どこか不器用かつ厭世的な空気をまといつつも、それでもポップミュージックの革新と普遍を真摯に追求しようとするストイシズムを漂わせている。あらかじめ失われた世代が、焼け野原みたいな2020年で鳴らす希望。こういうミュージシャンがいること自体になにか勇気づけられるような気持ちになるのです。

猫の日。

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海に行くつもりじゃなかった。

もとい。

猫を飼うつもりじゃなかった。

子供の頃から猫アレルギーだし、何を考えているのかよくわからない雰囲気もちょっと苦手だったし。


小学生の頃から就職で家を出るまで、実家で犬を飼っていた。コロという名前の白い雑種のメス。出来の悪い末っ子だったドリーミー少年にとっての妹であり、姉であり、親友のような存在だった。しかしその関係の深さゆえに、子供から看取りまで生涯を共にすることの大変さも知っており、人間の子育てに追われている現世においては、もう動物と暮らすことはないかなと思っていた。例えば、嵐の日に軒下で猫が出産していたとか、雪山で遭難した俺を野良犬が助けてくれた、といった劇的なことが起こらない限りは。


そんな偏見まじりの頑な姿勢が揺らいだのは、数年前に訪れた松本市のMarking Recordsさんで、看板猫のサラちゃんに会った時だったのかもしれない。人懐こく足元にジャレついてきてくれるので、つい禁を破って手を伸ばしてしまったのだが、鼻も目も喉もなんともなかった。アレルギーは治ってしまったようである。そして猫はかわいい。とてもかわいい、ということも知ってしまった。


とは言えやはり直接的なきっかけになったのは、コロナ禍による在宅勤務へのシフトだ。いつまでこの暮らしが続くのかは分からないけど、少なくとも一番手がかかるであろう仔猫の時期は家にいることができる。今のところ世話をすると言い張っている子どもたちが面倒を見なかったとしても、俺がカバーできるなという気持ちになってきた。

そんな話を妻にしてみたところ、職場に野良猫の保護活動をしている方がいるとのことで、そちらの団体の譲渡会に行くこと。

絶対に引き取るのは一匹だけと固く決心していたのだけど、気がつくとうっかり二匹も引き受けていた。生後2ヶ月ほどのオスのキジトラと、同じく1ヶ月くらいのメスの黒猫。名前はキュウ太、メイとした。ちなみにキュウ太は母猫のお腹の中にいる時に保護されたが、メイは生後しばらくは野良だった。

 

しかし正直に言うと、譲渡会でこの二匹に会った時も、うおーかわいい!!みたいな気持ちにはならなかった。むしろこの猫たちを、俺は果たして生涯無事に育てることができるのだろうか。ちゃんとエサ代を稼ぐことができるのか。コロナ禍真っ只中ということもあり、そんな不安の方が大きかった。ちなみに子供が生まれた時もわりとそんな感じだったような記憶がある。根暗で悲観的という私の軸は決してブレないのである。

 

しかし我が家にやってきた猫たちの生命の輝きは、そんな私を完全に圧倒してしまった。昔から我が家にいるかのようにリラックスした寝顔、王様のように図太くエサを要求する鳴き声、初めて見るであろうピアノやターンテーブルにいちいちドキドキしながらいたずらをする姿があまりにも眩しすぎたのである。

そして何よりもクラクラしてしまった点は、この猫と私たち、そして猫同士は、ついこないだまでまったくの他人・他猫だった、という事実である。この子たちがボランティアさんに拾われたのも、私たちが譲渡会でこの二匹を引き取ろうと決めたことも、すべて偶然なのである。この目の前に広がる揺るぎない幸福が、「純度100%のたまたま」という脆いものから生じているということは、私の心を打ちのめした。

その衝撃は私の人格にも影響を与えたように思う。それまで私の中の8割は占めていたであろう怒りや焦りといった煩悩または欲望が、体感レベルでは半分くらいに減ったような気がした。妻からも聖人感が出てて逆にやばいと心配されるほどの豹変ぶりで、甲斐甲斐しく猫の世話をした。子供たちに手を出す隙を与えないほどの完璧さで…。


その結果、猫たちがどうなっているかということも書きたいのだけれども、そろそろ猫の日(2/22)が終わってしまうので、今日のところはここまでにしたい。

 

私を遠くに連れてって

24歳の時に初めて車を買って以来、7台目となる車がやってきた。それまで乗っていたランクル100を、反社会的な燃費と反家計的な税金に耐えかねて売却。そのお金で買ったBMW320のワゴン。国道沿いの激安ショップに並べられていた8年落ちの中古である。軽自動車よりも断然安い。だったら軽に乗ればええやんけ、クルマにこだわるなんてダサいやろ、というのが令和の感覚だと言うことはわかっているけど、どうしても私は車を移動の手段として割り切ることができない。昭和生まれの悲しさよ。

ついでに告白しておくと、政治的にはリベラル、文化芸術においては後衛よりも前衛を好む私だけれども、こと車に関しては完全に保守的で古典派で国籍主義者である。ドアか4枚着いているポルシェなんてポルシェじゃないと思っているし(ドアの枚数に関わらず買えないくせに)、最近のSUVブームにも「ニワカだね…」と内心マウントを取りながら、日本が誇る伝統と信頼のブランド・ランドクルーザーに乗っていた。


しかしそういう偏屈な人間にとっての車探しは年々難しくなっている。シトロエンはバネの代わりに風船を用いた変態サスペンションをやめてしまって久しいし、イタリアの秘宝ランチアデトロイトクライスラーと同じ会社になってしまったし、憧れのサーブは完全に消滅してしまった。自動車という工業製品からその産地を象徴する要素、いわば愛すべき民芸品の香りが、グローバルマーケティングの進展によってすっかり失われてしまったのだ。


ではいっそ、思い切って古い車を手に入れてドレスアップ(ダウン)して乗るというのはどうだろう。雑誌GO OUTやBRUTUSに出てくるようなやつ…とも思ったが、どうもしっくりこない。私が求めているのオシャレさではないのである。ついでに言うと、かつて70万円のベンツを真冬の高速道路や真夏の交差点の真ん中で立ち往生させた前科もあり、最低限の信頼性は必須でもある。

 

いったい車に対して私が求めているものとはなんなのか。自分でもよくわからないまま長年にわたって偏屈さをこじらせてきたけれども、今回の乗り換えにあたってじっくりと考えてみた。

その結果行き着いたのは、私が追求しているのはある種の「エキゾ感覚」ではないかということである。コンビニとユニクロとパチンコ屋が並ぶ田舎の県道を走りながら、「フランス車のサスペンションが柔らいのは石畳の上を走るからなんだろうな…」とか「イタリア車の樹脂部品のポップなデザイン、やっぱアレッシィやドリアデの国だよね、まあすぐ溶けるんだけど」とか「この鋼鉄の棺桶に入っているような剛性感こそゲルマン魂だぜ…」といった無責任な妄想をかきたて、退屈な景色の外側へと誘ってくれる相棒。そんな車が欲しいのである。ちなみに今まで乗っていたランクルは今のところ唯一保有した国産車だけど、それを運転する時だって「砂漠で迷子になりながらも生きて帰ってくる俺」が常に心の中にいたことは否定できない。


では今回のBMWはそんないびつな欲求を満たしてくれる車なのだろうか。たしかにブランドとしては、グローバルな合従連衡とは距離を置きドイツ国籍を堅持。そしてFRや50:50の重量バランスなど、エンジニアリング面での伝統にこだわり続ける老舗感はある。しかしいかんせん世の中で走っている数が多すぎて、路上におけるエキゾ感は弱いと言わざるを得ない。が、私がわざわざ愛知県の果てまで遠征して探し当てたこの車は、黒または白のボディーカラーが圧倒的大多数を占めるBMWファミリーにおいては少数派の紺。その中でもレアな、ほとんど黒のように深い紺色。そしてシートはこれまたほぼ黒一択のBMW勢においては異色の、まるでイタリア製家具を思わせる茶色の革。質実剛健・マッチョが売りのドイツ代表の中で放つ、この洒脱なエレガンスと誇り高きコスモポリタンぶり。まさに私の求めるエキゾ感がここにあると言っても過言ではないだろう。

お金持ちでちょっと変わったセンスの前オーナーに感謝しつつ、ヤングタイマーと呼ばれる日がくるまで生活を共にしたいと思っている。


以上、「車を買いかえたよ」という、普通に書けば8文字で済む報告を終わります。

「土曜の午後 日曜の朝vol.2」で関美彦のライブを観た話

1/30、1/31に行われた「土曜の午後 日曜の朝vol.2」というイベントでの、関美彦さんのライブが配信された。しかも北山ゆう子、伊賀航というスーパーリズムセクションを率いたバンドセット。まさに私が夢にまで見たやつじゃないですか…。これは最高のコンディションで見なければ!と鑑賞するタイミングを探っているうちアーカイブ配信期間ギリギリに。結局前日の夜中になって、家族が寝静まった後にヘッドホンを被って鑑賞したのだけれども、関美彦がいかに特別なミュージシャンであるかということを、改めて感じ入るライブだった。素晴らしすぎて途中で2回くらい泣きそうになったのだけれども、それはもしかすると飲みすぎたワインのせいかなと思って次の日もう一回観た。しかしやっぱり鼻の奥がツンとしたので、この感想に間違いはないと思う。

 


ゲストボーカルで出演したルカタマ、小日向由衣さんとの会話をしている時の関さんは、はっきり言ってアイドルが大好きすぎるおじさんでしかない。アイドル事情に疎い私のような者からすると、関さん大丈夫?なんかいじめられてない?と心配になるほどに。


が、ひとたび演奏が始まれば、その危うさは一変。(たしか)指が痛いからという理由で封印していたはずのギターでコードをかき鳴らし、真剣にリズムを刻む姿には、誇り高きミュージシャンシップに溢れていた。私が過去2回観た関さんのライブはいずれもピアノの弾き語りで、死の気配すら感じさせるデカダンな美しさがあったのだけれども、この日の関さんは完全に生のエネルギーを放っているように思えた。

そこで私が思い出したのは、去年小西康陽がPIZZICATO ONE名義でリリースしたライブ盤「前夜 ピチカート・ワン・イン・パースン」。あのアルバムが、深い感動をもたらしたのは、小西康陽が音楽において最もプリミティブな表現形態である「歌」というものに、一切のギミックを仕込まず、ただ愚直に立ち向う姿が記録されていたからというところにあるだろう。この日の関さんの姿にも、それに通じる佇まいがあったように思うのである。もちろん手練のミュージシャンたちによる最高の演奏が彼らの歌を支えていたという点も「前夜」同様である。ラストの超名曲「Blue」の完璧な演奏を、私は決して忘れることはないだろう。


もうアーカイブ期間は終わってしまったのだけれども、YouTubeに少し動画も上がっているようなのでぜひ観て頂きたいと思うのです。

https://youtu.be/yjNAMPdjBe8