ドリーミー刑事のスモーキー事件簿

バナナレコードでバイトしたいサラリーマンが投げるmessage in a bottle

私を遠くに連れてって

24歳の時に初めて車を買って以来、7台目となる車がやってきた。それまで乗っていたランクル100を、反社会的な燃費と反家計的な税金に耐えかねて売却。そのお金で買ったBMW320のワゴン。国道沿いの激安ショップに並べられていた8年落ちの中古である。軽自動車よりも断然安い。だったら軽に乗ればええやんけ、クルマにこだわるなんてダサいやろ、というのが令和の感覚だと言うことはわかっているけど、どうしても私は車を移動の手段として割り切ることができない。昭和生まれの悲しさよ。

ついでに告白しておくと、政治的にはリベラル、文化芸術においては後衛よりも前衛を好む私だけれども、こと車に関しては完全に保守的で古典派で国籍主義者である。ドアか4枚着いているポルシェなんてポルシェじゃないと思っているし(ドアの枚数に関わらず買えないくせに)、最近のSUVブームにも「ニワカだね…」と内心マウントを取りながら、日本が誇る伝統と信頼のブランド・ランドクルーザーに乗っていた。


しかしそういう偏屈な人間にとっての車探しは年々難しくなっている。シトロエンはバネの代わりに風船を用いた変態サスペンションをやめてしまって久しいし、イタリアの秘宝ランチアデトロイトクライスラーと同じ会社になってしまったし、憧れのサーブは完全に消滅してしまった。自動車という工業製品からその産地を象徴する要素、いわば愛すべき民芸品の香りが、グローバルマーケティングの進展によってすっかり失われてしまったのだ。


ではいっそ、思い切って古い車を手に入れてドレスアップ(ダウン)して乗るというのはどうだろう。雑誌GO OUTやBRUTUSに出てくるようなやつ…とも思ったが、どうもしっくりこない。私が求めているのオシャレさではないのである。ついでに言うと、かつて70万円のベンツを真冬の高速道路や真夏の交差点の真ん中で立ち往生させた前科もあり、最低限の信頼性は必須でもある。

 

いったい車に対して私が求めているものとはなんなのか。自分でもよくわからないまま長年にわたって偏屈さをこじらせてきたけれども、今回の乗り換えにあたってじっくりと考えてみた。

その結果行き着いたのは、私が追求しているのはある種の「エキゾ感覚」ではないかということである。コンビニとユニクロとパチンコ屋が並ぶ田舎の県道を走りながら、「フランス車のサスペンションが柔らいのは石畳の上を走るからなんだろうな…」とか「イタリア車の樹脂部品のポップなデザイン、やっぱアレッシィやドリアデの国だよね、まあすぐ溶けるんだけど」とか「この鋼鉄の棺桶に入っているような剛性感こそゲルマン魂だぜ…」といった無責任な妄想をかきたて、退屈な景色の外側へと誘ってくれる相棒。そんな車が欲しいのである。ちなみに今まで乗っていたランクルは今のところ唯一保有した国産車だけど、それを運転する時だって「砂漠で迷子になりながらも生きて帰ってくる俺」が常に心の中にいたことは否定できない。


では今回のBMWはそんないびつな欲求を満たしてくれる車なのだろうか。たしかにブランドとしては、グローバルな合従連衡とは距離を置きドイツ国籍を堅持。そしてFRや50:50の重量バランスなど、エンジニアリング面での伝統にこだわり続ける老舗感はある。しかしいかんせん世の中で走っている数が多すぎて、路上におけるエキゾ感は弱いと言わざるを得ない。が、私がわざわざ愛知県の果てまで遠征して探し当てたこの車は、黒または白のボディーカラーが圧倒的大多数を占めるBMWファミリーにおいては少数派の紺。その中でもレアな、ほとんど黒のように深い紺色。そしてシートはこれまたほぼ黒一択のBMW勢においては異色の、まるでイタリア製家具を思わせる茶色の革。質実剛健・マッチョが売りのドイツ代表の中で放つ、この洒脱なエレガンスと誇り高きコスモポリタンぶり。まさに私の求めるエキゾ感がここにあると言っても過言ではないだろう。

お金持ちでちょっと変わったセンスの前オーナーに感謝しつつ、ヤングタイマーと呼ばれる日がくるまで生活を共にしたいと思っている。


以上、「車を買いかえたよ」という、普通に書けば8文字で済む報告を終わります。

「土曜の午後 日曜の朝vol.2」で関美彦のライブを観た話

1/30、1/31に行われた「土曜の午後 日曜の朝vol.2」というイベントでの、関美彦さんのライブが配信された。しかも北山ゆう子、伊賀航というスーパーリズムセクションを率いたバンドセット。まさに私が夢にまで見たやつじゃないですか…。これは最高のコンディションで見なければ!と鑑賞するタイミングを探っているうちアーカイブ配信期間ギリギリに。結局前日の夜中になって、家族が寝静まった後にヘッドホンを被って鑑賞したのだけれども、関美彦がいかに特別なミュージシャンであるかということを、改めて感じ入るライブだった。素晴らしすぎて途中で2回くらい泣きそうになったのだけれども、それはもしかすると飲みすぎたワインのせいかなと思って次の日もう一回観た。しかしやっぱり鼻の奥がツンとしたので、この感想に間違いはないと思う。

 


ゲストボーカルで出演したルカタマ、小日向由衣さんとの会話をしている時の関さんは、はっきり言ってアイドルが大好きすぎるおじさんでしかない。アイドル事情に疎い私のような者からすると、関さん大丈夫?なんかいじめられてない?と心配になるほどに。


が、ひとたび演奏が始まれば、その危うさは一変。(たしか)指が痛いからという理由で封印していたはずのギターでコードをかき鳴らし、真剣にリズムを刻む姿には、誇り高きミュージシャンシップに溢れていた。私が過去2回観た関さんのライブはいずれもピアノの弾き語りで、死の気配すら感じさせるデカダンな美しさがあったのだけれども、この日の関さんは完全に生のエネルギーを放っているように思えた。

そこで私が思い出したのは、去年小西康陽がPIZZICATO ONE名義でリリースしたライブ盤「前夜 ピチカート・ワン・イン・パースン」。あのアルバムが、深い感動をもたらしたのは、小西康陽が音楽において最もプリミティブな表現形態である「歌」というものに、一切のギミックを仕込まず、ただ愚直に立ち向う姿が記録されていたからというところにあるだろう。この日の関さんの姿にも、それに通じる佇まいがあったように思うのである。もちろん手練のミュージシャンたちによる最高の演奏が彼らの歌を支えていたという点も「前夜」同様である。ラストの超名曲「Blue」の完璧な演奏を、私は決して忘れることはないだろう。


もうアーカイブ期間は終わってしまったのだけれども、YouTubeに少し動画も上がっているようなのでぜひ観て頂きたいと思うのです。

https://youtu.be/yjNAMPdjBe8

 

 

 

文部省著 「民主主義」を読んだ話

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敗戦直後の1947年に出版された中高生向け教科書。「文部省著」とあるので当時の官僚が書いたものだが、現代では考えられないくらい踏み込んだ筆致に、二度と軍国主義に戻さないという決意と良心を感じる。とても公の文章とは思えない体温がある。

例えば「熱意と理解とをもって政治に参与することは、法律上の義務ではなくて、むしろ道徳上の義務である。道徳上の義務であるというよりも、むしろ多くの人々の幸せを思う愛情の問題なのである」とか「政府の権力に迎合する新聞を御用新聞と言うが、政府でなく金権階級におもねるような新聞も、御用新聞であることに変わりはない」とか、正しいことを言わせてもらえなくなった令和の官僚には絶対に書くことができないキラーフレーズだらけ。

この本を読んで改めて、信仰というものをほとんど持たない私が、それに近いくらいに大切にしているものが民主主義という理念なのかもしれないと思った。民主主義を守るためなら命をかけるとは言えないけど、ちょっとくらいの痛みなら我慢するぜ…と小石程度の覚悟はある。もし私の中に愛国心と呼ばれるものがあるとするならば、それは「伝統」とか「国民性」といった曖昧模糊なフィーリングに対するものではなく、この国の民主主義とそれに基づく諸制度に対して、であるのです。


なぜ私が民主主義というものにそんなにこだわるのか。理由はいくらでもあるけど、最も端的なことを言えば、日本が二度と悲惨な戦争を起こさないためである。

明治から昭和初期にかけての時代に、もし民主主義というものが十全に機能していれば太平洋戦争を回避できただろうし、せめてもう少しマシなものであったならば、沖縄、広島、長崎をはじめ日本中が焼け野原になる前に止めることができただろう。だって、国民が正しい知識と情報、そして政治の方向性を決定する主権を握っていたとしたら、果たしてあの愚かしい戦争を選ぶだろうか。んなわけねーじゃん、と考えるのが自然だろう。情報の隠蔽と国民主権の不在、つまり民主主義の機能不全により、「日本人はあの戦争を選ばされた」のだ。

そんな私の思いを裏付けるように、この本の冒頭でも「民主主義を正しく学び、確実に実行されば、繁栄と平和とがもたらされる。反対の場合には、人類の将来に戦争と破滅とが待っている」とはっきりすぎるくらいはっきりと言い切っている。繰り返すけど、敗戦からわずか2年後に書かれた文章である。これが当事者としての実感なのだろう。


ただ、民主主義と一言に言っても、それを定義することは難しい。「多数決=民主主義」と思っている人もいるだろうし、「新自由主義こそが究極の民主主義」という人もいるかもしれない。特にこの10年くらい、民主主義はその定義の難しさと維持にかかる手間ゆえに、枠組みを矮小化されたりないがしろにされたり攻撃されたり、という憂き目に遭っている。SNSでも、あまりにも多くの人たちが、判断に必要な基礎知識を持たないまま、やがて自分たちの権利を抑圧することになるであろう、民主主義を否定する政策やリーダーを盲目的に支持しているように思われる。

「一人ひとりが決定権を持つ」というあたりまえを手に入れるために、どれだけの時間と犠牲が払われてきたか、もう少しちゃんと考えてよね!と言いたくなったりもするけど、これはその人たち一人ひとりの責任というよりも、そこにつけ込んで誤った言説を吹き込んだり、正しい情報を隠す権力者の問題だし、もっと広く捉えれば民主主義を支える基盤である学校教育の問題に行き当たるのだと思う。ぜひこの本をリイシューして、民主主義の基本を学ぶべきだと思うんですよね…。なぜ私はトランプや安倍に対して小石を投げ続けているのか、なんで差別はダメ!とか言っているのか、その答えは70年前に全部明らかにされていたのです。

 

ただ、この本にも難点はある。それは女性の権利の話。ちゃんと「日本婦人の新しい権利と責任」という章があり、女性の権利と社会参加の重要性が説かれているのだけれども、「家事・育児は女性の仕事」ということが前提になっているように感じられ、2020年の価値観とは相容れない。しかしこの彼我のギャップこそ、戦後の民主主義の進歩を示す証なのかもしれない。戦後にも民主主義の実践のために戦ってきた人たちがいる、ということなのである。


以上、つらつらと偉そうに書いてきたけれども、この本によると「民主主義とはまず家庭において実践されなければならない。親は親だから権威があるのではなく、親たる愛と年長者としての識見と経験をもってこそ」だそうである。愛と識見…。民主主義の信奉者たる私は果たして実践できているのだろうか。試しに下の娘に「あなたのお父さんは民主主義的リーダーですか?」と聞いてみたところ、「働いたり、乗っかられたりして、馬みたい。民主主義のことは知らないし、リーダーだとは思っていない」とのことだった。権威とは…。

 

 

佐久間裕美子+若林恵「こんにちは未来」を読んだ感想と仕事の愚痴

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帰省もできないこの冬休みには絶対に本を読もうと決めて、かなり前にON READINGで手に入れてあった佐久間裕美子・若林恵「こんにちは未来」の3冊セットを一気に読み、とても刺激を受けた。


お二人の会話をまとめたこの本には、何か明確な結論が書いてあるわけではないのだけれども、「結論≒情報」はネットで簡単に手に入ってしまう時代である。私が生活者として、あるいはビジネスマンのはしくれとしてこの本を読んで有意義に思えたのは、未来志向の(ただし、現代でちゃんと地に足をつけた)人たちのモヤモヤした空気というか、まだ答えの出ていない問題に対する態度に触れることができたこと、という点にある。まだ答えが出ていない問いや課題にこそ、新しい可能性あるいは脅威が潜んでいるわけだから…。


今の私の仕事(刑事ではない方)をざっくり言うと、会社の従来領域とは違うところで何か新しいビジネスを起こしなさい、といういかにも閑職感あふれるものなのだけれども、もうこれが本当に難しくて泣けてくる。100万個くらいあるうまくいかない理由を総じて言うと、「この世に新しいビジネスという名のビジネスは存在しないから」ということなるのだろう。弊社にとっての新領域は誰かにとっての従来領域であり、長年その領域に根を張り、しのぎを削ってきた先達がいる。そこに後からノコノコやって来た俺たちが中途半端なアイデアと資本を投下したところで、それに見合った利益をあげることなど到底不可能。つーかいいカモでしかない。じゃあ誰もいないところで釣り糸垂らせばいいじゃーん、という話なんだけど、そこにはまったく魚がいないんですよねー。

ともかく、ちょっと目新しいくらいの「テック」とやらでゲームチェンジは起きないのですよ社長。はい分かってます。ただの言い訳ですね。


なので本当に新しい領域で新しい商売をやりたいのであれば、この本で語られているような、まだ固定化されていない社会の空気感、潮流、倫理、大義…そういったものをメンバーが共有するところから始めないといけないように思うのだけど、果たして会社という「定款によってビジネス領域が定められた組織」において、それが可能なことなのか未だによくわからない。この本渡したらみんな読むかな?読まないだろうな…。


そんな感じで今年も悩みは尽きないけど、今年こそ未来をこんにちはさせないといよいよ給料をもらえなくなる気がする。これからはちゃんとPodcastも聞いてアップデートしようと思います(フォローしました)。

 

スカート「アナザー・ストーリー」を聴いて思ったこと

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スカート「アナザー・ストーリー」のフラゲに失敗した私が自分を慰めるために思いついたアイデアは「アナザー・ストーリーと同じ曲順でオリジナルバージョンを並べたプレイリストをつくる」という作業だった。

いつもならSpotifyでチョチョイとつくるところなのだが、今回の収録されたカチュカサウンズ時代の楽曲はSpotifyには上がっていないのである。なので、ハードディスクのライブラリから一曲ずつタイトルを入れて検索していったわけだが、「おばけのピアノ」と入れると6バージョンも見つかった。そして「すみか」「月光密造の夜」も5つずつ、「返信」は4つの異なるテイクが発見された。

活動歴10年。決して短くはないが、ベテランという域でもないミュージシャンにしては、異常な数のようにも思われるテイク数。何度も何度も録り直す楽曲への偏愛と、それに応える楽曲の耐久性。そしてやや恩着せがましく付け加えるなら、そうしたセルフカバー作品についつい手を伸ばしてしまうリスナーとの信頼関係。そこにスカートの特殊性が凝縮されてるように感じた。

 

さて、自作のプレイリストを経た後、満を持して聴いた「アナザー・ストーリー」。奇をてらわず、原曲のそれをほぼ活かした、ストレートなアレンジは、私がスカートを知ってからの5年間で観続けてきたライブでの演奏そのままの躍動感。ついイントロや間奏で「キーボード佐藤優介!」「ドラム、シマダボーイ!」などと合いの手を入れたくなってしまうほどの生々しさがある。スカート最大の魅力の一つである「肉体性」が全面に押し出された、血湧き肉躍るサウンドなのである。

 

それにしてもここまで原曲に忠実なアレンジというのは、「NICE POP RADIO」で開陳される音楽リスナーとしての博覧強記ぶりを考えるとやや意外という気もする。しかし活動開始から10年という歳月をかけてたどり着いた最高のメンバーによる最高の演奏を、そっくりそのまま録音することこそが、自らの楽曲と歩みに対する最大の肯定なのだろう。そしてそれは同時に、未だカチュカサウンズ時代の楽曲に触れていないリスナーの完璧すぎる自己紹介でもある。

このアルバムでスカートの過去作の素晴らしさを初めて知ったリスナーは、スカートを初めて知った5年前の私のように、ストリーミングサービスでは聴けない音源を求める旅に出て行くことになる。その道程においては、例えばココナッツディスクのような素晴らしいレコードショップだったり、ミツメやトリプルファイヤー、TJNYといった盟友の音源にぶち当たることもきっとあるはず。つまりこのアルバムからリスナーそれぞれの、無数の物語が広がっていくと言えるのではなかろうか。そう思うと「アナザー・ストーリー」というタイトルに潜む深みをしみじみと感じてしまう。そして、この5年間、スカートが私に見せてくれた景色の豊かさを思い返し、ますますしみじみとした感謝の念がたえないのである。

 

 

 

2020年12月22日 サニーデイ・サービス ライブ@今池ボトムライン

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今この文章が世に出ているということは、この日のライブで私はコロナに感染することは(おそらく)なかった、ということである。それが分かるまではどうしても「サニーデイのライブいってきました!」と大きな声では言えない後ろめたさがあった。そんな後ろめたさに意味はないのかもしれないけど、医療体制がひっ迫する中で、自分のわがままを優先させてもらったと思っているし、様々な理由で行きたくても行けなかった方には申し訳ない…という気持ちを今も抱いています(私の妻も行けませんでした)。


なお会場では念入りな予防策が取られており、消毒、換気、ソーシャルディスタンスはもちろんのこと、アルコールの販売すら行わず、開演前のSEも無かった(大声で話さないようにするための配慮だろう)。ほぼ毎日電車通勤している私の日常生活においてこの会場は、特段感染リスクの高い場所ではないように感じたことは付記しておきたい。

 

さて。


とりあえずライブが終わった直後の私がもっとも叫びたい言葉はたった三つ。


大工原幹雄!

大工原幹雄!!

大工原幹雄!!!


以上です。


それくらい新しいリズムがバンドに新鮮な風を呼び込んでいることを感じるライブだった、ということであります。

 

奇跡の大傑作『いいね!』のリリースツアーという位置づけのライブだったが、「久々にみんなに会えて嬉しいね、という気持ちで選曲したくなった」という理由で、まさにオールタイムベストのプレイリストとなっていた。なんせ「月光荘」「東京」から始まったかと思えば、「パレード」「万華鏡」といっためったに聴けないナンバーまで演奏されたのである。

世界でも最上位の「いいね!」リスナーの私(Spotify社調べ)ですが、この10ヶ月もの間、エレキギターの轟音とベースとバスドラの低音を待ち望んでいた状況からして、そしてそもそもサニーデイの楽曲をあまねく愛する者として、今日はもうどんな曲を演奏してくれても、ただただ「うれしい!たのしい!せつない!」というドリカム状態。何を演奏するかということよりも、新たなバンドとなった彼らがどう演奏するか、ということの方が重要だったのかもしれない(とは言え、アンコールで披露された「Christmas of Love」はやはり特別だった)。

この日の彼らの演奏は良くも悪くもラフ。しかし音楽をリアルな空間で共有することの喜びに溢れていた。曲順を間違えたり、歌詞が飛んだり、たまにリズムがおぼつかない瞬間があったりしたけど、そんなことまったく気にならない。むしろこういう瞬間こそライブの醍醐味じゃん?ということを思い出させてくれるようなフレッシュさ。曽我部さんも何度も何度も、感無量の面持ちで「ありがとう」と繰り返していたし、最後には「もう帰りたくない」とまで言ってくれた。これほどフランクに心の通い合うサニーデイのライブを観るのは初めてかもしれない。

しかしそんなアットホームな雰囲気な中で聴く長年親しんできた楽曲たちも、大工原幹雄がドラムを叩くと、それまで潜んでいたグルーヴがムクっと屹立するような感じがあった。「サマーソルジャー」「NOW」ってこんなに踊れる曲だったっけ?というくらいの抑揚があったし、特に激しく手数の多い近年の曲、「春の嵐」「コンビニのコーヒー」「心に雲を持つ少年」や「セツナ」の殴り合いが始まるんじゃないかっていうアタックの強さ、テンションの高さは俺の脳みそメーターを軽く振り切っていた。

そして何より重要なのは、この3人のこれから先の深化を絶対に見てみたいと思わせる新鮮な青さに満ちていたことだ。活動歴25年以上のバンドが獲得したものとして、これはあまりにも貴重なものではないだろうか。

 

今年はコロナもあったし、自分の仕事も情けないくらいに上手くいかなくて、とにかく鬱々とした年末なんだけど、せめて俺の人生にはサニーデイ・サービスあって良かったと、「若者たち」を聴きながら心の底から思えた。人生なんて上手くいくはずのないものだって、最初から知っていたはずじゃないか。

 

サニーデイ・サービス 『もっといいね!』

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あれ以上も以下もない、何人たりとも立ち入ることのできないピュアネスだけで作り上げられたロックアルバム「いいね!」。それがまさかリミックスアルバムとして解体・再構築されることになるとは思わなかった。


参加したリミキサーはまさに多種多様。岸田繁tofubeatsのようなビッグネームから、CRZKNY、Momといった気鋭まで13組。一見脈絡のなさそうな人選にも見えるけど、そこに貫かれたある種の統一性はアルバムを聴き進めるうちに見えてくる気がした。どのアーティストも、キャリアを問わず、『いいね!』という名作と真正面から全力でぶつかり、色とりどりの生命力を放つ新たな作品を好き勝手に作り上げている。つまり、人選の基準は「横綱サニーデイが相手でも、自分の相撲を思いっきり取れるアーティスト」ということなのだろう。サニーデイ・サービス曽我部恵一はライブにおいても無名の若手からベテランまで幅広く共演を重ね、そこから受けた刺激をバンドの新たな原動力にしているところがあると思うのだが、この音源においてもまた、才能に満ちたアーティストとのガチンコのタイマンを楽しんでいるかのようである。


と、ここで話を卑近なところに脱線させますが、私は今年、数々の偶然に持ち前の向こう見ずな図々しさを掛け合わせ、『いいね!』のリリース時に曽我部さんにインタビューをさせてもらいました。

turntokyo.com

憧れのスターとの会話に備え、もちろん入念に準備をし、たくましい妄想に基づく質問もたくさん考えていたのだけれど、それでもインタビュー中はずっと曽我部恵一という巨大な森の中で迷子になっているような気持ちだった。いやもちろん曽我部さんが意地悪だったとか難しい人だったとかではない。「八月」開店準備真っ只中の忙しい時期にも関わらず、長時間のインタビューに応えてくれた曽我部さんは、皆さんご存知の、あの優しくてジェントルな曽我部恵一そのものだった。私が拙い質問を投げかけるたびに、真摯に自分の言葉を探し出して答えてくれる懐の深さに、ただ勝手に圧倒されてしまったというだけのことなのです。骨を拾ってくれた岡村詩野さんのおかげで読み応えのあるインタビューになったと思うけど、私の見当違いの質問リストの半分くらいは手付かずのまま終わったし、その後しばらくは自分の不甲斐なさに打ちひしがれていた。


脱線が長くなりましたが、つまり、曽我部恵一サニーデイ・サービスの音楽と対峙するということは、ミュージシャンにとってもそれなりの覚悟を迫るイベントではないか、ということが言いたかったのです。私を引き合いに出しても大した説得力もないことは分かっていますが。


ガバ、デスメタルからヒップホップ、フォークまで、レコード店の棚を端から端まで網羅したような幅広い音楽が収められたこのアルバムの中からベストトラックを選ぶことは難しい。しかしあえて私にとっての『いいね!』というアルバムに対する印象に基づくハイライトを挙げるならば、The Smithsへのオマージュとネオアコというアルバム全体のテーマを軽やかに射抜いたHi, how are you?と、批評性を蹴り倒し初期衝動だけを暴走させたどついたるねんによる「春の嵐」。そして「あまりにも自分自身のパーソナルな感情が入りすぎている」という理由でアルバムには収録されなかった「雨が降りそう」の深い悲しみを流麗なピアノと電子音の海に沈めるような岸田繁のリミックスになるだろうか。

特にラストに収録された岸田版「雨がふりそう」は、もうここにはいない大切な人の面影を描いた曽我部瑚夏による「日傘をさして」と並んで収録されたことで、あの最高に弾けた『いいね!』の裏側にあった(と私が妄想した)、サニーデイ・サービスというバンドが背負ってしまった「パーソナルで宿命的な悲しみからの再生」というテーマの存在を浮き彫りにしているようにも感じてしまった。そしてそれこそが、曽我部恵一という森の中で迷子になった私が、彼に聞くことができなかった質問リストそのものなのです。