ドリーミー刑事のスモーキー事件簿

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小崎哲哉「現代アートを殺さないために」を読んだ話

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あいちトリエンナーレに端を発した大村愛知県知事の不正リコール問題。たぶん一般的には「うさんくさい医者と怪しげな政治家による度を超えた悪ふざけ」くらいの感覚なのかもしれない。


しかし私は、これは2000年代以降の日本社会に流れる三本の暗い濁流が重なり合い、混ざり合うことで起きた、とても象徴的な事件だと思っている。


一つ目の濁流は、本来は中立的な立場で住民サービスを提供するべき行政の長が党派性を剥き出しにして、国民や住民を二分する政治手法の蔓延である。小泉純一郎から橋下徹安倍晋三小池百合子松井一郎へとより品性を下げつつ引き継がれてきたやり方が、愛知県に襲いかかってきたということなのだろう。実際、首謀者たる河村たかしは、この県民の分断を煽るリコール活動を「名古屋市長としての公務としてやっている」と公言していたし、「表現の不自由展」に最初にクレームをつけたのは大阪維新の会を率いる松井一郎と吉村洋文だった。


二つ目は、2010年代前半に吹き上がった人種差別主義者による排外活動と、それに伴い息を吹き返した歴史修正主義者の跋扈だ。その代表とも言うべき存在が、今回の活動を支援した日本第一党在特会)、百田尚樹竹田恒泰といった面々である。この顔ぶれを見れば、今回のリコールの背景にどのような歴史観・国家観があったのかは言うまでもないだろう。安倍政権下の庇護を受けて増長した彼らによる付け火という感じすらする。ちなみに過去、高須克弥ホロコーストを捏造と発言しアウシュビッツ記念館から直接苦言を呈されたり、河村たかし南京大虐殺を否定したり、ベルリン市に設置された平和の少女像の撤去を求めて拒否されるなど、国際的な恥を重ねており、こうした勢力と極めて親和性が高い場所に立つ人物であることも付記しておく。


そして三つ目は、こうした企みを視界に入れながらも、スポンサーや政治家の顔色を伺い、正面から批判することを避け続けるマスメディアの責任放棄、ジャーナリズムの劣化である。表現の自由という民主主義の根幹が、政治家の介入、脅迫という直接的な暴力によって脅かされていたにも関わらず、彼らのあいトリに対する反応は終始冷淡だった。メディア各社にとって高須や河村、維新の会とは、時にスポンサーであり、時に監督官庁に影響力を行使し得る権力者であり、そして無料でニュース素材を提供してくれる存在だったのかもしれないが、その結果として、「昭和天皇や特攻隊を侮辱する作品」といった彼らの作品に関する主張は検証されることもない自らまま、一定の信憑性を持って世間に浸透してしまった。そして明らかに違和感のあった「43万筆」の署名に対する反応も鈍く、今なお「不正には一切関与していない」という彼らの言い分が無批判に垂れ流されている始末だ。


こうした年々勢いを増す一方であった「いやな流れ」を津田大介大村秀章という数少ない「まっとうな人たち」が堰き止めたことにより、濁った水がどっとあふれ出したというのが、今回の不正リコールの政治的・社会的な方向から俯瞰した光景だと捉えている。


では逆に、この事件をアートの世界から見ると、いったいどのように位置付けられるのか。その問いに200%の情報量と明快さ、そしてスリリングな筆致で答えてくれるのがこの小崎哲哉「現代アートを殺さないために」である。


第一章ではドナルド・トランプグッゲンハイム美術館のせめぎ合いである「黄金の便器事件」を入口に、保守勢力とリベラル、アーティストの文化戦争の歴史を紐解いた上で、二章であいちトリエンナーレの表現の不自由展の中止に関する経緯を、主催者側の問題点も指摘しつつ、詳細に解説する。この章まで読めばあいトリを巡る賛否両論の「否」の根拠がいかに虚ろで危険なものかが分かるわけだが、話はここにとどまらない。あいトリ以前にも、粛々と進んでいた安倍政権下における恣意的な芸術表現への介入とそれを易々と許してしまうアート界の脆弱性についても指摘することで、この問題が愛知県という一地方における茶番ではないことを明らかにしていく。(なお、同じように新型コロナウィルスというパンデミックを数百年にもおよぶ芸術史に紐づけて論じた三章以降もとても興味深い)。


こうして雑駁に概略を書いてしまうと、政治的な話題・解説に終始した内容にも思えてしまうかもしれない。しかしこの本の最も素晴らしい点は、政治と現代アートの関連性を綿密かつ具体的に解説することを通じて、現代アートの楽しみ方を私のような専門知識の乏しい読者にもわかりやすく教えてくれる点にあるように思う。例えば、安倍晋三のお友達としても知られた俳優・津川雅彦が発案した展示コンセプトに基づき、長谷川祐子がキュレーターを務めた「深みへ‐日本の美意識を求めて‐」について書かれたパート。ここを読めば、安倍政権の偏狭な国家観への忖度が疑われる展示内容の問題点と共に、一般的にはあまり馴染みのないキュレーションというもののあり方や奥深さも知ることができる。


この本の中で著者は、恣意的な政治的介入から表現の自由・独立を守るためには、アーティストのみならず美術館スタッフも含めた連帯が重要だと繰り返し説いているが、美術館職員は非正規雇用が多く、その立場は弱く、コロナ禍によりより不安定さを増している。やはり権力への牽制機能を果たすには、現代アートのファン・理解者を増やすことで、大きな塊をつくることが不可欠だろう。その意味においても、この本が果たす役割は大きいように思う。