ドリーミー刑事のスモーキー事件簿

バナナレコードでバイトしたいサラリーマンが投げるmessage in a bottle

革命から疎外された者の目線から GEZAN「狂(KLUE)」について

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ファシストと革命家。一見、対極の存在に思える両者だが、本質的には同義だ。彼らがシンパシーを寄せる対象が、ピラミッドの上部に君臨する特権階級か、底辺で暮らす弱者であるかという違いはあれど、誰かから何かを奪うことをいとわない暴力性や、頂点と底辺の間をたゆたうように生きる私のような「その他大勢」に対するまなざしが希薄であるという共通点がある。そもそも歴史を振り返ってみても、悪名高いファシストの多くは、かつての革命家である。よって私は革命を信じない。革命という単語を無邪気に使うアーティストも信用することはできない。
 
GEZANというバンドが、革命家のイメージを自らに重ねてきたことに異論の余地はないだろう。マヒトゥ・ザ・ピーポーの著書は「世界で一番静かな革命」だったし、彼のCINRAでの連載タイトルも「月間 闘争」だ。ゆえに私は、彼らに対して畏れと警戒心を抱いてきた。


例えば、彼らを象徴すると言ってもいいイベント<全感覚祭>。その行動力には最大級の敬意を払うものの、投げ銭制・フリーフードといった、既存のビジネスの仕組みをひっくり返すようなやり方には、まったくピンとこなかった。結局、モノやサービスの媒介手段を貨幣から善意に置き換えたところで、行き着く先はGEZANというカリスマを中心とした新たなバビロンシステムにすぎないように思われるからだ。その熱狂に身を投じることができず、際立った才を持たない私のような凡人は搾取され続けるだけなのではないか。マヒトゥ・ザ・ピーポーによるステートメントを読んでみても、その冷めた疑問を拭い去ることはできなかった。
 
とは言え、一人の音楽ファンとして彼らの存在を無視できるものではない。そもそもロックバンドに対して社会的な正しさや政治的な整合性を求めることが無粋なことなのかもしれないし。そんなことを考えながら、彼らの最新作『狂(KLUE)』もリリース早々に入手した。
 
しかしなんのことはない、一曲目の「狂」から
「シティポップが象徴していたポカポカした幻想にいまだに酔っていたい君にはオススメできない/停止ボタンを押し、この声を拒絶せよ」と、(広義の)シティポップとを愛する私は、この世界へ入り込むことをあっさりと拒否されてしまった。
 
ならばこちらも遠慮なく言わせてもらうと、2011年の東日本大震災、あるいは15年の安保法制以降のストリートデモクラシーを通過した後の目線で言えば、この作品の中で語られる社会観は、あまりにも凡庸で幼く、支離滅裂である。いま・ここで起きている問題に対するコミットメントを突き詰めないまま、「破壊」や「革命」という気持ちの良いリセットボタンを押したがっているように見えてしまうのだ。「ていねいな暮らし」「インターネット」「メディア」「いいねの数」といったやり玉にあげていく対象も、「これは政治の歌じゃない」「左も右もない」「正しさってなんだろ?」という自分の判断を留保するナイーブな態度も、俺から言わせればもうすっかり見飽きた光景だ。私たちが殺されないために必要なものは、彼らが歌う「これから始めなければならない革命」の幻想ではなく、私たちが今持っている権利の正当な行使による政権交代だ。レジスタンスの皮を被った逃避は、傍観よりも罪が重い。
 
そんな予想通りの相容れなさを感じつつも、それでも私は停止ボタンを押そうという気にはならなかった。なぜならば、その言葉の後ろで不穏に蠢くベースラインや、内田直之のミックスによって深い残響が施されたギターとドラムの音が、これから起きる巨大なスペクタクルの予感をこれ以上ないくらいに掻き立ててきたからだ。
 
その予感は早速二曲目「EXTACY」で的中する。漆黒の闇の中でうねるグルーヴと跳ね回る残響、狂気と紙一重の咆哮。あえて私が想起したアーティストを挙げるなら、マーク・スチュアート率いるポップグループや内田とも縁の深い伝説のダブバンド・オーディオアクティブ、そしてP.I.LやINUといったニューウェーブ/パンクパンクのレジェンドだろうか。しかし、あくまで新たなアートフォームとしての矜持や安易にリスナーを寄せつけないストイックな鋭さを持ったそれらのアーティストたちに対し、GEZANはどこまでも無国籍・タイムレスを貫き、ケチャやディドゥリジュまでごった煮にして享楽性を高めていく。ボトムを支える四つ打ちのキックには、圧倒的な混沌においても盆踊りすら許容するような懐の広さを感じるほどだ(そういえばジャケットには和服で踊る男があしらわれている)。そしてこの快感が頂点に達しようとした瞬間、突如としてBPMは倍速となり、ハードコアナンバー「replicant」が始まる。超高速の轟音ビートだが、スムーズな繋ぎと絶妙な低音処理によってダンスミュージックとしての快楽性はまったく失われることなく、デタラメなステップとアドレナリンの分泌を促し続ける。これまで体験したことのない興奮の坩堝に叩き落とされた私は、たった3曲でこのアルバムが20年代を代表する名盤であることを悟ってしまった。彼らのバビロンから排除された者であるにもかかわらず。
 
彼らの社会観に対する拒否反応と、抗いがたい肉体的快感。私の中で起こる激しい葛藤は、アルバム全体を通じて絶えず激しい火花を飛ばし続けることになるのだが、その矛盾が重なり合う唯一の瞬間が、M10「Free Refugees」だ。おそらく入国管理局に収監されて在日外国人を念頭に「難民を解放せよ」というマヒトの叫びは、今この瞬間も多くの外国人から人権を奪い続けている、世界の中心で美しく輝いているはずの欺瞞を暴くリアリティがある。そしてその咆哮が宇宙まで届きそうなトライバルな打楽器と人声が楽器かも判別できないほど太く低く膨らまされたコーラスの洪水と混ざり合うことによって、収容所の鉄格子をこじ開けんばかりのエネルギーを獲得し、そのまま「東京」へとなだれ込んでいく迫力には、私と彼らの埋めがたい価値観の違いを軽々と乗り越えて押し寄せてくるカタルシスがあった。我々の間で飛び散っていた火花が、何か巨大なものに火をつけてしまったような。

この激しい愛憎の中で訪れた邂逅がこの先に繋がるものなのか、それともただの偶然か、まったく予測がつかないが、とにかく今はこの深い混沌の中で、目を開けたまま踊ってみようと思っている。