ドリーミー刑事のスモーキー事件簿

バナナレコードでバイトしたいサラリーマンが投げるmessage in a bottle

夏休みのこと 〜曽我部恵一・さとうもか・SAGOSAID ・あいちトリエンナーレについて〜

今年の夏休みは下の娘が定員オーバーで学童に入ることができなかったため、祖父母の力も借りつつ、私と妻が順番に仕事を休んで(あるいは家で仕事をしながら)学校と塾の宿題、自由研究、読書感想文、部活の送り迎えなどをやったりやらせたりしなければならず、まるで大人と子供の夏休みを同時に生きたような慌ただしさと懐かしさがあった。

 


そんな日々の中、いくつかライブにも行った。

まず8月1日はあいちトリエンナーレの企画として円頓寺商店街で開催されているフリーライブで曽我部恵一ソロ。円頓寺商店街アーケードのド派手な装飾と鷲尾友公の巨大なペインティング、そして曽我部恵一の歌のぶつかり合いがとんでもなかった。

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恋におちたら』『あじさい』といったサニーデイクラッシクスから始まり、『キラキラ』や『満員電車は走る』といったソカバンの名曲を経て、ギターの弦をほとんど切りながらの『青春狂走曲』まで約1時間を駆け抜けた。開演前「そかべ…けいいち?」「たしかサニーデイ…なんとかの?」とお話しされていたご婦人方の胸もバッチリと打ったこと間違いないだろう。なお、個人的な白眉は2005年のソロアルバム『ラブレター』に収録された『抱きしめられたい』と、やっぱりこの季節にはこれでしょう!と言いたくなる『サマーソルジャー』を聴けたこと。この時ばかりは、名古屋名物の灼熱地獄も一瞬和らいだような・・・(いやこれは錯覚。完全に暑さにやられてた)。

 


で、あいちトリエンナーレと言えば、「表現の不自由展・その後」をめぐって極めて残念な展開になっている。政治家による検閲的行為と、それに誘引されたテロ行為。まさか自分の生きている時代にこんなにわかりやすく戦前がやってくるとは思わなかった。表現の自由という健全な民主主義の発展において死活的に重要な権利が、俺の住む愛知県で、これだけ堂々と蹂躙されていることに衝撃と憤りを覚えている。

超基本的な大原則として、万人に支持される芸術というものは存在しない。誰かにとって価値のある表現も、別の誰かにとっては不快あるいは退屈なものである。万人に受け入れられる存在、たとえば空気や水のことを芸術とは誰も呼ばない。

では、決して市民全員の賛同を得られることのない芸術祭を国/自治体がサポートする大義はどこにあるのか。それは、芸術という人間の未知なる創造性を自由に追求する営みが、中長期的な社会の発展にとって必要なことだからというコンセンサスが、民主主義が成熟していく過程で長い時間をかけて形成されてきたからだと思っている。今日のメシのタネにはならない、でもいつか意味を持つかもしれない謎行動。そこに価値を見出すかどうかこそが、ホモサピエンスネアンデルタール人を分ける分岐だった…というのは言い過ぎだとしても、例えば世界地図を自由な表現が認められている国とそうではない国に色分けした時に、どちらにより豊かで暮らしやすそうな国が多いかは一目瞭然だろう。でも、これらはしょせん、明文化されていない「コンセンサス」にすぎない。悪意を持った権力者が現れれば、こんなにも簡単にぶっこわされてしまうということをまざまざと見せつけられて、ほとんど絶望的な気持ちになっている。

『「自由な社会があってこその自由な表現」という当たり前の事実には、ロックやヒップホップのように、良い意味で場末の、吹けば飛ぶようなアートフォームを愛する人間が一番敏感であるべき、と思っている』と2015年にリリースされたECD『Three Wise Monkeys』の感想の中に書いたんだけど、あれから4年経ってまた屋根のトタンが一枚吹き飛んでしまった気がする。もしイギリスがセックスピストルズザ・スミスを発禁処分にする国だったとしたらくるりの音楽は存在していただろうか。同性愛が禁じられているサウジアラビア橋口亮輔の映画は上映できるだろうか。政治家は権力の行使に抑制的であるべきだが、アーティスト自身もせめて肉屋に並ぶ豚にはならないでくださいと祈らずにはいられない。

dreamy-policeman.hatenablog.com

 


8月9日はさとうもかさんが私の住む街のギャラリーにやって来た。地元の酒屋さんが主催した「スナックもか」なるイベント。会場はライブハウスじゃないし、フリーイベントなのでお客さんも必ずしももかさんをよく知っているお客さんじゃないし…というわりとタフな環境だったけど、この人はやっぱりすごい。おずおずと…という感じでピアノを弾きだしたかと思ったのに、『歌う女』ではミュージカル女優のように歌い踊り、『Melt Summer』で胸キュンの頂上に到達したかと思えば、最後の『Lukewarm』ではお客さんと円陣を組みながら合唱しているという凡人には全く予測のできない展開で会場をロックしていた。この天才ソングライターでありながら、お客さんを楽しませるためならその珠玉の楽曲たちをブン回すことも厭わないエンターテナーぶり。いやパンクスピリットとでも言おうか。もかさんのライブを観るのは去年12月の私のイベント以来(ご無沙汰してすみません)だったのだけれども、人が輝く時ってこういうことなんだろうなぁという眩しさをまとっていた。

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終演後、物販でこれまで自費でリリースしていたデモ音源25曲と解説をまとめたZineを購入。このクオリティの楽曲をフルアルバム二枚の間につくり続けるとは…とナチュラルボーンな作家性にまたしてもおののいた。

 


そして、翌日には実家に帰省。諸般の事情により長女と二人で長距離ドライブ。車に乗り込むなりヘッドホンと文庫本で完全防御。父親とのコミュニケーションを一切取らないストロングスタイル。車内にはNICE POP RADIO「親子で聴くナイスポップレディオ特集」が空しく流れていた…。

 


帰省中に下北沢BasementbarでSAGOSAIDのライブを観た。SAGOSAIDは松本市にあるMarking Recordsでカセットシングルを入手して以来、たぶんこの夏一番くらいの回数を聴いていて、TURNの<Tracks of the month>でも紹介させてもらった。

turntokyo.com

なんとかライブ観れないものかと思っていた矢先の僥倖。わずか30分、知ってる曲はカセットに収められた2曲のみというはじめまして感だったんだけど、男性メンバー三人と共に立ったサゴさんのパフォーマンスは最高にクールでかっこよかった。

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ジーザスアンドメリーチェイン、ダイナソーJr.やヴァセリンズの時代から脈々と継承されてきた「甘いメロディ+轟音ギター」という黄金の組み合わせは、肯定と否定を同時に突き付けてくる音楽だ。その子孫というべきバンドは、古くはナンバーガールスーパーカー、最近で言えば彼女が所属していたshe saidも含めてこの日本にもたくさん存在するけれども、SAGOSAIDからはその否定の部分、なぜノイズをかき鳴らす必要があるのかという点に対する説得力というかリアリティが図抜けているように感じた。リード兄弟が、J.マスシスやルー・バーロウが最初にノイズをぶちまけようと思った時の、気怠い衝動までもが音像として浮かび上がってくるように思えたのだ。それはSAGOSAIDの楽曲が、80年代のアメリカやイギリスにも通じるような、2019年のどん詰まった日本社会の空気を吸い取っているからなんじゃないかという気がした。

この日はSuper friendsのレコ発だったのだけど、トップバッターのSAGOSAIDだけ見て地元にとんぼ帰り。中学校の同級生と数年ぶりに飲んだ。翌日は当然のように二日酔い。両親からの冷たい視線に、学生時代の生きづらさがよみがえってきた。

 


あと、今年の夏は念願の山登りをしたり、サウナ&水風呂の魅力に遅ればせながら気づいたり、タピオカデビューしたりといろいろあった。今はとにかく明日から会社に行きたくなくて震えている。