最近のサニーデイがやることなすことに興奮してしまうのは決して私が盲目的信者だからとかパブロフの犬だからというわけではなくて、ただただサニーデイのやることなすことがかっこいいという結果なのであって、当然のことながら、ごくまれにではあるけれども「あれ?」と思うこともある。
そんなひっかかりを感じたのは北沢夏音氏との共著作『青春狂走曲』の中に収められた『DANCE TO YOU』の制作にまつわるインタビュー。
曽我部恵一が小田島等と見に行ったSEALDsのデモを「もっとゲバった方がいい」「機動隊が出てきて大きな展開になればいいと思った」「世の中を変えるためには血を流さないとダメ」を評しているくだりを読んだ時である。
私を含めたふがいない大人になりかわり、民主主義を守るために立ち上がった若者に向かって血を流せなんて、なんかちょっと無責任な物言いなんじゃないかなぁとモヤモヤするところがあったのだ。(そしてその経験をもとに生まれたのが『血を流そう』という名曲だったことでまた複雑な気持ちになったりもしたのだけれども)。
ちなみにそのデモに曽我部氏と共に居合わせていた小田島等氏も、16年のツアーのお土産として制作された『別冊DANCE TO YOU』の中で、『血を流そう』を題材に、若者のデモを少し斜めから見たような漫画を描いているので、おそらくは曽我部氏と同じ感覚だったのであろう。
しかしいずれにせよそのモヤモヤは私自身の政治的潔癖性からくる些細な違和感にすぎず、なによりもその後に発表された『POPCORN BALLADS』と『the CITY』という二つの傑作において、抽象表現にまで昇華させた鋭い社会観と政治性を叩きつけられたことで、私の中ではもうすっかり決着がついてしまっていた。
そんな中、3月に発表されたばかりの『the CITY』のリミックスアルバム『the SEA』の一曲目として、サニーデイ自らが再構築したという触れ込みで唐突に発表された、その名も『FUCK YOU音頭』。
都市に潜む深い絶望と祈りを、「Fuck you」というワンフレーズに託した『LOVE SONG2』。その荘厳なゴスペルのような楽曲を音頭に生まれ変えてしまった超問題作である。
ロックと音頭の融合と言われて真っ先に思い浮かぶのは、曽我部恵一も敬愛する大瀧詠一だけれども、大瀧御大に対するオマージュという言葉だけでは到底説明のつかない強烈なエレクトリック音頭ビート。
和モノとブレイクビーツの組み合わせ、そしてスピーカーから飛び出しそうなほどのエネルギーに満ちているという点において、私が思い出したのは故ECDの作品たち(エンジニアはECDの盟友・イリシットツボイだ)。
しかしすごいのはサウンド面に留まらない。この歌詞もまた強烈なのである。
FUCK YOU 音頭
曲・永田雨ノ城
詩・土一揆田吾作
ア~ ひらひら舞うのは八重桜
ア~ おサルの籠屋は池のなか
ア~ 森の友だちよんでくりゃ ア、ソウレ!
みんなみんな寄っといで
みんなみんな寄っといで
みんなみんな寄っといで
FUCK YOU FUCK YOU FUCK YOU FUCK YOU
ア~ ひらひら舞うのは銭の花
ア~ 音頭でシンゾーもバクバクだあ
ア~ 飼われて死ぬのが江戸の華 ア、どした!
みんなみんな寄っといで
みんなみんな寄っといで
みんなみんな寄っといで
FUCK YOU FUCK YOU FUCK YOU FUCK YOU
解説するのも野暮だけれども、読んでお分かり頂けるように、ユーモアにくるみつつも、思いっきり名指しの政治批判。
古今東西のロックにおいて、いわゆるポリティカルソングは数あれど、現在進行形の事案を題材に実名でグサッと刺してしまったものはそう多くないのではないか。
しかし衝撃はこれにとどまらない。
その数日後にyoutubeにアップされたMVの冒頭、盆踊り大会の司会者として登場する男性は監督をつとめた小田島等氏本人。
町内会には欠かせない気のいい兄ちゃんになりきった小田島氏の姿や、踊るB級ゾンビたち(それらが誰を表しているかは言うまでもないだろう)、そして唐突すぎるセクシー女優・古川いおりの立てる中指にさんざん爆笑し、困惑した直後、はたと気がついた。
ファシズムの足音がすぐそこまで迫り、思想警察気どりの愛国者が跋扈するこの2018年において、サニーデイ・サービスと小田島等というアーティストが実名顔出しで、真っ正面から権力批判することの重大さというものに。
曽我部恵一のこのツイートも決して大げさなものではないと思うのである。
すべて生命をかけた遊びです☺️
— 曽我部恵一 (@keiichisokabe) May 18, 2018
サニーデイ・サービス「FUCK YOU音頭」。どうぞ!https://t.co/AVcVWxz8o5
つまり勝手な思い込みを言わせてもらえれば、これこそが国会前のデモに対する彼らなりの落とし前のつけ方、血の流し方だったということだったのだろう。
そしてさらに肥大した妄想を告白してしまうと、『the CITY』においてオファーしながらも叶わなかった、デモクラシーのために路上で戦い続けてきたECDとのコラボレーションは、こんなふうに破天荒かつ豪快に、プライムミニスターに抗議叩きつけるような作品になるはずだったのかもしれない。そんなことまで考えてしまった。
というわけで今回もサニーデイの鮮やかで重いカウンターパンチによってマットに沈んだ私だが、まだ不満は残っている。
それはサニーデイに対してではなく、この『FUCK YOU音頭』をケンドリック・ラマーやチャイルディッシュ・ガンビーノと同じ視点で論じようとしない音楽メディアに対するものである。
一聴しただけではぶっ飛びすぎているこうした曲こそ、専門家が的確な批評を加えることによって、その先鋭性にふさわしい驚愕と敬意をもって世間に受け入れられることになるはずなのに、どうもそうした特別な熱を感じることができないのだ。今のところ。
私はここに(音楽界に限ったことではないけれども)、日本のジャーナリズムの幼さのようなものを感じてしまうのです。
しかし同時に、真に時代の先端を行く表現とは、こうして取り残された臆病なゾンビたちの姿を否応なくあぶり出してしまう残酷なものなのだろうとも思っているので、とりあえず俺は、この夏はこのビートで盆ダンスをキメて先祖の霊を迎えてやろうと思ってます。