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ドリーミー刑事のスモーキー事件簿

バナナレコードでバイトしたいサラリーマンが投げるmessage in a bottle

世界の終わりとハードボイルド天声ジングル! 相対性理論の新作について。

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天地創造あきらめて あれから世界はどうなった」 という問いかけから始まる相対性理論の3年ぶりの新作"天声ジングル"。

一聴すると、ポップミュージックの聴覚的快感を突き詰めたサウンドは今まで通りに健在で、さらにそこにロックバンドとしての生々しい躍動感すら加わっている、という印象を受ける。

 しかし少しだけ注意深く聴いてみると、不遜なまでの自信を漂わせていたやくしまるえつこの歌はところどころで感情の置き場を見失い、天真爛漫な永井聖一のギターですらも、時にピーキーな鋭敏さを感じさせる瞬間があるし、そもそも、その真っ黒なアートワークからしてキモカワと呼ぶには不気味な成分が強すぎる。

 どことなく、ではあるのだけれども、これまでの相対性理論が誇っていた完全にシンメトリーな世界に、綻びが生じているのではないか、という微かな胸騒ぎを覚えてしまうのだ。

この「綻び」に注意して、もう一度歌詞カードを眺めてみると、ドイツの映画監督ヴィム・ベンダースの代表作"ベルリン・天使の詩"をモチーフとしたであろう、"ベルリン天使”というタイトルに目が止まる。

 "ベルリン・天使の詩"は、ベルリンの上空で人間の営みを見守ってきた天使が、人間の女性に恋をして、その永遠の命と引き換えに人間になるというストーリー。 

しかし、この"ベルリン天使"の主人公は、「いつか天使になりたいわ」という、映画とは逆の願望を持っている。 なぜ、自らの意思で人間になったはずの天使は、もう一度天使になることを切望しているのだろうか? 

この奇妙なねじれに対する疑問によって、最初に感じた綻びはもはや単なる予兆ではなく、「もう一つの世界につながる入口」へと姿を変える。 

そこに身体をもぐり込ませ、改めてこの作品を向き合うと、先ほどまでとは全く異なる景色が広がってくる。

 それを端的な言葉で表すならば、理不尽な死と巨大な絶望。 自分にはどうすることもできない大きな力に翻弄される少女の姿。 自ら望んで人間になったベルリンの天使すらも、逃げ出したくなるほどの地獄。

 例えば2曲目に収録された"ケルベロス"の「魅惑の扉の前に座る、噛み付いたら離さない地獄の番犬」というフレーズが私に連想させたイメージは、海岸に押し寄せるシリア難民を警棒で叩き、海に追い落とさんとするヨーロッパ側の警備隊の姿だった。 

もちろんそれは、この一年、テレビで毎日のように流れてくるニュース映像の影響によることは間違いない。 しかし、ケルベロスとはギリシャ神話に登場する怪物の名前であり、多くの難民が最初に目指す欧州の土地もまたギリシャという一致を、偶然としていいものか。 ユーモラスでキュートなやくしまるえつこの歌声を頭から消し去って、この歌詞だけを追ってみれば、その想像が的外れと言えないほどに、極めて切迫した状態が描かれている、と言うべきではないだろうか。

 「お祈りしたり 道に迷ったり 悪魔に魂を売ってみたりで手を尽くしても 神に背いても もうどうしたって叶わない願いは輪廻 それは輪廻」

 生と死が絶えず交錯するギリシャの海岸、冷たい海水に顔が深く浸かったような状態で、「悪魔に魂を売ってでも、神に背いてでも、いつか君と輪廻したい」と願う(おそらくは信心深いはずの)少女の絶望の深さ。 

そこに思いを馳せてしまった時に感じる心の重さは、今までに私が聴いてきたポップミュージックのそれではない。 もちろん、「オッさん深読みしすぎだし、性格暗すぎだし、これは番犬みたいにうるさい誰かに邪魔される恋愛を大げさに歌っただけだし」と言われればそう聴こえるのも確かであって、できればこちらもそう思いたい。 しかし、もしそうならば、続く"ウルトラソーダ"で13秒後にミサイルが直撃する運命にあった女の子はその後どうなったのか? "わたしがわたし"の主人公はなぜ恋心を抱く相手にコンビニで出会っても声をかけることができないのか?なぜ自分が誰だかわからなくなってしまったのか? 

その答えは全て、「死」ということなんじゃないか。 

裏側、つまり「もう一つの世界」に身を置いてこのアルバムを聴くと、そんな考えが頭から離れなくなってしまう。 

しかし、これがあらゆる優れた音楽、芸術だけが持つ美しくも残酷なところだけれども、そこに感じる闇が深ければ深いほど、次に浴びる光の輝きは一層増す。 もう一度、「表側の世界」に這い出して、この作品を一大ポップアルバムとして聴いてみれば、前述した"わたしがわたし"はもちろん、"13番目の彼女"、"夏至"で歌われる恋の瑞々しさは、そのエモーショナルな演奏と相まって、今までの相対性理論からは考えられないほどまっすぐに、聴き手の心の奥深くを照らす。 そこに広がる、この暗澹たる現実とは対照的な多幸感たるや! 例え世界が破綻しようとも、一人ひとりの人間の心には決して消えない光がある、という力強い生命力に満ちたメッセージを放っているかのようであり、その眩しさに私の感情はとても強く揺さぶられてしまう。 

このように、平行する二つの世界を行き来しながら進んでいく構造を持つ作品として真っ先に思い出されるのは、"世界の終わりとハードボイルドワンダーランド"という村上春樹の1985年の名作。 

この"天声ジングル”は、あの世界的文学作品に対するポップミュージックからの回答と言えるほどのクオリティと、2016年現在の世界が孕む暴力性に対するリアリティをたたえた傑作と言ってもいいのではないか。

とは言え、そんな美しい大団円と鳴り止まない拍手と共に、聴く者を劇場から帰してくれる相対性理論ではもちろんなく、アルバムの最後には、その帰路に影を落とすような黙示録を突きつける。 

最終曲の"Flash back"で、やくしまるえつこは、まるで未来から地球を俯瞰するように「(やがて来る)新世界を終わらせなければならない」と歌う。 

それはいったいどんな世界なのか。 「何度でも蘇るあなた」とは何者なのか。 そして、「クラッシュするようなフラッシュバック」とはどんなものなのか。 この不穏な余韻が脳内を満たすと同時に、私はまた裏側の世界に連れ戻されてしまうのだ。