ドリーミー刑事のスモーキー事件簿

バナナレコードでバイトしたいサラリーマンが投げるmessage in a bottle

やるせないほどの美しさ Videotapemusic 『ON THE AIR』

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Videotapemusicの新作『ON THE AIR 』。

室外機が遠慮なく生暖かい空気を吐き出す東南アジアの路地裏から、いつかブラウン管テレビの中で見たアフリカの秘境まで、めくるめく地球一周の旅に連れ出してくれた名盤『世界各国の夜』から約二年。

 

あの縦横無尽なジェットセット感からは少し趣きを変え、「アメリカと日本、その中間」に深くフォーカスしたような印象を受ける。
そして思い出野郎Aチームとのセッションもさらに深化したエキゾ感あふれるサウンドはもちろんのこと、坂本慎太郎による鮮やかなアートワークから濃厚に漂うのは、泣きたくなるほどのロマンティシズムだ。

なぜここまで、この作品が切ないのか、例によって電波混じりの妄想力(『ON THE AIR 』だけに)で考えてみた。

 

まずVideotapemusicの作品とは、そもそも構造的にある種の切なさを孕んでいるように思う。

彼が作品の素材としているVHSテープに封じ込められた映像とは全て、すでにそこにはない、失われてしまった光景である。そしてそのVHSという記録媒体もまた、その存在を完全に忘れ去られようとして久しい。

いわば二度目の死を迎えようとしているかつての現実。
そこに込められた、あるいは込められなかった思いを拾い集め、貼りつけて、もう一度新しい世界を作り出そうとするVideotapemusic の営み。
もはやアートの制作手法という枠を超え、神事のような意味合いすら内包しているように思えてしまう。

 

そしてその神事によってつくり出された新たな世界が、リアルであればあるほど、美しければ美しいほど強調されるのは、ビデオテープに記録された時間は、二度と取り戻すことのできないという私たちが生きる世界の厳然たる一回性である。

 

『世界各国の夜』が私たちに見せてくれたのは、スクリーンや絵本の向こうにある、私たちが過ごしたことのない場所と時間。おとぎ話であることが前提の世界だった。

しかし、『ON THE AIR』に広がるのは、そこに生きる人々の感情までもが再現された、リアルな世界だ。

 

例えば、アルバムジャケットに描かれる、軍事用レーダーと共存する住宅街。これは実在する福生という街、あるいは戦後の日本そのものを模したもの、とも言えるだろう。

そして、その街に流れる米軍ラジオ。
ノイズに混じって聴こえるスロージャズやルンバのリズムと、それに合わせてステップを踏む人々。NOPPALをフィーチャーした『Her favorite Moment 』のガーリーな憂鬱。


この体温や息づかいすら感じさせる美しい夢のような世界が、すべて虚構だとしたならば。
そう想像すると、胸をかきむしりたくなるほどのやるせなさに襲われてしまうのだ。


そしてこの「レプリカであることが唯一絶対の真実」というパラドックス。その構造をも燃やし尽くそうとしたのが、アルバム終盤に収められた、その名もズバリ『Fiction Romance』の多幸感の洪水であり、続く『煙突』のセンチメンタルな寂寥感なのではないか…。

 

おっと、気がつくと今回もかなりの深みに…。
怪しい感想どうもすみません。

2017 10/22 Cornelius 『Mellow Waves tour』@名古屋ダイヤモンドホール

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※ネタバレあります。ご注意ください。

 

トヨタロックフェスの2日目が中止になってしまったこともあり、急に思い立って嵐の中、コーネリアスのライブに行ってきた。

 

コーネリアスのライブを観るのは、98年の夏にたまたまロンドンでやっていた『Fantasma』のツアーを観て以来、なんと19年ぶり3回目(1回目は雑誌のイベントに当たって観た渋谷クアトロ。バックバンドにワックワックリズムバンドが参加していた)。

 

ちなみに98年の19年前というと79年。
今では小山田圭吾もサポートするYMOが最初のワールドツアーをした年である。
その時はいにしえの伝説のように思っていたけど、自分が同じ長さの時間を生きてみると、ついこないだのことのように思えて実に恐ろしい。


満員のダイヤモンドホールに入りまず目にするのは、ステージに張られた幕に映された、皆既日食のような円環。

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その円環を構成する微粒子がせわしなく運動を繰り返す様は、壮大な星雲のようでもあり、電子顕微鏡で覗く細胞のようでもある。
ぼんやり眺めているうち、村上隆の禅をテーマにした「円相」という作品を思い出したのだけど、コーネリアスの最新作「Mellow waves」のモノトーンな静謐さ、内に秘めた力強さは、これに通じるものがあったように思える。


開演時間ちょうどに客電が落ち、SEの波の音とプログレッシブなシンセサイザーの音が大きくなる。続いて幕の向こう側であらきゆうこが叩くドラムの音に合わせて円環が形状を変えていき、客席の期待と緊張が一気に高まる。
次の瞬間、メンバー四人の姿が映し出されるのと同時に鳴らされる『あなたがいるなら』のイントロと、それに完璧にシンクロしてスクリーンに映し出される「Hello everyone welcome to Mellow waves」の文字。
この見事な演出に、思わず「ふわぁ」と間抜けな声が漏れてしまったよ…。

 

『あなたがいるなら』はイントロだけで寸止め。そこから『Mellow waves』を中心に『Sensuous 』『Point』『Fantasma』からの代表曲が次々と演奏されていく。

 

フロアにいてまず感じるのが、音の一つひとつの気持ちよさ。
堀江博久の弾くトレモロの効いたエレピ、大野由美子のジューシーなシンセベース、そしてソリッドで時にヘビーな小山田圭吾のギター。これらがバイノーラル録音まで再現した完璧な音響で鳴らされる。


まるで開演前に映し出されていた円環を構成する微細な粒子が身体の中に入ってくるような感覚である。

 

 

そして、スクリーンに映し出されるクリエイティブの極北のような映像に、寸分の狂いなく同期したバンドのアンサンブル。

超複雑な因数分解を鮮やかに解いていくような快感がある。
特に『Fit song』のミクロ単位で精緻に構築されたファンクネス、『Count five or six』や『Gun』の時速300キロで走る重機のようなハードな迫力には肌が粟立った。しかも、合間合間に挟み込まれたユーモアも完全再現する余裕まで。
とにかく、あの音源ホントに人間が演奏してたのか!というアホウのように根本的な驚きを禁じえない。

特にあらきゆうこの、どんなに理不尽な(としか言いようがない)フレーズにも完璧に対応するドラム。俺からは見えない位置だったこともあり、本当はサイボーグとか鬼とかが叩いているんじゃないかという妄想が広がってしまいましたよ…。


その演奏力と視覚的情報量の膨大さにただただ圧倒されっぱなしの本編は、『STAR FURITS SURF RIDER』と、そこから切れ目なく突入した『あなたがいるなら』でクライマックスを迎え大団円。
アウトロで、オープニングと同じように演奏に合わせて映し出される「Thank you very very very much. Mellow waves」の文字を呆然と眺めつつ、このライブが『あなたがいるなら』から始まって『あなたがいるなら』に終わる、つまり円環を成す構成になっていることに気づく。あぁ圭吾、恐ろしい子…。


一言も喋らなかった本編から一転、アンコールはリラックスムード。
台風の中集まったお客さんを気遣う小山田の言葉に「あの小山田君が他人を気遣うなんて…」と驚きの空気が流れる。


そして彼の「どうもありがとうございました」というセリフのイントネーションが、中学生の時に死ぬほど聴いたフリッパーズのライブ盤のままだったことも密かに嬉しかった。

ちなみに最後に演奏された曲(タイトルわかりませんでした)は唯一ほぼ映像との同期なしの、素に近い演奏だったんだけど、やっぱり痺れるほど気持ちよくて、いつか「映像なし・ネイキッド版」のライブも観てみたいと思った。


先日出版されたZINE「Something on my mind」のディスクレビューで、私は名盤『Fantasma 』のことを、「音と想像力でつくりあげた一大テーマパーク」と表現した。
しかしこの日体験したコーネリアスのライブは、その世界観をさらに突き詰めて、小山田圭吾という天才の頭の中を、音と映像と光を駆使して具現化する、ミュージシャンや制作スタッフの限界に迫るようなパフォーマンスだった。

願わくば、ライブハウスじゃなくてホールだと映像も演奏もストレスフリーで楽しめるんだけど…と思ったりもしましたけど。

 

そしてもう一つ願わせてもらえるならば、この日会場を埋め尽くした大人の音楽ファンが、もう少し小さなライブハウス、東京で言えばwww、名古屋で言えばダイヤモンドホール地下のLounge vioあたりに出演するバンドに注目してくれると、この世はまだましだなって言うか、もっと楽しくなると思うんですよ。例えばミツメとかVideotapemusicとかバッチリだと思うのですが、どうでしょう。


こちらからは以上です。

変わること、変わらないこと。スカート 『20/20』について

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我らがスカートがメジャーデビューすると聞いたのは、まだ暑い夏の日のことだったでしょうか。

インディーからメジャーに移ると、何がどう変わるのか、わたしにはよく分からなかったけど、渋谷駅に現れた巨大ポスター(超カッコいい!)からNHKの歌番組、果てはデイリースポーツのインタビューまで、あの人懐っこい笑顔がグイグイお茶の間に入り込んでくる様に、メジャーの力ってやつを痛感せずにはいられなかった。

と同時に、ついにスカートはそのクオリティとスケール感(体型のことではない)に見合った場所で活動できるようになったんだなぁ…という深い感慨を抱きつつ、リリース日を心待ちにしておりました。

さて。

私はスカートの楽曲における、大きなテーマのひとつは「成長と出発」ってことなんじゃないかと思っています。文字にするとちょっとこっぱずかしいんですが。

 

ただ、初期から前作『CALL』までは、その成長や出発とは、否応なく迫られる、痛みを伴うものとして描かれていたことが多かったように思います。

「選んだ道は違った 引き返すにも 遠いけれど 笑った笑顔が歪んだ 確かに残ってる」(ハル)

「あなたの目も あなたの声も 橋を通り過ぎたら 忘れる準備しなくちゃ」(どうしてこんなに晴れているのに)

「背負い慣れた重い荷物 ほどいてまた歩き出した さみしいけど 好きな歌を どうやって忘れようかと」(CALL)

もうすぐ人生の折り返し地点に差しかかろうとするいい大人の私が言うのもなんだけれども、こうしたスカートの陰影のある世界観が、自分の中にあるなけなしの繊細さに深く突き刺さり、鼻の奥をツンとさせてきたのです。

なので、この待望のニューアルバム『20/20』の一曲目を飾る『離れて暮らす二人のために』が流れ出した瞬間に、ふわっと胸に広がるあたたかい感覚。そして歌詞カードに目をやると飛び込んでくる

「いつかの歌を あなたのためにうたってみたいんだ 埃を払い 次の言葉を繋げてみたいんだ」
という頼もしさすら感じる言葉。

続く二曲目『視界良好』のファンキーだけど、力みのないカッティング。体が浮き上がるような、まさにいい感じとしか言いようのないグルーヴに乗せて歌われる
「遠回りばかり ずっとしてたけど 立ち止まることにも 意味はあったんだ」
というフレーズに込められた力強い肯定に、思わずはっとさせられた。

この成長や出発というものを、正面から引き受けるような姿に、スカートが輝かしい、新たな季節に入ったことを感じたのです。

そして、こんなにステキな歌が、日本中のラジオやテレビや映画館で流れる未来が、「好きな歌をどうやって忘れようかと」思っていた『CALL』の先に待っていたなんて…と、作品を超えたストーリーにもグッとこないわけにはいかなかった。

 

かくも新鮮な変化を感じさせる一方で、『20/20』においては、スカートの変わらない側面もまた、輝きを増しているように思う。

それは例えば『パラシュート』や『手の鳴る方へ急げ』で強く感じられる盤石にしてしなやかなバンドサウンド。
あるいは『わたしのまち』や『さよなら!さよなら!』での、失われてしまったものへの深い愛を隠さないナイーブさや、『わたしの好きな青』に感じられる池袋のモッズレジェンドやニューヨーク在住の王子様へのオマージュをはじめとする、先人たちへの深いリスペクト、などなど。

しかし、なによりも澤部渡氏の信頼できる不変ぶりを強く感じるのは、楽曲に込められた「優しさ」ではないでしょうか。

テレビ番組のエンディングテーマとして山田孝之の愛すべき愚行を包みこんでいた『ランプトン』。そして、夜明けに射す薄日のようなストリングスも麗しく生まれ変わったインディー時代の名曲『魔女』。

「もう少し悪い人になれたらいいのに/このままでは困ると思ってたんだけどなあ」

こんなポップミュージックの常道から大きく外れた、優柔不断なほど穏やかな言葉を乗せたサビに、アルバム全体のクライマックスを持ってこれるのは、やっぱりスカートしかいないよ…(そっと目頭を抑えながら)。

ついでに言うと、トータルタイム35分という前作を更新する短さにも、「ナイスポップかくあるべし」というメジャーに行っても変わらないこだわりが感じられますね。


こうしてアルバムは、『魔女』から『静かな夜がいい』で聴き手の心と身体を再びアップリフトしてエンディングを迎えるわけですが、この完璧過ぎる流れに、つい、小沢健二のファーストアルバムにおける『天使たちシーン』と『ローラースケートパーク』の関係を思い出してしまったよ。

 

 

以上が、リリースから2日で聴きまくったかけ足の感想ですが、間違いなく言えることは、このアルバムは、これからの私の成長にいつまでも寄り添ってくれる作品だ、ということです。

 

先週末のこと(Social tower marketと「カレーとDJ」)

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10/7(土)
娘の学芸会の後、急いで名古屋市のテレビ塔で行われているSocial tower marketへ。3年連続で遊びに来ている。
今年の目当ては王舟。アルバムはずっと愛聴していたものの、ライブを観たことはなかった。
初めて聴く王舟の歌には、例えば曽我部恵一の圧倒的な迫力や、澤部渡の心の急所をピンポイントで突いてくる感じとも異なる、聴く者を包み込むような大らかさと、周りの風景にフィルターをかけてしまう力があるように思えた。そしてギターがとても上手だった。
夏のような日差しを浴びながら、「あぁこのまま溶けちゃいたいな」と夢想しているところにさりげなく入り込んできた電気グルーヴ「虹」のカバーの美しさ。トリコじかけになるってこういうことか、と思った。

王舟を観た後は急いでパルコの世界堂へ。7月のOur Favorite Thingsで小田島等さんに描いてもらった娘の似顔絵をようやく額装してもらう。そういえば2年前のSocial Tower Marketでは娘と二人で小田島さんのライブペインティングを見たのだった。


再びテレビ塔に戻り、Tempalayのライブ。こちらも初体験。育ちが良さそうな東京インディーシーンへのカウンターのような、不良っぽさと底意地の悪さを感じさせる佇まい。そして絶対にシッポを掴ませないぜと言わんばかりに目まぐるしく変化するグルーヴにシビれた。普段は音楽に一切興味のない次女も「Have a nice day club」で踊ってた。

 

 

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10/8(日)
朝から町内の神社のイベントにかりだされた後、息つく間もなく新安城駅前ラヴィエベルへ。「カレーとDJ」というパーティーに参加させてもらった。店主ウエノ氏の「ブロックパーティーって感じでやりたい」という言葉通り、軒先にデーンと鎮座するElectro Voiceのスピーカー。マジかよと超ドキドキしつつ、日曜日の昼下がりにふさわしいグッドメロディーかつおだやかなリズムの曲を中心にかけさせて頂く。人通りもまばらな新安城、最初はどうなることかと思ったけど、陽が傾くにつれて、ウォーキング中のお姉さん、飲み会帰りの会社員グループ、近所のライブハウスに出演する外国バンドマンなど、実にダイバーシティなお客さんが寄っていってくれた。おだやかな天気の中でメインDJをつとめる二宮さんのプレイを聴きつつ、いつか街の名物パーティーになる日を夢想した。そしてそんな私たちが心を込めてお届けするレギュラーパーティーKennedy!!!は10/14(土)の20時スタート。カゼノイチでお待ちしております。

 

 

帰宅後、録画しておいたNHK「シブヤノート」を観る。我らがスカート、演奏はもちろんトークもバッチリのやつだった。

いい週末だった。

最近読んだ本の話(ECDと徳大寺有恒)

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ECDの文章を読むと、普段自分がペラペラと喋ったり書いたりしている言葉が、なんだか軽くて薄っぺらいもののように思えて恥ずかしさを感じる。

 

無駄というものが存在しない、清潔な文体。
事実を淡々と書き連ねているようでいて、その心情をも過不足なく伝わるよう空けられた行間。

上手いとか素敵だと思わせる作家はたくさんいるのだけれども、恥ずかしいという気持ちにさせるのはECDだけである。

 

2009年に出版され、つい先日文庫化された「ホームシック」は、ECDが写真家・植本一子と結婚して、第一子のくらしちゃんが生まれるまでのエッセイ集。

中でも俺が一番好きなコラムは「一日」と題された文章。

くらしちゃんが生まれて間もない頃の、一児の父としてのルーティン、朝起きて、ミルクをあげて、仕事をして、家に帰ってお世話をしてから寝る、ただそれだけの記録。
それなのに、この時にECDが感じていたであろう静かで深い幸せがこちらにも伝わってきて、お腹の底からじんわりと暖かくなるような気持ちになる。

 

もちろん、この前には壮絶な「失点 イン・ザ ・パーク」の日々があり、この後には「かなわない」から「家族最後の日」に至る人生が待ち構えていることを、2017年の読者である私は知ってしまっている。

それを知った上でこの本を読むと、ひとしおの切なさを感じずにはいられないわけだけれども、同時に、ECDこと石田義則という人が生き抜いている、いくつもの季節の濃厚さに羨ましさにも似たような感情を抱いてる自分にも気づく。

これが極めて無責任な感想であることは分かっているのだけれども、苦境に満ちた現実を反転させてしまう強さが、ECDの文章には宿っていると思う。

 

特に家族を持つこと、子供を育てることに不安を漠然とした不安のある人におすすめしたい一冊。

 

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続いて手に取ったのは故・徳大寺有恒巨匠1992年の著作「ダンディートーク2」。
徳大寺って誰だよ、と思われる方は、ムッシュかまやつ北方謙三勝新太郎を足して3で割ったようなおじさんだと思ってもらえればいいと思います。

 

この本は徳大寺氏の愛するイギリス車を中心に書かれたコラム集なのだけど、普通の自動車評論のつもりで読むと、ヤケドすることになる。

 

例えばイギリスの高級スポーツカー、アストンマーチンの乗り心地は、巨匠の手にかかるとこんな風に表現される。

 

「知謀がありながら世に認められず隠遁していた老いらくの武将を、三顧の礼で軍師に迎えたため、そいつが感激して必死に主人に尽くそうとしている感じ」

 

果たしてこれがアストンマーチンという車の評価として正しいものなのかどうか、極めて怪しい。というか、そもそも何を言っているのかよくわからない。

 

しかし、そんなことはどうでもいいのだ。
どうせ俺がアストンマーチンを運転することなどないし、別に車の評論が読みたいわけでもない。

 

俺はただ、溢れんばかりの自動車への愛を、天を駆け回るほどのイマジネーションを駆使して語る、徳大寺有恒という人物の熱さに触れたいだけなのである。

 

「好きなこと好きなだけ 好きならもっと好きにやれ」と加藤ひさしも歌っていた通り、愛を愛として表現できる大人は、とてもチャーミングだ。
アストンマーチンに乗る財力のない俺も、かくありたいと思う。


それにしても、このECDの静謐な筆致とは対極の過剰なレトリックに満ちた文章。しかしこれもまた、私を構成する一部なのです。

 

 

落日飛車とYOK.のライブを観た話

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 久々に名古屋のライブハウスに潜入。
YOK.と落日飛車のライブを観てきました。

 

まずはYOK.
ずっと前からフライヤーなどでよく名前を見かけていて気になる存在だったわけですが、ようやく観ることができた。
しかも今回は名古屋では初というドラムの入ったバンドセット。
ハープ、サックス、バイオリン(ジョセフアルカポルカの人だった)という独創的な編成が奏でる、俺のよごれちまってる魂を浄化してくれるような美しい音楽。
特に中盤に演奏されたゆったりとした鉄琴が印象的な曲と、最後の少しアップテンポなグルーヴのある曲が良かった。

 

続いては台湾からやってきた落日飛車。
昨年末にEP「JINJI KIKKO」の濃厚なAOR感と東京インディーとのシンクロぶりにヤラレて以来、ずっとライブを楽しみにしていた。

 

メンバーは6人。スカートの編成にサックスが加わったカタチと言えばいいだろうか。

 

パイナップルの飾りがぶら下がるフロアを子供たちが駆け回るアットホームな雰囲気の中でサウンドチェックが終了。
そして一曲目の「Burgndy red」のイントロが鳴り出した瞬間、きっと俺はこのバンドを好きにならずにはいられないだろう、という確信が身体を貫くのを感じた。
いや、39歳のおじさんという属性をかなぐり捨てた率直な表現を許して頂けるならば、恋に落ちた、という方が正確かもしれない。

 

街の灯りが明滅するロマンチックな輝き、巨大な万華鏡を思わせるサイケデリア、そしてポップソングのお手本のような甘く美しいメロディ。
それでいて、メンバーの佇まいはその辺にいる気のいい兄ちゃん風で、鳴らされている場所はガレージの片隅、という感じ。

達郎、Prefab sprout、そしてGREAT3とスカートやyogeeを愛している私のような者がグッとこないわけないのだ。
そしてなにより素晴らしいのは、こうしたグレートなバンドたちを分母に割り算しても、割り切られることなく彼らのオリジナリティーがたっぷりと残っていること。

それを彼らが暮らす台湾という土地に結びつけることはあまりにも短絡的とはわかっているけれども、この濃厚な甘さにはどこかエキゾチックな香りを伴っているように思う。

 

「JINJI KIKKO」を中心にした本編が終わってももちろん拍手は鳴りやむことなく、「アンコール準備してなかったから昔の曲を」と前置きして演奏された曲は、どことなくペイブメントの影響を感じさせるもので、彼らの幅広いルーツを感じさせた。


約1時間の短いステージだったけど、また一つ好きなバンドが増えた、エキサイティングな夜でした。

 

夏の終わりの課題図書 サニーデイ・サービス、北沢夏音著「青春狂走曲」の感想文

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今、目の前にはとうの昔に読み終わり、付箋が貼られまくった「青春狂走曲」が置いてある。
その感想をなんとか文章にまとめようとしているのだけれども、どうにもうまくいかないので、とりとめなく順番に書いていこうと思います。


まず、著者である北沢夏音氏について。

私が北沢氏のことを自分にとって特別な書き手として認識したのは例によってものすごく遅く、クイックジャパン山下達郎インタビュー。今から12年前くらい。

達郎御大が怒り出すんじゃないかと心配になるほど、自らの達郎に対する積年の思いを臆することなくぶつけることによって引き出された金言の数々。両者ががっぷり四つに組んだ言葉の応酬を、手に汗握りながら何度も読み返したことを覚えている。

 北沢氏の文章やインタビューは、もはやそれ自体がロックンロール的な匂いがして、音楽の深みにはまることの素晴らしさとある種の危うさを教えてくれるのだ。

 

そして本書の冒頭を飾るコラムのタイトルは「君に捧げる青春の風景」。
これぞ北沢夏音というべき、濃厚な愛が詰まった一行が目に入った瞬間、後に続く400ページ余りの充実ぶりを確信した。

 


この本は1995年から2017年、ファーストアルバム「若者たち」から最新作「POPCORN BALLADS」が発表されるまでの期間に行われたインタビューを中心に構成されている。
曽我部恵一、田中貴、丸山晴茂のこれだけまとまった肉声を読むのは初めてのこと。

 サニーデイ・サービスというバンドの裏側にどんなストーリーがあって、なぜいつまでも私を含めた多くのリスナーの胸を打つのか、その手がかりがこれでもかというほどに盛り込まれている(ちなみに2000年に解散を決めた瞬間も3人の口から克明に語られている。それぞれの記憶が少しずつ違っているところが生々しかった)。

 

 

語り出せばキリがない山のようなエピソードから印象に残ったものを一つあげると、曽我部恵一が再結成後のリハーサルで、ベースの田中貴に、「俺はこの曲をやるとき、当時付き合ってた彼女のこと思い出して歌ってる。楽しかったりケンカしたり。おまえもそういう気持ちで弾いてくれ」と詰め寄ったという話。

サニーデイのライブで見る曽我部恵一は、ソカバンともソロの時とも違う、何か大きなものに身を捧げるような雰囲気をまとっていると思っていたのだけど、こういうことだったのか、と深く納得した。
そしてあれだけのキャリアと力量を持つミュージシャンが、今なおリハーサルから全身全霊の演奏しているという事実。
「曽我部と一緒にバンドをやるのは過酷。あそこまで突き詰めるミュージシャンはいない」という田中貴の言葉とも重なって、あの圧倒的なパフォーマンスを生み出すためのエネルギーの大きさに、めまいがしそうな思いがした。

 

この、ロックバンドを続けていくために必要な音楽的、ビジネス的、精神的エネルギーの膨大さ。そこから得られる対価とリスクを考えれば、とてもまともなオトナのやることではない(あれだけ売れていたMIDI時代の月給は最大でも18万だったらしい)。
ロックバンドとは、もはやそれ自体が作品のようなものなのだということを思い知らされる。

 

にも関わらず、「Dance to you」発表時のインタビューで曽我部恵一

「もうサニーデイ以外の活動はしない。自分のすべてをサニーデイに注ぎ込むことにきめた」

と、これからの覚悟を語っていて、ファンとしてはこんなに嬉しい言葉もないわけだけれども、その道の険しさを想像すると、バンドが存在する間に、彼らがもたらしてくれる興奮と喜びを思いっきり吸い込まなければならない、とも思う。


後半には「第四のサニーデイ」ことアートディレクターの小田島等氏のインタビューも収録。
小田島氏によるアートワークを語ることは、サニーデイ・サービスというバンドの本質に迫ることと同義だと思っていた私としては、この点をしっかりと北沢氏が掘り下げてくれたことが嬉しかった。
「若者たち」「東京」あるいは「Dance to you」。これらのアルバムジャケットが、もしも凡庸なものだったとしたら、サニーデイディスコグラフィーに対する評価も、もしかしたから音楽自体も、違うものになっていだろう。

サニーデイ・サービスがつくりあげる音の世界を、目に見えるものや手に触れられるものへと拡張してきた小田島氏。
3.11以降に大阪へ移り住んでいた彼が東京に戻ってきたのが2014年で、そこからサニーデイの作品とライブが別次元に突入していったのは果たしてただの偶然なのだろうか。
小田島等こそが、曽我部恵一というアーティストにとって唯一のプロデューサーなのかもしれない、なんてことを愛と批評性にあふれた彼の言葉を読みながら思ってしまった。


そして小田島氏の「ある作家や作品にハマると、それを自分のことのように考えてしまう」という言葉を噛みしめつつ、俺は過去のどの時期よりも、今(NOW!)のサニーデイの音楽が一番好きなんだよな、と思っているところだ。