最近読んだ本の話(ECDと徳大寺有恒)
ECDの文章を読むと、普段自分がペラペラと喋ったり書いたりしている言葉が、なんだか軽くて薄っぺらいもののように思えて恥ずかしさを感じる。
無駄というものが存在しない、清潔な文体。
事実を淡々と書き連ねているようでいて、その心情をも過不足なく伝わるよう空けられた行間。
上手いとか素敵だと思わせる作家はたくさんいるのだけれども、恥ずかしいという気持ちにさせるのはECDだけである。
2009年に出版され、つい先日文庫化された「ホームシック」は、ECDが写真家・植本一子と結婚して、第一子のくらしちゃんが生まれるまでのエッセイ集。
中でも俺が一番好きなコラムは「一日」と題された文章。
くらしちゃんが生まれて間もない頃の、一児の父としてのルーティン、朝起きて、ミルクをあげて、仕事をして、家に帰ってお世話をしてから寝る、ただそれだけの記録。
それなのに、この時にECDが感じていたであろう静かで深い幸せがこちらにも伝わってきて、お腹の底からじんわりと暖かくなるような気持ちになる。
もちろん、この前には壮絶な「失点 イン・ザ ・パーク」の日々があり、この後には「かなわない」から「家族最後の日」に至る人生が待ち構えていることを、2017年の読者である私は知ってしまっている。
それを知った上でこの本を読むと、ひとしおの切なさを感じずにはいられないわけだけれども、同時に、ECDこと石田義則という人が生き抜いている、いくつもの季節の濃厚さに羨ましさにも似たような感情を抱いてる自分にも気づく。
これが極めて無責任な感想であることは分かっているのだけれども、苦境に満ちた現実を反転させてしまう強さが、ECDの文章には宿っていると思う。
特に家族を持つこと、子供を育てることに不安を漠然とした不安のある人におすすめしたい一冊。
続いて手に取ったのは故・徳大寺有恒巨匠1992年の著作「ダンディートーク2」。
徳大寺って誰だよ、と思われる方は、ムッシュかまやつと北方謙三と勝新太郎を足して3で割ったようなおじさんだと思ってもらえればいいと思います。
この本は徳大寺氏の愛するイギリス車を中心に書かれたコラム集なのだけど、普通の自動車評論のつもりで読むと、ヤケドすることになる。
例えばイギリスの高級スポーツカー、アストンマーチンの乗り心地は、巨匠の手にかかるとこんな風に表現される。
「知謀がありながら世に認められず隠遁していた老いらくの武将を、三顧の礼で軍師に迎えたため、そいつが感激して必死に主人に尽くそうとしている感じ」
果たしてこれがアストンマーチンという車の評価として正しいものなのかどうか、極めて怪しい。というか、そもそも何を言っているのかよくわからない。
しかし、そんなことはどうでもいいのだ。
どうせ俺がアストンマーチンを運転することなどないし、別に車の評論が読みたいわけでもない。
俺はただ、溢れんばかりの自動車への愛を、天を駆け回るほどのイマジネーションを駆使して語る、徳大寺有恒という人物の熱さに触れたいだけなのである。
「好きなこと好きなだけ 好きならもっと好きにやれ」と加藤ひさしも歌っていた通り、愛を愛として表現できる大人は、とてもチャーミングだ。
アストンマーチンに乗る財力のない俺も、かくありたいと思う。
それにしても、このECDの静謐な筆致とは対極の過剰なレトリックに満ちた文章。しかしこれもまた、私を構成する一部なのです。
落日飛車とYOK.のライブを観た話
久々に名古屋のライブハウスに潜入。
YOK.と落日飛車のライブを観てきました。
まずはYOK.
ずっと前からフライヤーなどでよく名前を見かけていて気になる存在だったわけですが、ようやく観ることができた。
しかも今回は名古屋では初というドラムの入ったバンドセット。
ハープ、サックス、バイオリン(ジョセフアルカポルカの人だった)という独創的な編成が奏でる、俺のよごれちまってる魂を浄化してくれるような美しい音楽。
特に中盤に演奏されたゆったりとした鉄琴が印象的な曲と、最後の少しアップテンポなグルーヴのある曲が良かった。
続いては台湾からやってきた落日飛車。
昨年末にEP「JINJI KIKKO」の濃厚なAOR感と東京インディーとのシンクロぶりにヤラレて以来、ずっとライブを楽しみにしていた。
メンバーは6人。スカートの編成にサックスが加わったカタチと言えばいいだろうか。
パイナップルの飾りがぶら下がるフロアを子供たちが駆け回るアットホームな雰囲気の中でサウンドチェックが終了。
そして一曲目の「Burgndy red」のイントロが鳴り出した瞬間、きっと俺はこのバンドを好きにならずにはいられないだろう、という確信が身体を貫くのを感じた。
いや、39歳のおじさんという属性をかなぐり捨てた率直な表現を許して頂けるならば、恋に落ちた、という方が正確かもしれない。
街の灯りが明滅するロマンチックな輝き、巨大な万華鏡を思わせるサイケデリア、そしてポップソングのお手本のような甘く美しいメロディ。
それでいて、メンバーの佇まいはその辺にいる気のいい兄ちゃん風で、鳴らされている場所はガレージの片隅、という感じ。
達郎、Prefab sprout、そしてGREAT3とスカートやyogeeを愛している私のような者がグッとこないわけないのだ。
そしてなにより素晴らしいのは、こうしたグレートなバンドたちを分母に割り算しても、割り切られることなく彼らのオリジナリティーがたっぷりと残っていること。
それを彼らが暮らす台湾という土地に結びつけることはあまりにも短絡的とはわかっているけれども、この濃厚な甘さにはどこかエキゾチックな香りを伴っているように思う。
「JINJI KIKKO」を中心にした本編が終わってももちろん拍手は鳴りやむことなく、「アンコール準備してなかったから昔の曲を」と前置きして演奏された曲は、どことなくペイブメントの影響を感じさせるもので、彼らの幅広いルーツを感じさせた。
約1時間の短いステージだったけど、また一つ好きなバンドが増えた、エキサイティングな夜でした。
夏の終わりの課題図書 サニーデイ・サービス、北沢夏音著「青春狂走曲」の感想文
今、目の前にはとうの昔に読み終わり、付箋が貼られまくった「青春狂走曲」が置いてある。
その感想をなんとか文章にまとめようとしているのだけれども、どうにもうまくいかないので、とりとめなく順番に書いていこうと思います。
まず、著者である北沢夏音氏について。
私が北沢氏のことを自分にとって特別な書き手として認識したのは例によってものすごく遅く、クイックジャパンの山下達郎インタビュー。今から12年前くらい。
達郎御大が怒り出すんじゃないかと心配になるほど、自らの達郎に対する積年の思いを臆することなくぶつけることによって引き出された金言の数々。両者ががっぷり四つに組んだ言葉の応酬を、手に汗握りながら何度も読み返したことを覚えている。
北沢氏の文章やインタビューは、もはやそれ自体がロックンロール的な匂いがして、音楽の深みにはまることの素晴らしさとある種の危うさを教えてくれるのだ。
そして本書の冒頭を飾るコラムのタイトルは「君に捧げる青春の風景」。
これぞ北沢夏音というべき、濃厚な愛が詰まった一行が目に入った瞬間、後に続く400ページ余りの充実ぶりを確信した。
この本は1995年から2017年、ファーストアルバム「若者たち」から最新作「POPCORN BALLADS」が発表されるまでの期間に行われたインタビューを中心に構成されている。
曽我部恵一、田中貴、丸山晴茂のこれだけまとまった肉声を読むのは初めてのこと。
サニーデイ・サービスというバンドの裏側にどんなストーリーがあって、なぜいつまでも私を含めた多くのリスナーの胸を打つのか、その手がかりがこれでもかというほどに盛り込まれている(ちなみに2000年に解散を決めた瞬間も3人の口から克明に語られている。それぞれの記憶が少しずつ違っているところが生々しかった)。
語り出せばキリがない山のようなエピソードから印象に残ったものを一つあげると、曽我部恵一が再結成後のリハーサルで、ベースの田中貴に、「俺はこの曲をやるとき、当時付き合ってた彼女のこと思い出して歌ってる。楽しかったりケンカしたり。おまえもそういう気持ちで弾いてくれ」と詰め寄ったという話。
サニーデイのライブで見る曽我部恵一は、ソカバンともソロの時とも違う、何か大きなものに身を捧げるような雰囲気をまとっていると思っていたのだけど、こういうことだったのか、と深く納得した。
そしてあれだけのキャリアと力量を持つミュージシャンが、今なおリハーサルから全身全霊の演奏しているという事実。
「曽我部と一緒にバンドをやるのは過酷。あそこまで突き詰めるミュージシャンはいない」という田中貴の言葉とも重なって、あの圧倒的なパフォーマンスを生み出すためのエネルギーの大きさに、めまいがしそうな思いがした。
この、ロックバンドを続けていくために必要な音楽的、ビジネス的、精神的エネルギーの膨大さ。そこから得られる対価とリスクを考えれば、とてもまともなオトナのやることではない(あれだけ売れていたMIDI時代の月給は最大でも18万だったらしい)。
ロックバンドとは、もはやそれ自体が作品のようなものなのだということを思い知らされる。
にも関わらず、「Dance to you」発表時のインタビューで曽我部恵一は
「もうサニーデイ以外の活動はしない。自分のすべてをサニーデイに注ぎ込むことにきめた」
と、これからの覚悟を語っていて、ファンとしてはこんなに嬉しい言葉もないわけだけれども、その道の険しさを想像すると、バンドが存在する間に、彼らがもたらしてくれる興奮と喜びを思いっきり吸い込まなければならない、とも思う。
後半には「第四のサニーデイ」ことアートディレクターの小田島等氏のインタビューも収録。
小田島氏によるアートワークを語ることは、サニーデイ・サービスというバンドの本質に迫ることと同義だと思っていた私としては、この点をしっかりと北沢氏が掘り下げてくれたことが嬉しかった。
「若者たち」「東京」あるいは「Dance to you」。これらのアルバムジャケットが、もしも凡庸なものだったとしたら、サニーデイのディスコグラフィーに対する評価も、もしかしたから音楽自体も、違うものになっていだろう。
サニーデイ・サービスがつくりあげる音の世界を、目に見えるものや手に触れられるものへと拡張してきた小田島氏。
3.11以降に大阪へ移り住んでいた彼が東京に戻ってきたのが2014年で、そこからサニーデイの作品とライブが別次元に突入していったのは果たしてただの偶然なのだろうか。
小田島等こそが、曽我部恵一というアーティストにとって唯一のプロデューサーなのかもしれない、なんてことを愛と批評性にあふれた彼の言葉を読みながら思ってしまった。
そして小田島氏の「ある作家や作品にハマると、それを自分のことのように考えてしまう」という言葉を噛みしめつつ、俺は過去のどの時期よりも、今(NOW!)のサニーデイの音楽が一番好きなんだよな、と思っているところだ。
台風クラブ、スカート、曽我部恵一「Groomy Saturday」に行ってきました
ワタシのリスナー人生の今を象徴するような3組が出演するライブを観に行ってまいりました。
この三組に共通するものを一言で表すなら、日本のポップミュージック史の重みを「背負っている」ということ、ではないかと思っている。
パンクにマンチェ、はっぴいえんどにフリッパーズギターという洋邦の音楽的遺産をバックグラウンド(あるいはトラウマ)にしてデビューし、自らその歴史を更新し続けている曽我部恵一。
同じく、はっぴいえんどや山下達郎はもちろんのこと、サニーデイ以降の日本のポップミュージックの最良を凝縮した音楽を作り続けるスカート澤部渡。
そして、遅咲きのファーストアルバムのリリース直後にして、すでに伝説になっている感すらある台風クラブもまた、京都の、日本のロックンロールの豊潤すぎる土壌から生まれ落ちたバンドと言えるわけで。
この三者が一同に集い、演奏する。
しかも会場は老舗・磔磔、オーガナイザーはその愛あるペンでシーンを支えてきたライター・岡村詩野さん。
ワタシがどんな手段を尽くしてもこの夜に立ち会いたいと思うのは必然だったわけですよ…。
ほぼ満員の会場でトップバッターをつとめるのは台風クラブ。
ライブを観るの三回目なんだけれども、ステージに現れた瞬間から、いつものどこか居心地の悪そうな表情ではなく、この特別な緊張感の中で、とにかくやるしかない!という気合がみなぎった感じが遠目にも伝わってくる。
一曲目は「春は昔」。
そこから「処暑」「ずる休み」と、ファーストにして名盤「初期の台風クラブ」からの楽曲が続く。
ラウドだけど端正、どん詰まってるのに突風が吹きぬけるような解放感。アクセル踏みすぎて空転したタイヤから煙が出る感じも最高。魔法のロックンロールは今日も勢力を増したままライブハウスを転がり回る。
そしてこの日の瞬間最大風速は、やはり「飛・び・た・い」からの「台風銀座」の流れ。
吹っ切れたような伊奈昌宏のドラムと洒脱に跳ねる山本啓太のベース。そして万感をぶち込んだような石塚淳のギターリフ。
俺の心の中はまさに、吹けよ風、呼べよ嵐状態。
そしてその勢いのまま最後は日本語ロックの殿堂入り間違いなしの名曲「まつりのあと」でシメ。
こうして晩夏の台風はあっという間に通りすぎていった…と思ったところにスペシャルサプライズ!
曽我部恵一をゲストに呼び込んでのサニーデイ・サービス「御機嫌いかが?」。
一番のコーラスを石塚淳が歌い始めた瞬間、1995年のサニーデイサービス、2017年の台風クラブ、巨大な円環が繋がったような気がして、ビリッときた。
そしてステージの上の曽我部恵一が、ニコリともせずに演奏していたのも最高にカッコよかった。ステージに上がれば先輩も後輩もない真剣勝負なんだぜ、と背中で語っているようで。
のっけからいいものを見せて頂きました・・・。
続いてはその曽我部恵一がギター一本で登場。
一曲目は曽我部恵一バンドの「ソングフォーシェルター」。
サニーデイ・サービスやアズテックカメラの歌詞を引用しながら、ミュージシャンとしての自分の来し方を激しく自問するような圧巻のブルーズ。
しかしサビの「坊や、そっちはどうだい」というフレーズはこの日は若い二組のアーティストにも(もちろん観客の一人ひとりにも)向けられていたような気がしてちょっと震えた。
この日の曽我部恵一は、MCを含めた緩急のつけ方というか、アーティストととしての振り幅がすごかったように思う。
出会い頭の一発で表現者としての凄みを見せつけた後は、19年前のこの日にリリースされたサニーデイ・サービスの名曲「今日を生きよう」、そして「あじさい」でオーディエンスを甘酸っぱい青春のど真ん中に連れていき、プライベートなMCで笑いの坩堝に落とす。
そうかと思えば「キラキラ」や「満員電車は走る」では喉も潰れんばかりのシャウトでまたしても度肝を抜き、「大人になんかならないで」ではたまらなく純度の高い愛で心を焦がしてくる。
この人のライブを見るたびに、ミュージシャンが、音楽が、表現できることの幅広さ、果てしなさを見せつけられるような気分になって呆然としてしまう。
振り回されっぱなしの数十分、素晴らしかった。
そしてトリをつとめるのは、澤部渡率いるスカート。
台風クラブ、曽我部恵一が温めまくったライブハウスの空気はいわば甲子園9回裏サヨナラのチャンスのような高揚感とプレッシャー。
いやしかし見事にやってくれましたよ、澤部選手。
磔磔の素晴らしい音響も相まって、歌も演奏も繊細にして揺るぎのない、今までで最高のパフォーマンスだったと言ってもいいんじゃないんでしょうか。
「暗い歌を一曲」という言葉と共に最初に演奏されたのは、台風クラブ石塚氏が愛してやまないというスカートの記念すべきファーストアルバムの冒頭を飾る「ハル」。
この「暗さに愛されてしまった天才」というところが澤部、石塚というソングライター二人の共通点なのかもれないな、としみじみしているところに畳み掛けられる「ストーリー」「おばけのピアノ」というキュン死必至の名曲たち。
この日のセットリストは、デビューからの時系列に並べたという、スカートの軌跡を辿るベストオブベスト。
メジャーデビュー直前のこのタイミング、このメンツのイベントで、こういうセットリストを組むところにも、澤部氏がこの日のライブをいかに特別なものと捉えているかがわかるというもの。
その大きな背中で、もっと大きな何かを背負ってしまうところ、大好きです。
MCで台風クラブとのなれそめ(俺と同じココナッツディスク吉祥寺で買ったCD-R!)やインディーデビュー以来の曽我部恵一との縁を語り、「だから今日は今日はエモいんです。みんなが思っている以上に」と言い切った後に披露された「CALL」。
イントロのギターの温度の高さに泣けたし、いつもより回数多めでキメていたシャウトも曽我部恵一の魂が乗り移ったかのようにソウルフルで男前だった。
そしてセットリストの後半は来たるアルバム「20/20」からの曲が並ぶ。
特にアンコールに披露した最後の「さよなら!さよなら!」の突き抜けたポップぶりよ。
どこまで飛距離が伸びるのか、リリースが今からとても楽しみなのである。
そんなこんなで21時きっかりにライブ全て終了。
なんだか自分がここにいることも現実とは思えない、夢のような時間であった。
京都滞在時間、わずか4時間。30代最後の夏、やりきった感あるな…と涼しくなってきた空気の中、新幹線に飛び乗りました。
2017年8月27日 日比谷野外大音楽堂 サニーデイ・サービス サマーライブ2017
先週の雨天続きが嘘のように晴れ上がった空の下で開催された、サニーデイ・サービス19年ぶりの野音ライブに行ってきた。
19年ぶりと言っても、98年も97年のライブも観ていないので、私にとって野音でサニーデイを観るのは初めてのことになる。
ちなみに私が野音に来たのは今回で二度目。
前回は東京No.1ソウルセットのワンマンライブ。しかしこれも99年の話なので、まあやっぱり20年近く前の話。
あの時ステージの背後にそびえ立っていた旧長銀の本店ビルも無くなってしまった。
開場前から集まった満員のファンは、私よりもだいぶ歳上の人達から、同世代の子連れの家族、そして10代くらいに見える若者まで幅広い。
サニーデイ・サービスが長く愛され、また今もなお新しいリスナーを獲得し続けているバントであることの表れだろう。
蝉の鳴き声の中、まだ陽も高い定刻17時ちょうどにライブがスタート。
一曲目は「今日を生きよう」。
久々に会った友達に挨拶をするような、カジュアルだけど心のこもった演奏。
そこから「素敵じゃないか」「あじさい」といった初期の代表曲、そして「8月の息子」「江ノ島」「さよなら!街の恋人たち」のように夏の夕方にふさわしい曲が続く。夏をテーマにした名曲だけでこれだけの量があるということが信じられない。
そしてそんな楽曲たちを、大都会のオアシスとも言うべきロケーションで、3,000人ものサニーデイを愛してやまない人たちと共有している光景の美しさ。
しかし一方で、強欲なヘビーリスナーである私は、今のサニーデイ・サービスが、会場ごとどこか遠くへ連れ去る魔法のようなロックンロールを鳴らすバンドであることを知っている。今日はまだそのモードには入っていないように思われた。
そのスイッチが入ったと感じたのは、ちょうど真ん中あたりで演奏された「海へ出た夏の旅」。
新サポートメンバー・岡山健二によるドラムが印象的で、少しアブストラクトなアレンジに、会場にいる蝉の鳴き声が重なった瞬間、自分が松林の向こうの静かな海に連れて来られたような感覚に襲われ、視界が眩む。
それに続くのは「Dance to you 」のリリース以降、常にライブで更新され続けてきた「セツナ」の熱狂。
ロックンロールというマグマの一番温度の高いところを素手で掴むような演奏に、老若男女が集う客席もこの日一番の歓声で応える。
ほぼ最新作からの楽曲で、これだけ盛り上げるキャリア20年以上のバンドなんて、世界中のどこにもいないんじゃないか。
直後に演奏された「白い恋人」が放つ、逆に20年前に作られたとは思えない、フレッシュでまばゆい光を浴びながら、心と頭が混沌としていくのを感じた。
この三曲の流れが、私にとってこの日最初のピークにして、異次元への入口だった。
しかし、どうしようもなく強欲な私は、俄然熱を帯びていくライブの中にあってもなお、あの最新作にして傑作「Popcorn ballads」からの楽曲がまだ披露されていないということが気になっていた。
フジロックでは「街角のファンク」をC.O.S.AとKID FRESINOを迎えてぶちかましたと聞くし。
でも今日はなんだかそんな流れでもないみたいだな…と思っていたところでついに披露された「花火」。
ナイアガラのウォールオブサウンドのように華やかなアレンジ、雄大なメロディと歌詞がマジックアワーの夜空に吸い込まれていく様が美しすぎて、1コーラス目のサビの時点で涙を拭うのを諦めた(いろいろ書いてるけど、新井先輩のギターが素晴らしかった「96粒の涙」の時点でとっくに涙腺は崩壊していたのだ)。
そしていよいよ本編も終盤。
ちょうど空が真っ暗になったところで演奏された「時計を止めて夜待てば」、そして「24時のブルース」。
静かなメロウネスとささやかな悲しみを湛えたブルーズが、会場にいる小さな子供たちの声やオフィスビルの窓の明かりと重なり、都市のための子守歌のように響く。高野勲が弾くメロトロンによるひんやりとした寂寥感が心地よい。
この曲をこの場所で聴けるなんて…と感慨に耽っていたところに鳴り出したのは「週末」のイントロ。
個人的には99年のライジングサン以来の再会。夏の夜に溶けてしまいそうな儚いメロディはあの時のまま。
でも、
「ゆっくりと だけど確かに おだやかに時は過ぎる
気づいたらもうこんなところなんて 僕なんか思ってしまう」
というサビが、20年前のあの日とはまったく違う意味を帯びていることに気づき、また泣けた。泣けすぎて、もう「サマーソルジャー」ではステージを直視することができなかった。
OFTで聴いた時は「これはいつかみんなでシンガロンしたいぜ」とか思ってたけど全然無理。歌えなかった。
そして本編ラストは「海岸行き」。
ここまでの3曲はアルバム「愛と笑いの夜」とまさに同じ曲順。そうか、ちょうどリリースから20年だったのか…と今さらながらに、この日のセットリストの意図に気づく。
でもそうしたメッセージは別としても、この愛すべき、さりげない曲で、集大成とも言うべき特別なライブを締めてしまうほど底知れない表現力が、この日のサニーデイサービスには宿っていた。
本編が終わり、急いでトイレで顔を洗い、ビールを飲んで、心を落ち着かせてからアンコールに臨む。
本編で感情を大開放してしまったので、もうあとは楽しむだけ。
同じく「愛と笑いの夜」からの「忘れてしまおう」、「夜のメロディ」「青春狂走曲」。
再結成前の代表曲連発に、もうメチャメチャ盛り上がった。
特に「忘れてしまおう」をライブで聴くのは初めてだったけど、なんというカッコよさ。「愛と笑いの夜」における曽我部恵一はモーニンググローリー期のノエル・ギャラガーとタメを張るソングライターだったんだね…とこれまた今さらながらに。
鳴り止まない拍手の中で登場した2回目のアンコールは「胸いっぱい」と、丸山晴茂がドラムを担当した現時点で最後のアルバム「Sunny」から「One day」。
「静かな海辺のような風景 ときどきそこにみんな集まる
知らず知らず吸い寄せられる 何も喋らずにただ涙を乾かす風を待つ」
という歌詞に、今日この場にいることができた幸運、サニーデイ・サービスというバンドを追いかけてこれた幸せを噛みしめた。
またいつか、ここで会いましょう。
ーお知らせー
①私も寄稿させて頂いたZine「Something on my mind」が発行されました。
今回の特集はずばり「渋谷系」。渋谷系はもちろん、日本のネオアコ・ギーターポップ、シューゲイザーと10年代の名盤ディスクレビューに加えて、伝説のネオアコバンドPhilipsのインタビューまで盛りだくさんの内容で500円。
ココナッツディスク池袋をはじめ、都内レコード店を中心に順次販売されていますので、ぜひ読んでみてください。
(詳しくはまたお知らせします)
②またまたパーティーやります。
9月16日(土)新安城カゼノイチで「KENNEDY!!!! VOL.3」を開催します。私もDJとして参加。お近くの方はぜひ遊びにきてください。
梯久美子著「狂うひと」を読みました
植本一子がおすすめしていた(たしか)という安易な理由で読み始めた梯久美子著「狂うひと」。
島尾敏雄・ミホ夫妻の生涯を描いたドキュメンタリーであるのだが、あの「かなわない」をはるかに上回る、650ページ以上というボリュームにまず圧倒される。
こんな分厚い本とても読めるわけないと思ったものの、結局最初から最後まで、手に汗握りながら一気に読んでしまった。
奄美に着任した特攻隊長と、島に住む名士の娘の大恋愛。
その夢から覚めさせる戦後の現実と、夫の不倫により正気を失う妻。贖罪のために自分の全てを捧げる夫。
その過程を記録した島尾敏雄の小説「死の棘」によって二人は文学史に残るアイコン的存在になっていくわけだけれども、そこには尊い愛だけでは割切ることのできない現実的事情や打算が潜んでいたことを明らかにしていく。
そう書くとなにやらスキャンダラスな匂いが漂ってしまうのだが、これぞまさにプロの仕事と言うべき長年にわたる綿密な取材と冷静な筆致によって、一切の憶測は排除され、島尾夫妻の人間像が、公平かつ立体的に浮かび上がっている。
そして彼らの深すぎる業を、彼岸のこととしてやり過ごすことを許さないほどの近さで突きつけられた読み手である私もまた、否応なしに自分の人生を省みることを要求されるのです。
ただひたすらに平坦でまっすぐな道を整え、そこを淡々と歩むことを目的としたような私の人生。別の世界に繋がる穴にはすべて蓋をしなければならない。
果たして、その蓋を開けないまま死んでいくことが、幸せな人生というものなんだろうか。
自分でもコントロールできない何かに振り回されることこそが、生きるということなんじゃないか。
そんな愚かで浅薄、かつ甘美な誘惑にかられたりもするわけです、たまには。
しかし少なくとも、その蓋を外した人だけがつくり出すことができる世界が存在すること、それが俺の人生に大いなる驚きと喜びをもたらしてくれていることだけは確信を持って言える。
つまり人のセックスを笑ってはいけない。すべての愚行と倒錯に(まずは)リスペクトを。
サニーデイ・サービスの衝撃作「Popcorn ballads」のあれから
サニーデイ・サービスの衝撃作「Popcorn ballads」が突然リリースされてから二ヶ月が経つが、依然として私のプレイリストの最上位に鎮座し続けている。
当初は、(リリース当日に全曲レビューを書いてしまうほど)それぞれの楽曲の、あるいはリリース方法の斬新さに心を奪われてしまい、アルバムを通じてのストーリーまでは考えることができなかった。
しかし何度も聴き直しているうちに、ふとこれは壮大なコンセプトアルバムなのでは…と気づく瞬間があった。
その時も興奮を世に問うべく、一気にツイートしてみたわけだけれども、当然何事もなかったようにタイムラインのはるか彼方へと追いやられてしまったので、改めてここに記しておきたい。
私が閃いた仮説。
それはこの全22曲に及ぶ大作はちょうど真ん中のM11「Heart & soul」を境にして、「戦中と戦後」というテーマになっているのではないかというもの。
その筋に沿って、この22曲85分の冒険譚をもう一度読み進めていきたい。
冒頭を飾る二曲は、戦争というテーマと比較的明確に結びついている。
M1「青い戦車」は文字通り戦場の歌であり、『湾岸走る戦車』という歌詞からは、近未来のレインボーブリッジをひた走る戦車の姿が浮かんだ。
続くM2「街角のファンク」におけるC.O.S.AとKID FRESINOの荒々しいラップは、死と隣り合わせにいる兵士たちの夜だ。
M3「泡アワー」は一聴すると軽快なダンスナンバーのようである。
ただ、このやけに切迫感のあるサンプリングビートに乗せて繰り返される『僕らはみんな水槽の金魚 色とりどりの泡を見ている』『急げ急げこの夜の警告』という歌詞の世界を少しだけ悲劇的な方向に傾けてみると、空爆される街の姿、飛び散るネオンサインが浮かび上がってくる。
その流れでM5「東京市憂歌」 を聴けば、これは爆撃された後の、かつて東京都と呼ばれた土地に残った者(それは人間ではなくAIかもしれない)が歌うブルーズと解釈するのが自然だろう。
トライバルなビートに乗せて、ロボットボイスで繰り返し歌われる「Dance forever 我が身果てるまで踊ってれば live forever 」というフレーズの言いようのない不気味さ。
最初に聴いた時にも坂本慎太郎「ナマで踊ろう」を思い出したのだが、あれこそまさに人類滅亡後のダンスミュージックとも言うべき問題作だった。
そこから一転、こぼれ落ちそうなほどリリカルなM6「きみは今日、空港で」は、大切な人との別離の歌。空港を舞台にした戦争に翻弄される人々の喧騒と静かな悲しみの交錯。戻ってこない平穏な日々。
そして最高にシュールで、曽我部の愛犬が死ぬほど可愛いMVも記憶に新しいM8「Tシャツ」のオーセンティックなロックンロール。アルバムタイトルの「ポップコーン」と並ぶ戦争大国アメリカの暗喩だろうか。
続くM9「クリスマス」は間違いなくこのアルバムの核を担うファンクナンバーであるが、その歌詞に少し注意を払って聴いてみれば、本名もわからない、クリスマスと言うあだ名で呼ばれるストリートチルドレンの姿が浮かんでくる。あまりにも切ないダンスミュージック。
そして同じくブレイクビーツに乗せて歌われるM10「金星」への祈りが通じたのか、マイナーで始まるインストナンバー「Heart & soul」は、穏やか朝が訪れるように転調する。
この瞬間、戦争は終わった。
少なくとも私の世界では。
さて、ここからは戦後編。
まずその冒頭を飾るM12「流れ星」。
そのタイトルを見れば、M10「金星」と同じ天体をモチーフにした曲がM11「Heart & soul」を挟んで対に並んでいることに気づく。
これは単なる偶然ではなく、曽我部恵一がそのストーリーを浮き上がらせるために入れ込んだ仕掛けではないだろうか。
続くM13「すべての若き動物たち」。
最初に聴いた時は曽我部恵一の、年輪とは無縁の若々しい音におののいたが、『スピードはそんなもんか』『今世界はゆりかごの中』といった歌詞からは、混沌を生き抜かんとする若者のギラギラとした生命力を感じる。これはM2「街角のファンク」の物語と対の構造なのかもしれない。
そこからは一転、M14「Summer baby」M15「恋人の歌」M16「ハニー」と「恋人」を意味するタイトルが三曲続く。
そして「恋人の歌」と「ハニー」はそれぞれ、帰ってきた恋人、まだ会うことができていない恋人を思う歌として、またしても対になっているように聴こえる。
続くM17「くじら」は一転して不穏なムードを漂わせる。不気味な残響音から想像されるのは海原に生きるクジラのことではなく、深海に潜む潜水艦。人類の歴史を振り返れば、戦後とは常に新たな戦前とも言えるわけだから。いつだって私たちは暴力の気配から逃れることができない。
そしてM18「虹の外」のどことなくオリエンタルで退廃的なムードを漂わせるディスコサウンドから私が想像したのは、ブライアン・フェリーのヒット曲「Tokyo Joe」。進駐軍の兵士が集まるナイトクラブのイメージだ。
続くアルバムタイトルトラックのM19「ポップコーン・バラッド」。
M8「Tシャツ」と同じロックンロールなギターが、どこか古き良きアメリカの大らかさを想起させる。またしても対の構造だ。
そしてサニーデイ史上屈指の美しさをたたえるM20「透明でも透明じゃなくても」。
『Hello good bye メリークリスマスの亡霊』という歌い出し。ここで再び現れる「クリスマス」という言葉にドキッとさせられる。これはM9「クリスマス」のことだろうか。
しかしこの静かな達観をも感じさせる美しいメロディ。ひょっとすると、かつてクリスマスと呼ばれた少女はこの歌の主人公なのかもしれない。
さあいよいよラスト。
M21「サマーレイン」、M22「Popcorn run out groove」の享楽的で混沌としたサウンド。
まるで戦争を知らない子供たちが、豊かさと退屈を持て余しているかのようなルード感。
『そろそろ生まれ変わりたいような気分さ』というリフレインは、やがてまた訪れることになる破綻の暗示か。まるでポップコーンほどの軽さで突っ走る、どこかの国の政治家の姿も重ねたくなる。
この謎に満ちたアルバムを締めくくりにふさわしい、ミステリアスな余韻。
以上が、「Popcorn ballads」に妄想まじりのストーリーを押しつけて聴いてみた話。
正しいか間違ってるかはわからないし、もっと別のストーリーがあるのかもしれない(そもそも歌詞カードも見たことがないのだ)。
でも、私という凡庸な聴き手のイマジネーションをここまで巨大に膨らませてしまう、美しすぎる断片の集合体がつくり出す完璧な謎。全編に漂う暴力の気配とクールなリズム。
26年前の夏にリリースされた「ヘッド博士の世界塔」、あるいは53年前に出版されたトマス・ピンチョンの「V」と並べて語りたくなってしまったのも、無理からぬことではないたろうか。
そう言えば 曽我部恵一が井の頭レンジャーズと出した7インチもフリッパーズギターのカバーでしたね…。