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ドリーミー刑事のスモーキー事件簿

バナナレコードでバイトしたいサラリーマンが投げるmessage in a bottle

さよなら、ムッシュ

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ムッシュが逝ってしまった。


高校生の頃に「ゴロワーズを吸ったことがあるかい」を初めて聴いて以来、

 

「何かに凝ったり狂ったりすればするほど、君は一人の人間として幸せな道を歩いているだろう」

 

というムッシュのメッセージはいつも心のどこかに生き続けてきた。

 

結局のところ、何事にも中途半端で凡庸な大人になってしまった俺だけど、今でもなんとか音楽を聴き続けていたり、愛車にシトロエンやローバーに選んだことも、間違いなくこの曲の影響があると思っている。

 

「君は何かに凝ったり狂ったりしたことがあるかい」


これは時に自分を試し、時に背中を押してくれる呪文なのだ。

 


音楽ファンの間ではこの「ゴロワーズ」が、世間的には「我が良き友よ」が代表曲になると思うのだけど、この真逆の二曲が、実は同じアルバムに入っているというところに、お茶の間からライブハウスまで、あらゆる場所で広く愛されたムッシュのキャラクターを象徴している気がしてならない。


個人的にはその後のAOR路線のアルバムも大好きで、もっと多くの人に聴いてもらえると嬉しいのだけれども、一番好きな一枚を選べと言われたら「"ムッシュー" かまやつひろしの世界」になる。

 

その名の通り、演奏まで全て一人で手がけた作品で、父上であるテーブ釜萢、生後間もないご子息のTARO君、盟友・堺正章との共演があったりして、多重録音の質感と相まって、ムッシュの部屋に招かれたような親密さを感じる。

中でも、レース中の事故で急逝した福沢幸雄に捧げられた「ソーロング・サチオ」に、ムッシュの叙情的なダンディズムが凝縮されているようで、何度聴いてもシビれてしまう。
(この曲を小西康陽がリメイクした「ソー・ロング20世紀」も素晴らしい)


無駄を愛し、好奇心とユーモアを忘れなかった、憧れの大人。

 

たいしたもんだ。


「ソーロング・サチオ」、冒頭のセリフを、最大級の敬意を込めて捧げたい。

 

 

 

 

 

小沢健二「流動体について」について

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小沢健二のファーストアルバム「犬は吠えるがキャラバンは進む」は間違いなく俺の人生で最も再生回数が多い作品。

15歳の時にリリースされたこの作品に、俺の思春期は救われた、と断言してもいい。

 

だから、なのか、しかし、なのか。

「LIFE」以降のオザケンは、俺の心に二度とは消えないほどの深い傷はつけなかった(もちろん、その時はその時で楽しかったけれども)。

 そして、ゼロ年代以降の中田英寿的旅人感や、降って湧いたアンチ資本主義には、へぇ左様でございますかって感じで、額に汗して働く労働者には縁遠いものとして傍観するだけ。
たまに、あの「犬キャラ」も天才的な虚言だったのかな…と思い出したりすることもあったけど。


でこの度、オザワイズカミンバック。
わがまま王子のご帰還。
朝日新聞の全面広告と共に。

このビッグウェーブに乗るべきか否か、迷った上でレコード屋さんへ(なんとなく通販で買う作品ではない気がしたのだ)。

 

スルーしなかった理由はただ一つ。

果たして彼が今の時代に意味ある作品をつくることができるのか。

サニーデイ・サービスの「Dance to you」のように、ノスタルジーを抜きにして、ceroやスカートやネバヤンと同じ地平で「2017年に聴くべきポップソング」を鳴らすことができるのか。

それを確かめずして、なにがドリーミーおじさんだ、という謎の責任感が勝ったのだ。

 

で、聴いてみた。

一言で言うと、ダサい音である。
洗練度はゼロ。
鳴り続けるストリングスはもっと抑えられるべきだし、三三七拍子みたいなハンドクラップも子供っぽい。前作が「毎日の環境学」で、前々作が「eclectic」だった人とは思えない。


しかし、この秒あたりのハンパない情報量の多さ、有無を言わさず爆発する僕のアムールあるいはグルーヴの前では、そんなことは些末な話。
ポップミュージックのマナーでは解くことのできない力を感じるのです。
今の小沢健二にとっての音楽は、音楽好きのための音楽ではない、もっと大きなもののための表現なのだ、たぶん。

 

それが何であるのか。
小沢が声を裏返しながら歌う「もしも間違いに気がつくことはなかったなら 」というフレーズにそのヒントがあるような気がした。

最初に聴いた時は、過去の恋愛、あるいはなんらかの個人的な人生の選択に対するもの、と思っていた。
しかし、それにしては、この「間違い」という言葉は、強すぎやしないだろうか。

そこまできっぱりと過去を否定しつつ「君の部屋の下」を通り、「詩的に感情が揺さぶられる」ものだろうか。違う女性との子供を想像するものだろうか。

 

 

おそらく、ここで言う「間違い」とは、個人的なものではなく、もっと大きな、社会全体とか民主主義とか、そういうものを指している気がする(それが流動体?)。

そして幸いにも主人公が暮らす世界ではその間違いを回避することができた(ということは、2017年以降の世界が舞台なのだろう)。
かつての彼女は平穏に暮らし、彼は子供とカルピスを飲んでいる。

 

でも、間違いに気づくのは一人では意味がない。
流動体を正しい方向に導くには、一人では足りないからだ。みんなを振り向かせ、注目させ、鼓舞しなければならない。

だからこその三三七拍子(的ハンドクラップ)であり、朝日新聞であり、Mステだった。少しでもこのメッセージを、多くの人に伝える必要があった。

 

俺の思春期を救った王子様は、今度は世界を救おうとしている、のかもしれない。

(それはそれで危険な発想かもしれないが)

 

 

でもその前に、王子様へお願いしたいことがあるのです。

「Buddy」と「Back to back」、とっとと再発してくださいませんでしょうか?

 

音楽の本質とはこれいかに? スティーブ・ウィット著「誰が音楽をタダにした?」

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「誰が音楽をタダにした」を読みました。
噂に違わぬおもしろさでした。

 

音声圧縮技術であるMP3の開発者、世界最大のレコード会社のCEO、そのレコード会社のCDプレス工場で発売前の新譜を違法アップロードし続ける労働者。

この三人の視点から、ゼロ年代の音楽産業の凋落が描かれている。

 

緻密で分厚い取材に基づく、臨場感ある筆致は、ほとんどエンターテイメントの域にまで高められていて、さすがアメリカのドキュメンタリーというか、ジャーナリズムのレベルの高さを感じる(それだけ時間と予算がかけられるということでもあるのだろう)。


とは言えこの本、結局誰が音楽をタダにしたのか、という邦題に対する答えが書かれているわけではない、と個人的には思っている。

 

強欲なレコード会社、天才技術者、倫理観なきハッカーももちろんその一端は担っているものの、結局のところ、あらゆる「中間」を省略し、価値の本質そのものを露にするインターネットが普及した時から、CDという音楽と聴き手の間にある媒体(=中間)が駆逐される運命にあった、ということなのだろう。

 

そしてこうした変化は音楽以外の産業でもすでに起こりつつあるものであって、例えば自動車メーカーは車同士の価格競争だけではなく、「移動」という本質的な価値にかかるコストを、電話会社なら「コミュニケーション」にかかるコストを、真剣に考えなければならん。と、いい歳した社会人としては理解しました。

 

よって、あくまでも価値が低下したのはCDという媒体/手段であって音楽そのものではない、ということは声を大にして言わなくてはならないし、音楽の持つ本質的な価値を突き詰めて考えることこそが、ビジネス的な苦境を乗り越える糸口になるかもしれない。

 

では、音楽の本質的な価値ってなんだろうか。

青くさいことを言わせてもらえるならば、

目に見えない空気の振動を通じて、「喜び(や悲しみや怒り)を他の誰かと分かち合う」ということに尽きるのではないだろうか。

 

そしてこの価値を大きくすることは、必ずしもミュージシャンやレコード会社やレコードショップの仕事とは限らない。聴き手の側にもやれることがあるのではないか、と漠然と考えている。

 

 

 

 

 

研ぎ澄まされた言葉たち ECD「何もしないで生きてらんねぇ」

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ECDの「何もしないで生きてらんねぇ」を読んでいる(発売日に買った植本一子「家族最後の日」は妻に取り上げられてしまった)。


曽我部恵一寺尾紗穂、鴨田潤。そして最近では澤部渡もそうだったのだけれども、素晴らしい文章を書くミュージシャンはたくさんいる。

 

しかしその中でも、ECDの虚飾のない研ぎ澄まされた言葉は、読むたびに身が引き締まるような思いがする、自分にとっては特別なものである。


00年代にECDが書いたコラムやレビュー、短編小説を収めたこの本でも、やはり彼にしか書けない「強い言葉」が要所要所でこちらの胸元に投げ込まれる。


「何故、じぶんのやることに、自分がやりたから、という以外の動機付けが必要なのか?前例がないことをやるのは、ヒップホップのルールから外れることになるのだ、この国では」


「貧乏人が増えて困るのは、そのために税収が減る支配する側の人間だ。「反貧困」は支配者にとってこそ都合のよい言葉なのだ。僕達は貧困を手放すべきではない。」

 

「僕が望むのは誰にも参加を強制しない、そして誰も排除することのない革命だ」

 

「音楽を通じたコミュニケーションを求めているのだ。一方的に送りつけるのはコミュニケーションではない。欲しいものだけを買うのもコミュニケーションではない。」


なぜこの人はこうした核心へ迫るフレーズを書くことができるのか。

初めて「失点・イン・ザ・パーク」を読んで以来の謎が、この本に多く出てくる若き日のエピソードを読んで少しだけわかった気がする。

 

つまり彼は、天才たちがしのぎを削るシーンの最前線で、何度挫折しても、他の誰よりも「表現」に渇望し、考え抜くことを止めなかった。そうやって、90年代、00年代、10年代にそれぞれまったく異なるアプローチでヒップホップ史に残る名作をモノにしてきた。

自分の為すべきことを考えに考えて、やりきってきた人間だけが発することのできる言葉というものがある、ということなのだ。

  
今は病床でガンと戦うECDの、次の言葉、次の表現。

それにまた度肝を抜かれる日が来ることを、心待ちにしている。

 

 

 ※ECDへのドネーションはこちらから

 

youtu.be

 

 

土岐麻子「PIINK」に大人の本気を感じた件

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土岐麻子の新作「PINK」が素晴らしい。

 

思えば、これまでの彼女の作品には、ハイクオリティーかつ、いい意味での余裕と言うか、あらかじめ消費されることを想定した余白のようなものが準備してあったように思う(それがシリアスすぎる音楽ファンとの距離感に繋がってた気もする)


でも、今作では肉体的なアカペラとオートチューンの組み合せも象徴的な一曲目の「City lights」からして、人工的な都会の風景を、現代人にとっての信仰の対象にまで昇華させたような荘厳さがある。

そして矢継ぎ早に繰り出される「pink 」「valentine」あるいは「Rain dancer」の最新型のダンスビートの力強さ、たたみかけられるメロディの切実さに、この街を、この時代を生き抜いてやる、という覚悟を強く感じるのです。

 

その一方で、リアルな女性心理(と、オッさんが言うのもアレですが)を克明に描く、歌詞におけるストーリーテラーぶりも健在で、これまでと同じだけの間口の広さもしっかり確保。

 

ユーミン吉田美奈子一十三十一も全部引き受けるわよ、というクィーンオブシティポップの貫禄。

 

かっこいい大人の女性とは、私のようなくたびれ男の背筋をも、しゃんとさせてくれるものなのだ、とシビれた次第です。

 

エリザベス・ペイトンを観て岡崎京子のことを考えた日の話

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先週の土曜日、スカートのライブに先立って、ちょうど原美術館で開催されていたエリザベス・ペイトン展に行ってきました。

 

何年も前から画集を買うかどうか定期的に(Amazonとかでオススメされるたびに)迷っていたアーティストなのです。

 

会場には人物画を中心に42枚の作品が展示されていたわけですが、美しい色使い(特に青と緑が素敵)が、晴れた原美術館の建物によく似合うことよ。

 

この個展を観るまでは、この人は油彩という古典的な手法でロックスターの肖像画を書くというユニークさが評価されているものだと思っていた。

 

でも、今回展示されていた作品のモデルは、カート・コバーン、ピート・ドハーディーといった現代のセレブだけではなくて、中世の貴族や寓話の登場人物までと幅広く、そしてそれらを描く手法も、古典的な油彩、水彩をベースにしつつ、モダンアートやアニメの影響なども感じさせるものだった。

 

そうしたスーパーフラットな批評性が貫かれた作品には、それぞれ人物が生きた時間的・空間的なギャップを感じさせない普遍的な美しさや気品、かすかなユーモアが宿っており、さすが(俺でも名前を知っているような)世界的な作家は違うものだなと思いました。


そして、作品をじーっと眺めているうちに、なぜか自分が岡崎京子のことをチラチラと思い出していることに気づいた。

まったく見当違いかもしれないけれども、この二人の作家に共通するものを感じたのでしょう。

 

例えば、従来の絵画・漫画というフォーマットの外側にあると思われていたサブカルチャー方面の文化遺産を取り込んで表現してしまう自由な感性と技術の高さ。
そして作品を重ねるごとにスタイルを変化させ、シンプルに本質へ迫っていくような凄みが増していくところも、似ていると言えるかもしれない。

 

でも私が一番強く感じたのは、自分が描こうとする対象(モデルやテーマ)に対する、ほとんど無邪気なほどにまっすぐで強い愛、でした。

 

 

 

宇宙・日本・渋谷WWW スカートワンマンライブに行ってきた話

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愛知県からはるか300キロ、スカートワンマン@渋谷WWWに行ってきました。

 

どうしてもこの日のワンマンだけは観ておきたかったのだ。

 

その理由はいくつかある。

 

このところのどうしようもなく退屈な生活を生き抜くための希望が欲しかったこと、最新作「静かな夜がいい」で感じた極上グルーヴを生で体感したくなったこと。

 

でも一番の大きな理由は、大好きなスカートをスカートを大好きな人たちだけがいる空間で観てみたかったから、という気がする。

 

せっかく東京にきたのだから、スカート聖地巡礼とばかりにココナッツディスク池袋経由で気分を盛り上げてから会場へ。


チケットはソールドアウト。
この会場いっぱいのお客さん全員が、スカート好きという事実にクラっとくる。
善人率100%。間違いない。


SEのトーキングヘッズに乗って、スカートの面々がオンタイムで登場。
一曲目は2010年のファーストに収録された「ゴウスツ」。

 

ゴツゴツした異物感が新鮮なインパクトを生んでいたレコードの音源とは対照的に、滑らかかつ情感豊かに鳴らされるバンドの演奏。

 

しかし何と言っても圧巻なのは澤部渡のボーカル。
まさか彼の歌に、こういう表現を使うことになるとは思わなかったけど、艶やかでセクシー。その言葉に尽きる。


これまでスカートの魅力の一つは、天才的としか言えない楽曲と、一方でどこか不器用でぶっきらぼうなボーカルのアンバランスさにあると思っていた。
そこに、どんなに強く願っても決して満点を取ることができない自分自身の姿を勝手に投影していたのかもしれない。

 

でも、それは俺の思い違いだったのだ、たぶん。
澤部氏は、最初から満点を取る気だったし、取れる人だったのですよ。

 

そんなふうに、今までのスカート観を根底から揺さぶってくるほどに、この日の澤部渡とバンドは完璧だった。

彼がその歌詞とメロディに織り込んだ、複雑すぎる感情の起伏。
それを時に慈しむように、時にロックスターのような奔放さで、表現し尽くしていく。

 

シリウス」「アンダーカレント」が鳴らされた瞬間に会場を包みこむはかないキラキラ感、あるいは「セブンスター」「ガール」で放たれたソウルフルな咆哮は、人工衛星からでも確認できたはずの眩さ。
思わず大きな声で、「宇宙・日本・渋谷WWW!」と叫びたくなるような。


そしてこの五人(と、トリプルファイヤー鳥居氏)が放つ光に照らされた、観客の美しさよ。
「ストーリー」の時についうっかり会場を見回してしまったら、ウルウルになっている人がいっぱいで、その光景になんかもう…。

 

ともかくこの日のステージには、いつもと変わらない顔をしてるけど、俺が今までに見たことのない、堂々たるスカートがいたのです。

 

その感慨を利いた風に表現させてもらえるならば、青年が大人になる瞬間。
そういうものを目撃した気がしている。

 

そうなると、心配性のオッさんの常として彼らが「もうやれることは全部やったんで、解散します」とか言い出しやしないかと先回りしてしまうわけですが、新曲の「ランプトン」「離れて暮らす二人のために」の王道ポップ感の前ではただの杞憂。

それよりもむしろ、また一段と大きくなった(ように見える)澤部氏の健康を心配するべきだろう。

 

ともかく、たっぷり2時間、怒涛の全30曲。
でもまだ聴きたい。まだ食べられる。
だってまだ「ともす灯やどす灯」も「どうしてこんなに晴れているのに」も「都市の呪文」もやってないんだから!
若干29歳にして、この膨大な名曲ストックは一体…。


澤部渡の才能になすすべもなく寄り切られた。そんな夜だった。

 


余韻に浸りつつ、帰りの深夜バスでは「The first waltz award」をずっと聴いていた。まだ暗い早朝に着いた駅前にはタクシーが一台もいなかった。極寒の中を1時間歩きながら「CALL」を聴いた。


たぶんこの日のことは一生忘れないんじゃないかな。