音楽の本質とはこれいかに? スティーブ・ウィット著「誰が音楽をタダにした?」
「誰が音楽をタダにした」を読みました。
噂に違わぬおもしろさでした。
音声圧縮技術であるMP3の開発者、世界最大のレコード会社のCEO、そのレコード会社のCDプレス工場で発売前の新譜を違法アップロードし続ける労働者。
この三人の視点から、ゼロ年代の音楽産業の凋落が描かれている。
緻密で分厚い取材に基づく、臨場感ある筆致は、ほとんどエンターテイメントの域にまで高められていて、さすがアメリカのドキュメンタリーというか、ジャーナリズムのレベルの高さを感じる(それだけ時間と予算がかけられるということでもあるのだろう)。
とは言えこの本、結局誰が音楽をタダにしたのか、という邦題に対する答えが書かれているわけではない、と個人的には思っている。
強欲なレコード会社、天才技術者、倫理観なきハッカーももちろんその一端は担っているものの、結局のところ、あらゆる「中間」を省略し、価値の本質そのものを露にするインターネットが普及した時から、CDという音楽と聴き手の間にある媒体(=中間)が駆逐される運命にあった、ということなのだろう。
そしてこうした変化は音楽以外の産業でもすでに起こりつつあるものであって、例えば自動車メーカーは車同士の価格競争だけではなく、「移動」という本質的な価値にかかるコストを、電話会社なら「コミュニケーション」にかかるコストを、真剣に考えなければならん。と、いい歳した社会人としては理解しました。
よって、あくまでも価値が低下したのはCDという媒体/手段であって音楽そのものではない、ということは声を大にして言わなくてはならないし、音楽の持つ本質的な価値を突き詰めて考えることこそが、ビジネス的な苦境を乗り越える糸口になるかもしれない。
では、音楽の本質的な価値ってなんだろうか。
青くさいことを言わせてもらえるならば、
目に見えない空気の振動を通じて、「喜び(や悲しみや怒り)を他の誰かと分かち合う」ということに尽きるのではないだろうか。
そしてこの価値を大きくすることは、必ずしもミュージシャンやレコード会社やレコードショップの仕事とは限らない。聴き手の側にもやれることがあるのではないか、と漠然と考えている。
研ぎ澄まされた言葉たち ECD「何もしないで生きてらんねぇ」
ECDの「何もしないで生きてらんねぇ」を読んでいる(発売日に買った植本一子「家族最後の日」は妻に取り上げられてしまった)。
曽我部恵一、寺尾紗穂、鴨田潤。そして最近では澤部渡もそうだったのだけれども、素晴らしい文章を書くミュージシャンはたくさんいる。
しかしその中でも、ECDの虚飾のない研ぎ澄まされた言葉は、読むたびに身が引き締まるような思いがする、自分にとっては特別なものである。
00年代にECDが書いたコラムやレビュー、短編小説を収めたこの本でも、やはり彼にしか書けない「強い言葉」が要所要所でこちらの胸元に投げ込まれる。
「何故、じぶんのやることに、自分がやりたから、という以外の動機付けが必要なのか?前例がないことをやるのは、ヒップホップのルールから外れることになるのだ、この国では」
「貧乏人が増えて困るのは、そのために税収が減る支配する側の人間だ。「反貧困」は支配者にとってこそ都合のよい言葉なのだ。僕達は貧困を手放すべきではない。」
「僕が望むのは誰にも参加を強制しない、そして誰も排除することのない革命だ」
「音楽を通じたコミュニケーションを求めているのだ。一方的に送りつけるのはコミュニケーションではない。欲しいものだけを買うのもコミュニケーションではない。」
なぜこの人はこうした核心へ迫るフレーズを書くことができるのか。
初めて「失点・イン・ザ・パーク」を読んで以来の謎が、この本に多く出てくる若き日のエピソードを読んで少しだけわかった気がする。
つまり彼は、天才たちがしのぎを削るシーンの最前線で、何度挫折しても、他の誰よりも「表現」に渇望し、考え抜くことを止めなかった。そうやって、90年代、00年代、10年代にそれぞれまったく異なるアプローチでヒップホップ史に残る名作をモノにしてきた。
自分の為すべきことを考えに考えて、やりきってきた人間だけが発することのできる言葉というものがある、ということなのだ。
今は病床でガンと戦うECDの、次の言葉、次の表現。
それにまた度肝を抜かれる日が来ることを、心待ちにしている。
土岐麻子「PIINK」に大人の本気を感じた件
土岐麻子の新作「PINK」が素晴らしい。
思えば、これまでの彼女の作品には、ハイクオリティーかつ、いい意味での余裕と言うか、あらかじめ消費されることを想定した余白のようなものが準備してあったように思う(それがシリアスすぎる音楽ファンとの距離感に繋がってた気もする)
でも、今作では肉体的なアカペラとオートチューンの組み合せも象徴的な一曲目の「City lights」からして、人工的な都会の風景を、現代人にとっての信仰の対象にまで昇華させたような荘厳さがある。
そして矢継ぎ早に繰り出される「pink 」「valentine」あるいは「Rain dancer」の最新型のダンスビートの力強さ、たたみかけられるメロディの切実さに、この街を、この時代を生き抜いてやる、という覚悟を強く感じるのです。
その一方で、リアルな女性心理(と、オッさんが言うのもアレですが)を克明に描く、歌詞におけるストーリーテラーぶりも健在で、これまでと同じだけの間口の広さもしっかり確保。
ユーミンも吉田美奈子も一十三十一も全部引き受けるわよ、というクィーンオブシティポップの貫禄。
かっこいい大人の女性とは、私のようなくたびれ男の背筋をも、しゃんとさせてくれるものなのだ、とシビれた次第です。
エリザベス・ペイトンを観て岡崎京子のことを考えた日の話
先週の土曜日、スカートのライブに先立って、ちょうど原美術館で開催されていたエリザベス・ペイトン展に行ってきました。
何年も前から画集を買うかどうか定期的に(Amazonとかでオススメされるたびに)迷っていたアーティストなのです。
会場には人物画を中心に42枚の作品が展示されていたわけですが、美しい色使い(特に青と緑が素敵)が、晴れた原美術館の建物によく似合うことよ。
この個展を観るまでは、この人は油彩という古典的な手法でロックスターの肖像画を書くというユニークさが評価されているものだと思っていた。
でも、今回展示されていた作品のモデルは、カート・コバーン、ピート・ドハーディーといった現代のセレブだけではなくて、中世の貴族や寓話の登場人物までと幅広く、そしてそれらを描く手法も、古典的な油彩、水彩をベースにしつつ、モダンアートやアニメの影響なども感じさせるものだった。
そうしたスーパーフラットな批評性が貫かれた作品には、それぞれ人物が生きた時間的・空間的なギャップを感じさせない普遍的な美しさや気品、かすかなユーモアが宿っており、さすが(俺でも名前を知っているような)世界的な作家は違うものだなと思いました。
そして、作品をじーっと眺めているうちに、なぜか自分が岡崎京子のことをチラチラと思い出していることに気づいた。
まったく見当違いかもしれないけれども、この二人の作家に共通するものを感じたのでしょう。
例えば、従来の絵画・漫画というフォーマットの外側にあると思われていたサブカルチャー方面の文化遺産を取り込んで表現してしまう自由な感性と技術の高さ。
そして作品を重ねるごとにスタイルを変化させ、シンプルに本質へ迫っていくような凄みが増していくところも、似ていると言えるかもしれない。
でも私が一番強く感じたのは、自分が描こうとする対象(モデルやテーマ)に対する、ほとんど無邪気なほどにまっすぐで強い愛、でした。
宇宙・日本・渋谷WWW スカートワンマンライブに行ってきた話
愛知県からはるか300キロ、スカートワンマン@渋谷WWWに行ってきました。
どうしてもこの日のワンマンだけは観ておきたかったのだ。
その理由はいくつかある。
このところのどうしようもなく退屈な生活を生き抜くための希望が欲しかったこと、最新作「静かな夜がいい」で感じた極上グルーヴを生で体感したくなったこと。
でも一番の大きな理由は、大好きなスカートをスカートを大好きな人たちだけがいる空間で観てみたかったから、という気がする。
せっかく東京にきたのだから、スカート聖地巡礼とばかりにココナッツディスク池袋経由で気分を盛り上げてから会場へ。
チケットはソールドアウト。
この会場いっぱいのお客さん全員が、スカート好きという事実にクラっとくる。
善人率100%。間違いない。
SEのトーキングヘッズに乗って、スカートの面々がオンタイムで登場。
一曲目は2010年のファーストに収録された「ゴウスツ」。
ゴツゴツした異物感が新鮮なインパクトを生んでいたレコードの音源とは対照的に、滑らかかつ情感豊かに鳴らされるバンドの演奏。
しかし何と言っても圧巻なのは澤部渡のボーカル。
まさか彼の歌に、こういう表現を使うことになるとは思わなかったけど、艶やかでセクシー。その言葉に尽きる。
これまでスカートの魅力の一つは、天才的としか言えない楽曲と、一方でどこか不器用でぶっきらぼうなボーカルのアンバランスさにあると思っていた。
そこに、どんなに強く願っても決して満点を取ることができない自分自身の姿を勝手に投影していたのかもしれない。
でも、それは俺の思い違いだったのだ、たぶん。
澤部氏は、最初から満点を取る気だったし、取れる人だったのですよ。
そんなふうに、今までのスカート観を根底から揺さぶってくるほどに、この日の澤部渡とバンドは完璧だった。
彼がその歌詞とメロディに織り込んだ、複雑すぎる感情の起伏。
それを時に慈しむように、時にロックスターのような奔放さで、表現し尽くしていく。
「シリウス」「アンダーカレント」が鳴らされた瞬間に会場を包みこむはかないキラキラ感、あるいは「セブンスター」「ガール」で放たれたソウルフルな咆哮は、人工衛星からでも確認できたはずの眩さ。
思わず大きな声で、「宇宙・日本・渋谷WWW!」と叫びたくなるような。
そしてこの五人(と、トリプルファイヤー鳥居氏)が放つ光に照らされた、観客の美しさよ。
「ストーリー」の時についうっかり会場を見回してしまったら、ウルウルになっている人がいっぱいで、その光景になんかもう…。
ともかくこの日のステージには、いつもと変わらない顔をしてるけど、俺が今までに見たことのない、堂々たるスカートがいたのです。
その感慨を利いた風に表現させてもらえるならば、青年が大人になる瞬間。
そういうものを目撃した気がしている。
そうなると、心配性のオッさんの常として彼らが「もうやれることは全部やったんで、解散します」とか言い出しやしないかと先回りしてしまうわけですが、新曲の「ランプトン」「離れて暮らす二人のために」の王道ポップ感の前ではただの杞憂。
それよりもむしろ、また一段と大きくなった(ように見える)澤部氏の健康を心配するべきだろう。
ともかく、たっぷり2時間、怒涛の全30曲。
でもまだ聴きたい。まだ食べられる。
だってまだ「ともす灯やどす灯」も「どうしてこんなに晴れているのに」も「都市の呪文」もやってないんだから!
若干29歳にして、この膨大な名曲ストックは一体…。
澤部渡の才能になすすべもなく寄り切られた。そんな夜だった。
余韻に浸りつつ、帰りの深夜バスでは「The first waltz award」をずっと聴いていた。まだ暗い早朝に着いた駅前にはタクシーが一台もいなかった。極寒の中を1時間歩きながら「CALL」を聴いた。
たぶんこの日のことは一生忘れないんじゃないかな。
トヤマタクロウ DAYS GONE展に行った話
16年のアート納めは、風邪でボロボロの身体を引きずって訪れたトヤマタクロウの写真展「Days gone」でした。
トヤマ氏と言えば、一昨年の夏、初めてミツメのCDジャケットを見た時からずっと気になっていた写真家。
今回の展示はまさにそのミツメと一緒に回ったアメリカツアー中に撮影された作品が中心。
一見何もないようで、何かが起こりそうな瞬間の数々。
それは楽しいことなのかのかもしれないし、悲しいことなのかもしれない。
ずっと続いていくことかもしれないし、もう終わってしまったことかもしれない。
そういう胸さわぎがする写真でした
そしてその中から迷いに迷って連れて帰ってきた青焼きのポートレート二枚。
物憂げなようにも、退屈を噛み殺したようにも見える表情と、青と白にボヤけた背景。
この対比をボンヤリ眺めていると、私の頭の中にはミツメの「幸せな話」が流れてくるのです。
体温のある歴史 寺尾紗穂著 「南洋と私」
2016年における数少ない後悔の一つが、名古屋であった寺尾紗穂のライブに行けなかったこと。
今年はチャンスがあるかしらと思いつつ手に取った「南洋と私」。
日本統治下のサイパンで繰り広げられた日米の戦争について、当時サイパンで暮らしていた人々の証言が集められている。
専門的なディテールを究めた学術書というわけでもなく、隠された巨悪を暴くドキュメンタリーというものでもなく、一言でジャンルを説明することが難しい本ではあるのだけれども、それこそがこの本の素晴らしさ。
寺尾紗穂が自らの手足で、当時の住民一人ひとりに寄り添って声を聞き取り、自分の主観と重ね合わせていくことで、遠い過去の話である戦争や植民地統治というものを、ほのかな体温を帯びたものとして想像することができる。
そして、それらの市井の人々から語られる生活感のある言葉を読むにつけて、
歴史とは、施政者の手によって書かれる大きな文字の連なりではなく、その時代に生きた一人ひとりの時間の積み重ねであるということ。
国家のために国民がいるのではなく、そこに住む人々のために国家という仕組みがあるということ。
こうした当たり前の事実が、忘れ去られていることに気づかされる。
そしてその視点に立ち返ることで浮かび上がる、国家が国民の命を差し出して、他国の主権を奪わんとする戦争という手段がはらむ、ありえないほどの倒錯性。
ちなみに私は自分や自分の家族が他人の都合で死ぬくらいなら、あっさり降参して別の国の人間になる方がマシだと思ってますが、
それが生き物として普通の感覚だと思うので恥ずかしくはないです。