ドリーミー刑事のスモーキー事件簿

バナナレコードでバイトしたいサラリーマンが投げるmessage in a bottle

トヤマタクロウ DAYS GONE展に行った話

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16年のアート納めは、風邪でボロボロの身体を引きずって訪れたトヤマタクロウの写真展「Days gone」でした。

 

トヤマ氏と言えば、一昨年の夏、初めてミツメのCDジャケットを見た時からずっと気になっていた写真家。


今回の展示はまさにそのミツメと一緒に回ったアメリカツアー中に撮影された作品が中心。


一見何もないようで、何かが起こりそうな瞬間の数々。

それは楽しいことなのかのかもしれないし、悲しいことなのかもしれない。

ずっと続いていくことかもしれないし、もう終わってしまったことかもしれない。

 

そういう胸さわぎがする写真でした

 

そしてその中から迷いに迷って連れて帰ってきた青焼きのポートレート二枚。

 

物憂げなようにも、退屈を噛み殺したようにも見える表情と、青と白にボヤけた背景。

 

この対比をボンヤリ眺めていると、私の頭の中にはミツメの「幸せな話」が流れてくるのです。

 

 

 

体温のある歴史 寺尾紗穂著 「南洋と私」

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2016年における数少ない後悔の一つが、名古屋であった寺尾紗穂のライブに行けなかったこと。

今年はチャンスがあるかしらと思いつつ手に取った「南洋と私」。

 

日本統治下のサイパンで繰り広げられた日米の戦争について、当時サイパンで暮らしていた人々の証言が集められている。

 

専門的なディテールを究めた学術書というわけでもなく、隠された巨悪を暴くドキュメンタリーというものでもなく、一言でジャンルを説明することが難しい本ではあるのだけれども、それこそがこの本の素晴らしさ。

 

寺尾紗穂が自らの手足で、当時の住民一人ひとりに寄り添って声を聞き取り、自分の主観と重ね合わせていくことで、遠い過去の話である戦争や植民地統治というものを、ほのかな体温を帯びたものとして想像することができる。

 

そして、それらの市井の人々から語られる生活感のある言葉を読むにつけて、

歴史とは、施政者の手によって書かれる大きな文字の連なりではなく、その時代に生きた一人ひとりの時間の積み重ねであるということ。


国家のために国民がいるのではなく、そこに住む人々のために国家という仕組みがあるということ。

 

こうした当たり前の事実が、忘れ去られていることに気づかされる。


そしてその視点に立ち返ることで浮かび上がる、国家が国民の命を差し出して、他国の主権を奪わんとする戦争という手段がはらむ、ありえないほどの倒錯性。

 

ちなみに私は自分や自分の家族が他人の都合で死ぬくらいなら、あっさり降参して別の国の人間になる方がマシだと思ってますが、
それが生き物として普通の感覚だと思うので恥ずかしくはないです。

 

 

2017年一発目のライブはトリプルファイヤー@金山ブラジルコーヒー

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矢野顕子の深く荘厳な世界に浸った後、駆け足でトリプルファイヤーのライブへ。

なんたる落差。

会場は金山ブラジルコーヒー。


知る人ぞ知る名古屋インディーロックの殿堂である。


とは言え、基本的な構造は普通の喫茶店であり、ライブハウスのような爆音PAは望むべくもない。

しかもこの日はなかなかタフな環境
満員御礼のフロアを子供が走り回り、グラスは割れ、ガハハと対バン目当てと思しきお客さんの高笑いが響く。

 

このアウェーの洗礼にで、果たしてトリプルファイヤーは打ち勝つことができるのか。吉田は心折れることなく最後まで戦い抜くことができるのか?

 

そんな不安が募る中、対バンのMCデンジャラスハーブを意識した吉田が、マイクの前に立つなり「YO!」とキメてみるも、声が小さくて誰にも気づかれない。

 

あぁやっぱりダメか…と思った瞬間、ガチっと鳴り始めた「SEXはダサい」のイントロ。

これが息を飲むほどカッコいい。

 

左からベース、右からギター。
まったくエフェクターを使わず、ほとんど生音に近い、ストイックな音で繰り広げられる緊張感ある絡み合い。

 

特に中盤で披露された新曲は、もう歌詞が面白いとかそういうのが一切関係ないレベル。

常に賢者タイムのような表情で、変態道を極めた技巧的なフレーズを弾き続ける鳥居氏と山岸氏の指先を見ているだけで、軽くとべました。


いやでもこうなるともう吉田いらなくね?という話になりそうものなのだけれども、そんなことなくて。

吉田氏のボーカルもまたとても良かったんですよ。


声が大きくて。

いや大事、デカい声。
特にこういうアウェーで耳目を集めるためには。
グダグダなMCからの反転力に、プロのパフォーマーとしての凄みを感じましたよ。


ちょうど一年ぶり観たトリプルファイヤーでしたが、ものすごく進化してるなぁと思いました。


とは言え、出番が終わった瞬間に女の子たちにデレデレしてる吉田さんは相変わらずでしたけどね…。


ともかく、いいライブ初めになりました。

 

極めて不親切にして、極めて贅沢な。 矢野顕子主演「SUPER FOLK SONG ピアノが愛した女」

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極めて不親切な映画である。

 

そこがどこで、何をしているのか一切の説明もない。

 

一人の女が、ピアノを弾いてはやめて、歌ってはやめる姿が延々と映し出される、ただそれだけの90分。


女以外の登場人物もいないわけではない。

 

しかし、おそらくその世界では一流であろう男たち、レコーディングエンジニア・マネージャー・撮影スタッフは彼女の顔色を伺いながら右往左往するばかり。

 

インタビューに登場する、普段は一国一城の主たるアーティストたちも、この圧倒的な女王の存在感の前では、ただ楽曲を供出するミツバチのようである。

 

しかしそれもやむを得ない。


何せ、女王がピアノと一体になって作り出しているものは、音楽という名の宇宙そのものなのだから。

 

男たちはただ、宇宙をつくっては壊し、つくってはまた壊す、女王の差配を固唾をのんで見守り、翻弄されるしかないのである。

 

そして映画の終盤、完璧な技術と情感で演奏される「中央線」(作詞作曲・宮沢和史)がクライマックスに差し掛かったところで、女王自らの手によってバッサリと裁断されてしまった時の喪失感に、観客である私たちもまた、女王の下僕でしかないことを思い知らされる。

 


しかし、繰り返しになるが女王がつくりあげようとしているのは、宇宙そのものなのである。

 

本来は誰も見ることのできない、宇宙が明滅する瞬間。

それをまるでその場にいるような臨場感で目撃することができるのだから、これは極めて贅沢な映画と言わざるを得ない。

 

 

布団の中で考えた。 牧村憲一著『「ヒットソング」の作りかた』

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あけましておめでとうございます。

昨年末はまさに仕事納めの日に熱を出して、風邪ひくタイミングまでサラリーマンかよ…と力なく自分に突っ込んでおりました。

 

でも本が読めないほどの体調ではなかったので、布団の中で牧村憲一著『「ヒットソング」の作りかた』を読了。

 

大瀧詠一に薫陶を受け、山下達郎竹内まりやを世に送り出した人物が、後にフリッパーズギターおよびトラットリアの黒幕だったとは知りませんでしたが、そんな人の語る現場の話が面白くないわけがない。

 

私のような日本のポップミュージックラバーは全ページ必読的エピソードが満載なのだけれども、特に「い・け・な・い ルージュマジック」で坂本龍一忌野清志郎のコラボレーションを実現させるまでの話は若かりし二人の表情が浮かんでくるようでグッときました。


さらに、牧村氏のトラットリア時代に名前の出てくる若き宣伝担当者が、今は日本のインディーシーンの一翼を担うfelictyレーベルのプロデューサーという事実に鑑みれば、はっぴいえんどから始まる40年に亘る地下水脈の生命力を感じずにはいられない。


それにしても、鈴木慶一大貫妙子矢野顕子南佳孝といった錚々たるミュージシャンが新宿ロフトに出演していた1976年と、スカート、ミツメ、D.A.Nにネバヤンといった才能と音楽愛に溢れるミュージシャンがライブハウスにひしめいている2016年。
どこか似たような状況にある気がするのはワタシだけだろうか。

 

ただ、1976年のミュージシャンたちは、(牧村氏のような大人たちの尽力もあり)ラジオ、CM、ドラマといったマスメディアを活用することで、その才能に見合った成功を収めることができた。

しかし、マスメディアの影響力と音楽の価格が下がってしまった2016年において、若き才能たちはどうやって世間から発見されるのか、どうやって経済的に報われるのか、その道筋がなかなか見えない。

そういう意味において、多くのミュージシャンを表舞台に引っ張りあげてきたSMAPの解散は残念だったなと思うし(次のアルバムには澤部渡の名前がクレジットされると信じていたのに!)、ストリーミングメディアの発展を活かして、東京インディーシーンをアジアに広げる枠組みができないかしら、とか夢想してみたり(落日飛車とヒョゴの影響)。


でも、無責任な一人のリスナーとしては、今の音楽シーンはこの40年の中でも相当に面白い時期であることは、この本を読んで改めて確信。


2017年も素晴らしい音楽を届けてくれるミュージシャン、レコードレーベル、レコード屋さんに感謝と敬意を捧げつつ、私は私のできる範囲で貪欲に攻めていきたいと思うのであります。

 

自由と共鳴の音楽。 GUIRO「アバウ」について

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GUIROの新曲を聴きました。

1日でも早く手に入れたかったけど、最初に流通するのはこれまでGUIROの音源を扱っていたお店だけ、ということで、高速ぶっ飛ばして名古屋オンリーディングへ。


さて、前回の記事で『「日本を代表するバンド、GURIO」というcero高城氏の言葉に偽りなし!』と断言した私。
でも、なんといっても9年ぶりに出る新曲ですから。

音楽としてのクオリティの高さには確信があるものの、ポップネスというか大衆性の部分で、遠くに行きすぎていたりしないか。

いや、もっとはっきり言ってしまえば、俺のような粗野で音楽的教養に欠けた人間の胸をも熱くしてくれる「分かりやすさ」があるのだろうか、ということを唯一心配していたのです。


そんな期待と不安を胸に、また大急ぎで家に帰り(時速300キロは出てたと思う)、アンプのスイッチをオン。
真空管があったまる数秒間すらもじれったいぜ。


まず、ジャーン!ジャーン!とファンキーかつソウルフルに始まるイントロにびっくり。
その前日に買った片想いのアルバムを間違えて再生してしまったのかと思ったが、三小節目に始まるコーラスを聴いて、おぉGUIROだ、と確認。

しかしそれもつかの間、息つく暇なく四方八方から飛んでくる、ドラムにギター、ピアノやストリングスの音色たち。
この、空から降る音のシャワーを浴びるような感覚。
今年の5月、ハポンで観たライブの時に味わったヤツそのものじゃないかと肌が粟立つ。

しかも、その時のライブや前作「Album」よりも、それぞれの楽器と声が、より高らかに、より自由に、自分の存在を主張するようなメロディを奏でている。

その色とりどりの支流が集まってできた大河のようなグルーヴに乗っかって、地球の裏側くらいまで運ばれてしまった4分半。

 

改めてGUIROの音楽に対峙することとはある種の「体験」なのだと感じました。

(完璧にシラフですよ、念のため言っておくと)


それにしても。
この力強いサウンドは、一体どこからくるものなのか。
もちろんそんなことは何度聴き返してたところで私には分からない。

ただ、後半の歌詞に現れる「混ざり合う」というフレーズに、そのヒントがあるのではないかという気がしている。

他者と混ざり合うことに対して臆病になり、ぶ厚い壁を作ろうとする、音楽、私たち、日本、世界。

それに対して、誰かや何かを受容し、共鳴することの素晴らしさを、最高のミュージシャンシップをもって伝えようという強い思いが、このGUIRO史上最高のファンクネスを生んだ原動力なんではなかろうか。

そんなことを考えている、つまらないニュースばかりの2016年最後の日。

どうぞ良いお年を。

cero 「Modern steps tour」@名古屋ダイヤモンドホール

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ceroのライブに行ってきました。

 

思えば私が東京インディーおじさん街道を千鳥足で歩くことになったのも、去年の6月、ここダイヤモンドホールでceroのライブを観に行って、高城さんの「東京インディー物販戦争、ミツメには負けないぞ」というMCがきっかけ。

 

「そういやあの時のミツメってどんなバンドなんだ?」と後になってApple Musicで探し当てたのが全ての出発点だったわけです。


そこからの1年半を振り返ってみれば、ずいぶんと遠くにきたものである(酔っ払いの徒歩にしては)。

なのでceroのライブは私にとっていわば原点、と張り切ってダイヤモンドホールに。

 

いやだがしかし。

 

無かったよ、原点。
もうとっくに遠く離れた場所に飛んでいってしまっていたよ、ceroは。

と、呆然となるようなライブでした。


まず一曲目、のっけから「I found it back beard」で濁流のようにおしよせるような多幸感。
そして「Yellow magus」「Summer soul」の流麗かつタフな演奏。イントロのフルートの力強さにいきなり感極まる。

なんだろうな。
レコードと同じアレンジなはずなのに、なんかもう違う曲に聴こえるぞ。
スケール感がヤバいんだ。

 

そこからさらに前作"Obscure ride"からのセットリストが続く。


特に「Elephant ghost」での鉄壁のミュージシャンが入れ替わり立ち替わり、くっついたり離れたりしながら作り出す、影の色が濃厚なグルーヴは圧倒的。アーバンなのに未開の地に伝わる呪術のような妖しさ。

そして「Orphens」での光永渉のハネながらも歌に寄り添うようなドラム。
ふと小沢健二の名盤「犬は吠えるがキャラバンは進む」における故・青木達之を思い出した、ということは、超個人的な備忘として書いておきたい。

 

なお、ベース・厚海義朗を紹介する時の
「名古屋、いや日本で最高のバンド・Guiroでも活躍中」という高城さんの言葉は120%真実なので、まだ未聴の方は絶対に聴いてみて頂きたい。


そんな既発曲のアップデートだけで、私の脳内メモリはもういっぱいいっぱいだったのだけれども、この夜の白眉は、ここからさらに高みに登らんとするceroの求道的な演奏。

 

ナックルボールのように揺れるビートに、メロウでヒンヤリとしたデュルッティコラムのようなギターが印象的な新曲「ロープウェイ」。
YMOを彷彿とさせる無国籍なシーケンスから始まり、定石から外れ続けるメロディが続く「予期せぬ」。
市井に暮らす一人ひとり刹那を切り取って、ブレイクビーツに並び替えてしまったような「街のしらせ」。

 

ありていに言ってしまえば、こんな音楽聴いたことないし、こんなバンド見たことないぞ、ということに尽きる。

 

よってあの日、その魅力の全てを受け止めたとはとても言えないんだけど、「My lost city」から「Obscure ride」への飛躍と同じくらいの進化が、いま目の前で繰り広げられている、ということはビビっと伝わってきた。
ポップミュージックが更新される瞬間っていうのはこういうものなのか、と。

 

というわけで、今日も会場で手に入れたシングル「街のしらせ」を繰り返し聴きながら、霧のようにあいまいな余韻の中にいるのです。